Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】 渋沢栄一が平岡円四郎の誘いに応じて徳川慶喜に仕えるための「伏線」

2021.05.11 22:00

「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】 渋沢栄一が平岡円四郎の誘いに応じて徳川慶喜に仕えるための「伏線」


 水曜日は大河ドラマ「青天を衝け」の話をしている。本当は「青天を衝け」ばかりではなく、大河ドラマ全体の話をしたいので、来年は多分鎌倉時代に関して様々に話をしているのであろうし、再来年は家康に関して話をしているのではないかと想像するが、今年は、幕末の巨人「山田方谷」の本を書いたことでもあるし、なるべくその「孫弟子」に当たる渋沢栄一について書いてみたいと思う。

 さて、今年の大河ドラマは様々な話題がある。一つは何よりも「幕末なのに徳川家康」である。江戸時代というか、江戸幕府ということを総括する意味で、北大路欣也さんが演じる徳川家康が、ある意味でナレーションの代わりとして出てくる。「こんばんわ、徳川家康です。」はなかなか面白い。ある意味でドラマが最もドラマっぽく見える面白い状況なのではないか。この時代に、徳川家康が生きていたらどんなことを思ったのであろうか。確かにそんな話は、ドラマでなければできない。当然に、小説でもなかなか書きにくい状況であり、北大路欣也さんの貫禄があり、十五代将軍を演じる草彅剛さんとの差(といっては失礼かもしれないが)がそれを許しているというような感じである。

 今回、その徳川家康が欠席したのである。まあ、本来は出ない人なのであるから、それはそれでよいのかもしれないが、いつの間にか徳川家康を待っている雰囲気があるところがなかなか面白い。

 さて、徳川家康が欠席したのは、今回第13回から「京都編」になった。京都編というのは、将軍家茂が義理の兄にあたる孝明天皇の所に面会に言っており、幕閣の多くも京都に集まっているというようなことなのである。そこに、平岡円四郎に呼ばれて渋沢栄一が行くというようなところである。しかし徳川家康は、実はそんなに京都に縁がない。京都は豊臣秀吉や明智光秀が担当であり、家康は信長に招かれる以外、京都に行くことはなかった。そういう意味では、京都編の始まりでは、家康はあまり語ることはなかったのではないか。

「北大路家康」が初の“欠席”にネット騒然…NHK大河ドラマ「青天を衝け」

 俳優の吉沢亮(27)が実業家・渋沢栄一を演じるNHK大河ドラマ「青天を衝け」(日曜・後8時)の第13回「栄一、京の都へ」が9日、放送され、北大路欣也(78)が演じる徳川家康が初めて欠席してネット上は騒然となった。

 午後8時前からSNS条では「徳川家康待ち」「家康様待機」などと楽しみにしている声が続々。だが、オープニングロールに「徳川家康 北大路欣也」の名前がなかった途端「徳川家康は?」「あの方のお名前がございません!」と悲痛な叫びが相次いだ。

 「こんばんは、徳川家康です」を決まり文句に、過去12回すべてに出演。登場するたびにネットでは「北大路家康キター!」と喜びの声が殺到していた。検索ワードランキングで徳川家康が上位に躍り出るのもおなじみになった。だが先週の第12回「栄一の旅立ち」では、放送終了1分前を過ぎてからあいさつなしに現れ、話題を呼んでいた。

 「もし家康が生きていたら今何を思うか」という視点で歴史を語る役割。江戸幕府を開いた立場から、幕府が終わっていく寂しさや主観も混ぜる。これまで「…先週の放送では」「ニュースペーパーで…」というセリフが飛び出したのは、現代を生きている家康が当時を振り返っているから。制作統括の菓子浩CPも「ナビゲーターではなく徳川家康という、もう一人の登場人物」と強調。だが「必ず毎週出演するわけではありません」とも明かす。

 最初は独特の役どころと、カメラの正面を向いてしゃべるという慣れない演出に戸惑っていた北大路も、今や楽しんでいるという。次の出演はいつになるのか、注目を集めそうだ。

 

5/9(日) 20:44 スポーツ報知

https://news.yahoo.co.jp/articles/11075cea74b59f37ed7659caaf5a79b7207a86e6

 さて、第13回の見どころは、精神を病んでしまった尾高長七郎(満島真之介)、そして、渋沢栄一(吉沢亮)と会う土方歳三(町田啓太)や五代友厚(ディーンフジオカ)という、様々な「個性」ではないか。

 その中で異彩を放つのがやはり堤真一が演じる平岡円四郎であろう。ある意味で、平岡円四郎というのは「先を読みすぎる」というような言い方をされるほど頭が切れる人であったと思う。なかなか面白いのは、そのような特殊な人が、どんどんと殺されてしまうという世の中であったということであろう。現在もそうであるが、目立つ人間の中に敵を設定し、その敵のことを深く理解する前に、噂話(現在で言えば、テレビなどの演出で作られたイメージ)だけで、その人の人格などをすべて決めてしまい、その内容で簡単に批判し攻撃してしまう、現在も、昔も共通する日本人の性質であろう。何か「目立つ人を攻撃することで自分が偉くなったような気がする」という「集団」の中からの「抜け出した」心理が存在するところが、日本の村社会文化としての特徴なのではないか。何か集団の中に埋没することを恐れるような風潮があることになかなか興味深いとことがある。

 同時に、この渋沢栄一もそうであったと思う。何故「攘夷」で「横浜焼き討ち」を考えるのかということになり、そのうえ、焼き討ちをするために高崎城を襲撃するという奇想天外というか、何か現実離れした内容がそのまま計画として実現しようとしていたのである。

 そのことで国を変えるのではなく、ある意味で、「集団の中に埋没することへの漠然とした恐ろしさ」があり、それでも「流されてゆく自分」というのがいたのではないかという気がするのである。

 その内容を見抜き、そしてそれではだめだということをしっかりと渋沢栄一に伝え、そして渋沢栄一を徳川慶喜の家臣として抜擢するのが、平岡円四郎なのである。ある意味で「先を読みすぎる」だけではなく、「物事の本質」が見えていたと思う。人間が本質で動いた場合、何が起きるのか。ある意味で着飾っていた内容であっても、その着飾ったものが最後にはいなくなり、そして究極には本質で動くようになる。その本質で動く先に何があるのか。そこが見えていれば、当然に「先が読める」ということになる。

 幕末の当時、片方で「今までの常識ではうまくゆかない」ということが見える世の中になっていた。その時に、その先を読むには、人間の本質に従ってその路線の先を見なければならない。尊王とか攘夷とか、佐幕とか開国とか、そういった鎧をすべて脱ぎ捨てた先に、「自分が生きる」「大事な人を生かす」ために、何をするのか。そこが本日ではないか。そのことが見えていることが最も重要なのではないかと思うのである。

 ドラマではそこまで書かれていない。しかし、その人間の魅力を堤真一は見事に演じているのではないか。