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対馬・内院の浜の天道法師の伝説

2018.05.12 02:49

http://www.tukinohikari.jp/jinja-nagasaki/topics-tushima-tendouhousi/index.html  【対馬・内院の浜の天道法師の伝説】より

https://ameblo.jp/renki1515/entry-12263911610.html

 伝説によれば、天童法師は、天武天皇(在位期間673年3月20日 - 686年10月1日)の673年(白鳳二年)対馬豆酸郡内院村に生まれた超人である。

 彼の母親は朝日に向かって小用を足していたとき、日光に感精して彼を妊娠した。

 ゆえに、彼は太陽神、日の神の子供、<天童>なのである。

 日輪の精として天童と名付けられた彼は、知恵抜群で十一面観音の化身といわれ、9歳で上京し、巫祝(ぶしゅくー神の言葉を伝えること)の術を得て、仏道に入って修行をし、やがて対馬に帰島してきた。

(※注意)他に、宮中の女院が懐妊し、密通の疑いでうつろ舟にのせられ、漂着したのが豆酘内院の浜であった、そして、生まれた子が天道法師だというという言い伝えもある。

 大宝三年(703年)、ときの天皇、文武天皇がご病気になられた。

 都の神官が亀卜を行い、対馬にいる天童法師に祈祷をさせれば治るという結果が出たため、急遽対馬に使者が発せられた。

 法師は修行によって空中飛行の法力を修得しており、内院浦の山上から飛んで壱岐の小城山に至り、そこからさらに太宰府豊満岳を経由して、朝廷の御所の門前に降り立った。

 このとき、雨風を伴いながら降り立ったので、都人たちは大いに驚いた。

 法師は直ちに祭壇を築き秘法を修し、十七日間の祈祷の末、見事天皇の病を癒すことに成功した。天皇は法師の法力に深く感じ賜い、法師に宝野上人の菩薩号を賜れたのである。

 天童法師が実在の人物かどうかは分からないが、この伝説をきっかけにして、対馬では神仏習合の独自な神道が形成されていったことは事実である。

別のまとめ記事 http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/469/p469_2.html

 第40代天武天皇(在位期間673年3月20日 - 686年10月1日)の時代、娘は日の光に感じ懐妊した。その子が天道法師である。

(※注意)他に、宮中の女院が懐妊し、密通の疑いでうつろ舟にのせられ、漂着したのが豆酘内院の浜であった、

 そして、生まれた子が天道法師だというという言い伝えもある。

 いずれもその子は聡明な子に育ち、9歳で都に出て、巫祝(ぶしゅくー神の言葉を伝えること)の術を得た。

 そして帰郷して718年(霊亀2年)、第44代の女帝・元正天皇が病に倒れた時、陰陽師の占いで「天道法師を呼んで、祈らせよ」 と託宣がでた。

 この時33歳の天道法師は空中を飛んで、都に向かい見事天皇の病気は癒えたという。

685年、天道法師の誕生。694年、9歳で都に出る。そして、対馬に帰郷。

(※注意)修験道の祖で、空中飛行をしたという伝説がある役小角(えんのおづぬ)は701年64歳で亡くなっている。

 役小角(えんのおづぬ)の空中飛行の話は実際のところ、弟子たちがあちこちに布教したため、役小角が超人的にあちこち移動したことになり、空中飛行伝説が生まれたといわれている。

 718年、33歳のとき、第44代の女帝・元正天皇が病に倒れた時、天道法師は空中を飛んで、都に向かい見事天皇の病気は癒えた。

 病気平癒の褒美に対馬の税を免除し、天道法師の神域(龍良山)に罪人が逃げ込んだ場合、追捕しない約束をしたという。

 これについて、対馬と朝廷が関係していることは、白村江の戦い(663年-天智2年)の敗戦以来新羅外交に朝廷が苦心していたこと、天武、持統朝の交易にすでに対馬が絡んでいること、また、海の民の能力が必要とされていたことがある。

 天武、持統朝の交易は遣新羅使のことで、この往来で天然痘が国内に流入したとも、日本から遣新羅使により、流入したともいわれているが、天然痘発生は後に奈良の大仏建立のきっかけのひとつといわれる。

 ところが、天道法師の出現は実はもっと以前で、仏教が伝えられる前から天道信仰はあったのではないか。

 山を神体とする自然信仰で、全国の神社の原点である。

 今ある神社の前に祖霊神と祀られていたのだ。

 対馬の祖霊=わだつみ=天道神=日の神だと思われる

。  結局昔からあった対馬の祖と仏教を結びつけて対馬を朝廷寄りに抱き込むことが目的だったのではないか。

 674年対馬は朝廷に全国はじめての国内産銀を献上している。

別のまとめ記事 http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/469/p469_2.html

・673年、対馬南部の豆酘郡内院村(つつぐんないいんむら)に超能力者が生まれた。

・その母は虚船(うつろぶね、うつぼぶね)に乗って漂着した高貴な身分の女性であり、太陽に感精して子供を産んだ。太陽=お天道様であり、太陽の子=天童と名づけられた。

・天童法師は嵐をまとって空を飛ぶことができ、上京して元正天皇の病を治し、「宝野上人」の菩薩号を賜った。

天童法師の墓所が龍良山南面・浅藻の八丁角

母の墓所が龍良山北面の山中の裏八丁角

・天道信仰の中心人物である天童法師の墓所が龍良山南面・浅藻(あざも)の八丁角(はっちょうかく)にあり、その母の墓所は北面の山中の裏八丁角にある。その2つは特に強いタブーの地として「オソロシドコロ」と呼ばれた。

・龍良山全体(山自体)が天道信仰の聖地であり、内院・浅藻・豆酘などの集落はすべて龍良山のふもとに位置している。

・豆酘の集落内に遥拝所(ようはいじょ)があり、ここで神事を行っていた。それが多久頭魂(たくずだま)神社。

・龍良山は聖地として立入や樹木の伐採が禁じられていたため、極めて自然度の高い照葉樹林が残されており、大正時代に「龍良山原始林」として国の天然記念物に指定された。

・豆酘は、古代米の一種・赤米が神事とともに伝承されていたり、かつて中国や日本で行われていた古代の占いの技術「亀卜」(きぼく)が現在も行われているなど、固有の民俗・習俗を伝承する地域。

・天道信仰は、天童法師という超能力者の物語を骨格としているが、穀霊崇拝や太陽信仰、山岳崇拝などさまざまな要素が混ざり合っている。

・天道信仰は、伝承では7世紀が起源とされているが、平安時代から中世にかけて神仏習合により形成された対馬固有の修験道の一種で、その祭祀形式や行事には古神道の要素が多く伝承されている。

・対馬北部の上県町佐護(かみあがたまちさご)にも「天神多久頭魂神社」(てんじんたくずだまじんじゃ)があり、こちらも天道信仰の中心地だった。

 天童は神話の時代、天道は仏教が入ってきてからの呼び名である。

 天道とは太陽信仰のことで、対馬にはアマテルで日神、壱岐にはツクヨミで月神がいるといわれる。

 太陽を祀ることは世界中にあり、原始宗教共通のものである。

 天道地とは、不入の聖地のことで、自然が守られ今では原生林になっている。

 少童命を「わだつみのみこと」と読む。

 大昔、海の神は童形(どうぎょう)で表す原始信仰があった。

 子供は生まれて死ぬまでの一生を輪にすれば、最も死に近い位置にあることから、神聖なもの、霊に近い者とみると何かの本で読んだことがある。

 この考えが一寸法師、かぐや姫など、小さい子供の霊的な話が作られたという。

 そして母神と童神二神を祀る母子神信仰は、三韓征伐で九州に縁のある神功皇后=息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)と応神天皇=誉田別尊(ほむたわけのみこと)の母子の祭神につながり、九州にキリシタンが多いのは母子信仰に抵抗がなく、聖母マリアとイエスを受け入れやすかったとも考えられる。

対馬の天童法師塔と天童法師祠

天童法師の墓と伝わる天童法師塔(対馬市厳原町豆酘)~ 表八丁角

対馬の天童法師塔

天童法師の母の墓と伝わる天天童法師祠(長崎県対馬市厳原町浅藻)~ 裏八丁角

対馬の天童法師祠

鶴王御前(つるおうごぜん)の伝承(美女塚伝説)

鶴王御前(つるおうごぜん)の伝承(美女塚伝説)

鶴王御前(つるおうごぜん)の伝承(美女塚伝説)

鶴王御前(つるおうごぜん)の伝承(美女塚伝説)

ヒコ(日子)を得る儀式

 https://ameblo.jp/renki1515/entry-12263915748.html

 対馬の天童(天道)信仰は、一種の太陽信仰で、天照大神の原型になるような対馬独自の祭祀から発生したものである。

 天道法師という超人伝説に姿を変えて中世以降伝わっているが、もとは弥生時代からの自然信仰がベースにある。原始天童信仰は、縄文時代よりも新しい時代の信仰である。

天道信仰について、その始原の祭祀を知ろうと試み、私たちはこれまで何度も対馬に足を運んだ。

 現在、天童信仰の中心地は南部の多久頭魂神社と北部の天神多久頭魂神社だが、どちらもご神体は天道山と呼ばれる山だ。

 南部には天道山(龍良山)を中心にして、北側の麓に天道法師祠(裏八丁角)、南側の麓に天道法師塔(表八丁角)が建っている。

 どちらも聖地であり、特に南の表八丁角という場所は、「恐ろし所」といって、近寄ると祟りがあると言われ、地元の年配の人は今でも近寄るのをいやがる。このような情報は、地元の人と話したり、対馬に住む人からメールで教えてもらった情報も踏まえている。

 なぜ祟りがあるのか。それは一種のカモフラージュであろう。ここから先の話は、蓮鬼によるサイコメトリー情報によるもので、考古学や民俗学、歴史学の範囲を超える話であることをお断りしておきたい。

「重要な秘儀を行う、宗教的、祭祀的なスポットには一般人を近寄らせないようにする必要があるわけで、恐いところだという噂を広め、立ち入り禁止区域にしておく必要がある。みだりに近寄るなと言うタブーを作るのは、そこが祭祀にとってきわめて神聖な意味を持った場所と見なされていたためであろう。」

 杜の精霊たちの声が聞こえてきそうな場所である。地元では、ここを「恐ろし所」と呼んで神聖視している。

また、蓮鬼には次のようなメッセージも現地で入ってきた。

「弥生時代の対馬の信仰は、浦々に海の神、日の神を祀る祭祀場があり、儀礼を共同体のリーダーでもある神官が執り行っていた。共同体の中で神に選ばれた人が神官を務めるわけだが、そのためには特別な才能や能力をもった子供が生まれてくる必要がある。その子供は神の使い、言い換えると神と人をつなぐ存在、その後の<眷属>の概念と同義だった。天童は神童であり、天の神、日の神の息子である必要があった。」

 以上のサイコメトリー情報から推察すると、日の子供とは、「日子」=「ヒコ」となる。実際、「魏志倭人伝」には対馬の首長の名前が【卑狗】「ヒコ」であったと伝えている。

 さらに、「ヒコ」を産むための儀礼に関する情報も蓮鬼の口から出てきた。

「世継ぎとなるヒコを産むための特別な儀式があった。引き潮の渚で、朝日の昇る時刻に、男性の神官と女性の巫女が交わりを持った。その巫女も共同体の中から特別に選抜されて育てられた女性であり、神を感じやすい女性であり、処女だった。  交わる場所、時刻は引き潮の渚、つまり潮が満ちたときには海になる遠浅の場所で、日の神の魂が入るためには、朝日が昇る時刻を選ぶ必要があった。」

 天道法師縁起には処女懐胎の物語が展開されている。

 天道法師の母は太陽の光に感精して、法師を身ごもったと伝えられている。しかし、実際はそこに男女の性愛的儀礼があったというのが、サイコメトリーから導かれる仮説である。しかし、この性愛儀礼には現代人の感覚から見ると、凄惨な結末を迎えることがあったという。

「男女交合の後、巫女は龍良山の北側の祭祀場まで連れて行かれ、そこで妊娠したかどうかを確かめられた。もし、妊娠していなければ、巫女はその場で殺された。妊娠がわかったときは、臨月までその場に籠もり、神職以外の人間との接触はいっさい断たれた。

 臨月になり、陣痛が始まる頃に、急いで龍良山を担いで登り、今度は南側に降りて塔のある場所に臨時の産屋を作り、出産させた。生まれた子供が男子ならば、天童である可能性があるとされ、子供は「神の子」として丁重に育てられたが、ある程度の年齢が来ると本当に「日の子ども」なのかどうかの吟味が行われた。もし、子どもに特別な才能がないとわかったとすると、この子は神の子ではないと判断されて、生け贄として海の神に捧げられた。」

「ヒコになった人は、先代のヒコが亡くなったときには、その力を受け継ぐ儀式として、彼の肉を食べる食人の儀礼も行われていた。」

 こうした儀礼が行われていたのが、原始天童信仰であり、これは朝鮮半島から入ってきた知識に基づくものだったようである。優生学的発想もあるようで、特別な能力(霊能力にかぎらず優れた才能の持ち主)をもった者だけが神に仕える人物としてふさわしいと考えられ、共同体の代表として、念入りに選抜された。

 現代人の感覚からは残酷としか言いようのない儀礼には、何か特別な意味が込められていたのかもしれない。民俗学の研究によれば、生け贄とは産まれたときから初なままで養育され、何の罪穢れも知らない無垢な状態の人間、動物を希少価値のあるモノとして神に捧げることを意味する。

 人間も神なる自然から産み出されてくるモノであり、その神の怒りを鎮めるため、あるいは加護を得るために、もっとも貴重なモノ=人間を捧げたのであろう。

 犠牲にされた人間の魂は神なる自然に還っていき、それがまた巡り巡って共同体に恵みを与える。共同体全体の運命を左右しかねない重大な事態に陥ったとき、その局面を打開するために一番大切なモノを捧げること、すなわち人の命を捧げることを古代人は思いついたのかもしれない。モノが乏しかった頃の話、個人主義という思想が確立するずっと以前の話である。

 以上が弥生時代に行われていた「ヒコ世襲の儀礼」に関する情報である。天童法師塔は、昔から卒土(ソト)と呼ばれているのだが、これは朝鮮にあった蘇塗(ソト)と同じ意味を持っているのではないか。

 とすれば、朝鮮半島からもたらされた呪術的知識が、原始天道信仰の中にあってもおかしくはないだろう。

このように、天童法師塔に赴くたびに、次々に新しいメッセージが蓮鬼に入ってくるようになったわけであるが、次に示すのは、この塔が建っている土地の特別な意味に関する情報であった。

1.ここは自然のエネルギーの集中する場所であり、霊能力を身につけるための儀礼の行われた聖地だった。

 塔は以前は何カ所もあり、シャーマンたちが塔の周りをグルグル回りながら「天のエネルギー」を得る儀礼を執り行っていた。現存している塔も以前は、今よりずっと高かったものが崩れて今のような状態になっている。

 ただ、ここで霊能力開発の修行をしたシャーマンには極端な効果が現れ、ブラック系とホワイト系のいずれかになってしまうため、この場所が持つ特殊な効果を隠すために、祟りのある「恐ろし所」であると吹聴したのであろう。

2.この地は生命エネルギーを増幅する意味を持った場所でもあった。

 地元の人々は、子どもが生まれると天の神に感謝して、この塔に生まれたばかりの赤ん坊を横たえて、健康に育つように祈りを捧げた。

 子どもが15歳になったときに、もう一度通過儀礼をこの塔の前で行うしきたりがあったはずである。

3.天童法師の塔がある表八丁角は、葬地でもあった。

 死期の迫っている者や死者は現在、塔の建っている場所のあたりに横たえられた。やがて、死体は鳥や獣、ウジ虫、バクテリアに食い荒らされ白骨化していった。死者の身体は山の神に捧げられ、その魂は祖霊化して氏神になっていった。山の神の使いとは、龍良山に生息している鳥獣、昆虫の一切である。

 確かに、墓地、葬地とは古代の霊魂観では決して穢れの場ではなく、むしろ神聖な場(祭場)だった。死骸が朽ち果て、その合間から草木が生え、やがて神の住まう杜になる。祠が死者の葬られた杜に、やがて建つようになった。

 八丁角が「おとろし所」(恐ろしい祟りのある所)と畏れられたのは、そこが氏神化した死者の魂が住まう聖地であり、人間の生死に関わる重要な儀礼の行われた場所だったためではないだろうか。

 以上をまとめると、天童信仰は中世以降、天童法師という山林修行者の英雄伝説によって色づけされているが、その本質は遙かな昔から続いてきた太陽信仰にあるのだろう。

 対馬では太陽崇拝も古くから行われてきた。天照大神という概念が大和で成立するずっと以前から、対馬の日子<ヒコ>は太陽の子供として崇拝の対象だったのだ。逆に、こうした信仰が発達して天照大神の神格となったと見ることもできる。

 最後に、現地で蓮鬼に発生したアクシデントについて述べておこう。私たちが初めて、「おそろし所」に到達することのできた日の話である。

 塔の前で、一時休止して、それから参拝しようと思っていたのだが、そこで蓮鬼に異変が生じ、大変な状況に陥ってしまった。

「塔の前に、髪の毛の長い女性の霊がこれ以上前に進むな、と立ちはだかっている。朝鮮半島系の装束をしたシャーマンのようないでたちの女性が塔の前に立っている。」

 その女性と霊的な交信してみると蓮鬼が言った後、急に彼女はあろうことか塔によじ登り始めたのである。

 蓮鬼は、スタスタと塔の石垣をよじ登り、てっぺん近くの祠の前に立ったかと思うと、両手を大きく広げて上にあげ、クルリと180度回れ右をしたかと思うと、すでに目つきと顔つきが変わっていた。「完全に憑依されているな」と私は悟った。塔の石垣はグラグラしているので、それだけでも危険なのに、両手を上げたまま直立して、神懸かりになってしまっている。

「我はこの地を守る者なり。この地を汚す者は、何人たりとも許さぬ。ここをどこだと心得るか。お前たちは、一体ここに何しに来た!」

 蓮鬼は、白目をむき、ものすごい形相で叫び声を上げた。完全に憑依状態になっていため、このまま放置すると事故の危険も出てくる。まずは残りのメンバーが塔に上って蓮鬼の身体を押さえ込んだ。

 私はとっさに憑依解除の呪文を唱えながら、その場で「祓い」を行った。早く、憑依しているものを外に出してしまわないと、彼女の身体がもたないととっさに判断してのことである。

多久頭魂神社・高御魂神社

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