生きてるということ
泉大津のオーバーヒートでのイベントに出演した翌日、父が亡くなりました。
1月6日に入院した父。入居している介護付老人施設で年末からちょっと危ない様子だったのですが、施設では手に負えない状況となり、入院したのです。入院した時、すでに医者からは「いつ亡くなってもおかしくない」と言われていました。しかし、ある程度持ち直し、私たち夫婦が面会(とは言え、コロナ対策の関係で、入院してから2週間ほどは面会できませんでしたが)した時は、何言ってるかはよくわからないものの、よくしゃべり、帰り際には歌まで歌ってました。それからまた、2週間ほど経ち、担当医から「今日か明日かの命だと思われます。会われたい方には連絡して下さい」と言われたと、家内から電話があり、私は、仕事を早引きして病院に向かいました。父の病室に着きますと、酸素吸入して苦しそうながら、少し落ち着いた様子です。連絡した子供たちも一人二人と来ました。面会は2人づつなので、私や家内が交代で付き添いました。3男夫婦が来た時にはわずかながらしゃべって、手を振ったりもしていました。
人が亡くなる時と言うか、私達動物が命を召される時、どのようであるかということが、父の死に立ち会ってよく分かりました。
死の間際まで、しっかり意識を保って眠るように息を引きとるということを、禅の師家や、心身をよく鍛錬した方の伝記などで読むことがありますが、そのようなことは、滅多に無いということです。
やはり、意識というものはそうそう強いものでは無く、身体が死に向かいつつある時、身体に対する意識の支配は
とても弱いものではないか、という気がしました。それは、父が死を怖がるとか、「死にたくない」と叫ぶと言う事ではなく、生が死にとって変わられることについて何を言う事もないということです。