「中世フランスのこころ」9 ジャンヌ・ダルク①「声」を聞いたジャンヌ
1431年、ジャンヌ・ダルクは火刑に処せられた。その時彼女はこう予言した。
「7年以内に、イギリス人はオルレアンで失ったものよりもはるかに多くのものを失い、フランスにおけるすべてのものを失うでしょう。イギリス人はかつてフランスで経験したことのないほど大きな損害を受けます。それは神がフランス人にあたえられる大勝利によるものです。」
そして1437年、最後のイギリス軍がパリを捨てる。ジャンヌ・ダルクによって、フランスは封建貴族だけでなく全フランス人にとってのフランスとなった。パリも真にフランスの首都として意識された。後にフランス革命やナポレオンが国民皆兵によって「人民のフランス」を創り上げるずっと前に、「神と王のフランス」がジャンヌ・ダルクによって既に存在していたのだ。幾多の革命を経ても、政教分離の共和国になっても、フランス人の心の中には、「人民のフランス」、「ナポレオンのフランス」に先行する「神と王のフランス」、「ジャンヌ・ダルクのフランス」がいつも住んでいるのである。
そして、ジャンヌ・ダルクのフランスは「神」と結びついたフランスだったから、フランスは19世紀末からの政教分離政策の真っただ中という時代にも、ジャンヌ・ダルクをカトリック教会の公式タイトルである「聖女」にするために奔走した。20世紀(1920年)になってジャンヌ・ダルクはめでたく聖女となり、当然のようにフランスの守護聖女であると宣言された。
25年間、毎年1~2回パリを訪れ、パリの教会の大半に足を運んでおどろいたことがある。聖ジュヌヴィエーヴ像、そしてそれ以上にジャンヌ・ダルク像がどこの教会にも置かれていること。フランスでは、ジャンヌ・ダルクは、百年戦争でシャルル7世を助けイギリス軍を破ったという歴史的存在としてよりも、神の「声」を聞きそれに従ってオルレアンを解放し、シャルル7世をランスで戴冠させた神秘的存在、フランスの守護聖女と受け止められているのだ。ジャンヌ・ダルクが救国の戦いに立ち上がったきっかけは、田舎の家の庭で聞いた天のお告げだったといわれている。彼女は「フランスを救え」と命じたお告げのことを、終始「声」と表現していた。この「声」は、伝説ではなく、公式の文書に言及された証言だ。この「声」は、ジャンヌの物語の中で唯一の超常的な部分なのだが、このエピソードは伝説以上の重みをもってフランスに根付いた。
しかし、この「声」はジャンヌにとっては両刃の剣となった。この「声」に導かれてジャンヌは国を救った。しかし結局、この「声」のせいで、ジャンヌ・ダルクは宗教的異端者として火刑に処せられてしまった。当時すでに洗練された官僚組織としても頂点を極めていたカトリシズムは、一信者が直接神の声を聞くことなど歓迎するわけがなかったのだ。けれどもその後、政治状況が変わり、ジャンヌは見事に復権した。そして20世紀初めに聖女と呼ばれるまでになった時には、この「声」こそが彼女が神に選ばれた少女であるという根拠になった。同時に「声」は、フランスと神とを結ぶホットラインとして、フランス人のナショナリズムのシンボルになったというわけだ。
ところで、この「声」についてジャンヌは、処刑裁判の時に次のように述べている。
「13歳くらいの時、私は、私が正しい行いができるよう助けてくださるという神の声を聞きました。最初は非常な恐怖を感じました。その声は夏の正午ごろ、父の家の庭で聞こえました。・・・声は右手の、教会の方から聞こえてきました。声が聞こえる時は、いつも光が見えました。・・・それは威厳に満ちた声でした。ですから私は、それが神から送られてきたものだと確信しています。その声を3回聞くと、わたしはそれが天使の声だとわかりました。声はいつも私をしっかり守ってくれ、私はその声をよく理解するようになりました」
そして「声を聞いたジャンヌ」というテーマは、19世紀末の画家たちの創作意欲を様々な形で刺激した。
ルイ・モーリス・ブーテ・ド・モンヴィル「神の声を聞くジャンヌ」1900年頃
ウージェーヌ・ティリオン「神の声を聞くジャンヌ」1876年
バスティアン・ルパージュ「神の声を聞くジャンヌ」1879年 メトロポリタン美術館
ジュール・ウジェーヌ・ルヌヴー「羊の番をするジャンヌ」1889年 パンテオン
アルフォンス・オスベール「見神」1892年 オルセー美術館