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道教と日本思想 ④

2018.05.16 03:40

http://honnomori.jpn.org/syomei/4-ta/dou-nihon-1.html 【道教と日本思想】 著者 福永光司 徳間書店  より

Ⅱ 鬼道と神道-中国古代の宗教思想と日本古代

中国古代宗教思想史の研究はなぜ必要か

 中国古代においては、政治思想(律令制)と宗教思想(神仙道教)とは一体不離の関係をもつもの、いわゆる「天人相関」もしくは「合一」として展開しております。そのことは、『詩経』や『書経』に見えます「天」の思想、あるいは天の「上帝」、さらには「昊天上帝」「皇天上帝」「皇皇后帝」といったような言い方もしますが、要するに『詩経』や『書経』に見える天の思想や上帝の信仰がそのことを示しております。「天」や「上帝」は宗教的な概念であると同時に、政治的な概念でもあるわけです。

 『礼典』も、やはり、単なる政治制度や行政組織に関する文献に止まるものではなく、天神地祇の祭祀を中心とする宗教儀礼や思想などと一緒に組みあわされたものです。

 ですから、中国古代において、天人相関、祭政一致として、一体不離の関係にあった政治と宗教との思想が、日本の古代においては、政治思想だけ、もしくは律令制だけが一方的に取り入れられて、宗教思想のほうはたいした影響がなかった、あるいは影響を与えていないというのは、まことに納得のいかない話であり、中国の思想史とくに中国古代宗教思想史の研究に強い関心を持つ私としては、早くからそのことに疑問をいだいていたわけです。

 ご覧になっていただいた方もあるかと思いますが、この論文のなかで私は、日本古代の天皇が中国古代の宗教思想(道教)における「天皇」=天皇大帝と密接な関連をもつであろうということを論じてみました。そして、そのことを論証するために「天皇」と関連する「真人」、また天皇の住む宮殿である紫宮(しきゅう-むらさきのみや)、それからまた、天皇の権威の絶対性を象徴するとされる二種の神器の鏡と剣、さらにまた日本の国号として使われる「大和」(たいわ-やまと)の漢字。こういったものが一連のものとして、中国古代の宗教思想、具体的にいえば道教もしくは原道教の思想ですが、その宗教思想と密接な影響関係を持つであろうことをも併せ論じてみました。

 道教において宇宙の最高神である天皇=天皇大帝は、天上の神仙世界にある紫宮、「むらさきのみや」に住んでいて、地上の世界の官僚組織と同じように多くの官僚をかかえ、その官僚組織の高級官僚が「真人」とよぼれ、下級官僚が「仙人」とよばれる。

 真人は仙人よりも上位に置かれ、この真人と仙人が天皇大帝(上帝)の命を受けて地上の世界の人間の行為の善悪、つまり功過を監察している。その行為の善悪、功と過に対して賞(福)あるいは罰(禍)が与えられる。

 そういう神仙世界の最高の支配者である天皇(天皇大帝)の権威をシンボライズするもの、これが鏡と剣であって、そういった天皇もしくは天皇大帝の宗教的支配によって実現する地上の世界の平和、これが「大和(たいわ)」であり、「太平」である。こういった考え方や信仰は、西暦後2世紀から3~4世紀にかけての初期道教の教理学で、その原型的なものはできあがっているわけです。ですから、日本の天皇が中国の道教における天皇と密接な関連を持つとするならば、こういった一連の事実がセットになった宗教思想として古代の日本に持ち込まれていたと考えていいのではないか。これが私の「天皇と真人」と題する論文の要旨であります。

中国の神仙道教と「天皇」

 日本の古代史を見てみますと、7世紀の後半、天武、持統の頃からですけれども、中国の道教の「真人」という言葉が用いられている。『日本書紀』に載せる天武天皇のおくり名「天渟中原オキ真人」(あめのぬなはらおきのまひと)の「真人」がそれです。また同じく天武天皇の即位一年目に、それまでの古い豪族たちを中央集権的な支配組織のなかに組み込むために、「八色の姓(やくさのかばね)」(八種の家格を示す称号)が制定されますが、その「八色の姓」の最高位に置かれているのが、やはり「真人」であって、それは皇族だけに与えられる姓であるとされています。それからまた、紫という色が、天皇ないし皇室とたいへん強く結びつけられて重んじられており、さらに鏡と剣も、『日本書紀』を見てみますと、天皇の位の授受の場合には、二種の神器として重んぜられている。のちには三種の神器になりますが、『日本書紀』のなかでは、鏡と剣の二種の神器です。

 それからまた、日本の国号の「やまと」に「大和」という二字の漢字をあてるのも、その結びつきを考えてみると、なぜなのかと首をかしげたくなる。

 -中国の思想史では、この「大和」という言葉は、「天皇」「紫宮」「真人」などと一連の思想概念として、2~3世紀ごろにすでに神仙道教的な文献に多く見えているわけです。

伊勢神宮の御神体はなぜ鏡か

 なぜ鏡が御神体になっているのかといえば、私は中国の神仙道教の思想に源流を持つと思います。といいますのは、鏡を製作する技術そのものが中国から来たものです。このことは現在の考古学や科学技術史でも反論の余地のないほど確実なこととされており、ましてやその鏡が神秘的な霊力をもつとする思想、あるいは御神体としておまつりするという宗教哲学は、さきほど申しました中国の神仙道教の宗教思想史で、非常に古くから-西暦以前の頃から、成立しておりますから、それが日本において、古代のある時期に渡って来たものであるということは、先ずまちがいない。

 -それ以前の日本では、御神体は鏡ではなかった。たとえば近畿の三輪神社に行きますと、今でも御神体は鏡ではなくして、山そのものが御神体になっています。

 つまり、これらのことからも知られるように、本来の日本の神社は必ずしも鏡を御神体にしていなかった。伊勢神宮の場合も本来は、伊勢の地方で、豊年豊漁を祈る土着的な祭祀が行なわれていて、それが古代日本国家の成立と共に国家祭祀として格上げされ、政治的性格をもつようになって、神宮とよばれるようになったと考えられる。「神宮」という言葉自体も、中国の道教で古くから使われていたものです。ついでにいえば、伊勢の「斎宮」という言葉、「内宮」や「外宮」、さらには「神社」という言葉もまた、すでに古代中国の道教的な文献に見えているものです。

日本古代研究の再検討を

 明治以後の日本古代史学、文化史学、宗教史学、文芸学、民俗学などの研究者たちの日本古代の宗教思想に関する学説というものも、もし私のように考えるならば、大きく検討しなおす必要があるのではないか。

 なぜかといえば、それらはほとんどの場合に、中国古代の宗教思想との関連を学問的に究明するという配慮を欠いている。日本の古代に影響があるにせよないにせよ、とにかく、海をへだててすぐ隣り、もしくは朝鮮を経由してすぐ隣りにつながっている中国古代の宗教思想史というものを、無視するということは許されない。

中国古代宗教思想史の四重構造

 一番底辺部にあるのは、殷代・周代以来の、中国土着の呪術・宗教的な信仰儀礼、これが底辺部にある。土着的といってもいいし、土俗的といってもいいと思いますが、それが底辺部にあって、これが第一です(三七ページの表参照)。

 第二は、西暦前3~2世紀、秦、漢の統一国家というものが中国で出現してきますが、その統一国家の出現をピークとして、第一の、土着的、土俗的な呪術・宗教的信仰儀礼というものが、-、政治的、社会的に秩序づけられ、さらに儒家の礼典として整理、体系化され、そしてそういった宗教儀礼を執行する最高の責任者(司祭者)に帝王が当てられる。その意味でこれは、国家宗教もしくは国家的な性格を強くもつ宗教といってよいだろうと思いますが、そういう、政治的、社会的秩序づけが行なわれて、現在、我々が見ることのできる儒家ないしは儒教の礼典が成立します。

 ここで儒家ないし儒教といったのは、学説としては儒家ですが、その学説が現実の政治権力者によって政治教化として行なわれてゆけば儒教とよばれるということです。

 第三層として、西暦紀元前後、インド西域から伝来して中国の漢字文化のなかに組み込まれた中国仏教がそのうえに乗っかります。

 つまり、最底辺部の土着的呪術宗教、第二層の政治的・社会的に秩序づけられた国家宗教、具体的には儒教の礼典のなかの宗教部門ですが、そのうえに第三層として中国仏教が乗っかる。そして、仏教を布教し教理形成を展開していく。

 ところで、この場合、注目されるのは、中国という風土的・歴史的な限定をもつ地域でインドの仏陀の真理を布教しようとするわけですから、どうしても中国もしくは中国人に合った教理形成というものが必要になってきますし、インド仏教が中国仏教として大きく体質を変えられることになるという事実であります。

 すなわち先ず第一にインド西域から中国に伝えられた仏教文献は、少数の例外を除いて全部漢訳され、漢訳されることによって、すでに中国的な変更が大きく加えられる。具体的に申しますと、仏教それ自体が道の教、道教と訳されて中国人に理解され解釈される。

 ともかくそういうふうにして、中国仏教が第一層の土着的な呪術信仰、第二層の礼典的な国家宗教のうえに第三層として乗っかってくるわけです。しかも、単に乗っかってくるだけではなくて、それが第一の層、第二の層の宗教思想と複雑に入り組み、からみあっている。言語的にも、思想的にも、教義や儀礼の面でも相互に入り組んだ関係になって、第三層がある。

 そして、そのうえにこんどは第四層として、民族宗教としての教理と儀礼と教団組織を整えた道教が乗っかることになるわけです。

 ここでの道教は、底辺部の土俗・土着的な呪術・宗教的信仰儀礼を、自らの教理に基盤的に大きく取りこんでそれをベースに置きながら、第二層の儒教の礼典におけるさまざまの祭祀儀礼とその理論づけも吸収して、そういったものとも折衷的に調和させ適合させていく。

 たとえば、八節祭の宗教行事の規定がそれです。そしてこれは一例を挙げただけですけれども、そういった儒教の礼典における祭祀儀礼、さらには広く宗教的な習俗・行事の規定などと、当時の道教は調和折衷をはかっている。それからまた、第三層の中国仏教-中国的に体質改善されたインド仏教-1からも、教理、儀礼、教団組織などにわたって多くのものを取り入れながら、西暦4~5世紀、中国南北朝の中頃、南朝のほうでいえば東晋の時代、北朝のほうでいえば北魏の時代あたりから、民族宗教としての教理と儀礼を形づくり、たとえば三世輪廻・因縁業報の思想、大劫小劫の劫運説、道観つまり道教の寺院のあり方、道士の生活の仕方・修業の規律戒律など-、それから教団や信者の組織というものを整備確立してきます。

 ちなみに、中国の思想史で道教と呼ばれているものには、道教という言葉に即して考えるかぎり、広い意味と狭い意味とがあって、狭い意味というのは、上に述べたような特定の教理と儀礼と教団組織を確立した中国の民族宗教としての道教です。しかしまた一方、広い意味での道教という言葉は、いにしえの聖天子の道の教えを意味して、古く『墨子』の頃から使われており、儒教や中国仏教もみずからの教えを道教とよぶことがあります。つまりこれが広い意味の道教なのですが、とはいえ狭い意味の道教もまた、広い意味の道教と思想的には密接不可分の関係を持ち、全く別個のものとして切り離すことはできません。

シャーマニズムとしての鬼道

 神道と鬼道は底辺部ではもちろん重なり合う部分を多く持ちますけれども、その上辺部に哲学-主として『易経』と『老子』の哲学ですが、それを導入しているか否かによって区別される。もともと神道という言葉は、『易経』の観卦の彖伝(たんでん)に初めて見えるわけですから、儒教の哲学でも、仏教・道教の教理学でも同じようにこの言葉を使います。とくに鬼道を低俗なシャーマニズムとして攻撃し、それに対する自己の宗教の優位性を強調するような場合には、鬼道ではなく神道という言葉が多く使われる。たとえば、我々の説く宗教的な真理は神道であって鬼道とはちがうというふうに道教的な文献では2世紀ぐらいから、神道としての教えをシャーマニズムとしての鬼道の上位に置く主張が目立ってくる。

 ですから、いま四つの層を鬼道と神道ということで対応させるとすれば、第一の層が鬼道にあたり、第二の層以上が神道にあたると見ることができる。

 もっとも、狭い意味の道教が成立する第四の層では、神道としての道教が儒教を俗道として批判し、みずからをとくに真道-「真」を「俗」に対比させる思考は中国の思想史で『荘子』に始まります-と呼ぶことがありますが、やはりその場合でも、道教が神道であることを積極的に否定する議論は全く見られません。むしろ随唐時代の道教の教理学は、『易経』の哲学を大幅に取り入れることから、再び神道としての道教を強調する傾向を顕著にしてきます。

教理学としての神道

 中国仏教が仏陀の教えを神道として理解し強調するのは、中国の伝統思想と融和をはかるためということもありますが、それよりもむしろ、中国出身の沙門たちの学問的な教養が何といっても儒学と老荘の学を主要な基盤としていた、という事情が考えられます。

 たとえば、東晋の慧遠の有名な『沙門不敬王者論』のなかに、「神道」はたいへん精微であり、「理をもって」すなわち理論的にその宗教的な真理をつきつめていくということは不可能であるというふうな議論があって、その場合、仏教をストレートに神道と見ているわけではありませんが、前後のコンテキストからいえば、ここで彼のいわゆる神道は、仏教の宗教的な真理をも当然含み得ます。それからまた、同じく慧遠の場合、仏教の因果応報を論じて、「神道」というものには霊妙な一つの働きがあり、悪いことをした者、つまり悪行(罪業)のある者には、悪いむくいを与える。善いことをした者にはいい応報を与える。その道理というものは、寸分の狂いもない。それが神道なんだというふうな説明をして、仏教の因果応報の道理を根底から支える宗教的な真理、もしくは真理の世界を、神道という言葉で理解している。

 それからまた、僧肇の『肇論』の場合でも、たとえば、仏教の経典に有余涅槃(うよねはん)、無余涅槃(むよねはん)というようなことが説かれているけれども、その無余涅槃というのは、「神道の妙称」であるというふうに言って、やはり、仏教の究極的な真理を神道という言葉で理解している。こういった例は、魏晋の頃、あるいは六朝期の全体を通じて中国仏教教理書のなかに少なからず見られます。

「鬼道」という言葉の意味変遷

 鬼道という言葉は人道と対立するものとして用いられており、鬼神の世界の道理・理法を意味します。またつぎに出てくるのは西暦前1世紀、司馬遷の書いた『史記』封禅書のなかです。封禅書と申しますのは、中国における秦漢時代の一種の宗教思想史概説、もしくは、宗教思想概論といった性格を持つ文献ですが、そのなかに、鬼道という言葉が二ヵ所使われています。-この鬼道という言葉が使われている前後のコンテキストは、天神のなかで一番尊い神、すなわち太一神の祭祀と関連しています。

 日本でも、太一神というのは、室町期に伊勢の天照皇大神は太一神と同じであるというような議論が行なわれ、中江藤樹などもそういうことを言っておりますが、もともとは中国の神さまで、宇宙の最高神を太一と考える信仰が秦漢の時代からあるわけです。そして、この太一神は、さきほど申しました道教の最高神の天皇大帝よりも先んじて文獣のなかに見えてきます。

 -ちなみに、その太一神の祭りは『漢書』の郊祀志によりますと八角形の壇を築いて行なうことになっており、これは日本の古代、7世紀の後半に造られた天武、持統などの天皇陵である八角古墳の「八角」と密接な関連を持つと思われますが、それはともかく、この八角の形の祭壇に「八通の鬼道」が開かれたと『史記』や『漢書』は記しております。もちろんこの場合の鬼道というのは、鬼神の道、鬼神の往来出入する道路という意味です。

 さて、封禅書のなかに見える鬼道という言葉は鬼神の往来出入する道路を意味しておりましたが、この言葉はさらに後漢の時代になりますと、少し用法が変わってきます。

 すなわち鬼神の往来する道路というよりも、鬼神そのものを祀り、もしくは、鬼神を駆使する-その道術はしばしば「使鬼」という言葉で表現されますが-そういう呪術ないし宗教的な信仰儀礼そのものを鬼道とよぶようになる。つまりシャーマニズムです。

 つまり、鬼道という言葉は、以上申しましたような、呪術宗教的な概念として一般知識人が歴史書を書く場合にもこの言葉を使い、仏教の僧侶たちも自分たちの宗教よりも次元の低い、低俗なシャーマニズムを意味するものとしてこの言葉を使っているわけで、しかしやがてひとたびその用法が定着すると、それからあとは余り大きな意味内容の変化をもたずに、ずっと使われてゆく。そして仏教側から鬼道であると攻撃される道教のほうでもまた、鬼道という言葉をこの意味で使い、鬼道を剋服した神道の教としての道教を強調するようになる。たとえば南北朝期の後半に成立したと推定される『度人上品妙経』といった道教の経典のなかなどでも、鬼道と神道とを比較して、神道としての道教は常におのずから吉であるけれども、鬼道は常におのずから凶であるといい、鬼道と神道とを凶と吉に振り分けるというふうなことをしております。

 ただ、それでも仏教のほうではまた、みずからを鬼道よりも高級な宗教だと主張する道教をさらに攻撃して、道教は鬼道でしかない、仏教に比べて低俗なシャーマニズムだとやっつける、というのが南北朝期の中国宗教界に見られる一般的な現象でありまして、-

「神道」という言葉の意味変遷

 『易経』の観の卦の彖伝というのは、六十四卦の一つである観の卦のもつ意味を全体として説明する言葉ですが、そこのところで神道という言葉が使われています。「天の神道に見て四時たがわず、聖人、神道をもって教を設けて、天下服(したがう)う」という文章です。

 ところで、『易経』のなかで使われているこの神道という言葉ですが、わが国の江戸末期の国学者、平田篤胤は、ここでの神道は哲学的・抽象的な概念であって、人格的な生きた神を対象とする日本の神道とは異なるといっております。

 確かに篤胤のいうように、『易経』のなかで使われている神道という言葉は、陰陽の自然哲学的な思考を顕著にもちこんでいる概念といってもいいかと思います。

 四重構造の例で言いますと、第一の段階から第二の段階への展開で、簡単にいえば宗教から哲学への発展であります。つまり今まで宇宙の最高神とされていた上帝もしくは昊天上帝が、こんどは「天」という原理的な言葉に置きかえられていく。そして、その原理化がさらに進められ徹底化すると、老荘道家の「道」という形而上的な概念を生んでくる。上帝や天よりもさらに根源的であり、上帝を上帝たらしめ、天を天たらしめる究極根源の真実在としての「道」であります。

 『易経』のなかに見える神道という言葉は、篤胤もいうように、一応は陰陽の自然哲学的な概念であり、観念的抽象的な性格を強くもつ概念だと見ることができますものの、しかしながらまた一方、この神道という言葉は、この言葉を含む『易経』の哲学そのものがもともと第一の段階の宗教から展開してきてもいるわけですから、篤胤が一方的に極めつけるように、全く宗教と関係のない哲学的な概念だというように突き放してしまうこともできないわけです。

 なぜかといえば、『易経』のこの部分の前後の文章をよく読んでみますと、「神道」という哲学的な概念としての言葉と関連して宗教的な記述も現に見えており、神を祀るということも説かれているからです。すなわち「盥(てあらい)いて薦(すす)めず、孚(まこと)有りて顒若(うやうや)し」とあるのがそれで、神を祀る場合には先ず手を洗う、そして手を洗ってから供物を神の前に供えるが、供える直前のまごころがこもって恭うやしい時が一番純粋な形で宗教的な帰依の感情の現れる時である。そしてその純粋な宗教的感情さながらに政治教化を行なっていけば、「天下は服す」-つまり天下は治まらないことはない、というふうに書かれている。

 結局、篤胤は、神道という言葉の使われている前後のコソテキストは無視してしまって、これは『易経』の陰陽の哲学をふまえた中国の神道であって、日本古来の神道とは別のものであると極めつけているわけです。とくに篤胤の著書である『赤県太古伝』などのなかの議論です-

 -「神道」という言葉は今述べたような形で周代の『易経』に出てくるわけですけれども、しかし、さきほどの「鬼道」と同じように、「神道」の「道」を道路という意味に取る解釈も漢の時代には見られます。神道を神への道と解釈するわけです。そして、この場合の神は鬼神を意味し、鬼神は同時に死者死霊をも含みますから死者に通ずる道、つまり墓道の意味に使われる。

 -それからまた、祠堂-神明(かみ)を祠ったお宮に通ずる道路、といった使い方も出てきます。神社への参道という意味です。

 そういうふうにして、陵墓への道や神社への道などを神道と呼ぶことが行なわれるようになってきますけれども、さらにまた西暦三世紀、魏晋の頃になりますと、そういった神道の言葉の用法から転じ、宗教的な世界の真理一般、もしくは超越的・神秘的な世界に関する教説、それ自体が神道と呼ばれるようになる。

 そしてこれはさきほど申しました、中国仏教が神道の教として意識される、あるいはまた、道教が鬼道よりも優越した宗教として神道の教と称する場合の神道とだいたい同類の概念でありますけれども、そういうふうにして、神道の概念というものが中国宗教思想史のなかで少しずつ内容的に変化していくわけです。