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Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説48

2021.05.15 23:00


以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。



そうしたらタオが見せたただただ素直な笑い声に、わたしは自分の心さえ救われた気がした。そんな一日がありました。

それから旧正月、こちらではテトと呼びますが、その長い休みを無聊にすごし、やがて二月の終わり、日本なら春の魁る比とおもういつかの朝、タオがLineを鳴らしました。

——明日、來るんです。

わたしはすっかり忘れていて、とっさに要領をえなかったものだから、

——すみません…あの…妹のこと、覚えてますか?

思い出したわたしは彼女に笑って詫び、じゃ、待ってるよ、と。

タオは云う、お願いします。

わたしは言う、なんでもないよ、と。かくて翌ゝ日の朝タオがホテルに連れて来た蘭は、一目すぐにわたしを軽く驚嘆させたのでした。姉がむしろ人懐っこく可愛く清楚なたたずまいの方だったのにいつの間にか殉じて、わたしの思う蘭も白い肌の淸らかで繊細で孤独好き、そんな愛された記憶の無い可哀想な子犬のような少女を思っていたので。

孤独好きという以外に私の知る蘭に似たところはなくて、褐色の肌を瘠せた、そのくせに小柄とは言えない精悍さを讃えた骨太の、背の低い少女が雄猫じみた不審の眼にわたしを捉え乍ら目の前に現れたからです。

私はベトナム語が今もって話せませんから、タオはわたしに彼女得意の日本語もて話し掛けます。わたしはそれにそれに勿論日本語に応えます。そのながれにタオは帰り際、——ちゃんと挨拶して!…もう。

と、日本語で蘭にしかりつけたのでした。

無言で刺す様にも私を見ていた蘭は、その瞬間、姉を返りてすぐさまに軽くわたしに会釈したのでした。

——日本語、わかるの?

私はタオに聞きます。

——なんで?

とタオ。

——今、日本語で話したでしょ?

——此の子、日本語なんて知らない。勉強したこと無いもん。日本語、難しいし、と。そう云ってタオは自分の能力をそれとなく無意識のままにも誇ってみせたのでした。

蘭はなんとなく、その場を讀んで察したということなのでしょう。

こうしてわたしと褐色の少女との、毎日半日だけの共同生活が始まったのでした。

その頃、毎日なにをしていたのだったろう?

とりとめもない日常の、なにが起こるともなくなにか起って、なにも起らなかったにもひとしく唯の日常として忘れられていく、そんな日々に日の光がさしている間、蘭はずっと私の傍らにいたのでした。友人と会う時、あるいは女性のひとりの友人とのひととき、乃至ただひとりで時間を持て余す時も。

そう謂えば、最初の比はダナン市に来るのがはじめてだという彼女に、その観光地や近隣のホイアン、ミーソン遺跡(チャンパ、というヒンドゥー敎種族ののこした寺院の跡地です)などにもバイクで連れて行ったものでした。尤も、取りつく島もなく心を閉ざした彼女から何かしらの反応を(たとえ退屈でも哄笑でも不満でもなんでも)引き出すことは出来ませんでしたが。

そうこうするうち、私と私のもっとも親しい友人、グイン・ティ・コアという人物との間で小旅行の話が持ち上がりました。彼曰く、ダナンには飽きたろう?と。

わたしは言います、いや、飽きること無い美しさが此の街にある、と。

コアは笑う。——嘘、つかないで。

わたしは彼にだけはいささかの嘘さえつけないのです。わたしはその時に気付きました。慥かに私は倦んでさえいた、と。此の平和で、人懐っこい善良な人たちの生活を營む、外国人観光客たちの不遜さであふれたこの海辺の町に。

わたしは認めるしかなかった。

コアはささやいた。わたしの耳元に唇を寄せ、そして、連れ出してあげる、と。

こんな退屈な町から。

ここはあなたには相応しくないから。

ここで、あなたに羞じを忍んで告白しなければならないでしょう。コアについてです。この二十七歳の癖のある髪を肩まで伸ばしたベトナム人らしくもない青年は——ここで男たちはみんな短く刈りあげます。わたしの恋人だったのです。

私は本来、同性愛者だったのです。尤も、女性も抱きました。その意味ではバイ・セクシャルというべきですが、思うにバイというセクシュアリティは本来存在しないのです。だれもが異性愛者か同性愛者か、それだけ。トランス・ジャンダーにしたところで、実際肉体と精神との不一致というだけであって、実際には異性愛者にすぎません。

ちがいますか?

彼等と違ってバイという人種は越境したもの、川を(或は意思を以て、或はなりゆきで)渡って仕舞った人間の事を言います。わたしは、結果的に河を渡って仕舞っただけにすぎません、私の周りには常にわたしに焦がれた女たちの眼がありました。十三歳の時に、柳沼瞳という名の年上の女が(…といって、今会えば、老いさらばえたわたしの眼には十九歳のの伊呂波も知りかけの未成熟な少女に過ぎないでしょう)無理やり奪い、川を渡らせたのでした(わたしの記憶に腐りかけにも思えた熟れすぎた肉の豊満な記憶をのみ植え付けて)。

コアはここで知り会い、外人向けのクラブでひとめ、お互いの本性を匂い、そして同時に既に戀に墜ちていたのを気付いたのでした。コアは日本に5年滞在して、こちらガイドのエージェントを遣っている男です。顧客はもちろん日本の観光客ないしアテンド。彼ほど日本語の堪能な男は見たことがありません。N1資格所得済みの高給取り教師タオ先生さえ彼に教授されたよいくらいです。

コアは言いました。嘗てフランス領だったころ彼等の開発した避暑地が南部の山の上にある、名をダラットという。そこに一週間程度行ってみないかと。その雲の上にある高原には花が咲き乱れるのだ、と。

わたしには惹かれるものがありました。なぜ?

雲の上の空中都市ということに?

そこに咲く花のまだ見ない色に?

正直に言えば、筋肉をうすく息づかせた彼の褐色の肌の匂いを独占することに、だったに違いありません。

ともあれ、蘭の問題が残ります。

その夕方に迎えに来たタオに謂ってみたのでした。タオは一瞬思いあぐねた顏をし(…正確には裏切られ失望した、というべきだったでしょう)、しかし、すぐにじゃ、他に預かってくれる人、さがすね。

零れ落とす様にも故意に笑いました。

わたしはひとり心を痛めました。

しかにもかくにも、私は彼女たちを自分の、行ってしまえば肉の欲望に(それがいかに心と心、精神と精神の素手にふれあう親しみあいだったのが實のところの真実だったにしても)捨ててしまうのです。

むしろ彼女より惱む一瞬のあと、不意にタオは言いました、…でも、じゃ、綺夜宇さん(というのが、彼女の私に對する呼び方なのです。伎與麻沙の淸の字から伎與、ないし伎與宇、それがなまって時に伎夜宇、と)いっしょに連れって行ってくれたら、いい。

云って、そして彼女はその分のお金、わたしが払いますから、と。

金銭に問題はありません。まさか。私にはかつての数年の「新進アーティスト」(…批評家たち曰く行方をくらまし「失踪」するまでの)蓄えと、ホスト時代のそれ、それをもとでの許宇の手に運用される不動産収入で、金銭的な不自由は在りませんでした。

案じられたのはおそらくは旅慣れない筈の蘭の心のうちだったのです。

——心配ないよ

…ね?

——だって、此の子、もう大きいし「それに、…」

…知ってる?

——顏…「綺夜宇さんといると」ね?

…綺夜宇さんといるとき

——Lan、…Lan、…ね?「幸せそうな顔する」

…知ってた?

——わたしには見せない、顏、するよ。

…もう慣れた、ね?

と。タオはさまざまに私を安心させたのでした。なにより、タオの私を信頼しきった顔の色がわたしのまなざしに、心にだに沁み込んだのはじじつです。或る愛おしいあたたかさを以て。

「此の子、ホーチミン市とダナン以外行った事ないので、つれていってやってください」

タオは言いました。

私は彼女に自分の我が侭を謝るしかありませんでした。こうして、三人でその空中都市への旅行が決まったのでした。

時は六月、降る雨が飛沫乍らに紫陽花の色に散り…というのは日本の事。こちらでは長い眞夏のそのピークの一時季に他なりません。コア運営のエージェント会社の運転手の転がすマイクロバスが私たち三人だけの旅行の足となりました。車もなにも、コアの会社に用意させたのです。

ダナンから途中ニャチャン市に一日だけより、そしてダラットを冠る山脈の山道を登るのですが、山肌をぐるぐる回るその道に標高があがるしだいしだいに風景が一變していきます。中国の昔山水にある岩肌、もっとも近いのは日本の雪舟がおもうに先行絵画のデフォルメのはてに辿り着いたに違いない幾何学的な武骨な線が、それがそのまま剝けた岩肌に曝されます。樹木はもはや髙山のそれ以外にはみられなくなり、空の低きに散れる雲のなかにその霧れる粒の雨なす周囲を超えて仕舞えば、頭の上にさらに上空の雲をのみ見せた空の上が開けます。それに至る前に、廃墟じみた荘厳を見せていたひたすらに髙い樹木の孤独の色が此処に至って痕跡さえ無く消え失せ、かわりに、見たことも無い光の色が四方に散乱するのでした。

自分の肌の上、すぐかたわらにバスのシートのかすかな靑い毛羽立ちにさえも、です。

髙山の光、それが我我を包んだのでした。

その驚嘆を顯わすに言葉は無力です。

またその光を顯わすにはむしろ愚劣に外なりません。

まるでなにもかも、そのふれるものからすぐさまに色彩そのものを奪い、褪せさせたと同時に、なによりも濃いそれら自身の本性の色の本性を暴き立てた、いわば、褪せた鮮やかさとでもいうべき見たこともない色が、ひたすらな静寂として充溢するのでした。そのときに、わたしはかつてそれなりに愛して他人事のように忘れたセザンヌ、…あの松と林檎と水浴の画家を思い出したのでした。

正確に言えば、セザンヌの絵をはっきりと、初めてこの時に見たと謂っていい。

おそらくは後の二十世紀前衛派諸子の源泉となった絵画理論の宝庫として扱われるその宝石羣は、じつはそんなもの単に雲の下の穢れた強すぎる下界の光においてのみ思考する人らの勘違いに過ぎない。

セザンヌに理論はない。彼の絵は単に写実とその失敗に過ぎない。

セザンヌに究極の、そして作家を象徴する到達点としての一枚(——レオナルドのモナ・リザ、ミケランジェロのダビデ、ゴッホのひまわり、ゴーガンのD'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)それが存在しなかったの何故か?

どれもが単に習作じみて、一向に仕上がった本当の作品らしく見える者が存在しないのは何故か?

その答えはその時に、目の前にあった。

彼はすでに知っていた、それらの光、髙山の無垢なひかりは、けっして絵筆に斬り取られ得るものなどではないことを。彼の笑筆自身は既にして失敗であり、それでも彼の眼に、そのひかりはにもかかわらず取られられねばいられないものとしてあったのだ、ということを。

故、彼は習作しか残せないない事をは知りつつ、それでも習作の群れを軽蔑しながら本当に描かれるべき一枚の絵の爲にのみ描いたのだ、と。

わたしはこの時に、自分がとりかかえるべき絵を、その主題を知ったのでした。

またたくまに無垢の、そして不可能性の光の中に一週間をすごし、そして地上に降りたとき、その荒れ狂う武骨で、下品で、貧相で、凶悪で、粗暴で、知性の欠片なく、むごたらしくも穢れた色彩に目を覆ったのでした。

わたしは日々を前以上に顯らかに倦みながら過ごしました。

もはや色彩としての魅力を無くした穢いタオはいつものように平日毎朝ホテルに來、そして蘭を預けました。

同じくにもはや色彩としての魅力を無くした穢い友人たち、その中には愛しいコアさえ含まれて、彼等はわたしの倦んだ目の爛れに油をそそぎ、いよいよ倦怠をだけ盛らせたのでした。

七月に入って、ふと思いなおしました。山の上で思ったように、わたしは実際に苦闘するべきだろう、と。

その光の、不可能の、あり得ない奇蹟の、カンバスの上の不意の定着を求めて。

わたしはカンバスを買い込み、送らせ、ホテルにもう一部屋借りたアトリエ用室内の壁をそれで塞いだのでした。

描かれるべき水浴、その続き。

その爲にさて何をし、せめて何をスケッチするという具体的なプランも無い儘倦怠と退廃を貪るうち、その日、蘭を連れて散歩に出た海辺、日の暮れ行く風景の中で

 Elle est retrouvée.

 Quoi? — L'Éternité.

 C'est la mer allée

 Avec le soleil.

日没前のダナンの海に沈む直前に

 また見えた

煌めく海に

 何?——永遠

あわい、鮮明な逆光の

 海と失せた、それ

影。黒い

 太陽…

蘭の形態に気付く。わたしは蘭に、その水浴を書くだろう、と。