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日と交はす音なき声や姫女菀

2018.05.15 13:36

日と交はす音なき声や姫女菀  五島高資

Daisy fleabanes —

exchanging greetings with the sun

without voices        Taka Goto


姫女菀は卑弥呼を連想させます。


https://minamiyoko3734.amebaownd.com/search/q/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC 【卑弥呼の検索結果:12件】


https://diamond.jp/articles/-/188631 【日本初の王「卑弥呼」の“やばい”正体とは?】より

本郷和人:東京大学史料編纂所教授 滝乃みわこ

日本史の偉人たちを「すごい」と「やばい」の2つの視点から紹介する書籍、『東大教授がおしえる やばい日本史』が話題になっている。

当初は児童書として発刊された本書だが、なんと読者の半数は大人。意外と知らない日本史の真実がウケて、18万部突破のヒットとなった。

日本ではじめて王になった“すごい”卑弥呼

 1800年ほど前、日本は30ほどの小さな国にわかれていました。そのなかのひとつが、邪馬台国です。もともと日本には男性の王がいましたが、王座をめぐる戦争が70年以上も続いていました。

 その戦争をピタリと終わらせたのが、邪馬台国の卑弥呼です。はじめての女性の王として卑弥呼が即位したところ、みんなが納得して平和な国になったといいます。

 一説によれば、卑弥呼は占いの力を使って人々を従わせていたそうですが、案外シンプルにケンカが強かっただけかもしれません。卑弥呼が何らかのすごい力をもっていたことは確かです。

 でも、卑弥呼の本当のすごさは、外国の力を利用したこと。

 239年、当時日本とは比べものにならないくらい発展していた大国・魏(いまの中国)に使者とみつぎ物を送り、魏の王様に「卑弥呼こそが日本の王だ」と認めさせたのです。このお墨付きによって、卑弥呼は邪馬台国だけでなく、ほかの国々もまとめあげることに成功! はじめての「日本の女王」として君臨します。

 これを学校にたとえると、クラスのみんなが学級委員の座をねらってケンカをしているなか、ぬけがけして教育委員会にワイロを送り、一気に校長先生になったようなもの。どうやら卑弥呼は、なかなか頭脳派だったようですね。

「卑弥呼」のここが“やばい”!

じつは引きこもりのおばあちゃんだった

“やばい”卑弥呼

 王様の仕事というと、たくさんの部下を従えて、指示をしたりするようすを思いうかべるかもしれません。

 でも、卑弥呼は引きこもりでした。宮殿の奥でひたすら「鬼道」という占いに明け暮れる日々。占いの結果を伝えるのは弟の役目で、人々は卑弥呼の姿を見ることすらできません。さらに、食事の世話などもすべて弟がこなし、お世話係の女性たちも近づけませんでした。

 いくらなんでも弟に頼りすぎですし、これではただのあやしいスピリチュアル好きです。

 ところが、当時の人々は悪天候や病気など、自分の手に負えないことを恐れていました。だから、占いで未来を教えてくれる卑弥呼のふしぎな力に頼っていたのです。むしろ、姿を見せないミステリアスさが、占いの神秘性を高めていた可能性すらあります。

 そんなイメージから、学習漫画などではあやしい美女として描かれることが多い卑弥呼。でも、魏の書物「魏志倭人伝」によると「かなりのおばあちゃんで、夫はいなかった」そうです。もしかしたら、外に出ない理由はおばあちゃんだから外出がめんどうくさかっただけかもしれません。

 卑弥呼の死後は、台与という13才の少女が王になったそうですが、その後の記録はとだえていて、邪馬台国がどうなったかはなぞに包まれています。

卑弥呼(ひみこ)

時代:弥生時代、247年ごろ

弥生時代にいた邪馬台国の女王。邪馬台国のほか、いくつかの国を治め、倭(日本)の王として、中国と交流した。

(本原稿は、東京大学史料編纂所教授 本郷和人監修『東大教授がおしえる やばい日本史』の内容を編集して掲載しています)


http://www.raifuku.net/dic/japan/jp_011002.html 【第05回 鬼道--日本最古の占い?】より

「ねーねー、神主さまあ。私たち、今までずいぶんと色々な日本の占いを紹介してきましたけど、みんな中国とか、よその国にルーツをもつものばかりですよね。日本独自の占いって、ないんですか?」

「うーん・・・日本最古の占いとして、卑弥呼の『鬼道』があるにはあるが・・・」

「あのヤマタイ国の女王、卑弥呼さんですか?」

「そうじゃ。これは、中国の歴史書『三国志』の記述がもとになっておってな」

「ああ。あの劉備とか関羽に張飛、それに曹操なんかが活躍するやつですね」

「これこれ。お前の言っておるのは『三国志演義』。正史である『三国志』を脚色したフィクション--まあ、大河ドラマみたいなもんじゃ。『三国志』は、中国の歴史書で、正確ではあるが、あまり血湧き肉躍るようなものではない」

「ああ、そうなんですか」

「話を戻すぞ。その『三国志』の中に、『魏志東夷伝倭人条』俗に『魏志倭人伝』と呼ばれる部分があり、ヤマタイ国と卑弥呼に関する記述がある。それによると、卑弥呼は『鬼道を事とし、能く衆を惑わす』存在、つまり女王であると同時にシャーマンでもあったわけじゃな」

「シャーマンって巫女さんですよね。私とおんなじだあ」

「・・・だいぶ違うと思うぞ。ともかく、この『鬼道』こそ、日本最古の占いと呼べるものじゃろう」

「具体的にはどんな占いだったんですか?」

「資料はほとんどないが・・・どうやら、鹿の骨や亀の甲羅を火であぶり、ひびの入り方から占ったらしい。このやり方は、太占として、神道の中に今も受け継がれている」

「ははあ・・・で、その『鬼道』が、日本独自の占いなわけですね」

「ところが、そうでもないらしい。同じ三国志に『五斗米道』という教団が出てくるが、これの前身が『鬼道』と呼ばれる、道教の流れを汲む民間信仰じゃ。同じ本の中で同じ名称を用いている以上、同一のものか、少なくとも非常に近いものだったことがうかがえるな」

「・・・あらららら。じゃあ、日本独自の占いと言うのは存在しないんですか・・・」

「そうとも言える。じゃが、今まで紹介してきた占いを見てもわかるように、日本はどんな占いも取り入れて、日本流に消化してきた。ゆえに、日本の全ての占いは、日本独自の占いとも言える」

「ごまかされたような気もしますが・・・」

「中国や朝鮮で政変が起こるたびに日本への亡命者が生まれ、彼らは日本へ占いをはじめとするさまざまな文化を持ち込んだ。その結果今の日本の文化があるのじゃから、我々は祖先たちの寛容さを誇るべきじゃろう。『日本人には模倣と改良しかできない』とも言われるが、ならばその模倣と改良こそが日本のオリジナリティではないのかな?」


https://www.y-history.net/appendix/wh0203-118_1.html 【五斗米道/天師道】世界史用語解説 授業と学習のヒント より

後漢末に起こった新興宗教の教団の一つ。黄巾の乱の反乱と結びついた。後の道教の源流となった。

 後漢末に、太平道と同じ頃、四川省から陝西省にかけての一帯で起こった新興宗教の教団。その創始者張陵(かつては張道陵と言われたが、張陵が正しい)は、信徒に老子道徳経を読ませ、自らを天師と呼び、天・地・水の三神に罪を悔い改めの懺悔告白をすることで病気などの悩みから解放されると説いた。教団は信徒に五斗(日本の約5升。1升=1.8リットルとすれば、約9リットル。つまり10リットルに近い※)の米を出させたので、「五斗米道」と言われるようになった。 → 後漢の滅亡

※注意 五斗の量 五斗米道の五斗米については、約1リットルとする説明もある<旧版岩波講座世界歴史5 東アジア世界の形成Ⅱ 黄巾の乱と五斗米道(大淵忍爾)1970 p.42>。山川出版社世界史用語事典(2008)では米5斗(約9リットル)としていたが、現行版(2014)では( )が消え、5斗がどのぐらいにあたるのかは説明していない。当然知りたくなることであると思うが、古代中国の単位の換算には難しい問題があるのかも知れない。ここでは各種概説書の5斗=約5升=約9リットルに従っておく。なお、wikipedia では「五斗(=500合=当時20リットル)」としているが、根拠は分からない。

 もっとも、「五斗米道」そのものが、高校教科書山川詳説世界史では、2003年の改定で消えている。

宗教国家を形成

 彼らは184年、太平道とも連携しながら挙兵し、黄巾の乱が鎮定された後も、張陵の子の張衡、孫の張魯の三代、30年にわたって存続した。張魯は漢中地方(関中と四川の中間)の地方長官を追い出して宗教王国を築き、道路の傍らに無料の宿泊所を建てて旅行者の便に供するなど、社会事業を行った。

張魯、曹操に降伏 後漢末の群雄割拠の中で台頭し、華北を平定した魏の曹操が、215年に漢中に進出すると、張魯はあっけなく曹操に降伏し、五斗米道の独立王国は崩壊したが、宗教としては魏の支配のもとで許され、その後も長く続くこととなった。

五斗米道から天師道へ

 五斗米道は指導者の張陵や張魯を「天師」と言っていたことから、天師道とも言われ、後の道教につながっていく。五斗米道から天師道への変化は次のような経過をたどった。

張魯の後の教団 張魯が曹操に降伏した際、三男の張盛は父の命によって五斗米道の第四代教主となり、父祖伝来の剣、印、経籙などをもって江西省貴渓県の竜虎山にいった。そして張陵が金丹をつくろうとした炉のあとを見つけたので、ここを本山として五斗米道を再興したといわれているが、この伝承は疑わしい。張盛以後は系統が異なると思われるので、張魯までを五斗米道、張盛以後を天師道として区別する。

孫恩の乱 張魯の降伏したのち、有力なそのその部下たちが独立してそれぞれ宗教活動を始めたので、一宗派としてのまとまりはなくなったらしい。東晋で反乱を起こした孫恩は、自分たちの仲間を長生人とおび、数年のあいだ江蘇、浙江方面をあらしまわったが、ついに敗れて海に飛び込んで自殺した(402年)。そのとき、仲間の人々はかれが水仙になったと信じて、大ぜいが続いて海に飛び込んだという。このことから、4世紀末の天師道には神仙思想が加味されたことが分かる。

Episode 中国版カルト教団の反乱

 399年、建康の東晋政府は、長江下流デルタの小作人を兵士に徴発しようとした。最も生産力の高いこの地域が騒然とするなかで、孫恩の乱が起こった。孫恩は道教系の五斗米道の信者でみずから「長生人」、つまり永遠に不死なるもの、と名のり、教団を率いて反乱を起こした。決戦を覚悟した孫恩は、信者たちにの連れている赤ん坊が足手まといになるので、これを水中に投げ込ませた。かれらには入水して永生者になるという「水仙」の信仰があった。狂信の母たちは「おめでとう。おまえはさきに天国に上るのよ。わたしもあとからおまえのところに行くよ」といいながら、子どもを水の中に投げ込んだのであった。孫恩集団は狂宴を催しながら急送に民衆の間に広がり、反乱は首都建康をも脅かす勢いになった。政府は鎮圧を北府軍に命じると、その指揮官となった劉裕は、首都の危機を救い、孫恩集団を追撃して、402年に孫恩は海に身を投じたのでいったん鎮圧された。その後も残党は盧循という者を教主として勢いを盛り返し、水軍を使って再び首都に迫った。しかし、劉裕はここでも首都の危機を救い、盧循はベトナムに逃れて、411年に死んだ。陶淵明が『桃花源記』が描いたのはこの頃のことだった。<川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫版 p.231-235>

寇謙之の新天師道から道教へ

 5世紀に入り、北魏の寇謙之(363~448)が、五斗米道(天師道)の教義に仏教と儒教の教理や儀式を取り入れて新天師道を興し、宗教教団としての形態を整えた。このころから道教と言われるようになった。寇謙之の道教は442年に北魏の国教となって隆盛を迎えた。しかし、北魏は次ぎに仏教を保護するようになり、7世紀の唐の時代には、道教は仏教、儒教とともに国家の支持を争った。

 一方の江南地方には、五斗米道以来の民間信仰がその後も残っており、6世紀ごろには各地に天師堂が建てられるようになり、11世紀までには道士や道観など、民間宗教として定着していった。

全真教と正一教 唐・宋の時代に体制的となった道教にして、華北を支配した金の時に王重陽が禅宗の要素を取り入れて改革を行い、全真教を興した。それに対して14世紀には南宋で従来の天師道系の道教が正一教と言われて民間に行われた。こうして道教は全真教系と正一教系とに分かれて勢力が二分されることとなる。

道教教団の衰退 2~3世紀の張陵・張衡・張魯の権威を継承した民間での張天師の人気はその後も長く続いた。17世紀からは朝廷との関係も薄くなり、19世にはその関係もきれてしまったが、人々の苦しみを除くと依然として信じられていた。しかし、五・四運動後は急速に衰え、天師は竜虎山を中国共産党によって逐われて上海に仮寓し、さらに第63代天師は中華人民共和国の成立直前に台北に逃げた。彼は1969年に死に、その甥の張源先が第64代天師となったが、その統制力は弱い。<窪徳忠『道教の神々』1996 講談社学術文庫 p.90-94>