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文芸風前会

自己中心的世界より

2021.05.16 01:01

切符


「……え」

 ぽつりと零れるような声を聞き取ったのは、スマートフォンの投稿完了の画面を見送ったその直後であった。散り切った桜の花弁が舞い踊る時期もとうに過ぎ、只生温い風が自分の髪と首の隙間を縫って抜けていく。花弁の代わりに踊らされる自分の伸びた髪が視界で揺れるが、異様に近くに立っていた彼の姿に釘付けになった自分には、髪を耳にかける余裕など無かった。

「あ……お疲れ様」

「お疲れ様です」

咄嗟に口から滑り出した業務上の挨拶に、彼が仰々しく返す。彼の瞳が妙に揺れているのは、ただ単に自分と対面したからという理由では説明がつかない。自分が振り向いた瞬間、彼の視線は明らかに自分のスマートフォンにあった。

「風見くんもあがりだっけ?」

「あ、そうっす…今日は先輩と同じで」

「そうなんだ。珍しいね」

薄っぺらい会話が偽の笑顔の口元から滑って伸びていく。彼はスマートフォンを片手に固まったまま、依然として自分を見下ろしていた。彼のスマートフォンの画面は、確かに自分が先程投稿したSNSと同様の画面を開いているように見える。思考が絡まり、唐突に煩くなった心音に耳を塞ぎたくなる。まさか。この距離で投稿画面まで見られる訳が無い。自己防衛のような声が過り、落ち着かせるように一つ息を吐き出した。

「じゃあ……お疲れ様」

「そのアイコン」

小さく肩が震える。

「見えた?」

「ちょっとですけど。もしかして、ローマ字で、サキって人……いつも写真あげてる。合ってますか?」

 思わず息を飲んだのは、自分のSNS上でのユーザー名をまんまと当てられたからでは無かった。この問いに対してどう答えるのが最善であるのか、それがどうにも思いつかなかったのである。一秒の沈黙が何分にも感じ、慌てて口を開いたはいいがやはり返答は出てこず、冷や汗をかきだす頃になって漸く、彼が思い出したように口を開いた。

「あ、友達の友達がフォローしてて」

「と……友達?ええ、そうなんだ」

「回ってくる写真が好きで、俺も……最近フォローしました」

「……へ~」

「先輩だったんすね」

 直ぐに否定をしてしまえばそれで全てが済むはずだった。想定外の出来事が想定外の人物と起こってしまったが故に、自分はあまりに困惑していたのだ。脳内では二つの選択肢が風に舞うように踊っていた。このまま馬鹿のような会話を続け、隙を作らず去る。もしくは、何か真っ当な言い訳を今すぐ考える。合っていた筈の視線は自然と地面に向いていて、視界にちらちら揺れる落葉を捉えて初めて俯いてしまったことに気が付いた。

「……あの」

声を絞り切る前に彼の口が動く。

「水族館行ってきたんですか」

唐突に放り込まれた皮肉を、聞き逃すことが出来なかった。


自分が週末にコンビニでバイトをしている最中、自分は水族館に行っている事になっている。

 先週はディナー。その前は花見。その前は、と頭を巡らせている内に、来週の分の写真を決めかねていたことを思い出した。ぼうっとしたまま風呂から出ると、スマートフォンの画面に友人からの着信履歴が光っているのに気付く。部屋着に着替えて電話をかけると、イヤホンを耳に詰めた。

「ごめん、お風呂入ってた。どしたの?」

『三咲、聞いて!彼氏がさ、……』

 陽気な声を聴きながら、足を引き摺って台所へと向かった。マグカップの用意をしている最中も、次の写真の候補が頭を幾度も過る。写真のデータが残っている昔のパソコンを立ち上げて、自分のスマートフォンへと移す作業にも随分慣れたが、何かもっと効率の良い移し方があるのではないだろうかと毎度思う。イヤホンから流れる通話先の友人の近況を、まるで台所のBGMのように聞き流しながら、インスタントコーヒーの粉が詰まったパックをマグカップに引っ掛け、ゆっくりと湯を注いだ。いくら悩んだところで相談できる者が存在しないのだから仕方が無かった。

『三咲、この前話してた水族館行ってたね!』

 突然、友人が声を荒げる。湯を注ぐ手が無意識に止まると、水分を吸収したインスタントコーヒーの粉が泥のようにべとりとパックに張り付いた。

『羨ましいなって彼と話してたら、今度私も連れてってくれるって。三咲のおかげだよ、ありがとー』

「ほんと?良かった。きっと楽しめるよ」

『楽しみにしてる!それにしても、やっぱり三咲の写真はキレイだよね~』

 冷たい台所に立ち尽くしたまま、カップにぽつぽつとコーヒーの液が垂れる音が響く。写真の話はつい昨日聞いたばかりだった。脳裏に浮かぶ黒い瞳に、足が重くなる。

 彼は数カ月前に自分が働くコンビニに入ってきたバイトの新人だが、口数は少なく、突然喧嘩を売るような馬鹿な真似をする人間では無かった筈だった。しかし、あれは皮肉だったのだろうか。そうとしか思えない。昨日彼は、バイトあがりにスマートフォンの画面を見て自分の投稿に気付いてしまったのだろう。あの後、皮肉を聞いて言葉を失った自分を見た彼は、お疲れ様ですと一言小さな声で呟いて、まるで何も無かったように去って行った。彼はどう思ったのだろうか、ついさっきまで水族館で遊んでいた偽装をして投稿をしていた自分を見て。否、彼がどう思ったか等どうでも良い事なのだ。

 彼は自分をからかうような真似をした。それが許せないと感じた。これが紛れもない本心である。

『三咲、聞いてる?』

 友の心配そうな声にハッと視界が戻ると、滴っていたコーヒーの雫はとうに止まってしまっていた。



 暖かくなったといえど北風が吹けばまだ肌寒い。胸の辺りまで伸びてしまった黒髪を一つに束ねていると、無防備に晒された首元から全身へと寒気が巡った。思わずぶるりと身震いするが、店内に戻ったところで季節を先走ったクーラーが効いて余計に冷えるだけなので、こうして外で大人しく掃除をするのが最善の策である。つい最近陽の光に照りつけられ夏の訪れを予期したばかりであったのに、どうしてこうも自分が仕事に入る日には風が吹き荒れてしまうのか。

 あれからおよそ二週間が経った。例の彼とは偶然か必然かシフトが重ならず、連絡する手段がある訳でもなく、あっても連絡する意味など毛頭無いが、どちらにせよお互い何の会話をすることもなくここまで過ごしてきた。人間には忘却曲線というものがあり、無意味な事象は一時間後に半分、六日後に四分の三は脳から零れ落ちていくそうだ。自分にとって無意味でなくとも、彼にとってあんな些細な出来事は無意味に等しい筈である。自分は腹を立てていることを自覚した。かといってその感情に適応した態度を取る必要は無く、何よりも無かった事になっているのが現状で一番良い結果であるという結論に辿り着いた。

「…はよっす」

 分厚いパーカーを着て遠くよりこちらに向かって歩いてきた彼が、すれ違いざま制服姿の自分に会釈をし、決まりきった挨拶を口にする。視界の隅に捉えた時から幾分か心音を自覚していた自分は、挨拶を返す隙も与えず何食わぬ顔でコンビニの中へと入っていく彼を、只阿呆のように見つめる事しかできなかった。返事を返したところで聞く気もなさそうだったので、まあ良いかと開きかけた口を閉じる。掃除用具を持って、彼の後に続くようにコンビニ内へと足を進める。

 ここからシフトを交代するまでの三時間、どう過ごすべきか。背の自動ドアが閉まる瞬間、ヒュウと足掻いた風の音が聞こえた。


「今日、風強いね」

 コンビニ内の業務は多く、逃げる事等いくらでも出来た。敢えて話すことで完全克服へ繋がると判断した結果の行動であった。彼とは今後もシフトが被ることが多い、毎度毎度妙な緊張感を持つのは酷く疲れるだろう。本音を言えばあの日の言葉が皮肉であったのか、今すぐにでも問い詰めたいが、自爆するなど以ての外、せめて先に忘れているかどうかを把握しておきたい所である。

「そうっすね」

「これから雨降るらしいよ。風見くん、傘持ってきた?」

「はい。オレ今日夜までなんで」

「私持ってくんの忘れたのよね。あと三時間、降らないでくれ~!」

「降ったら貸しますよ」

「え」

 思わず口から零れた、戸惑いと軽い拒絶が籠った小さな声を、彼は聞き取ったようだった。滞りなく流れる川の水が突然せき止められたような沈黙に何を察したか、彼がちらとこちらの目を見る。否、探る、と言った方がよっぽど正しいのだろう。探るように彼を見ていた自分と目が合うのは至極当然の出来事であった。

「こないだの詫びです」

 その声に、自分の肩が震えた気がした。

「……なにそれ」

「生意気なこと言ったんで。すんません」

「何の話……、……いや」

 誤魔化すにはあまりに滑稽すぎる。

 消え入りそうな声で誤魔化しの文頭を否定する言葉を吐き出すと、特別に意識せずとも自然と片手が自分の額を抑える。掌から伝わる冷気で幾分か冷静になったような錯覚を起こし、頭の中で現状を整理し始める。彼の詫びはこの間の皮肉の話であるとしか思えなかった。寧ろあの出来事以外に思いつく大層な会話が無かった。やはりあの日見られており、あの言葉は皮肉であり、今も忘れておらず、ご丁寧に謝罪を添えてきたのである。ここに来て言い訳は無意味と悟る。

「バレちゃった」

 頭を回して出てきた自分の言葉、自ずと張り付いた笑顔に心底嫌気が差した。

「……言いふらしたりしませんから。別に、オレ」

「私も言うなんて思ってないよ」

「そうですか」

「大体君、友達いないでしょ」

「……」

 口から衝いて出た言葉が無礼である事等重々承知であるが、不本意とはいえ自分の本性の欠片を無断で見られたのだ、多少の仕返しは許されるだろうと奢った自分の考えから零れたものだった。沈黙から小さな動揺を読み取れない事も無いが、彼はもうこちらの瞳を探ろうとせず、ただじっとレジの前に立ち尽くすのみである。

「怒った?」

「怒ってないっす」

「ごめんね」

「事実なんで。……ちょっと驚いただけです」

「私がそういう事言うのが?」

「はい」

「お返しにちょっとね。だから傘はもういらないよ」

「降ったらどうするんすか」

「走って帰る」

 そうですか、と小さく呟いた彼の表情を盗み見るが、どうにも感情は読めない。読めないものを読もうとしてもどうしようもない。只、無駄な時間を浪費するのみである。客の来ないこのコンビニのこの時間帯では始終無駄な時間のようなもので、時間の価値としてはこれまでと比較しようが変わりようも無いのだが。兎にも角にも、目的とする現状の把握は無事遂行できた訳で、彼の性格を鑑みても今後の仕事にも支障は出ないだろうと判断する。不意にレジから動くと、彼が一瞬肩を揺らしたように見えた。

「じゃあ…品出し行ってきます」


 単調な仕事をしていると時間が短く思えるのは、作業に余裕を感じた自らが頭の中を整理するからなのだろうか。ラッシュもとうに過ぎている、客は案の定稀にしか来なかったが、他の時間は軽い業務を行っていれば時を待つのはそれほど苦痛では無かった。それどころか必要最低限の業務上の会話をしたことで、以前の関係を取り戻したような気さえしていた。

「あ、そこの水替え、もうやっときました」

「え!?いつ?」

「先輩が裏入ってる時です」

「そっか、全然気付かなかった。裏も私が品出ししてる間に整理してくれてたでしょ。ありがとね」

 店内の壁時計に視線を移すと、針はもうあと数分程度で三時間の経過を証明しようとしていた。そろそろ次のシフトの交代が来るだろう。仕事を切り上げてレジに戻ると、時間の経過と共に解れた頭が最後の仕上げにと話題を探し始める。初め多少なりとも緊張の走った様子で切り上げてしまった話題だ、ここで敢えてもう一度掘り返し、軽く笑い話に持っていける程度にまで引き上げられれば及第点だろう。

「いやー、しかし風見くんって本当優秀だよね。仕事が丁寧で、真面目だし。しかもその上優しいときた」

「……そんなことないっす」

「謙遜しないでよ。……だって、私のウソだって、さぁ。普通引くよ?バレたのが風見くんで良かったな」

「ウソばっか」

 言葉の意味を完全に理解する前に饒舌な口が固まったのは、普段呟くようにしか喋らない彼の声がハッキリと聞こえたのが原因だった。

「……は?」

 頭が追い付いて思わず吐き出した声に反応するように、彼がこちらを向く。

「怒ってるなら、怒れば良いじゃないすか。なんでそんなに頑張るんですか」

 透き通った声は、耳から頭の奥へじわりと染み込むような心地であった。これもまた皮肉か、もしくは彼こそ怒っているのかと一度過るが、黒い瞳は真っ直ぐに自分を映していて、奥に揺らぐ打算は見えない。彼が純粋な疑問として本心でそう口にしているのだと、何の疑念も無くそう思えたのは、これまでの言動から彼の人間性を少しでも理解してしまっていたからであろう。目を合わせている時間が妙に長く感じ、思わず目を逸らすと、自動ドアの向こうで吹き荒れる風に巻き込まれた葉がヒラヒラと舞っている様子が視界に入った。

「なんでって……」

 ぼうっと葉の予測不能な軌道を追いかけながら、問いを何度か脳内で反響させてみるが、咄嗟の言葉がどうにも思いつかない。挙句の果てには、問いに対する怒りすら覚えてくる。怒りを自覚すると、今度は返す文句ばかりが流暢に思い浮かび、尚更口が開けなくなった。この感覚をどこかで覚えていると明後日の方向へ思考が進むが、この間の彼との対話に辿り着いたところで直ぐに落ち着く。

 小さな沈黙の中、終ぞ口から先の言葉が零れる事のないまま、単調な機械音と共に自動ドアが開いた。

「あ」

 風が内へ吹き込み、束ねた髪がゆらりと揺れる。同時に入ってきた女が次のシフトの彼女であることを確認すると、自然と視線の先が時計へと移る。長い三時間がようやく終わった事を悟ると、心の内に胸を撫でおろした。つい先程まで何の問題もなくやり過ごせていたのに、時間が最大の油断となったか、最後の判断が間違っていた事に強く後悔する。

「交代だね、あはは。あれ、まだ雨降ってないよね?良かった良かった」

「先輩」

 目も合わせぬままに控室へ戻ろうとしたところで、背より声をかけられる。行動は幾分か予想してはいたが、想像以上に声に圧が籠っていたので、先に反応した体が足を止めてしまい、振り向かざるを得なくなってしまった。

「傘はいらないよ」

「今度ご飯行きませんか」

 彼の瞳が再び自分を捉える。

 その言葉の羅列を理解する前に、時計の針の音がひとつ聞こえた気がして、自然と口を開いた。

「それは脅し?」

 彼はそうだったのか、だからこうなったのか、もしくは、だからこうならなかったのか、と、色々な思考を回すことは出来たのだと思う。しかし何かを考える前に、只必然のように言葉が出た。咄嗟に零れた声、恐らくこれが自分の本音なのだろうとどこかで腑に落ちた。自らの発想の感情的な乏しさに嘲笑さえ湧いてくるが、決して表情に表れることは無い。

「……それでいいです」

ぽつと独り言のように呟いた彼は、軽く俯いていた。



 入院していた父の容体が悪くなったと連絡を受けたのは、翌週の木曜日、大学の午前の講義が終わった直後だった。用意していた弁当を開くことなく病院に向かうと、そこには酷く瘦せ細り、意識混濁し酸素マスクを着けられた父の姿があった。医者から感染症の可能性が高いが命に別状はないと、自分を落ち着かせるように淡々とした声色で説明を受け、そのまま午後の授業は受けずに病院に残った。病室には慌ただしく看護師が行き来していたが、当然自分にできること等何一つとして無い。病室の窓から木々が揺れる様子を暫く眺めていたが、その内面会時間の終了が近付いたのか、新人らしい看護師が一人で自分に声をかけてきた。何を言われたのか朧げにしか把握できなかったが、その言葉の裏に帰って欲しいという意図が含まれている事に気付いていた。しかし今更午後の授業を受ける気にもなれず、家に帰る気すら起こらない。そのうち随分と貫禄のある看護師がやって来たので、渋々腰を上げる羽目になった。

 病院の外に出ると、辺り一面がいつの間にか橙に染まっている。夕日がジリジリと背中を焼き、自分は酷く重たい足を引き摺るようにして歩いていた。橙色のベンチに座り込むと、何気なくスマートフォンを開く。『新しい友達』という嘘だか本当だか分からない文字の下に、最近交換したばかりの連絡先が上がっている。その名を視線で幾度かなぞる内に、自然と指先がなぞっていたのは、明確に意識に付随した行動では無かった。


 自分の膝に肘をつき、重い全身を支える。視線の先には取り残されたような緑の落葉があった。自分が何故こんなことをしたのかはよく分かっていた。分かってはいたが、上手く言葉に起こす自信は到底無い。不意に、足元の落葉が動く。顔を上げると、橙の木々がざわと声をあげた。

「……来た」

 夕日を背にして、彼が自分を見下ろしている。自分の阿呆のような呟きが、風に乗って彼の元へと届いた。

「呼んだの先輩でしょ」

「うん」

「なんで呼んだんですか」

「呼べばくるかなって思ったから」

「……呼ばれたんで来ましたよ」

 彼の髪は日に当てられ橙に染まっていた。瞳の奥の感情は未だ見えない。

「何かありましたか」

 今日はバイトは非番なのか、どうやってここまで来たのか、どうして来たのか、滑らせるような会話は山程あったが、その一言で全てが壊れたような気がした。ここに来て尚無意味な会話を続けようとしたところで、彼からすればその全てが虚言だと感じるのだろう。それを否定する程の気力も体力も今の自分は持ち合わせていなかった。

「水族館の写真」

 小さな声が零れると、流石に聞き取り辛かったのだろうか、彼が一歩スニーカーをベンチへと前進させる。コンクリートと靴の擦れる音がやけに大きく響いた。

「あの水族館の写真、お父さんが撮った写真なの、十年前に」

「そうなんすか」

「そう。他も、バイト中に行ってることになってるとこ全部、お父さんと行った場所の写真。……生きてるけど」

「……へえ」

「まあでも……体弱くてね。色んな病気合併してるんだけど」

「はい」

「さっき急に調子悪くなったとかで」

 彼が口を噤んだような気がした。

「それが無くても、前から弱ってきてて……。お母さんは昔に離婚してて、今は再婚してもう新しい子供がいるの。だからたぶん私、その内一人になるのよ。今じゃなくても、その内」

「……」

 同じアルバイトで働いているだけの赤の他人に自分の家族を晒すのは、随分と妙な気分だった。ぽつりぽつりと呟く言葉を選ぶ脳内では、あまりにらしからぬ自分の姿を責める理性が本能と取っ組み合っている。彼が只の鬱憤の捌け口であると自覚しても尚、他人に迷惑をかけることを止められなかった。

「お金が足りなくて、バイトしてるって、知られたくないの。毎日遊んで楽しそうだって、思ってて欲しいの。お母さんの新しい家族に」

 強くなる語気に己の弱さを感じ、恥じる。止めろと理性が叫んだ。

「どうしてですか」

「バレたらお金くれるから」

 惨めだから。

「そのうちウソ吐くこともなんとも思わなくなって。何か、いつも何も思わなくなって」

 惨めだ。

「でも風見くんと会うと何かすっごく腹立たしくて。あの日から、ずっと」

「……ええ」

「だから私、まだこんな感情あるんだって、安心する……」

 だから呼んだ、と言う前に口が閉じたが、予測はできただろう。俯いた顔を上げることは到底できない。彼はただ座り込んだ自分の目の前に立ったまま、動かなかった。

「そんな簡単に、感情が消える訳ないでしょ」

「消えるかもしれないから」

「消えませんよ」

「今…頑張らないと消える」

「消えないって」

「怖いの」

「……」

 彼に返す言葉が無いのは分かっている事だった。何かを返されたところで、自分が困るだけである。俯いたまま自分と彼の足元を見ると、彼のスニーカーの橙色が幾分か濃くなっているような気がした。あと数刻で陽が落ちるのだろう。

「なんで私の事好きなの」

 無意識に口から飛び出したのは防衛本能だろうか。

 あまりに唐突な問いに、彼が刹那に息を飲んだ。

「……ちょっと急すぎませんか」

「違うならいい」

 彼のスニーカーは微塵も動かない。動けないと言った方が正しいのだろうか。踵を返して離れていくのならばそれで良いと思っていたし、むしろそれが良いと感じていた。同時に、彼が踵を返すことなど有り得ないだろうと、どこかで高を括る自分を無視できなかった。

「違う世界の人だと、思ってたんです」

 自分よりも小さいのではないかと思うほど、弱々しい声が微かに聞こえてくる。

「先輩は、誰から見ても明るいし、優しいし。自信もあって、明らかに陽の人間というか……。そういう人だと思ってたから、オレとは縁がない人だって」

 相も変わらず不愛想だが、普段の声よりかはよっぽど感情が籠っているように聞こえるのは自分の都合の所為だろうか。聞き漏らさぬようにと、少しでも耳を近付ける為に顔を上げると、彼は視線を落とし自分のスニーカーをじっと見つめていた。

「でもあの時……初めて、怒った顔見て。それ見たら、あの時のあれはウソだったんだって、なんとなく分かるようになった。その後も先輩、オレと会うとずっとどっかで怒ってんのに、それ隠そうとするし。そうやって色々足掻いてる先輩見てると……結構、オレと同じなんだなって、思ったんで」

 透き通った声に合わせて、ぎこちない言葉の羅列が続く。

「同じなんだったら、頑張ってて、偉いから」

 不意に風が止む。

 自分はその瞬間、ある事実がストンと腑に落ちた。

 彼に対して感じていた怒り。それは至極単純な事実であった事にようやく気付く。

 彼は似ているのだ。

「馬鹿にすんのもいい加減にしろ!!」

 気付いた時には口から怒号が飛び出していた。

「え」

 彼の唇からぽろりと零れた声色から、大袈裟に思える程の戸惑いが見え、自分が唐突に酷い口調で叫んでしまった事に漸く気が付く。唐突に立ち上がった自分を否が応でも見る事しかできなかった彼と、真っ直ぐに目が合った。何を言われたのか理解できなかったのだろうか。彼は目を大きく開いてから瞬きをひとつして、自分の睨むような視線にようやくおかれた状況を把握したらしかった。初めて瞳を揺らし、自分を恐れるような素振りを見せる。橙のスニーカーが一歩後ろへ後退した。

「その、オレは……オレよりよっぽど凄いって、」

「それが馬鹿にしてるって言ってんだよ!お前、下にいるフリして最初っから人のこと見下してんだよ!世界が違う?同じ空気吸ってんだろ、馬鹿が!自分が他と違うって思ってる時点で自己中なんだよ!勝手に重ねて勝手に称えて完結すんな!!」

 止める事ができなかった。

 考えている暇が無かった。

 粗末な言葉だ。自分の怒号に、信号待ちの老人がこちらに顔を向けたのが分かった。カップルの喧嘩に偽装したとしても少々やり過ぎな声量と言い様である。血が上るとはこういう事なのだろうか、頭が熱くて仕方が無い。馬鹿な事をしているのは十分すぎる程に理解していた。

 沈黙が続く。響く心音を抑える深呼吸が、震える。

「……く、口悪……」

 どれほどの時間が過ぎただろうか。驚愕して完全に言葉を失っていた彼が、唐突に声を絞り出した。その想像に反した至極平凡な言葉に、良くも悪くも頭が覚め、全身を巡る血が沸騰しそうな程であった熱が手の平を返すように引いていく。

「嫌いになった?」

「いや……」

「あ、そ」

 踏ん張った足から漸く解放された自分のスニーカーが彼に向って、一歩前へ進める。彼が背筋を強張らせるのが分かった。不思議と軽くなった足をそのまま先へ進め、彼の横を素通りすると、固まっていたらしい彼の緊張した表情はもう見えなくなる。関係が元に戻る事は二度と無いのだろう。今後気まずくならないようにと会話をしたのが契機であった筈なのに、殊更気まずくしてしまっている事実に嘲笑さえ覚えるが、後悔の感情は無かった。むしろ、不思議とこれまでの全てが今日の為の会話であったような気すらしていた。

「笑った顔が好きです」

背に声が響く。

「……これが本音っす」

スニーカーが止まった瞬間、びゅうと大きな音と共に髪が浮き上がった。


風見くんは、バイトに新人として入ってきた当時、少女漫画に出てくるヒーローのような苗字だとバイトの女子の間で密かに話題になった後輩だった。実際に会ってみたら、苗字から連想される爽やかさは微塵もなく、むしろ所謂ヒーローとは程遠い人のように思えた。仕事はこなすが、不愛想で必要最低限の会話しかしない。どこか自分を卑下する様子に、出来の良い兄か弟がいそうだと思ったら、後日兄がいると知り、見事に予想が的中していたことが分かった。それ以上の感情など微塵も無かった。只、それだけだったのだ。


「もう、難しいな」

誰に聞かせるつもりもなく零れた独り言は、陽が落ちた空へと消えていった。



「三咲」

 病室のドアを開けると父が眉を下げ、笑っていた。

「……お父さん」

「よく来たなあ。ありがとう。お父さん倒れてた時も、ずっと居てくれたんだって?」

「だって、いつ死ぬかわかんなかったから」

「ははは、酷いな」

 更に口を開けて笑う様子に、不意に二週間前の酸素マスクがついていたあの日の病室の様子が脳裏に浮かぶ。父にとっては笑い飛ばせるような出来事であっても、既に自分の頭には焼き付いてしまった光景であることを悟り、そして尚病室に固執していく。

「でも、もう大丈夫だよ」

「本当かな」

「本当だって」

「いつもウソばっかりでしょう」

 我儘を言うような声が出ると、父が口を開けたまま少し考えるように間を置いた。言いたい訳では無い言葉が当然のように零れていき、自分が別の人間に支配されてしまったかのような錯覚に陥る。

「……ごめんね。三咲の笑ってる顔が見たくて」

父は暫く返事を探していたようだが、観念したようにひとつ息を吐いた。

「でも、今回は本当なんだよ。薬がよく効いたんだってさ。先生に聞いてみればわかる」

「わかったよ。……気にしないで。ごめん、このところ変で」

視線を床に落とし、自分のお粗末な言い訳に苦笑する。無事であった父親に対して言うべき言葉が言えない理由を、考えれば考える程に黒い糸が重なり散らばり、絡んで膨らんでいくようだった。

「……昔、よく怒られたな。」

 誰と言わずとも分かった、その話に思わず顔が上がる。

「お前は優しいフリした自己中なんだよ!って、啖呵切られてさ。父さん、初めて見た時かなりビビっちゃったよ」

「……だから離婚したの?」

「違うよ。むしろそこは好きだった」

「じゃあ、なんで」

「それについては、沢山話したろ」

「よく分からないから、いつも」

「お互いに、大事にしているものが少し違った。でも、俺は母さんの事が好きだよ」

 父が自然と母の話をするのなんて、何時ぶりだっただろうか。記憶を辿ってみても、どうにも思い返せない。思い返すのは自分の問いに返す父の、言い辛そうな表情ばかりであった。今こうして父が清々しい顔をして自分に母の話をするのは、自分の身体の不自由を自覚したからなのか、自分の命を感じたからなのか、理由を聞く程の勇気はまだ自分にはないが、少なくとも恥ずべき事だとは思わなかった。

「三咲は少し似てきたな」

 普段阿呆のように八の字に下がったままの眉はほんのりと寄せられ、細められた瞳の奥には郷愁の色が濃く滲む。あまりに慈愛に溢れた表情に、何故か、目頭が熱くなる。良かった。

 生きていて良かった。

 母、父、家族の繋がり、感情、その全てを失う事に対する恐怖に怯えていた。自分が母に似てきただなんて、絵空事だと言ってしまえばそれで終わりにできた。それでも自分はその言葉に対して妙な心地よさを感じていた。それは確かに自分が、根拠のない言葉の中に意味を見出していたからである。

 自分が心地良いと感じた。たったそれだけで、その言葉には大きな価値がある。


 何の謝罪もせずに水族館でデートをしようと捻りもなく誘い、了解ですとあまりに淡泊な返事を見た時は本当に彼は頭が可笑しいのではないかと思った。しかし彼があんな事があったからといって自分に臆するような性格ではないことは分かっていたし、今は自分からシフトを避けて入れていても、いずれはバイトで鉢合わせることになるだろうから、今会わない大した理由も無いと知っていた。まだ彼の中に自分への妙な好意が残っているかどうかは分からないが、どちらにせよ、彼と会って話をする必要は十二分にある。

「……来た」

「来ましたよ」

「うん」

 見慣れた分厚いパーカーで現れた彼は、水族館の入り口の前の階段にだらしなく座り込んでいた自分を見下ろす。返事を返して早々に立ち上がると、先ほど購入したばかりのチケットを一枚彼の胸に押し付けた。思わず受け取った彼は、数刻何かを言いたそうに目を見開いたが、それから直ぐにふと視線を落とす。

「お父さん、大丈夫でしたか」

「……うん」

 良かったです、と聞こえた声色の柔らかさに、自分も自然と視線を落としていた。


 深い青の照明がお互いのスニーカーを照らす。眼前の水槽では、気ままに泳ぐ魚がこちらを覗いていた。どちらから何を言い出すか、阿呆のようにじっと探り合っている自分たちはさぞ滑稽な事だろうと思う。あれから、チケットを見せる際に店員と話をする以外の会話をほとんどしていなかった。平日の夜だからか、人は疎らで、足音が水槽の間を縫って響く。順路通りに水槽を眺めて歩き、ある水槽ではたと足を止めた。

「……」

 自分がじっと水槽を見つめていると、否が応でも追いついた彼が猿真似をするように同じ水槽を見つめる。徐にスマートフォンを取り出すと、カメラボタンに指を乗せる。小さなレンズを介して牽制をするように見つめ合い、一瞬の隙を突くように、その姿を写真に切り取った。

「……どうするんですか」

「ん?」

「その、くらげのヤツ」

「ツイッターにあげる」

 彼の言いたい言葉が手に取るように分かる。

 父の写真はもう良いのか。嘘を吐くのはやめたのか。それでもこうして投稿しているようじゃ、結局は何も変わらないのではないか。

 敢えて口にしようとしないのは、彼が聞かずとも大概を想像してしまう人間だからなのだろう。

「……今すぐ全部変われってのは無理だけど。少しずつ変わってみても良いかなって、思うくらいのとこまでは来たよ。それに」

 彼は自分の瞳を見ると、尚更黙り込んだ。黒い瞳の奥に、憧憬にも似た何かが揺れる。

「人に啖呵切っといて、同じことしてたら恰好つかないしね」


 全ての水槽を回り、父への土産にと選んだキーホルダーを購入しようとしたところで半ば無理矢理彼に金を払われたあと、二人で並んで水族館を出た。陽は完全に落ち、街灯の明かりに満ちた歩道を歩き出す。生温い空気に身を包み、少しの間つま先ばかりを追っていたが、不意に思い立ち口を開いた。

「ごめん、こないだ。言い過ぎ――」

「俺が馬鹿でした。すいません」

 た、と言葉の語尾を口にするよりも、彼の声が自分を遮る方が幾分か速かった。同じ瞬間に話そうと思っていたなんて偶然を信じる程馬鹿ではない、自分に謝罪をされる前にと意図的に遮ったのであろう。何の為か知らないが、意外な行動であった事は紛れもない事実であった。

「何も分かってなかったです。……分かってた気でいたけど」

 彼は足を止める。自分も止めざるを得なくなり、立ち止まって振り返ると、視界の端に揺れた邪魔な髪をそっと耳にかけた。

「私も言い過ぎた。自分のこと全部棚に上げてブチ切れてたし。あんまり気にしないで」

「言われたことは、そんなに気にしてないっす」

「あ、そ……」

「自己中なんで」

 自分を真っ直ぐに見つめた彼が、ふと口角を上げる。

 彼の髪が緩く流れる風に沿って、小さく揺れた。

「……」

 不思議と皮肉と思えなかったのは、彼が微笑んだ姿を見たのが初めてだったからなのか、その笑顔が慈愛に満ちているように見えてしまったからなのか。少しして自分から目を逸らした彼が、唐突に止めていた足を動かした。暫く足を動かせなかった自分は、三メートル程の距離を許し、漸くその背に向かって駆けていく。

「ちょっと」

「何すか」

「置いてく事ないでしょう。……あのね、好きな女とデートしてるんだから、もっとドキドキしなよ」

「すげー緊張してますけど」

「ウソだね」

「手汗やばいっすよ」

 思い立ち、不意に手を掴む。

 彼はギクと肩を強張らせ、咄嗟に足を止めた。繋いだ手から熱を感じ、その掌は予想に反し確かにじわりと湿っていた。まだ自分の事が好きなのだろうかという擬に近かった思想が、期待を餌にして、言い様の無い程に膨らんでいく。

「……ははっ」

 思わず口角が上がった。


 次の瞬間、自分の鞄から特徴的な機械音が鳴り響く。

 繋いだ手を放して、音の要因を持ち上げる。慣れた手つきで画面をスライドしようとするが、その表示を目視した後に人差し指がぴたりと止まった。

「風見くん」

「……」

「風見くん?」

「……あ、はい」

 こちらを見たまま変に目を丸くしていた彼が、自分の声に数回瞬きをした後不自然に目を逸らす。その視線の先に映るよう、スマートフォンを少し持ち上げると、彼の眼前へ持っていった。『今までで一番いい写真!!』と書いたコメントの通知が彼の瞳に映ったであろう瞬間、彼の視線が自分へと返ってくる。

「この子、いつも写真褒めてくれる友達なんだけど。どう思う?」

「……オレもそう思います」

「そりゃ、風見くんはそうだろうけど、そうじゃなくてあの子の方よ。明らかにお父さんの写真と違うのに、どこまでが本音……」

 嘘か本当かなんてどうでも良い事だ。

 自分はそれを気にした事があったのだろうか。本人にしか分からない事を気に病み、悩んでいた事があっただろうか。只自分の感情をなぞっていただけだ。

 それが本当に何の意味もない言葉の羅列であっても、自分が嬉しいと感じた。これが紛れもない事実であれば、その言葉の羅列には一番大事な価値がある。そうして生きていたのだ、昔も、今も。

「まあいっか」

 吐き出しかけた言葉を中途半端なままに飲み込むと、自分の目線まで下ろしたスマートフォンを開くことなく、鞄に仕舞う。すうと息を吸い込むと、初夏を告げる風の匂いがした。