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雪の鯉音なき水に生きてをり

2018.05.09 06:58

https://www.city.nagaoka.niigata.jp/sangyou/cate04/agri-heritage.html 【日本農業遺産認定「雪の恵みを活かした稲作・養鯉システム」】より

 長岡市や小千谷市、両市の住民団体、JA、錦鯉関連団体などで構成する「長岡・小千谷『錦鯉発祥の地』活性化推進協議会」が申請した「雪の恵みを活かした稲作・養鯉システム」が、日本農業遺産に認定(農林水産省)されました。(平成28年度認定)

 これは、地域に脈々と受け継がれてきた稲作や養鯉など、棚田・柵池資源を活用した農業システムが日本を代表するものとして認められたことを意味しており、市民の誇りと地域ブランドのイメージアップにつながります。

 今後、日本の宝・クールジャパンブランドとして世界に発信していきます。

認定のポイント

錦鯉の発祥の地であり、育種や品質の高い錦鯉の生産技術が発展した地でもある。

現在も、世界で行われている錦鯉育種に用いる原種の供給地であり、世界的に見ても独自性の面で確固たる地位を築いていると考えられる。

中山間地で水を確保するための、マキの協働作業による湧水や横井戸、雪溶け水の利用や、冬季湛水、渇水時に養鯉用の水を稲作にまわす仕組み等の、当地の環境に適応した伝統的で独特な技術や知見は、高いレジリエンスを有する。

1年を通じ谷地に棚田と棚池が入り組んで並ぶランドスケープは特有のものである。

日本農業遺産について

農林水産省が平成28年度に創設された制度。

社会や環境に適応しながら形づけられた伝統的な農林水産業と、それに関わって育まれた文化、景観、生物多様性などが一体となった農林水産業システムで、特に重要性を有するものを認定。


https://jnpa.info/koi060608.htm 【錦鯉の誕生とその背景】 より

  我が国における鯉養殖の文献は希有であり、最も古くは日本書記(720年)の中に、景行天皇の4年(94年)に天皇が美濃国詠宮(くくりやのみや)の池で鯉の泳ぐ姿を観賞されたと記されており、推古天皇(620年)も大和飛鳥川のほとりにある蘇我馬子の庭園で泳ぐ鯉をご覧になられたというくだりの文があるだけと伝えられている。

 江戸時代になるまでが、全くの空白で文献というものはみつからないが、本草和名(1796年)に赤、青、黒、白鯉と記されており、これは緋鯉、浅黄、真鯉、色無地鯉のことで、これらは真鯉の中から突然異変として出現したものであって、後の世に錦鯉を誕生させる鍵となる。

1.地理的条件

  陸路がまだ整備されていない時代には、多量の荷物を運搬する手段として川舟が利用され、大きな役割を担っていた。新潟県南部を流れる魚野川でも川舟で日常の生活物資が運ばれており、地場産品の交流も含めてこの地域で捕獲された魚類もこの水路を利用して広域に流通したものと考えられる。

流域の市町村のある歴史資料館には、昔の漁具や農機具等が保存されており川舟が魚野川を往来した当時を窺がい知ることができる。冬期間は雪のため川舟を利用できない事から降雪前の11月頃から冬を迎えるための越冬物資を運搬する季節魚である鮭の捕獲舟と川面は大変な混雑であったと伝えらている。このような交通条件の中で川でとれた魚類も活魚としてまた、加工食品として他の地域へ売られていった。

  錦鯉発祥の地、山古志郷は、古志郡と北魚沼郡の接する最も雪深い山間地であり、雪の多い年では積雪深さは5mを超え、一夜にして1mの降雪はしばしばである。雪の降り続く1月には隣接集落との交通も途絶え、昔は陸の孤島となることが多かったという。

  このような、気象条件に住む人達にとって食用鯉は貴重な蛋白源であり、夏は農業用の溜池で育て孵化した稚魚は水田養魚によって育成し種苗を確保していた。いわゆる棚田養殖による育成方法であり、古来からこの方法が引き継がれ、昭和45年頃からの米の生産調整政策で水田に米を作らず養殖池として転用され、錦鯉が米に変わる時までこの水田養鯉は続いてゆくと考えられる。魚種の豊富な魚野川は源流を群馬県境の谷川岳に発し、その水質は透視度の高いb硬質であり、この事からも清流として知られているが川から捕獲された鯉は流域に点在する沼で養殖され、手頃な大きさに成長すると降雪前に食用として売買された。食用の全てが真鯉であり、真鯉には3種類の内種があるがこの地方では浅黄真鯉が多く、次に鉄真鯉で泥真鯉はほとんど姿を見ない。この内真鯉との深さは錦鯉の品種にもよるが浅黄真鯉からの進化が最も古く、突然異変によって江戸時代の後半期に青い鯉が産まれ、これが浅黄と呼ぶ錦鯉の原種であった。魚野川の支流にあたる十二平川を経て、また陸路を山古志郷まで運ばれた鉄真鯉から緋鯉との間において、後に紅白種誕生の鍵を握ることとなる。

  魚野の語源はアイヌ語で五百沼、これは沼の多いところという意味であると伝えられているが、戦国の武将、新田義貞の時代にはイオヌマと変わり、明治に入って置県制が施行されてから、この地方は北魚沼、南魚沼、中魚沼郡として郡制が統括された。この地帯がかつて沼の多かった証は、今に名を残す和長島、青島、下島等ほかにも島のつく地名が多く沼地に点在しており、その周りに長い歴史の中から土砂が堆積して農地が造られ人々が定住して村落が形成されてきたものと考えられる。

  魚野川周辺の地層は砂利層が多く、山古志郡では粒質土の耕地が多いことから魚沼から持ち込まれた浅黄が、その地質、水質の中で色調を変えて生存する事は不完全保護色の因子を保有する魚類であり、これらが錦鯉の誕生に鍵として作用したものであると考えられる。

2.錦鯉の歴史

  魚沼地方から山古志郷へ持ち込まれた浅黄は、この地方にとっては全くの珍種であり、経済力のある農家が挙って求めたとあるが、粘土質の軟水であるため色調は白色退化により、背に僅かに青味を残す程度の白無地に近い状態に変わったものがほとんどで、魚沼地方へ残ったものとは全く異なった 浅黄に変身したという。このため、これらの浅黄は食用鯉と一緒に飼育される事となったが、実はここに錦鯉を産むための偶然が潜んでいた。山古志郷では古くから農業用溜池で鉄真鯉が食用として飼われており、近親交配の中から突然異変として緋鯉が産まれ、慶事の供え物として珍重されていたが、江戸時代の末期、文政の頃(1818~1829年)白色化した水浅黄と緋鯉のなかから白い肌に紅い鱗の並ぶ「鹿の子」が出現し、これらをもとに明治に入ってから 背に赤斑の浮かぶ更紗と呼ばれる紅白種の祖先を産むこととなるが天保年間(1830~1843年)には頭半分が紅い「頭巾かぶり」とか口の周りだけが紅い「口紅」が出現している。

  明治7~8年(1874~1875年)紅白種の素地らしい薄紅の型取りをしたものが現れ、地域に分散した。明治も半ばの22年(1899年)古志郡東山村 が蘭木(現小千谷市)広井国蔵氏により紅白が固定され、その系統が分布し地域一帯で改良が重ねられ現在の紅白が完成した。紅白を片親として、赤黒斑の別甲が交配され大正6年(1917年)に大正三色が誕生し、また紅白の近親交配のなかから紅い鱗を藍色に縁取りされた藍衣と黒い縁取りの黒衣等が産まれ、品種を多様にしてきた。

  錦鯉の品種改良途上にあって、最も速度を速めたのがドイツ鯉の出現である。明治37年(1904年)ドイツのミュンヘン魚病研究所長ブルノー.ホーフアー博士から我が国の水産講習所長・松原新之助へ40尾アイシュグルデン種が寄贈され、主に長野県での食用鯉の改良に供養され大きな成果を収めているが、このうちの2尾を東京都深川の秋山吉五郎氏が浅黄と交配して明治39年(1906年)新種であるドイツ浅黄の作出に成功しこれが秋翠であり、秋翠と紅白と大正三色とを交配することで幾世代もかけて鏡鱗の紅白(ドイツ紅白)や同大正三色(ドイツ三色)が作出された。ドイツ特有の鏡鱗(半月型)は強い遺伝力を持って全ての品種に確実にその形質を伝えており、鏡鱗または無鱗の革鯉と呼ばれるもの和鯉と中間型の鱗列の乱れた鎧鯉と呼ぶものなど、これらの三通り形であるが、何れも和鱗の体形と対照的で初期育成で体高や幅の面で優位を保ち続け、飼料効率の高さなど種の特性を錦鯉の取り入れ品質の改良が図られてきた。その改良の成果を総括する形で全日本錦鯉振興会は錦鯉品評会に独立した出品部門を設けて、生産意識の高揚を図っているが新品種の作出を試みる上ではドイツ種、存在なしでは考えられない。

  戦後の錦鯉の歴史を語る上で黄金の作出、金銀鱗の固定を脇に置く事はできない。昭和22年(1947年)新潟県古志郡竹沢村(現長岡市)青木沢太 氏によって胸鰭を金箔の舞扇のように輝かせる黄金鯉が作出された。全身が小判色の金色の鯉出現は山古志郷の生産者を驚愕させたものだが以来50年の間に急速に改良が進み、この黄金の血液を受けて改良固定された品種は26種に及び、原種作出の功績は錦鯉の歴史に刻まれよう。また、金銀鱗の固定によって一層華麗にそして雅に錦鯉を変身させた記録にも錦鯉の歴史に刻まなければならない。昭和40年代、広島県の上寺氏等によって、従来の銀鱗には見られない頚から尾の付け根まで鱗を金色や銀となって輝く新種が固定された。多くの生産者銀鱗を品種の改良に取り入れ、錦鯉の基幹品種である紅白や大正三色、昭和三色に乗せ、次に黄金系の光リ無地に銀鱗を乗せて品位の高いものへと改良の速度を加算してきた。錦鯉の品種改良は品種の固定、ドイツ鯉の導入、黄金鯉の作出と金銀鱗の固定、これらの応用による新品種の作出にあり錦鯉の歴史とは品種改良と作出の歴史にほかならない。

  品種とは生物学的には、光り無地系のように一腹から産まれる全てが同じ形質を有するものとするが錦鯉の場合の品種区分とは遺伝的に表現する形質の呼び名であって固定度によって命名されたものでない事を念頭においていただきたい。

  現在、錦鯉の品種は82種に及び、生産者は古典的な雅を求めまた、鮮烈な美の表現を追って日夜の努力を重ねており全日本錦鯉振興会では現在海外会員16カ国役70余名の専門業者を有し、日本の国魚として40ヶ国に輸出されているが平和の使者として全世界に普及し観る人々の心を結び、笑顔で再会を喜び合うことを願っている。

3.錦鯉品評会とその意識

  錦鯉品評会は生産者が作出の成果を発表する場として開催されたもので、最も古くは大正元年(1912年)新潟県古志郡東山村木沢(現北魚沼郡川口町)の小学校で開催されたとあり、これが錦鯉を出品した最初の品評会であると伝えられている。大正3年(1914年)東京都上野で開催された大正博覧会に山古志郷の各村より錦鯉が出品され全国的に紹介された。この博覧会を期に各村単位で養殖組合が組織され東村山、竹沢村、太田村を持ち回りで年1回品評会が開催されていた。このほか、各村毎に集落単位で農作物の採りいれが終わった頃に小規模の品評会が開催されてきたと伝えられている。

  この時代以降、町村や行政区域を問わず誰もが品評会に自由に出品できることから錦鯉が新潟県広域に普及したものと思われる。錦鯉品評会は戦中こそ開催されなかったが戦後の復興と併せて各地で開催されるようになり、新潟県の錦鯉品評会は昭和37年(1962年)第1回が開催されるが連続開催で最も多い長岡市の錦鯉品評会は平成18年(2006年)で第53回大会を開催する。

  錦鯉品評会で連続回数の多い順としては長岡市、山古志村(現長岡市)、川口町で新潟県品評会が45回、広島県42回と県段階で開催されるのが主に生産者だけの参加によるもので、お互いの作出成果を紹介し合い作出、飼育技術の交流を図り、研究されたことが錦鯉の品種改良を図り、品質を高めて今日に至っている。またこの他にも愛好者も出品に加わる全日本総合錦鯉品評会や愛好者の組織する全日本愛鱗会大会(外国会員の出品数も多し)全日本 鱗友会の全国品評会も開催されており日本の国魚は世界に向けて、単に錦鯉というだけではなく用語が全て日本語であり、純粋に日本の文化として海外に紹介されている。海外でも頻繁に錦鯉品評会が開催されるようになり日本から輸出された鯉に開催国で生産された鯉に開催国で生産されたものが加わりイベントして高い評価えを得ている。