東洋医学の体質
漢方を学んでいても、体質が「虚」とか「実」というような表現がされますが、それは何か基準があってこそですが、時代によっても、その表現は変化してきます。
栄養状態が良くなった今の日本と昔の日本では大きく違ってくるでしょう。そのあたりを考慮して古典を読む必要があるのだと思います。 だからこそ、私が東洋医学を学んだ時に一番悩んだのは基準の概念です。
基準がないのに「虚」や「実」は絶対に決まらないと思ったからです。しかし、その基準は、人によって違うし、その基準が時代背景によっても違いがある訳ですから、昔の書物である古典が必ずしも参考になるとは考えられませんでした。
やっぱり重要なことは個々で調べなければ意味がないだろうということを思って仕事をはじめたのを記憶しています。 今となっては経験を積んでいるので赤ちゃんのお腹が基準と言われても感覚的にある程度理解できますが、何の経験もない時に、こういう言い方をされても絶対に理解することはできません。その時に一番大事に思ったのが、まずは、そんなものなんだと受け入れることからはじめました。
基準を作らないと絶対に正常と異常を決めることはできない訳です。 それでも経験を積むと何となくわかってきます。この何となくわかってくるということが東洋医学にはとても重要なのです。
何となくで人の身体を診て良いのかという気持ちがありましたが、実際は、どんなに丁寧な説明をされたとしても、最終的には完全に解明するまでには至っていない訳です。
東洋医学だけではなく現代科学でも全く同じです。確からしいと言うことは言えるし、納得できる部分もあるのですが、納得できないことばかりが目立ちます。
私にとって医学の中で一番納得いくのが解剖学です。なぜかというと、解剖学は変化しないからです。何故このような形をしているのかを説明しようと思っても完璧にはできません。様々な理論は全てが仮設です。
距骨が何故こんな形をしているのかを説明できる人はいないでしょう。そして全体重をこんな小さな骨で何故支えなければならなかったかも全くわかっていません。
どれだけ説明しても単なる仮設にしか過ぎません。しかし、現存するからこそ疑う必要のない事実なのです。
解剖学者の養老孟司先生がおっしゃっていた言葉は、滅茶苦茶納得いく答えでした。それは、
「わからないことを頭に抱えておく辛抱がない」
という言葉です。 これは本当に良い言葉だと思います。まるまる受け入れるしかない。一見学ぶことを放棄したように思える言葉に思えるかもわかりませんが、答えられるはずがないものを答えようと思うことは本当の学問ではないと思っていました。それを一言で言い表してくれているように思います。赤ちゃんのお腹の硬さを基準にするというトンデモない基準を受け入れるしかなかったのを思い出します。
なんでもわかっているかのように振る舞う人間が傲慢になって物事が解決するはずがありません。相手は自然なんですからね。
昆虫採集を趣味としている養老先生ですが、何故こんな形をしているのか全くわからない。わからないから、それを受け入れるしかない。と言ってました。
本当にその通りだと思います。 確かに説明しようとする努力は必要です。私もそう思います。しかし、最終的には、説明できるものではないと誰しもわかっています。
それを受け入れる器量がないと、まるで自分が世の中の全てがわかっている神にでもなったようになってしまうのです。
だからこそ、勉強すればする程、わかっていないことはないと言わんばかりの勢いになってしまいます。そんな学び方が正しいとは到底思えません。
それは本当に正しいのか?
それを振り返る器量が学問には絶対に必要だと思っています。そういう立場で現代科学をみてみると科学の意味がもの凄くわかってきます。
それは、現在わかっている知識の中では、仮設として正しいとする。
ということです。
わかっていることが少ないのに絶対に正しいと言えるのかという質問を常に投げかけなければ発展はありません。知識は過去の産物です。明日になったら変わっています。しかし、現存するものは明日になっても変わっていません。 だから解剖学はもっとも信頼できる医学だと私は思っています。もちろん、形あるものは変化します。それでもスピードがゆっくりです。
それを利用して何をすることができるのか?
常識に囚われないで、どうすれば良いのかを考えていくと、思わぬことが起こります。
それがまた不思議で面白いから興味がつきることがありません。 東洋医学も全く同じです。力説すればする程、本質からは離れてしまいます。
常に、わからないことを知って、それを受け入れている。
それしかない。
だからこそ常に疑っています。
虚と実って何?
前提を疑います。
そうすることでしかわからないことが一杯ある。