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雪を踏むように

2018.05.09 05:46

http://www.takenet.or.jp/~ryuuji/mother/oitachi/ 【生い立ちの歌】 より

 今年は積もる雪が遅く、年が明けてようやく一面の白い世界・・・・・あとからあとから降ってくる雪にいろいろな思い出あり。

 小さな頃、踏み固めてつるつるにして滑った竹スキー。自分の背丈よりもうんと大きな雪だるま。雪の下にこっそり掘った落とし穴・・・・・雪合戦のあと、ストーブの廻りに干しておいた、赤い小さな毛糸の手袋。

 それから雪は、手に取って遊ぶ対象ではなく、そんな無邪気な遊びもしなくなった頃、降り出した大粒の雪を、放課後教室の窓から、長い時間ぼーっと眺めていた事がありました。

 窓の向かいには恵那山。遠いその山も眼下の広いグランドも、ひと続きに見る間に真っ白に埋め尽くされていく様は、世の中の不浄なもの、穢れたものをすべて覆い尽くして清めてくれそうな気がして、自分の心まで清められていくような気さえして、目頭がちょっと熱くなるような感動。もっと降れ、もっと降れと。全てを覆い尽くす一面の純白に同化できたらいいと・・・・・多分に中也あたりの詩の色が、響いていたのかもしれない。

     『 生ひ立ちの歌 』           中原中也

        I

 幼年時 私の上に降る雪は   真綿のやうでありました

 少年時 私の上に降る雪は   霙(みぞれ)のやうでありました

 十七ー十九 私の上に降る雪は  霰(あられ)のやうに散りました

 二十ー二十二 私の上に降る雪は  雹(ひょう)であるかと思われた

 二十三  私の上に降る雪は  ひどい吹雪と見えました

 二十四  私の上に降る雪は  いとしめやかになりました……

         II

私の上に降る雪は 花びらのやうに降つてきます 薪の燃える音もして

凍るみ空の黝む頃 私の上に降る雪は いとなよびかになつかしく

手を差し伸べて降りました 私の上に降る雪は 熱い額に落ちくもる

涙のやうでありました 私の上に降る雪に いとねんごろに感謝して 神様に

長生したいと祈りました 私の上に降る雪は  いと貞潔でありました

 今思うと、そんな年頃に清めなければならないやましい心はなかったし、何が美で何が不浄で何が穢れか、それさえも漠然とした観念的なものでしかなかったけれど、その多くは自己嫌悪であり、しかも自分がメスであることへの嫌悪であったような気がするのです。やがてくる春を待ちわびながら、一方でさなぎの自分の背が突如音を立てて割れ、おぞましい姿に変貌するのではないかということへの恐れ。

 たとえば、電車の中でとなりあわせた中年女性のきつい香水の匂い、生肉を食いちぎってきたかのような真紅の口紅に本能的にメスの習性を感じ、いたたまれぬ思いで目を伏せながら、自分もその同類であることのうしろめたさと、いずれその中に立ち混じるであろう先々を思う・・・・・ああ、いやらしいと。

 多かれ少なかれ私達の世代は、ためらいながら恥じらいながら、経血の生々しさに嫌悪したり、女であることのさまざまな制限に憂い、性を意識するさなぎの時代を過ぎてきました。

「ああ、いやらしい・・・」と思う気持ち、それが自分の体を大切にする自然のブレーキだったように思うのです。世間知らずで無防備なさなぎの、身を守るせめてもの殻。裏返せば自己嫌悪は、無意識のうちに自分を大切にしたい、命を大切にしたいと思う心の始まりではなかったかと思うのです。

 援助交際などという言葉がマスコミで語られ、どこまでが本当の話で、どこまでがそういうメディアのあおりなのか、はっきりしないところではあるけど、少女達の、何のためらいもない、何のはじらいもない声を聞くと、この子たちには自己嫌悪ということがないのだろうかと考える。まだあどけない彼女達の体を、たったひとつしかない体を、自分自身で金銭換算することを情けないと思わないのだろうか・・・・・・

「楽しけりゃいいじゃん!」

「みんなけっこうやってるよねー」

「別に誰にも迷惑かけてないしー」

 一生楽しく過ごして行けるとでも、思っているのだろうか・・・・・

 思い通りにならないで苦しむこと、悲しむこと、恥らうこと、はにかむこと、そうして自分をしっかり見据えることも、生きて行く上での、大切なプロセスなのに・・・・・自分を大切に思う気持ち・・・自己愛をも持たないのだろうか。

 買う側の非は言うまでもないが、ゲーム感覚で簡単に応じる子の将来を思うと、あとで気がついても取り返しがつかない傷を一生負うことになるものを。正しい判断をするための、心の成長のプロセスが抜けているように思えてならない。現代の情報過多、栄養過多が、体だけいきなり大人にしてしまっているようで、生い立ちの歌のない少女達。

 以前息子たちのお世話になっていた先生の奥さんが妊娠され、そのことを大変喜ばれていること、出産を大変心待ちにしておられることを教室で話されたそうです。それを次男が話してくれました。

「○○先生もうじき赤ちゃんできるんやって・・・」

「ほう、それはめでたいめでたい ――――― で、いつ産まれるの?」

「さあ、いつやったか、まだ先みたいやけど」

 それからしばらくして、あるお母さんが、こんなことを言われたのを聞きました。

「年頃の子ども達のいる教室で、自分の奥さんに子供が出来るなんてことを言うなんて、いやらしい、子供たちがどう思うか、考えんのかねえ・・・・・」 

 なにげない井戸端会議のひとこまであり、この人自身別段強い非難のつもりはなかったと思うが、私はふっと、そうだろうか・・・・と思ったのです。始めてお父さんになる喜びを教室で子どもたちに正直に語ることがなぜ "いやらしい" のか。

 そのことよりも、百倍も千倍もいやらしい情報に子どもたちは日常的にさらされている。毎日のように、セックスシーンを見、暴力シーンを見、快楽に走る大人達を見させられている。テレビのスイッチひとつひねることで、コンビニやレンタルビデオの棚にちょっと手を伸ばすことで、これから自分が旅立とうとしている社会が、どうせこの程度のものだと見限ってしまうとしたら・・・・ましてそういう快楽主義に、乗らなきゃ損のような気でいるとしたら恐ろしいこと。

 男女が出会って、家庭を設け、子を設けるまでには、多くの精神的なプロセスとエネルギーと思いやりやいたわりがあって、だからこそ、ひとつの命の誕生は尊いのであり、親となることが喜びなのだ。そういう喜びを語らずして、命の神秘を語らずして、売れたもん勝ちの性描写、性情報をだけを氾濫させることが、子供たちの命に対する価値観や人生観を歪めているような気がしてならない。

 恋をしたり失恋したり、山あり谷ありの心のプロセスを抜きにして、その行為だけをいとも簡単に商品化することが、許される世の中であっていいはずはない。

 昔は日常的に家庭のまわりで、妊娠や出産や病気や死があって、それを喜び、または悲しむ家族や親戚がいて、そういう大人達の反応の中で、喜ぶべきこと、忌むべきこと、その心を学んでいったのだろうが、少子化・核家族化・病院での出産・死などによって、命の基本にかかわる事柄が、日常生活からうんと遠く離れたところへいってしまい、相反して、暴力・殺人・強姦といった、普通に生活していればおそらく一生見もしない聞きもしないような事件が、さも日常的な事柄のように、目の前でリアルに繰り広げられることが、人としての常識を麻痺させている。

 "いやらしい"という言葉ひとつ取っても、かつて私達の感じた"いやらしい"とは程度も感じ方もまったく違う時代。流れは大きく変わり、法律や常識論では止められない濁流がすぐ近くまで迫っている。それならば、あふれる情報の何が正しくて何が悪か、何が有益で何が無益か、教室でも家庭でも、蓋をしないで討論できる場にすることが益々大切ではないのか。

 大人の身勝手に翻弄されて自分を見失う少年少女がいるとしたら、それこそが忌むべきことであり、妊娠や出産は、けっしていやらしいことではなく、そのプロセスが健全であれば、大いに祝福されるべきである。

 始めてお父さんになる待ち遠しい心を、生徒の前でにこやかに語れる先生こそ、健全な精神のお手本ではないだろうか。

 現実の社会は、誕生を祝い、健康を祈り、いたわりながら、気遣いながら、つつましい暮らしの中で、それでも一生懸命頑張って生きている人たちがたくさんいて、子どもたちは皆、健やかな成長を願われている。けれどもこういう健全なネタでは金儲けにならないから、不倫だ、離婚だとさも新しい生き方のように煽ぎたて、演出された不幸を売り物にしたり、猟奇的、刺激的な描写を白日にさらす。

 いやなことばかり目につき耳に入る毎日であるが、これが大人の世界の全てではない、決して惑わされないでほしい。状況を正しくとらえて、自分でしっかりと判断が出来ること・・・・・これこそが真の情報処理能力であり、少しぐらいパソコンが出来るなんてことは、そのほんの一部分に過ぎないのだよ。夢のない社会だとさめた目で見ないで、夢は自分で作り出すもの。迷いながら、悩みながら、自分を見据えて、やがて独り立ちした時、どんな風雪にも耐えて転ばぬよう、しっかりと根を張るプロセス、皆それぞれの、生い立ちの歌をしるしていこう。

 雪が、純白の雪が、この大地を覆って、すべてを白い世界に変え、それだけで自分も浄化されるような純な思いは遥か遠く、最近降る雪はそれまでもがすすけ汚れた色ではないかと疑いたくもなるが、一瞬にして雪で覆うがごとく劇的な神業でもない限り、この世の中がちょっとやそっとじゃ良くなりそうにない。けれども、こんな日は降る雪をじっと見つめて、身辺が少しなりとも清められることを祈りたい。

 含羞という言葉は、さなぎの少女によく似合う。束の間に過ぎてしまった遠い時代、謂れない漠然とした悲しみを、さも大事そうに抱え込んでいた頃が、中也の詩の中にしまわれている。ちょうど琥珀の中にとじこめられた虫のように・・・・・・・

      『汚れっちまった悲しみに』

 汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる  汚れっちまった悲しみに

 今日も風さへ吹きすぎる 汚れっちまった悲しみは  たとへば狐の革衣

 汚れっちまった悲しみは 小雪のかかってちぢこまる

 汚れっちまった悲しみは なにのぞむなくねがふなく 汚れっちまった悲しみは

 倦怠のうちに死を夢む 汚れっちまった悲しみに いたいたしくも怖気づき

 汚れっちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる……

           日本文学全集51 集英社 (昭和四十三年)中原中也より