さすがに抱っこは恥ずかしい
アルバートは持ち帰りの仕事を終えたのをきっかけに、固まった体をほぐすために立ち上がって伸びをする。
程良い疲労は充実した時間の証であり、この国に対して表から誠実に関わっていると実感出来て誇らしいことだと思う。
それだけで国を変えていけるのなら簡単なのだけれど、と皮肉めいたことを考えながら、アルバートは部屋を出てリビングへと足を向けた。
そろそろ出かけていた弟達が帰宅する頃だ。
まだ陽も高く天気も良いし、三人ともにテラスでお茶を楽しむのも良いだろう。
ホールに続く廊下から二人の声が聞こえてきたアルバートは、ウィリアムとルイスを出迎えるために足早に玄関へと向かっていった。
そうして曲がり角を通って目にした弟二人。
「…随分楽しそうだね」
「に、兄様」
「アルバート兄さん」
幼児でもない成人した男同士の弟達は、まるで大人が子どもを抱っこしているような姿勢で玄関ホールにいた。
アルバートの目にはウィリアムに抱き上げられたルイスがいる。
どうすべきか戸惑ったように眉を下げつつも、隠しきれない喜ばしさで口元を綻ばせている姿は成人しているというのにどこか可愛らしい。
そしてそんなルイスを抱き上げているウィリアムは至極楽しそうな笑みを浮かべていた。
互いを見て何やら言い合っていた二人は、アルバートの声をきっかけに意識を彼へと移していく。
「おかえり、ウィリアム、ルイス」
「た、ただいま帰りました、アルバート兄様」
「お待たせしてしまいましたか?」
「問題ないよ。それより、中々面白い状況じゃないか。何があったんだい?」
「あぁ、それは…」
「に、兄様!助けてくださいっ」
「ふむ?」
ルイスはウィリアムの腕の中、気恥ずかしそうな様子でアルバートへと腕を伸ばして助けを求めている。
一体どういうことだろうかと、ひとまずアルバートは求められるままルイスの腕を取り体を支えてあげた。
「ルイス、君が良いなと言ったんじゃないか」
「ですから、そういう意味で言ったわけではありません」
「全くもう」
困ったようにウィリアムを見るルイスは他所行き用の澄ました顔ではなく、兄達にしか見せない弟としての顔を表に出している。
ウィリアムにもアルバートにも見慣れた表情の末っ子らしいこの顔を、二人は何より好いていた。
だが、アルバートは帰宅早々そんな顔を見せているルイスを疑問に思い首を傾げてしまう。
外に出ていたルイスは帰宅してしばらくは警戒心を滲ませているため、こんなにもリラックスした姿を見せることなどない。
ウィリアムに抱き上げられた影響だと分かるが、そもそも何故ウィリアムはルイスを抱き上げていたのだろうか。
残念そうにルイスの体を離したウィリアムはわざとらしい大きなため息を吐いている。
「ルイス、ウィリアム。何があったのか話してくれるね?」
「…実は」
ウィリアムから解放されたルイスはアルバートに手を握られたまま、話しづらそうに言い淀む。
面白い内容が聞けそうだと、アルバートは二人の顔を見比べては軽く頷いた。
ウィリアムとルイスはアルバートの命で借りていた本の返却をするためダラムの屋敷を出ていた。
始めはルイス一人で出かけるつもりだったのだが、良い気分転換になるとウィリアムが付き添いを申し出てくれたのだ。
日頃ウィリアムと二人で町を出歩く機会の少ないルイスはその申し出に大層喜び、そんな弟の姿を見てはウィリアムも心癒されていた。
領地を含めた屋敷の管理を一手に引き受けるルイスはもしかするとウィリアム以上に多忙であるのに、本人はそんな気配を滲ませることなく涼しい顔をして日々を過ごしている。
ゆえに少しでもその負担を軽減するため、基本的に食料や消耗品の類は全て業者と提携して屋敷への配達を依頼していた。
不足の事態で足りなくなったものの買い付けのため町へ行くこともあるが、ルイスが完璧に管理する以上、そのようなことは数える程度しか経験がない。
それがルイスを不特定多数の人間の目に触れさせたくないと考えるウィリアムの意向であることを知るのは、アルバート以外にはいなかった。
ルイスは貴族家ならば屋敷に届けさせるのが当然のことだと考えているし、アルバートはウィリアムがルイスを大事に思うがゆえに身勝手であることを容認している。
そのため、ルイスが町へ出るのはアルバートやウィリアムの指示で所用を済ませるときが大半だった。
「それではアルバート兄さん、行って来ますね」
「あぁ、気を付けて行っておいで」
「帰りには兄様が贔屓にしていた焼き菓子を買って来ます。戻りましたら一緒に食べましょうね」
「楽しみにしている」
アルバートが見繕ったコートを羽織り、ウィリアムとルイスは仲良く連れ立って屋敷を出て行った。
馬車を呼ぶという判断は始めからない。
せっかく天気の良い日なのだから、周りの風景を楽しんで二人きりの時間を過ごすつもりだ。
アルバートから渡された本を両手に持って腕に抱き、ルイスは隣で歩くウィリアムを機嫌良く見上げて話しかける。
「気持ちの良い日ですね、兄さん」
「そうだね。ルイスとこの道を歩くのは新鮮な気持ちだ」
「ふふ。明日から毎朝、大学までお見送りしましょうか?」
「それは魅力的なお誘いだね。でも遠慮しておこうかな」
「…そうですか」
冗談で言ったし断られるのは承知だったけれど、それでもウィリアムから拒否の言葉をもらうのはやはり寂しい。
ルイスはそれを悟らせないよう前を向いて本を抱いている腕に力を込めた。
「いつもはもっと慌ただしくこの道を歩いているからね。君と歩くなら穏やかな気持ちのまま歩いてしまうだろうし、そうなると毎日遅刻して学長に怒られてしまうよ」
言葉とともに本から離すよう手を握られる。
ふとウィリアムの顔を見れば優しい兄としての表情を載せていて、絡められた指先から惜しみない気持ちが伝わってくるようだった。
のんびりした日常を過ごすのならばルイスとが良い。
ルイスと過ごす時間はいつだってゆったりとした日常になってしまう。
そんな時間を毎日過ごせるのならばそれはとても嬉しいのだろうが、現実問題、通勤時間帯のウィリアムは遅刻と戦うため貴族にあるまじき姿を晒すことが多かった。
ルイスがともにいるとなれば遅刻を受け入れてまでものんびり道を歩いてしまう未来が容易に想像出来て、ウィリアムは思わず苦笑してしまう。
学生どころか学長への言い訳にだって苦労することは明白だ。
「…では、もう少し夜早くに眠ってみるのはいかがです?」
「うーん、それはちょっと」
「もう、兄さんってば」
ウィリアムの意図を知り、ルイスの機嫌はすぐに上向いていく。
彼が自分との時間を疎ましく思っているとは考えていないが、教えてもらった理由はルイスにとって嬉しいばかりのものだ。
ルイスだってウィリアムとの時間を急かすような真似はしたくない。
貴重な時間を大切に過ごそうと気を配っては歩みを遅くさせてしまうだろう。
かといって遅刻をさせるわけにもいかないし、それならばもう少し余裕のある朝を迎える方法を提案してみても、ウィリアムからは色良い返事は返ってこなかった。
照れながらも呆れたような顔をするルイスは握られた手を握り返し、宵っ張りで朝に弱い兄の手を引いて先を歩く。
「来週の金曜は僕が大学までお見送りします。前日の夜は夜更かし厳禁ということで良いですか?」
「うーん…」
「兄さん」
「ふふ、分かったよ。次の金曜はゆっくり大学まで見送ってもらおうかな」
ルイスなりの譲歩をしてみても煮え切らない声が返ってくるけれど、結局弟に甘いウィリアムは了承するしか道はない。
ルイス同伴で出勤するというのも気分は上がるし、ルイスとの時間を長く過ごせるのはその日のやる気に繋がるだろう。
前日の夜更かし禁止というのはネックだが、どうせルイスが部屋を訪ねてきて眠るよう促してくるはずだ。
先の楽しみが出来たとウィリアムが前を歩くルイスを見れば、分かりやすく浮き足立つ彼の姿が可愛らしかった。
極力ゆっくりと、けれど屋敷で持ち帰りの仕事をしているアルバートにとっておきの焼き菓子を届けるため、ウィリアムとルイスは無駄な寄り道をすることなく図書館と贔屓にしている菓子屋へと足を運ぶ。
屋敷から出ることの少ないルイスが唯一足を運ぶ場所であるその二箇所は、既に多くのスタッフがルイスをモリアーティ家の人間だと認知している。
図書館では求めている資料探しに快く付き合ってくれる人間がおり、菓子屋ではルイスが口を開くよりも前に目当ての菓子といくつかのおまけを用意してくれるのだ。
「では、アルバート様によろしくお伝えくださいませ」
「ありがとうございます」
決して表情を緩めることはないけれど、それでもルイスが持つ整った顔立ちは町の人間にとっての目の保養になっている。
最愛の弟が町の人間に好かれているというのは嬉しい限りだが、ウィリアムとしてはいささか複雑な気持ちになるのも事実だ。
いつだって自分の後ろに隠れて周りの気配を伺っていたルイスなのに、彼一人でも支障なく町の人間との交流を築いている。
ルイスにとって危険のない環境は間違いなくウィリアムが求めていた空間で、それは確かに嬉しいはずのことなのに、自分の知らない人間関係を築くルイスというのはいつになっても慣れることがない。
おまけとして付けられたらしいルイスが気に入っているドライフルーツの入った袋を手に取り、ウィリアムは隣を歩くルイスを横目に見た。
「今日は兄さんと一緒なので皆さん見ていますね」
「そうかな」
「僕が一人で歩くときには視線を浴びることはないので。二人で歩くことは滅多にありませんし、皆さん珍しく思っているのでしょう」
それはただ単に、ルイスが自分に向けられる悪意以外の視線に興味がないから気付いていないだけではないだろうか。
事実、モリアーティ家の次男と三男が揃って歩く姿を物珍しく見ている町民は多いようだ。
評判の良いモリアーティ家の住民を嫌う人間はいないし、容姿端麗な二人を見て気を良くしているのだろう。
その視線の意味に気付かないほどウィリアムは鈍くないが、ルイスはある意味鈍い。
向けられた注目に居心地悪そうにしてはいるが、ウィリアムと町を歩くその姿は機嫌が良さそうだった。
大方、視線を集めているウィリアムを独り占めしているのは自分だという優越感でもあるのだろう。
幼い頃からウィリアムはみんなの人気者で、けれど兄が一番に優先してくれるのは自分なのだという事実がルイスは嬉しかった。
今も昔も変わらないルイスのそんな性分はウィリアムにとっての安心材料になる。
だが、今のルイスはウィリアムの知らないところで知らない人間に好かれているのだ。
幼い頃はルイスの世界を広げないようウィリアムが彼を匿っていたのだから、状況は似ているようでまるで違うと言って良い。
「ルイス」
「はい、何ですか?」
町を出て開けた道を行く。
屋敷に続く道を二人で歩きながらルイスの名を呼べば、抵抗なくウィリアムに大きな瞳を向けてくれた。
「…何でもないよ」
「?そうですか」
ウィリアムの知らないところで知らない人間に好かれていようと、ルイスが一番に想っているのはウィリアムだ。
この美しい赤に自分しか映っていないことを確認して、ウィリアムは優しく微笑んではその手を握る。
ルイスに危険がなく安心して過ごせるのであればそれが何よりだ。
どうせルイスの中心は自分なのだから憤る必要もないだろう。
町から離れてようやく気持ちを切り替えられたのか、ウィリアムは屋敷までの道のりをルイスの手を引き歩いていく。
ウィリアムの言動に疑問を抱きつつも、大したことではないのだろうと判断したルイスも大人しく手を引かれるままに歩き出す。
そうして取り止めもないことを話しながらふと視線を横に向けると、幼い子ども達が遊んでいる様子が目に入った。
「木の実を取ろうとしているのでしょうか」
「かもしれないね。代わりに取ってあげたいところだけど」
「いけません、兄さん。あの子達が驚いてしまいます」
木の近くに集まっている子ども達は肩車をして懸命に上へと手を伸ばしている。
見れば真っ赤に熟れた実がいくつか成っており、それを取ろうと頑張っていることが分かった。
ウィリアムが手を伸ばせば簡単に届くだろうその高さは、幼い子どもが取るには少しばかり難しいかもしれない。
だがルイスの言うとおり、いきなり身なりの良い人間に声をかけられては一般の子ども達は驚いてしまうはずだ。
肩車をしている子どもが驚きのあまり抱えている子を落としてしまったら大変なことになってしまう。
ウィリアムの行動を止めたルイスも気にはなっているのか、視線を外さずじっと子ども達を見つめている。
「…あぁ、無事に取れたみたいだね。良かった」
「そうですね。怪我をしている様子もないようですし、美味しく食べられると良いですね」
木の実を取ってはしゃいで喜ぶ二人と、その子らを取り巻く数人の子ども。
仲が良いのだろう全員は嬉しそうに木の実を囲んで笑い合っている。
ひとつのものを奪うのではなく分け与えることを前提としているその関係は、とても眩しく尊い光景のように思う。
誰しもが手を取り合って協力出来る社会こそ、ウィリアムが目指すべき理想の世界だ。
ルイスはそれを思い返しながら、無邪気に喜んでいる子ども達を見てうっすらと微笑む。
「良いですね」
「…」
「さぁ、アルバート兄様も切りのいいところまで仕事を終えている頃でしょう。早く帰って兄様に休憩の紅茶を用意しなければ」
「そうだね、早く帰ろうか」
「はい」
協力して木の実を取り、それを全員で喜ぶ子ども達。
その姿が純粋に微笑ましく良いものだと言ったつもりでルイスは声を出したのだが、ウィリアムはそうは捉えなかったらしい。
手を繋いだまま急いで屋敷に帰り扉の中へ入ると、突然ウィリアムがルイスのことを抱き上げたのだ。
突然のことで驚いたルイスは抵抗することもなく、むしろ下手に拒否をすれば二人とも危ないとウィリアムにしがみついて何事かと声を上げる。
そうして問答しているうちにアルバートが二人の元にやってきた、というわけだ。
「僕はてっきり、あの子どもと同じようにルイスは肩車されたいのかと思ったんです。流石に肩車は難しいので代わりに抱き上げてみたのですが、すぐにルイスが下ろしてほしいと言うから」
「僕は仲の良い子ども達が微笑ましいという意味で、良いですねと言ったんです。肩車を羨ましがっていたわけではありません」
「もう、紛らわしいな」
「兄さんが勝手に勘違いなさったんでしょう」
実にほのぼのとした、むしろこの二人こそが微笑ましいやりとりである。
アルバートはルイスの手を離し、ウィリアムと言い合う末の弟を見てはしみじみそう思う。
状況を想像するにウィリアムの発想はやや飛躍しているが無理もないだろうし、肩車をしている子どもを見ての「良いですね」ならば、ルイスがそれを羨ましがっていると判断してもおかしくはない。
なにせウィリアムはルイスに関しては盲目なのだから、普段は目に見えて甘えることのない弟が珍しく甘えてきたと勘違いしても仕方がないだろう。
むしろ屋敷に帰ってくるまで我慢しただけ偉いのではないだろうか。
ルイスだけでなくウィリアムにも長男として相応に甘いアルバートはそう判断し、紛らわしいことを言ったルイスの額を指先で軽く突つく。
「兄様?」
「これは曖昧なことを言ったルイスがいけないな」
「で、ですが、この年になって抱きあげてほしいはずないじゃありませんか」
「本当に?」
「え?」
「ウィリアムに抱き上げられて、少しも嬉しいと思わなかったのかい?ルイス」
「え…」
ウィリアムに抱き上げられていたルイスは、戸惑いながらもはっきりとした嬉しさを滲ませていた。
それに気付かないウィリアムではないし、だから己の発想は間違っていないと確信したのだ。
多少ずれているかもしれないがまぁ正解の範囲内だろうと判断したというのに、否定されてばかりでは割に合わない。
そんな感情を載せて不満げにルイスと話すウィリアムを見て、アルバートは助け舟を出すようルイスに言い聞かせていく。
子どもじみた本心を隠したいのだというルイスの建前も理解した上で、恥ずかしがることはないと本心を引き出すためにその赤い瞳をじっと見る。
真っ直ぐに見てくる翡翠色の瞳にたじろいだルイスはおずおずと視線を逸らせるが、逸らした先にはウィリアムがいた。
「…それは、その」
「ルイス」
「……せめて、抱っこではなく抱きしめるだけで済ませてほしいのですが」
「だそうだよ、ウィリアム」
頬を染めて言いづらそうに本音を呟くルイスはとても可愛らしい。
ルイスが持つ弟としての本質を全面に出したその顔はアルバートの兄としての心を的確に刺激したのだから、ウィリアムが反応しないはずもなかった。
呆れたように、けれど間違いなく嬉しそうな顔をしたウィリアムはルイスの手を引いて、その体を抱きしめる。
「初めからそう言えば良いのに」
「…言わせる間もなく抱っこしたのは兄さんでしょう」
「ふふ、そうだったね」
拗ねながらも満足げにウィリアムの腕の中で大人しくしているルイスを見て、アルバートは良い仕事をしたと胸を撫で下ろす。
可愛い弟達の仲睦まじい様子はアルバートの心を癒すのだ。
ウィリアムもルイスを抱きしめて至極楽しそうだった。
「あの子ども達、みんなで楽しそうに遊んでいましたね」
「そうだね。この国に住まう子ども達全員が、安心して遊べる世界を作ってあげなければならないね」
「はい」
甘ったるく抱き合いながらも見据える目標は崇高そのものだ。
アルバートは弟達の姿を目に焼き付けながら、二人の時間を邪魔しないようしばらく静かに見守っていた。
(さぁ二人とも、いつまでもここで抱き合うのではなく、場所を移動してはどうだい?)
(そうですね。行こうか、ルイス)
(はい。兄様、お仕事は終わられたのですか?)
(あぁ、ひと段落着いたよ)
(では三人でお茶にしましょう。天気も良いので、テラスでティータイムというのはいかがですか?)
(それは名案だね、ルイス)