【ロレンツィ家SS】愚かな夜に
5月23日はキスの日ということで!
本編終了後の二人です。
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開けていた窓から車のエンジン音が聞こえた。
ベッドサイドの明かりをつけたままでうとうととしていたリタは、ぼんやりとした頭で時計を見上げる。時刻は二十三時になる少し前だった。
(あれ……? ずいぶん早く帰ってきたのね)
今夜は会合があるから遅くなる。アルバートがそう言うときは、たいてい日付を跨いで帰ってくることが多いはずなのに。
寝間着の上を羽織って階下に降りる。
サロンに入ると、明かりを遮るように顔に腕を乗せ、ソファに身を沈めていたアルバートが顔を上げた。リタに気が付くとニコニコと手を上げる。
「ただいま、リタ。僕の帰りを待っててくれたの?」
(……酔ってる?)
顔色はふつうだが、周囲にはアルコールの匂いが漂っている。
アルバートが酔って帰ってくるなんて珍しい。
短い付き合いだが、彼は自分の酒量をきっちり計算して飲む性格だということは既に知っていた。酒に弱くはないが特別強いというほどでもないのだろう。屋敷の内外問わず、羽目を外しすぎることもなく、ほどよく楽しめる量を適度に、という飲み方だ。普段より過ぎた酒量に少し心配になる。
『お帰り』を言ったらすぐに自分の部屋に戻るつもりだったのだが、
「ほらほら、こっちにおいで」
上機嫌らしいアルバートに手招きされて苦笑する。
こんなことなら筆談のためのスケッチブックを持って降りてきたらよかったな、と思いながら近寄った途端。
ガチャン! といきなり右手に手錠をかけられて仰天した。
「⁉」
「ふふ、ふふふあははは……あはははは! 油断した?」
油断って何。
ぎょっとするリタをよそに、アルバートはげらげら笑う。
さらに手錠のもう片方の輪を自身の左手に嵌めてしまった。再びの爆笑。……意味がわからない。
(よ、酔っ払いの言動……)
困惑するリタに構わずアルバートは笑い続け、繋がれているリタは立ち尽くすしかなく。
笑い声が聞こえたのか、階下に降りてきたマーサも目を丸くしていた。
「あらまあ……。アルバート様、ずいぶんと飲んでお帰りになられたんですねえ」
「あははは。やあ、マーサ。悪いんだけど、水が欲しいな」
「はいはい。お待ちくださいね」
アルバートの奇行には触れず、マーサが水を取りに出ていってしまう。
(えっと、これ、外してくれない……?)
リタは右手を持ち上げ、アルバートに視線で訴えた。
マーサと話したことでいくぶんか冷静になったらしい。「ごめんごめん。ただのおもちゃだよ。びっくりした?」といたずらっ子のような笑みを浮かべてポケットをごそごそと探っている。
洒落たスーツの中に銃やナイフを隠し持っていることは知っていたが、手錠まで持っていたのか。今後、縄だの麻酔薬だの、良からぬものが出てきても驚かないぞ……と思っていると。
「あれ……?」
表情を曇らせてアルバートが立ち上がる。
シャツの胸ポケットを探り、ジャケットのポケットに手を突っ込み、「おや?」と首を傾げる仕草にリタは一気に不安になった。
(え、まさか、手錠の鍵をなくしたとか言わないわよね⁉)
しらふのアルバートならそんなミスしないだろうが、酔っ払っているせいで様子のおかしいアルバートならありえる。
狼狽えるリタがおかしかったらしい。アルバートは安心させるように微笑んでみせた。
「……心配しないで。ちゃんと予備はある」
(それならいいけど……。いや、そういう問題でもないけど……)
「僕の部屋にあるから。一緒にきて」
鍵がないのなら仕方がない。
頷いたリタの手をアルバートが取る。歩く度に鎖ががちゃがちゃと鳴り、静かな廊下に淫靡に響いた。
かなり酔っているのではないかと思ったけれど、アルバートの足取りは意外としっかりとしている。笑いだすこともないし、眠っている構成員に配慮しているのか移動は静かだ。
(もしかして、もう酔いは醒めてる?)
というか、本当に酔っているのかどうかも怪しい。
アルバートの部屋に入るなり、ぎゅっと抱きしめられた。
「ふふふ。だめじゃないか、リタ。こんな夜更けに男の部屋についてくるなんて」
自分がその状況を作った張本人だということを棚上げして、愉快そうに笑う。
無いと言っていた鍵は、アルバートのポケットの中から簡単に出てきた。部屋に誘い込むのが目的だったらしいと理解したリタはうっすら頬を赤く染める。
鍵を差し出したアルバートは、リタの左手にそっと握らせた。
「はい、どうぞ」
(外してくれないの⁉)
暗闇で鍵穴も見えづらく、鍵を持たされているのも利き手と反対だ。
構造を知っているアルバートが外してくれればいいのに、なんて意地悪な。
焦り、もたつくリタを見るところまでがセットの余興らしく、アルバートは手を貸してくれる気配もない。
酔って帰ってこようがもう心配なんてしてやるものか。
心に誓ったリタが奮闘していると、
「……僕が帰ってくるまで、待ってなくてもいいんだよ」
ぽつりとアルバートがそんな言葉を漏らす。
思わず手を止めたリタがアルバートの顔を見上げると、切なそうな顔をして微笑んだ。
――アルバートが遅くなる日は、何となく帰ってくるのを待ってしまう。
毎回、階下に出迎えにいくわけではないけれど、帰ってきたことを確認してから部屋の明かりを消すのが習慣になっていた。
(わたしが勝手に待っているだけだから、いいの)
首を振ると、アルバートは苦笑してリタの髪を撫でた。
垣間見えた弱音と、重なった唇から香るほのかな酒の匂い。
(……やっぱり少し、酔っているのかな?)
そういうことにしておこう。きっと、アルバートは酔っているがゆえに言うつもりのないことを言ってしまったと思っているはずだから。
交わされるキスにたどたどしく応えながら、リタは今夜もアルバートが無事に帰ってきてくれたことに安堵する。
握ったままの鍵が温まっても、手錠はまだ、解けないままで。
〈了〉