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対馬の豆酘

2018.05.15 15:15

長崎県対馬の南端、海の幸に恵まれた里に、不思議なコメの神事が伝わります。6月、神様の田んぼで田植え。この田から収穫された米は赤米さまと呼ばれ、漁師の守り神になります。

http://www.tukinohikari.jp/jinja-nagasaki/tushima-takuzutama/index.html  【天道山と呼ばれる竜良山(たてらさん)遥拝所豆酘の多久頭魂神社】 より

ご祭神

 天照大神、 天之忍穂耳命、 彦火能邇邇芸尊、 日子穂穂出見尊、 鵜茅草葺不合尊

【境内由緒】

 神武天皇の御代天神地祇を祭らせ給ふところの社なり。即ち勧請は神武天皇元年なり。

 神籬磐境の社にして是の遥拝所は神佛習合、天道信仰時代の堂宇をそのまま拝殿となしてゐる。

 又神功皇后三韓に向ひ玉ふ時に諸神を祭り拝し給ふ処の社にして延喜式神名帳に載るところの社なり。

 貞観十二年三月五日従五位下を、其の後叙位ありて正四位下を授けられる。

 例祭 十月十八日


http://www.tukinohikari.jp/jinja-nagasaki/tushima-tudu-ikatuchi/index.html 【亀卜を唯一伝承している豆酘の雷(いかつち)神社】 より

 亀卜は亀の甲を一定の作法で焼き、生じたひび割れによって吉凶を占う方法である。

 対馬豆酘の岩佐家は、亀卜を世襲する家筋で、「亀卜伝義抄」を伝え、今日なお旧暦正月3日の雷神社の祈年(としごいの)祭(まつり)に奉仕している。

 対馬の卜(うら)部(べ)は、壱岐や伊豆の卜部とともに古代には宮中の祭祀に関与していたものであるが、亀卜習俗の伝承は今日ではここのみとなった。

 そのため古代の民俗知識を伝える貴重な資料として記録保存を行うため国から選択された。

ご祭神 雷大臣。別名中臣(なかとみの) 烏賊津(いかつ)使主(のおみ)。

中臣 烏賊津(なかとみ の いかつ)は『日本書紀』等に伝わる古代日本の豪族。

中臣鎌足など中臣氏の祖先と言われています。

 『古事記』に記載はない。

祭神の雷(いかつち)大臣(おおおみ)命(のみこと)

 中臣烏賊津使主(なかとみの いかつ のおみ)

 意美佐夜麻命の子。

 天児屋根命十四世孫、あるいは五世孫。

 神功皇后の審神者。中臣氏の祖。

 仲哀天皇に仕え、天皇が崩じると、神功皇后は

(1)烏賊津使主、

(2)大三輪大友主君、

(3)物部膽咋連、

(4)大伴武以連

 の四人の大夫に詔して喪を秘して百寮を率いさせ、 天皇の屍をおさめ、武内宿禰に奉侍させて海路より穴門に遷らせた。

 烏賊津使主は、後に皇后の勅を受けて百済に使いし、百済の女を娶り一男を生んだ。

 允恭天皇の時、烏賊津使主は天皇の命令を受けて衣通姫を迎える使者になり、 熱心に頼んで姫を天皇の后とするのに成功した。

 神功皇后新羅を征した時、軍に従ひ勲功ありて、 凱還の後、対馬県主となり豆酘に館をかまえ、韓邦の入貢を掌り 祝官をして祭祀の礼を教え太古の亀卜の術を伝えたという。

対馬の亀卜

 亀卜とは、亀の甲羅を焼いて物事の吉凶やその年の吉凶などを占うことを言います。

 私たちが日常使う漢字は、古代中国の黄河文明に生れた甲骨文字がその源流と言われますが、この甲骨文字も本来は卜占に使った鹿の肩甲骨などの獣骨や亀甲を火にくべて、生じたひび割れで物事の吉凶を占ったところから考え出されたものだとされます。対馬に伝わる亀卜は、遠くこの中国の卜占に起源を持つものだと考えられます。

 対馬では、縄文時代の遺跡である志多留貝塚からこの亀の甲が出土しています。

 対馬には、このような亀卜を行なう家は代々その秘伝が伝えられてきており、現在わかっているのは、上県郡の方から、

(1)寺山家(佐護)、

(2)長岡家(仁位)、

(3)橘家(阿連)、

(4)岩佐家(豆酘)

 ・・・の4家にのぼります。

 これらの家々には、占いの方法が書かれた記録が今も残されています。

 なかでも岩佐家は、その子孫である当代が、年頭に氏子を集めて、亀卜の神事を行なっています。


http://www.tukinohikari.jp/jinja-nagasaki/topics-tushima-azamo/index.html 【明治28年(1895年)に人が初めて住み始めた浅藻の卒土(そと)の浜】 より

神様の土地とされ、人が住まなかった卒土(そと)/浅藻(あざも)

参拝履歴

訪問日:2019年(令和元年)5月20日

対馬の豆酘浅藻の卒土(そと)の山/龍良(たつら)山

神の土地とされた豆酘の浅藻、人が住んではいけない処だった

豆酘の人たちに、浅藻は「神の土地」と認識されていて、卒土(そと)の浜と呼ばれていた。卒土(そと)の浜からキレイに見える龍良山(たつたさん)は、卒土(そと)の山と呼ばれていた。

 卒土(そと)の地というのは、魂魄(こんぱく)の領域だと考えられていたのだ。

 明治28年(1895年)、山口県大島郡から、梶田富五郎という人が、豆酘の人に無断で入植したのが、人が住み始めた端緒だという。

 豆酘の人たちは「浅藻は神の土地なので、売ることはできない」と主張し、現在でも、浅藻の土地は、豆酘の借地になっている。借地の住所地は「豆酘浅藻10番地」になっている。

 明治28年(1895年)という年の、4月に日清講和条約が調印されている。

 日清戦争とは、1894年7月25日から1895年4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。

(※) 令和元年5月16-19日の聞き取り。

谷川健一編『日本の神々1九州』(白水社)PP52-53

 豆酘の枝里浅藻の地は、かつては無人の境で卒土と称した。前に引いた天道縁起に、「卒土山のおとろし所」とされた聖地は、この浅藻の奥の龍良山(天道山)中腹の森である。

 千古の原生林に囲われたこの秘境は、真昼でも怖気を感じるほどもの寂しい。そこにピラミッド状に石を積み、緑苔を生やした檀(搭)があり、俗に「八丁郭」と称して天道法師の墓というのは、おそらく「タッチョウ(塔頂)」の意と解される。頭頂とは仏教でいう聖者の墓所であるから、天道法師の墓とするのにふさわしい。

 しかし、この信仰が仏教と習合する以前の、古神道の原型を考えるとき、卒土という名称が千古の響きを伝えてくれる。

 それは三世紀ころの『魏志』東夷伝の韓の条に、

 鬼神を信ず。国邑に各一人を立て天神を主祭し、之を天君と名づく。又諸国各別邑有り、之を名付けて蘇塗(そと)と為す。大木を立て、鈴鼓を懸け、鬼神に事(つか)う。諸亡逃れて其中に至れば、皆之を還さず。

 とあることから、

(1)韓伝の蘇塗(そと)と豆酘の卒土(そと)が同音であること

(2)卒土(そと)が豆酘の別邑であること

(3)この聖地に逃亡したものは追捕されないこと

 ・・・韓伝の蘇塗(そと)と豆酘の卒土(そと)には類似性がある。

 そこで、卒土山の「おとろし」所とは、本来鬼神を祀ったところと考えられる。

 鬼とは『説文』に「鬼。人の帰する所を鬼と為す」とある。

 また『正字通』には「鬼。人の死して、魂魄を鬼と為す」とある。

 鬼とは、本来死者の霊魂である魂魄の「魄」であった。

 鬼神とは王者の祖霊を意味したもので、周の武王は鬼神に能く事(つか)えたというが、邪馬台国の女王卑弥呼も能く鬼道に事(つか)えたことが知られている。

 そこからして、豆酘に居住した対馬の古族が、邑の境内に天神(あまのかみ)を祀り、境外(卒土)に鬼神を祀った状況が追跡できる。

(※)後世、鬼が妖怪に堕ちたとき、「鬼は外」と呪言を唱え、追放されたのも、何か因縁を感じさせる。

 豆酘の葬送習俗。

 豆酘の葬送習俗として、葬礼より七日目の朝、外見(卒土見)と称する儀式があった。すなわち、卒土の浜が見える峠まで行って、

「ソト見にきました」

 と唱え、後ろ向きに路傍の木の枝などを投げて帰ったという。

 このことは、神話のイザナギ命が、黄泉国に亡妻イザナミ命を見に行って、鬼に追われて逃げ帰った状況を想起させるものがある。