国譲りに見られる古代史の真相② ~出雲~
さて、前回は「国譲り」に関して高天原側から見てみましたが、今回は葦原中つ国側、というか、出雲側から見てみます。
出雲側よりみると、この国譲りは大きく2つに分けられます。
それは、既に古事記本編の紹介で書いた「葦原の中つ国の平定」と、「大国主神の国譲り」です。
前半は、アメノホヒさまと、 アメノワカヒコさまが遣わされ、これは所謂、友好的な使者として受け入れています。
解説によっては、お二方とも調略を持ってきてはいますが、それはオオクニヌシさまには全く通用せず、逆に調略されてしまっています。
こういうところは日本史でも武家政権を研究してきたわたくし的にはとっても痛快です。
なるほど、この時代からもうあったのかって??
そう簡単に中つ国の覇者を、天津神といえども交渉力が通じる訳がありませんよね。
すっごく面白い場面です。
①やはり大きなスサノオの存在
スサノオさまはなぜ天から降りて来たのか。
ここでもやはりこの問題に引っ掛かります。
つまり、こういうことです。
スサノオさまは高天原より出雲(らしい)に降り立ったときに、既によそ者です。
以前に「ヤマタノオロチに隠された神話の真実」でも書きましたが、この時に、オロチとスサノオは出雲から見ればどっちもどっちなんです。
でも、スサノオさまオオクニヌシさまに繋がる国づくりの土台を作ってくださった。そして極めつけは、スサノオさまの義理の息子になってということ。
つまり出雲としてみれば、この段階で、高天原の後継をしっかり受け入れていると考えても間違いではありません。そして、この「国譲り」に関しては、「もう、中央政権の仕様になっているのに、これ以上なにをされなければいけないのか?スサノオさまを受け入れたではないか、これ以上は勘弁してほしい」という思いがあったに違いありません。
②なぜ天孫降臨が後なのか
古事記では、このあとに「天孫降臨」があります。
満を持して、アマテラスさまの孫神である、ニニギノミコトさまが、葦原中つ国を統治されるために、神々を引きつれて、まさに天から下ってこられます。天孫が来られるのですから、決して危ないところには来られません。よく中世ヨーロッパの戦争などもそうですね。戦争で勝利して、敵方の忠誠を確認してから、最後に国王や皇帝が国入りをされますよね。それと同じくまさに威風堂々と、ニニギさまは降臨なされたのでしょう。これが、高天原の理論です。
しかし、出雲の理論は違います。既に、天弟である、スサノオさまをお迎えしているのです。そして、国津神の中でも最も有能なオオナムジが八十神に殺されても、天津神カミノムスヒさまにお助け頂いたり、天弟スサノオさまの娘と婚姻し、スサノオさまからは「オオクニヌシ」という名前を頂き、そして国造りには、スクナビコナさまというこれまた天津神タカミムスヒさまのご子息を参謀として頂いてます。つまり、この中つ国には高天原に認められた地場の神さまが、高天原の理屈で国造りを完成されていらっしゃるのですね???
なぜ、そこにまた天津神がゴチャゴチャ言ってくるのでしょうか??
③オオクニヌシの主張
そして、ここにもうひとつ、決定的な出来事がありました。それは、「ヤマト」の存在です。
古事記において「ヤマト」という言葉と場所が具体的に示されたのは、オオクニヌシさまの項が最初です。
「オオクニヌシ神話の背景」のところでも書きましたように、ここで初めて古事記に「大和」を彷彿させる記述があります。
実はこれはまだまだずっと先のことですが、この「大和」に関しては古事記が「神代編」から「人代編」に入ってからも、色々と不明な点がたくさんあります。それは、その都度、その場面で解説させて頂きますが、現在のところは、このヤマトを認識している最初のひとはオオクニヌシさまだということを覚えておいてください。
では、一体、高天原は「ヤマト」とどういう関係が?? そして、出雲の国津神が力を持っていたとしたら、高天原の天津神はどういう類いになるのでしょうか?
このことは、また、後々、「天孫降臨」、そして「神武東征」のところで、否が応にもたくさん出てきますので、お楽しみに。
というか、纏めますと、オオクニヌシさまには「大和を最初に意識したのはわたくしなんだ」という自負があっても良いのです。
④日本書記には書かれなかったこと
そして、この天津神と国津神それぞれの主張をかなり不安定にしている大きな要因がここにあります。「記紀」、つまり「古事記」と「日本書記」の記述の違いなのです。ひとことでいいますと、古事記は「オオクニヌシさまが条件を出して譲ってあげた」。これに対して日本書記は「天津神がいい条件を用意してくれた」のです。この「条件」こそが「出雲大社」という宮殿のことです。「古事記」はフィクション、「日本書記」は正史です。
「古事記」の神代編になぜ、出雲の話がこんなに多いのか?? ひとつは、やはり神武東征以前にこの国は有力な豪族が群雄割拠していたということでしょう。古事記で書かれている出雲は「出雲国」一国のことでなく沢山あった小国の総称でしょう。日本書記と違い、古事記には出雲を始め、この頃には既に全国で書かれていた「風土記」を多く参考にしているといえます。
冒頭文の続きですが、結局、国津神を調略できなかった高天原は、最終的にタケミカヅチを遣わして、武力をもって交渉を成立させます。
高い精神性をもっている筈の天津神を怒らせたという、ある意味、日本史、日本民族にとってリスクと思われることを、何故、古事記は掲載したのか本当のところは全くわかりません。
しかし、推測は色々することができます。
それはこれからもここで書いていきますが、間違いないことは、古事記も日本書記もどちらも天武天皇が編纂を命じ、しかし完成したのはそれからずっと後の奈良時代の初頭ということなのです。そして、どちらも天皇家が国の中心にあるという正統性を顕かにするために書かれたという事実だけなのであります。