#聖霊 と #イスラエル - 特集 #ユダヤ最強説
「BFP JAPAN」様より
シェア、掲載。
ありがとうございます。
感謝です。
聖霊とイスラエル -前編-
TEXT:シェリル・ハウアー(BFP国際開発部長)
今月と来月は、「聖霊」について、クリスチャンとユダヤ人がそれぞれどのように理解しているかを学びます。
聖書を信じる者にとって
クリスチャンにとって聖霊との関係は、新生(救い)と共に始まり、神の子どもとして新しくスタートする生活の養育係として深められていきます。使徒たちの書いた新約聖書にはクリスチャン生活と教会における聖霊とその働きについて、90回以上にわたって記されています。
タナハ(創世記〜マラキ書)の中に「聖霊」ということばはイザヤ書に2回、詩篇51篇に1回出てくるだけで、合計3回しか現れません。しかし、「主の御霊」、「神の御霊」、「わたしの霊」、「神の霊」、「さばきの御霊」、「知恵の霊」、「あなたの御霊」など、使われている用語は違っても聖霊を指すことばは100回以上出てきます。このことからも、創造の初めから神と人との関係の中で聖霊の働きが欠くことのできないものであったことは明らかです。ラビ、聖書学者、クリスチャン注解者は皆、聖霊が神と神の民との関係において、地上における神のみこころの成就において、極めて重要な役割を果たしてきたという点で一致しています。
私たちは、神の人が何千年も前に聖霊の力によって語った預言を、主が同じ聖霊の力によって成就しておられる時代に生きています。ユダヤの民が地の果てから祖国に集められているだけでなく、イスラエルは世界の舞台でますます中心的な役割を果たすようになっています。同時に世界各地の教会が、現代のイスラエル国家の重要性に目覚め、多くの人が全く不可能だと思っていたクリスチャンとユダヤ人の和解が進んでいます。このような時代において、ユダヤ人とクリスチャンそれぞれが、主の御霊とその働きについて、どう理解しているのか知っておくことは重要です。
御霊の働き
あるクリスチャン注解者は聖霊の働きとして、慰め、励まし、啓発、教えを挙げ、また別の人は刷新、回復、啓示、贖い、内住と罪の自制を付け加えています。ユダヤ教起源のもののほとんどは、預言と預言の成就、神のみこころの啓示とそれを成し遂げる力を聖霊の臨在の重要な働きとしています。
今日のユダヤ教の中には、キリスト教のペンテコステ派やカリスマ派のように、「御霊の賜物」と呼ばれているものに対して強い信仰を持っている流れがあることを情報としてお伝えしたいと思います。元国会議員、ラビ・ベニー・エロンはユダヤ教徒ですが、そのような確信を持っていました。ラビ・エロンが癌の治療中だったとき、彼は、ユダヤ人、クリスチャンを問わず聖書を信じているすべての友人に電話をし、主の御霊がエロンにふれて癒やしが起こるよう祈ってほしいと連絡しました。
すべての始まり—ペンテコステ
多くのクリスチャンはユダヤ教に誕生日があることを知ると驚きます。それに対してユダヤ人は、その誕生日が教会の誕生日でもあることを知ってショックを受けます。レビ記23章16節で、イスラエルの民はペサハ(過ぎ越し)から7週間、もしくは50日数えた後、次の祭りを始めるよう命じられました。この祭りはヘブライ語ではシャブオット(7週の祭り)と呼ばれていますが、今日では多くのユダヤ人とクリスチャンはこの祭りをペンテコステと呼んでいます。これはギリシャ語で50日目を意味するペンテコストスという言葉から来ています。
シャブオットは、ユダヤ教にとって、シナイ山でモーセにトーラーが与えられたことを記念する祭りです。出エジプト記には、ここでユダヤの民は初めて主のみ声を直接聞いたと書かれています。民は山に近付いた時、雷といなずま、火と煙、角笛の音、地震(出エジ19:8全山が激しく震えた)に迎えられました。主の圧倒的な力に民は恐怖に襲われました。ここで全宇宙の神が、ユダヤの民に御自分のみおしえであるトーラー(創世記〜申命記)を与えられたのです。そして民に神が何者であり、神と関係を持つために何が要求されるのか正確に語られました。これはまた民を通して全人類に告げられたことでもありました。民は主の語られることにすべて聞き従うと言って応えました。これはイスラエルの歴史にとって重大な瞬間で、今日でもユダヤ教の誕生した日として祝われています。
シャブオットはまた古代イスラエルの毎年恒例の三大巡礼祭の一つでした。この祭りの時にイスラエル人男性はエルサレムの神殿に上ることが義務付けられていました。それは大きな喜びと礼拝、そして共同体の祝いの時でした。国中のユダヤ人が主のみことばに従って聖なる都に集まったのです。イエシュア(イエス)の時代には、すでに多くのユダヤ人がイスラエル国外に住んでいましたが、多くの人々が、可能な限り、これらの三回の祭りの時にエルサレムを目指したのです。
今日キリスト教はプロテスタントだけでなくカトリック、聖公会、ルター派、東方正教会も含めてほとんどの教派が何らかの形でペンテコステを祝っています。ペンテコステは教会の誕生というキリスト教史の重要な分岐点を記念するものだからです。
イエスの十字架と復活が起こった過ぎ越しの祭りから50日が過ぎました。イスラエルには主に従う多くの人々がいましたが、この7週間の間に「教会」と呼ぶことができるほど意義のある動きはありませんでした。しかしシャブオットの祭りの時、弟子たちはイエスに指示されたとおりに、みなが一つ所に集まって待ち望んでいたのです。すると突然、猛烈な風のような大きなごう音が天から聞こえてきました。そこには火も伴っていました。
シナイ山でのトーラー授与を記念するために集まっていたユダヤ人男女が、この出来事によってその当時のことを思い浮べたことは間違いありません。しかしそのような知識でさえも次に起こった出来事への備えにはならなかったことでしょう。炎のような分かれた舌が現われて、一人ひとりの上にとどまり、弟子たちは聖霊に満たされました。弟子たちは主の力強い御業を宣言するために他国のことばで話し、預言し、癒やしと回復をもたらす力が与えられました。そして神の御霊によって導かれ、守られる共同体として生活する力が与えられたのです。ユダヤ教の誕生を記念する日にキリスト教もまた誕生したのです。
タナハの中の聖霊
使徒の働きを見ると、イエスを信じる初代の信者たちは、それまでと同様のユダヤ人共同体の中で、ユダヤ教の一派として、他のユダヤ人と共に神殿に集まっていたことが分かります。しかし、この二つの共同体をばらばらにする出来事が何度も起こりました。置換神学によってクリスチャンは、「神がユダヤ人との契約を無効にされたのでユダヤ人は永遠に裁きの下に置かれる」という確信を持つようになりました。クリスチャンの間で反ユダヤ主義が蔓延する道筋が付いたのです。時間がたつにしたがって、タナハは旧約聖書なので今日の信者にはさほど重要ではなく、新約聖書こそが大切だと教える人が多くなりました。聖書が歴史的背景のもとで理解されなくなったため、クリスチャンは、聖霊は「新約時代の」現象であって、古代イスラエルではあまり活動していなかったと信じるようになったのです。
しかし、聖書はどう言っているでしょうか。「旧約聖書」には聖霊があまり現れないとクリスチャンが信じ込むのは興味深いことです。聖霊について最初に書かれている箇所は創世記1章2節です。それ以降にも「主の御霊」はタナハの中にしばしば登場し、マラキ書2章15節で最後にも引き合いに出されています。創世記1章2節、ヨブ記33章4節、詩篇104篇はすべて、創造と新生が主の御霊の働きであることを明確にしているのです。
指導的職務もまた聖霊の力によってユダヤ人に与えられました。モーセとモーセを助けた70人の長老たちは全員聖霊を受けていたので、荒野でイスラエルの民を治めることができました。主は約束の地に民を導き入れるため、ヨシュアを選ぶようモーセに命じました。それはヨシュアが「神の霊の宿っている人(民数27:18)」だったからです。サウル王やダビデ王が民を導き、戦っていくさに勝つことができたのは聖霊の油注ぎによるものでした。オテニエル、ギデオン、エフタそしてサムソンはみな聖霊の力の元で指導し、裁きを行いました。また幕屋とその器具を作った職人たちも、聖霊の油注ぎの元で仕事をしたのです。ここからも聖霊の働きなしでは、神に仕えることができないことがわかります。
聖霊とイスラエル -後編-
預言者たちと聖霊
聖書の25%〜30%が本質として預言的であるという点で、ほとんどの学者は一致しています。預言のことばは、神に従い、油注ぎを受けて活動した人々によって語られました。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、ヨエル、ミカは全員、主の御名によって語る力を聖霊によって与えられました。イザヤは、「主は私を、その御霊とともに遣わされた(イザヤ48:16)」、エゼキエルは「霊が私のうちにはいり(エゼ2:2)」、ミカは「私は、力と、主の霊と…に満ち(ミカ3:8)」と言っています。エリヤとその後継者エリシャもまた、常に聖霊の臨在の中を歩んだ人でした。エリヤの旅立ちに際してエリシャが願った唯一のことは、主人エリヤの上に留まっていた霊の「二つの分け前」が与えられることでした(Ⅱ列王2:9)。
聖霊の働き
前号では、タナハ(旧約聖書)の中で明らかにされた聖霊のさまざまな働きを見ました。これを新約聖書に書かれている聖霊の役割と比べると参考になります。
1.教え
ネヘミヤ9章20節では聖霊が人々を訓戒し、真理に導いたことが明らかにされています。旧約聖書にはこれ以外にも同様の聖句がたくさんあります。イエスご自身もヨハネ16章13節において、御霊が神の民をすべての真理に導き入れると語られました。
2.信仰
ガラテヤ5章の御霊の実と呼ばれる9つの品格の中に「信仰」が出てきます。これは「誠実」と訳されるほうがより適切な言葉です(日本語聖書では「誠実」と訳されている)。クリスチャンである私たちは、聖霊の臨在のゆえにこのような品格が信者の生活の中に現れると信じています。ヘブル書11章にはイスラエルの神に仕える生涯を送った「旧約時代」の聖徒たちが挙げられていますが、このような生涯は信仰があって初めて可能になります。
3.新生
レオン・ウッドは著書「旧約時代の聖霊」で、タナハの中で霊的刷新がどう理解されていたかについて論じています。イエスは「新生」することや「上から生まれる」ということについてしばしば語りました。これは間違いなく聖霊の働きです。しかし、イエスはニコデモと話をしていた時、「イスラエルの教師」でありながら、復活と新生について理解していないと言ってニコデモを非難しました。「どうしてイスラエルの教師でトーラーとタナハを教えている者が聖霊の新生の働きについて理解していないなどと言うことがあるのですか…」と尋ねたのです。
4.ルアハ
タナハで「霊」を表すために最もよく使われているヘブライ語が「ルアハ」です。これは「息」とか「風」という意味があります。「ルアハ」は、うるさく鼻から息をすることを指して使われます。出エジプト記で「ルアハ」は強い西風を説明する際に使われました。ギリシャ語のプニューマという言葉も全く同じように訳されることがあります。要約すれば、タナハの中に現されている主の御霊は、ペンテコステの日に初代の信者たちに現れた御霊と同じように、激しく力強いものなのです。
別の見解
もちろんキリスト教とユダヤ教には聖霊に対する見解の相違があります。キリスト教もユダヤ教も一神教ですが、キリスト教の土台である三位一体の神という考え方はユダヤ教にはありません。ですから、役割や能力が非常に似ているにもかかわらず、聖霊はユダヤ教の教えの中では神の位格とは考えられていないのです。タナハの中で聖霊は人格ではなく、働きの様式であり、神がご自分の御心を行う力を与えるためにご自分の民と関わる際の作用なのです。ラビによる注解書タルムードでは、「主の御霊」と「シャカイナ」ということばを取り替えても差し支えないことがよくあります。このシャカイナは主の臨在、主の栄光、主の力、主の働きを意味するものですが、神の別の位格ではありません。
聖霊について、もう一つキリスト教との顕著な相違は、聖霊の内住に関するものです。キリスト教では聖霊が信じる者の中に慰め主、教師、聖め主、救いの保証として永続的に住まわれると教えています。しかしタナハにおいて聖霊の内住はダビデやヨシュアのような人だけが体験できるまれに見る神の好意の印でした。通常聖霊は特別な職務のためや、一定の期間、力を与えるために人々の「上に臨む」ものだったのです。さらにキリスト教では聖霊は信じる者の中にだけ住まわれると考えますが、タナハにおいては邪悪でイスラエルの神に従っていない者の上にも聖霊が臨むことがあります。そのような人々は、聖霊の力によって神の御心が成就するために欠かすことのできない特定の役割を果たしました。
最後に、個人か全体かという相違もあります。ほとんどのクリスチャンは聖霊の働きを個人的なものと考えています。聖霊は信者個人に内住されます。教会はそのような信者の集まりです。一方タナハにおいて、聖霊は個人の上に臨むこともありましたが、焦点は神とイスラエル国家の関係に当てられています。
神の霊の力によってイスラエルの民は奇跡的に奴隷の家から解放され、エジプトから脱出し、父祖に約束された土地に向かいました。聖霊が人々に注がれた時、神の共同体に対する御心が成し遂げられました。預言者は悔い改めて主と正しい関係を持つよう民を戒めましたが、ほとんどの場合はイスラエル国家に対して責任を持つ人々に直接語りました。
これは預言者エゼキエルにおいて非常に明瞭です。36章でエゼキエルははっきりと、主に忠実になるよう励まし、聖霊の働きによって刷新される人々に新しい心を約束しています。エゼキエルは、これを共同体に対して語っているのです。しかしエゼキエルは民が悔い改めたので、あがないに値するとは言っていません。主は民のためにではなくご自分の御名のために民をあがなうと言っているのです。まず民が集められ、そして今度は個人の心に神が主権的に働かれるのです。続く37章でエゼキエルはイスラエルの乾いた骨々に語ります。多くの学者たちはこれがホロコーストによって踏みにじられた後のユダヤ民族であり、イスラエル国家を指していると信じています。エゼキエルは、神の御霊によって主が彼らの墓を開き、骨々を立ち上がらせ、肉をまとわせて再び命を与えると言っているのです。これはイスラエルの全家に対する約束です。そして39章で神は再びご自分の霊をイスラエルの家に注ぐと約束しておられます。このことによってすべての人が、主が神であることを知るようになるのです。
あがない、回復、再集結
あのペンテコステの日に、聖霊が力を持って来られ、教会が生まれました。エルサレムの通りは当時知られていた世界中の人々で満ちていました。人々は学の無い信者から、自分の土地の言葉で語り掛けられたことに驚きました。ペテロは聖霊の力によって通訳機の助けも借りずに、すべての人に理解できる説教ができたのです。そこでペテロはヨエル書の預言を引用しました。
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル2:28-29)
ペテロの説教を聞いていた人々にとって、このみことばはなじみ深いものでした。このヨエル書の箇所の直前に、あがない、回復、再集結の素晴らしい約束が語られていることも頭に入っていたでしょう。それは神の民が自分の国に回復され、力強い神の聖霊に守られ、もはや国々の恥辱ではなくなり、二度と恥を見ることがなくなる時のことです。私たちは、今まさにそのような時代に生きています。神の約束されたイスラエル回復と再集結は進み続けています。何百万ものユダヤ人がさまざまな国々から祖国に帰還しており、イザヤ書49章22節に預言されているように、私たち異邦人はこの預言が成就する助けをする特権にあずかっています。
この時代、神はご自分の御霊をすべての人々に注いでおられ、力強い神の御霊が地上を吹き抜け、何百万もの人々がイスラエルの神を信じるようになっています。このような今の時代、私たち一人ひとりがしなくてはならない選択があります。それは、神のパートナーとなって驚くような神の御業に参加するのか、それとも自分個人の必要に焦点を当て続けるのか、という選択です。
全24回 / 2017年12月18日 公開
LivePicks
VIDEO 2017年8月24日 公開
特集「ユダヤ最強説」連動企画
NewsPicksの特集との連動企画をお送りします。好評連載中の「ユダヤ最強説」の執筆を担当する、NewsPicks森川潤記者がLivePicksに登場。なぜユダヤ人がイノベーションを生むのか。イスラエルが辿ってきた歴史やユダヤ教徒だからこそ持ち得た、ビジネスにおける優位性について多面的に解説します。また、話題の質屋アプリ「CASH」の裏側をNewsPicks池田記者が詳しく解説。プレミアム会員はライブ配信中、コメントや質問が投稿できます。スマホ視聴に最適化した新しいカタチの経済ニュース『LivePicks』にご参加ください。
聖霊とイスラエル -前編-
聖霊とイスラエル -後編-