道教と日本思想 ①
http://honnomori.jpn.org/syomei/4-ta/dou-nihon-1.html 【道教と日本思想】 著者 福永光司 徳間書店 より
Ⅰ 空海と中国-日本密教と道教東漸 Ⅱ 鬼道と神道-中国古代の宗教思想と日本古代
Ⅲ 天皇と真人-天皇概念の来た道 Ⅳ 天皇と道教-研究方法と基礎資料について
Ⅴ 老荘の思想 Ⅵ 記紀と道教
まえがき
日本思想が中国の道教とどのようなかかわりを持つのか、この問題を私が意識しはじめたのは、今にして思えば、九州の片田舎に生まれ育って、意味もよく分らぬままに浄土真宗の教典を誦読し、何としても強くなりたいと、不器用な体つきで柔道の練習に励んでいた旧制の中学校生徒の頃からではあるまいか。
旧制の中学校で、私の教えられた柔道は嘉納治五郎の講道館柔道であったが、最初に自然本体と右自然体および左自然体の基本姿勢、ついで臍下丹田に力をこめることの重要性などを習い、しばらくしてのち柔道の真髄とは"柔克(よ)く剛を制する"ことであり、柔道がこれまでの柔術と違う点は、たんなる技の修得だけでなく、技の修得によって心(精神)を鍛えることにあるのだと教えられた。
"柔克く剛を制する"が、『老子』の哲学の"柔は剛に勝つ"に基づくこともその時に教えられたが、柔道の自然本体、右自然体などの「自然」というのが、同じく『老子』の哲学用語(「無為自然」)であり、「臍下丹田」がまた道教の根本教典『黄庭経(こうていきょう)』などに見える服気(呼吸調整)の道術の専門用語であることを知り、さらにまた柔道の基本姿勢の「本体」とか「左右の体」とかいうのが、道教の教典『霊書肘後鈔』などに解説する「禹歩(うほ)」に基づくのではないかと考えるようになったのは、ずっと後年のことである。
私が生まれ育った九州の郷里の農家は、父祖以来、西本願寺の門徒であり、家の仏壇の前の経机(きょうつくえ)の引き出しには、総ルビつきの『仏説 無量寿経』などの教典が蔵(しま)われていた。旧制の中学校に入学し、漢文の授業を受けはじめていた頃の私は、何とかしてこの教典の漢文の意味を理解したいと思ったが、中学生の漢文読解力ぐらいでは歯の立つようなしろものではなかった。ただしかし、この教典のなかに、柔道の「柔」の思想と共通する「柔軟調伏」とか「身心柔軟」とかの文字、また柔道の「自然本体」を容易に想起させる「道之自然」や、「自然虚無之身、無極之体」などという文字の見えているのが、なぜそうなのか、私にはまことに不思議に思えた。
中国の三国魏の時代、西暦三世紀の半ばに漢訳されているこの『仏説 無量寿経』の教説が、この当時の道教(天師道教)の天神信仰ないし功過の思想と密接な関連を持ち、仏教そのものがまたこの教典では「道教」と漢訳されていること、さらにはまた、この漢訳経典のなかで数十回にわたって用いられている「自然」-とくに「無為自然」、「天道自然」など-の漢語が、明確に『老子』もしくは道教の「無為自然」の哲学を根底基盤に持つことを知ったのは、はるか後年のことであるが、私がまだ学校の生徒学生であった当時(昭和十年代前半)のわが国読書界においては、浄土真宗の開祖親鸞上人の主として『無量寿経』に依拠する"自然法爾(じねんほうに)の教説は、最も日本的な正覚の論理とされ、それ故に、日本思想を宗教哲学として最も典型的に代表するという評価が広く行なわれていた。一方、また国技としての柔道も、その"武器なき格闘"の故をもって日本古来の武道の精神を最も典型的に代表するものとされ、その"柔"なる道の心は、浄土真宗の柔軟なる心と共に日本思想(精神)の中核部分を形成するもの、世界に誇る日本文化の栄華精髄である、と讃揚されていた。
私が、日本思想と道教とのかかわりを念頭に置き意識するようになったのは、漠然とした予感程度のものでしかなかったにせよ、上述のように旧制の中学校生徒の頃からである。主として、講道館柔道と浄土真宗の教典によってであったが、その後、大学を卒業し、兵役に徴集され、大陸の戦場での絶望的な彷往からも漸く解放されて、故国に復員、大学に復学してからも、私は自己の専攻している老荘の思想ないし道教の宗教哲学を、日本思想もしくは日本文化とのかかわりという視座から考察しなおしてみようという心身の余裕はほとんど持ち得なかった。
私がそのことに多少の積極的な関心を持ちはじめたのは、研究の場所を京都から東京に移した、昭和50年前後の頃からであるが、当時、私の学問研究者としての関心の焦点は、やはり老荘の思想と道教の神学教理、ないし本書の末尾に付録した「道教思想史研究覚書」に記すような、主として思想史研究上の諸問題であった。
国立大学を定年退職した昭和57年の春には、その定年退職を記念して、それまで書き散らしていた日本文化に関連する雑文集を、心ならずも『道教と日本文化』と題して刊行している。しかし、これは本来、東京のある出版社からすでに刊行が予定されていた私の本命の学術書『中国宗教思想史研究』が、病気入院その他の事情から刊行延期となったための、窮余の代替処置であった。したがって、そののち、何とか健康を回復することのできた研究者としての目下の私は、ここで当然、道教の神学教理ないしは中国宗教思想史の研究に専念し、本命の学術書の刊行に全精力を集中しなければならないであろう。
しかし、-理由の第三は、上述のように日本思想と道教のかかわりの問題は、素朴幼稚な思考であるとはいえ、私の旧制中学校生徒時代からの久しい関心事であり、現在の道教思想史の研究がそのうち一段落すれば、道教の神学教理と対比させて、いずれは新しい視座からの日本思想の検討考察に着手したいと思いはじめていること(本書の末尾に収載する「記紀と道教」の小文は、その初歩的な試論)、しかし、おのれの健康に対する以前のような自信を喪失してきている現在の私としては、自己の目ざす研究の青写真もしくは研究の足取りを、この機会に覚書風に書きとめておくことも全く無意味ではなかろうと考えるに至ったことなどである。
本書の未熟児として世に送軌出される事情は、あらまし右のごとくである。読者さいわいに諒とせられんことを。
なお、本書の巻頭に置かれた講演筆録「空海と中国」に関して最後に付記しておきたいのは、そのかみの空海・弘法大師と同じく、私もまた中国は福建沖合いの島々の間を、魔風ならぬ米軍の潜水艦に追いまわされて逃げまどったという悲劇の体験を持つことである。その時、私たちの輸送船団は上海の港を出て広東の汕頭(スワトウ)に向かっていた。太平洋戦争も末期の昭和20(1945)年の春3月のことである。
1985年3月20日 福永光司
Ⅰ 空海と中国-日本密教と道教東漸
空海の思想と漢文
西暦前一世紀、漢の司馬遷の書いた『史記』という書物によりますと、老子は唐の皇室と同じ李という姓になっていますので、そこで老子が唐の王朝の遠祖とされると共に、老子を開祖とする民族宗教としての道教が唐の王朝の国教とされることになります。
そういう時代に空海さんは中国に留学しておられますので、いやでも道教というものとかかわりを持たざるを得ない。空海さんが中国で会う知識人や文化人、いやしくも文字が書けて文章の読み書きができるほどの中国人であるならば、国の教としての道教に何らかの知識と関心を持たざるを得ない。とくにこの当時には、唐の皇帝たちが熱烈な道教の信奉者であります。そして老子は神格化されて唐の皇室の遠祖とされていますから、日本の天皇家が天照大神に対して篤い信仰の念を持たれるのとちょうど同じ関係であります。
そうすると、この唐の時代に中国で行なわれている仏教も、インドから来た異国の宗教ではあっても、土着の民族宗教であり、王朝の国教とされている道教とさまざまな形で深いかかわりを持たざるを得ない。そういったこの時代の仏教の現状を空海さんがどのように受け取っておられたのか、といったような問題、この問題は空海さんの思想を考えるうえでもかなり重要な意味を持つと思われます。
漢訳された仏教-仏教の中国化
梵本は中国に入ってきますと、これは中国から日本に仏教が朝鮮を伝わって入ってきたときとは全くといってよいほど様子が違うわけです。何となれば、仏教がインドから中国に入りましたのは、西暦紀元前後、キリストの誕生したころですけれども、そのころの中国はたいへんに高度の学術文化が発達している。
要するにインド西域から中国に仏教が入ってきますと、仏典は全部漢訳される、つまり中国語に変えられてしまうということになるわけです。日本にやって来たのは、もちろんその中国語に翻訳された仏教文献、漢訳仏典です。
ところで中国語に翻訳されるということは単に言葉が変えられるだけでなく、考え方、思想、哲学、こういったものまで、かなり大幅に変わっていくということになる。つまりインドの仏教が中国で翻訳され、漢文に変えられていくということは、単に言語、文字、文章表現の問題だけに止まらず、インドの仏教が中国的に内容を変えられるということにもなるわけです。
第一に中国語に翻訳される場合の翻訳語の問題です。
-仏教の教理の主な言葉が、中国の古典哲学ですでに使われていた言葉によって翻訳されていく。そして、この場合に重要なことは、菩提が老荘の哲学の「道」、現代の中国語で発音しますとタオですね、このタオという言葉で翻訳されますと、仏教というのは菩提の教、つまりタオの教、道の教ですから、そこで仏教は中国で道教と呼ぼれることになります。
いま普通に私たちは中国の伝統的な土着の民族宗教を道教と呼んでいますけれども、この道教という中国語は、いわゆる中国の民族宗教を呼ぶ言葉としての道教よりも二百年ほど前に、漢訳された仏教すなわち中国仏教を呼ぶ言葉としてすでに用いられていたわけです。
密教における「真言」の語のルーツ
この唐の王朝の時代にインドから中国に伝えられた『大日経』だとか『金剛頂経』だとかいう真言密教の根本経典が中国語に翻訳されて、しかもその道教の熱烈な信者である玄宗皇帝の前で真言密教の経典が講義される。
その講義の筆録が、たとえば『大日経』の場合であれば『大日経疏』と呼ばれる。これを中国に留学した空海さんが日本に持って帰って、その空海さんが日本密教の開祖になられると同時に、わが国の真言密教の教理も、その漢文『大日経疏』などを中心に形成されていく。ですから中国にやって来た最初の段階からインドの密教は「真言」の宗教として中国の「真人の言」の教、すなわち道教と相互に重なりあい、まじりあうという状況になるわけです。
仏教経典の翻訳・注釈と教理の体系化
-中国語に翻訳されたもの、すなわち漢訳仏典を注釈し解釈していかなければ、翻訳だけでは意味が十分に分らない。そこで第二の段階として注釈書、解釈書のたぐいがたくさん作られていきますが、その作り方は中国に以前からあった儒教の経典に注釈書、解釈書を作っていくやり方、すなわち儒教の経典解釈学と全く同じやり方で漢訳仏教経典の注釈書、解釈書を大量に作っていくわけです。この第二の段階でまた仏教はインド的なものから中国的なものに大きく性格が変えられるということになります。
-第三の段階では、仏教の教理の総合的な体系化。 -前の第二の段階でたくさんの仏教経典に注釈、解釈を行なっていきますと、インドから来た仏教の経典には内容的に一致しないもののあることに気づく。教理内容の不一致ですね。というのは初期の教理と後の教理、普通に小乗仏教と大乗仏教に分けていますが、その小乗と大乗との間では同じインドでの仏教思想に歴史的な展開と変化が見られます。その展開と変化の見られるインドの仏教が西暦紀元前後に一挙に中国に持って来られる。-インドのサンスクリット語のスートラを中国語で経と訳しますと、中国では経といえば聖人の言行を記録した文献ですから、聖人の言葉を記録した文献に矛盾することなど書いてあるはずがないと考えられる。しかし実際上は小乗仏教と大乗仏教とでは説いている教理に違いがある。経典のなかに矛盾したことが書いてある。
そうするとスートラを聖人の言行を記録した経であると中国で受け止める以上、スートラのなかの矛盾した記述を何とか調和させ矛盾のないように処理しなければならない。
それでは、どのようにしてその矛盾を調和させるのかといいますと、これもまた仏教が伝えられる以前の中国ですでに学問研究の方法として成立していたものが用いられる。つまり儒教の経典のなかにいろいろと矛盾している記述がある場合には、それを地域差と時間差で解釈し処理する。すなわち東の斉の国ではこうであるが西の秦の国ではこうである、昔の股の時代にはこうであったが今の周の時代はこうであるというふうにして、その違いを調和させていく学問研究の仕方がすでに成立していて、その調和の仕方をそのまま今度は漢訳された仏教経典の記述に適用していく。この第三の段階でも仏教の教理学は中国的に大きく性格を変えられてくる。
そして仏教の教理の部分的な矛盾を解消し、その全体を総合的に整理し体系化していく場合には、どれか一つの経典を体系化の基準とするわけです。たとえば『法華経』ですね。『法華経』を中心にして他のたくさんの経典を体系的に整理していく。そうしますと、それが天台学派を形成し、さらに天台宗という宗派を作っていく。日本では京都の比叡山の天台宗です。同様にして『華巌経』を体系化の基準に置きますと、華厳宗となっていく。これは日本では奈良の東大寺がそれです。
そういうふうにして、いろいろな仏教の学派、宗派というものが成立してくる、これが第四の段階です。ここでまたインドの仏教は中国的に大きく性格が変えられる。四つの段階で次々に大きく変えられるわけです。
その中国的に大きく性格を変えられた仏教が実は朝鮮を経て、あるいは海を渡って直接日本にやって来て、そこで日本の仏教もしくは仏教学がスタートするということになります。我々の祖先は仏教というものを先ず最初に漢字で書かれた文献、つまり漢訳仏典で学習し始めたのです。それはインドの仏教思想そのままではなくて、中国で体質を中国的に変えられた仏典で仏教学の勉強をし、仏教の教理を理解している。わが空海さんの場合も勿論その漢訳された、つまり中国的に体質を変えられている仏教、いわば漢文仏教とも呼ぶべきものから仏教学の勉強を始めている。この事実はやはり空海さんの思想を研究し理解するうえで重要な意味を持つと私は思います。
空海という名と「即身成仏」の語の由来
その一つは空海というお名前の由来についてですね。漢字で空と海と書きますけれども、この空海というお名前がもともとどういう意味であるのか、わかったようでいて実はまだ決定的にはわかっていないわけです。これまでに行なわれている主な解釈としては二つありまして、一つは空(そら)と海(うみ)という意味に取るわけです。それからもう一つは空(くう)の海というふうに読んで空を哲学的・思弁的に解釈します。
-この当時の中国すなわち南北朝晴唐の時代の中国で一応の学問教養を持つ知識人たちの言語感覚から見て、空海を空(くう)の海と読んで哲学的・思弁的に解釈するのは無理ではなかろうか、また、そういった用語例も、この時代の中国にはおそらく無いのではなかろうか、-
もう一点。これは空海さんの真言密教において重要な思想的、教理的な意味を持ちますが、「即身成仏」という漢語、すなわち中国語ですね。この即身成仏という中国語および中国語の持っている思想、それがやはり伝統的な中国人の物の考え方、それを宗教としていえば道教の教理思想と密接な関連を持っているということ、これが第二点です。
「空海」の語義について
『三教指帰』執筆時の参考文献
中国に留学されてからは『大日経』だとか『金剛頂経』だとか、そういった密教関係のものが圧倒的に多くなるわけですけれども、留学される以前の時期には、当時の日本の仏教学習者に一般的でありました『法華経』、それから『華厳経』、とくに『華厳経』の場合には善財童子と呼ばれる少年が主人公になっております「入法界品」という文章、そこの記述をご自身を善財童子になぞらえるお気持もあったと見えて、よくお引きになっておられます。
「空海」-空と海のヒント
-空と海もしくは虚空と大海をセットにした文章表現が多く見られます。ちなみに、この虚空という言葉も漢語すなわち古典中国語でありますが、この漢語を中国で最初に用いている古代文献は、やはり『荘子』(徐無鬼篇)であります。この言葉が仏典の漢訳される段階で翻訳語に使われたわけですが、この虚空という言葉はもちろん天空、大空を意味します。
大空のようであり、大海のようであるというように空と海がセットにされて『華厳経』や『大智度論』などの仏典で広く用いられている。そのほか空海さんの『三教指帰』のなかに踏まえられている漢訳仏典のなかにも類似の用例が多く見られます。
-玄宗のちょっと前に高宗という天子がおられますが、この高宗もまた熱烈な道教の信者です。そして高宗も玄宗と同じくインドから来た仏教にたいへん強い関心を持たれた皇帝でありますが、その頃に作られた道教の経典が『海空智蔵経』と呼ばれる仏教の影響を全面的に受けている経典です。ここで海と空「空海」が引っくり返ってはおりますが、「海空」が経典の名前とされております。それから「智蔵」という中国語は、智恵の貯蔵庫を意味して漢訳された仏教経典に初めて見える言葉であり、仏教の中国に入る以前には漢語としてなかった言葉です。ですから、この経典が仏教の影響をいかに強く受けた経典であるかということは、その内容を読んでみてもすぐ分ります。
道教とは何か-とくに仏教との関係
仁という文字は先ほども申しましたように孔子を開祖とする儒教のシンボルマーク。これに対して「真」が道教のシンボルマークです。この真宗皇帝の治世、西暦11世紀の初めに『雲笈七籤』と呼ばれる道教の教理百科全書120巻が編纂されて、これは現在ほぼ原形のままで伝えられてきていますが、この『雲笈七籤』という道教全書が道教というものをどのようなものとして考えているかを具体的に検討する、学問的に検討する。