道教と日本思想 ⑧
http://honnomori.jpn.org/syomei/4-ta/dou-nihon-1.html 【道教と日本思想】 著者 福永光司 徳間書店 より
Ⅴ 老荘の思想
儒教思想との折衷融合
儒教は簡単にいえば、政治倫理の思想を説く一種の支配の哲学、あるいは、国家社会の秩序の確立を主要な目的とする「公」的な思想、もしくは「表」の思想、ということができるだろうと思います。
それに対して、老荘のほうは、政治倫理の思想としての性格をまったく持たないわけではありませんが、どちらかといえば、個人の生き方を主要な関心事とし、儒教の「公」に対してこちらのほうは、むしろ「私」の思想、もしくは、「裏」の思想という性格を強く持っております。
儒教が徹頭徹尾、政治倫理の思想であり、天下国家を問題とする公的な思想であるのに対して、老荘は、いま申しましたように、私つまり個人的な性格を強く持つ在野の思想でありますから、どうしても中国の思想の歴史のなかで、宗教や芸術などとたいへん密接な関係を持ちます。
<第一期-戦国末・秦漢期の折衷融合>
その第一の時期は、西暦前三世紀から二世紀、中国の歴史で申しますと、戦国時代の末期から、秦、漢のはじめにかけてで、この時期になると、両方の思想、つまり儒教の思想と老荘の思想が、ミックスされて、そこから一つの新しい思想の動きが出てきます。
その動きを現在伝わっている文献で跡づけますと、いまは儒教の経典のなかに入れられておりますが、『易経』のなかに「繋辞伝」とよばれる文章があります。これは一種の自然哲学-大地の道-を説いたものですが、同じく天地の道を説く老荘の自然哲学と共通した性格を多分にもっています。
『中庸』の哲学も、老荘の天地の道の哲学とたいへん密接な関係を持っております。それからまた、『中庸』よりはその成立がすこし遅れますが、現在、『中庸』と同じく『礼記』という儒教の経典のなかに一篇として収められています『楽記』、この『楽記』という書物は、音楽というものが儒教の説く政治や倫理の教えにどのような寄与をするかということを明らかにするとともに、音楽のいちばん根源にあるもの-これは中国人の考えによりますと、宇宙の秩序、天地大自然のリズムでありますが、この秩序とリズムを音楽によって表現する、また、そういう表現を持つ音楽が音楽としていちばんすぐれていることなどを論じたものです。いわば、中国古代における音楽の哲学を説いた書物が『楽記』でありますが、ここでも、やはり『易経』の「繋辞伝」や『中庸』と同じく、天地の道の哲学が説かれているわけです。
そして、いずれもこれらの論述は、儒教と老荘の思想が接触した結果、生まれてきたものであり、これが第一次の儒教と老荘の思想との折衷融合です。
〈第二期-魏晋期の折衷融合、日本に影響〉
つぎに、第二の時期は、西暦後3世紀から4世紀、中国の歴史で申しますと、魏、晋の時代。この魏、晋の時代には、たいへん老荘の思想がさかんになります。
それは前の漢の大帝国が滅びて、それまで儒教の経典をさえ勉強していたら完全に就職ができる、官吏になれて生活できるという状況が崩れてきて、いままでは就職のための勉強といいますか、官吏になるための勉強をさえしておればよかったのが、ここにきて、そういった勉強よりも、自分自身のための勉強、おのれの心の支えになる学問をしようという動きが強く出てきます。と同時に、このころから、仏教が中国の社会で次第に勢力を培ってくるわけでありますが、その仏教の哲学とも関連して、この時代には老荘の思想がたいへん盛んになる。
たいへん盛んになりますけれども、前の漢の時代には儒教の学問が盛んであったわけですから、その儒教の学問を新しく老荘の思想によって解釈するという風潮が、同時に当時の思想界で盛んになり、かくて儒教と老荘の思想との折衷融合が顕著に行なわれる、ということになるわけです。
『万葉集』の歌人のなかで、いちばん特徴的な老荘思想の持主といえば、大伴旅人でありましょうが、彼の作品のなかに盛られている老荘思想も、だいたいこの時期の中国の老荘思想です。
〈第三期-新儒教における折衷融合〉
第三の時期は、11世紀以後、中国の歴史で申しますと、宋から明に至る時代です。
第二期の折衷されたものをふまえて、7世紀以後、晴、唐の時代には中国の仏教が大幅に思想界に力を得てきます。
そこで、それに対する批判と反省が11世紀、王朝の名前で申しますと北宋、この北宋時代から批判と反省が起きて、"中国の思想界は全く仏教にいかれてしまっているではないか、中国民族の思想的な主体性は、いったいどこにあるんだ"という反省から、新しい儒教、"新儒教"=この言葉はヨーロッパの学者が好んで使うものですが、従来の呼び方にしたがえば、道学もしくは理学、もしくは性理学、宋学-が起こってきます。
あるいは、その代表的な思想家の名前をとって「二程朱子の学」、略して「程朱学」とも呼ばれていますが、二程というのは程明道、程伊川という二人の兄弟。朱はいうまでもなく朱烹。そして、この程朱学、道学、性理学というもののなかにも、やはり老荘の思想が大きく持ちこまれています。
程朱学、理学、道学、性理の学などとよばれるこれら"新儒教"の形而上学が、主な拠りどころとする儒教の経典は『易経』の「繋辞伝」、『中庸』『楽記』などですが、-これらの経典は第一の時期の儒教と老荘の思想の折衷融合によって成立した書物でありますから、したがって、そのなかに老荘的な思想がかなり含まれている。
老荘思想の日本への影響
この新儒教、宋学は、北宋・南宋の時代から元・明の時代へと継承されて、その間に南宋の陸象山、明の王陽明の哲学を生むわけですが、
明代も末期、16世紀の後半になると、そのなかに内包されていた老荘仏教の学問が表面に出るようになって、結局はその原点に帰るというか、道学が文字通り道の学問、つまり老荘の道と仏教の道を総合した三教一致的な哲学となってゆきます。
日本にはじめて伝えられた老荘思想は、第二期に儒教と折衷された魏、晋の老荘の思想であると、先ほど申しましたが、その後、
第三期に儒教と折衷された老荘思想が日本に伝えられるのは、鎌倉室町の時代以後であり、
とくに明末の三教一致的な老荘思想が日本に伝えられ、学界に影響をもつようになるのは、明の遺民、朱舜水や陳元賛らが日本に亡命してくる江戸時代からです。前にも申しましたように、11世紀、程朱学は表面的には仏教、老荘を排撃しますが、しかし、中国で明の末期、16世紀後半ごろになりますと、そのなかに内包されていた仏教や老荘の思想が頭をもたげてきて、儒教の説く聖人の道と老荘、仏教の説く道とは、究極的には同じ真理であるといったような考え方が有力になってきて、その考え方が日本にも伝えられてきます。
江戸期でも、はじめは朱子学が官学として力を持つわけですけれども、中期以後は、次第に明末の思想界と同じような様相を呈してきて、陽明学や古学とともに、老荘や仏教の思想も学界で頭をもたげてくる。とくに、民間人の学問教養としては、その傾向が顕著となってくるわけであります。
老荘の思想が思想としてはっきり形成されてくるのは、儒教の思想に対する批判としてです。もちろん、老荘の思想の根底にある考え方は、それ以前の古い中国にもあったと考えられますか、それが思想として成立してくるのは、儒教の成立よりも遅れると考えられます。
ふつうには、儒教の教祖といわれる孔子は、老子を訪ねて教えを乞うたという伝説が行なわれていますが、近ごろの研究では、歴史的にいろいろ検討してみて、それはどうも無理である。少なくとも、現在伝えられている老荘の基本的な文献、『老子』や『荘子』の内容を思想的に研究してみると、どうしても儒教の批判としてあとから出てきたと解釈せざるを得ない。
無為は有為の否定として出てきた、老荘の思想は儒教の思想の批判として成立した、と考えるほうが思想の歴史としても自然である。
儒教思想のあらまし
儒教の思想は、先ほど申しましたように、政治倫理の思想を根本に置く治国平天下の術、つまり一種の支配の哲学である、と私は理解しますが、その支配の哲学としての儒教がめざしているものは、やはり、"この世界のすべての人間の、安らかで楽しい生活"であります。その生活を実現するための社会の秩序と倫理の規範、それを儒教は説くわけです-
孔子の時代には、すでにかなり崩れかけてはいましたが、一応周王朝の制度として、現実の社会の政治的な秩序があったわけです。
その秩序といいますのは、いちばん上に天子がいて、その下に諸侯がいる。それから、天子、諸侯を助けて実際に政治を行なっていく官僚階級、それが卿大夫、つまり高級官僚と、士つまり下級官僚です。これをいっしょにして臣と呼びます。天子と諸侯はいっしょにして、これを君といいます。この君と臣とがだいたい支配層です。
それに対して支配される層が民で、内訳は農工商となるわけです。この下に半自由民・奴隷などがつきますが、主なるものは農工商の民です。
つまり、社会の階層を大きくわけると、君と臣と民の三つとなる。そして、このような社会の階層は孔子の時代、つまり西暦前6世紀の春秋時代に周王朝の社会組織として、一応現実に存在していたわけです。
孔子はこの現実をふまえたうえで、すべての人々がそれぞれに道徳的に自覚を持つ社会、天子諸侯は天子諸侯として、卿大夫士は卿大夫子として、それぞれに人格的な価値をもつ社会を究極的な理想として、天子には、完全な人格としての「聖人」を、大夫や、士の官僚階級に対しては、理想的な人間像としての「君子」を、説くわけです。それに対して、民のほうは、道徳的な自覚は持つに越したことはないけれども、現実にはなかなか持てないものである。だから、これは「小人」とよばれる。
聖人たるべき天子をヒエラルキーのトップに置いて、その政治を助ける官僚階級は君子たるべし、民は小人であるというふうにして、現実の社会的な階層と道徳的な自覚の高下、人格的な価値の大小をそれぞれに対応させ、そこに一つの理想的な社会の秩序を考える。しかし、それは力関係にもとつく秩序ではなくて、あくまで道徳的な自覚の高下を秩序の原理とするものです。
これが、いわゆる孔子の道徳階級社会であります-ついでに申しますと、孔子の君子、小人といった考え方は、孟子に受け継がれて、支配する者と支配される者との関係が、肉体労働者と精神労働者の関係に置きかえられる。これはたいへん有名な言葉で、よく問題になる言葉ですが、「心を労する者は、人を治める」すなわち、精神労働に従事す者は、支配階級になる。「力を労する者は、人に治められる」。肉体労働者は精神労働者に治めてもらう(『孟子』縢文公篇上)。
孔子や孟子は、そういう社会的な階層というものを考えるわけですが、その階層に、いま言ったような道徳的自覚を持たせるために、こんどは倫理的な規範を定める。その倫埋的な規範で最も重要視するのは人倫、人間関係。人間がこの世に生活するかぎり一人では住めないから、多数者といっしょに住む。その場合には、必ず人間関係が生ずる。たとえば、支配する者と支配される者、君と民。また親と子、兄と弟、姉と妹だとか、あるいは年長者と年少者、あるいは夫と妻というような、いろんな人間関係が生ずるわけです。
孔子の場合には、いちばん重点を置いた人間関係は親子兄弟の家族関係であって、孔子は主として孝悌の道徳、親子兄弟の間の倫理を重んじ強調したわけですが、孟子になりますと、人間関係を五つに整理して、親とか義、別、序、信といったような倫理道徳を立てている。
ともかく、そういった倫理の規範、つまり人倫の道を設けて、それによって社会の秩序を内面的、道徳的に充実させて、全体として安定した社会を実現していく、そういった政治理想を高くかかげるわけです。
たとえば『易経』の『繋辞伝』では、親子の間に尊卑の関係があるのは、ちょうど天が高く地が低いのと同じで、それは天地自然のあり方にのっとったものであるというように、天地の道、大自然の秩序で人倫の道を根拠づけていく。孔子にも、そういった考え方は全くないわけではなく、「天」だとか、「命」だとか、人間の力を越えたものの働きを説いてはいますが、孔子の場合には、「天」という言葉を用いていて、「天地の道」といったような表現は用いていず、「天地の道」という言い方は、もともと老荘的な表現であると見ていいだろうと思います。
ここに明確に、人間の倫理というものが、その根拠は天地、大自然の理法にあるのだという考え方が示されています。これは、言葉としては、孔子は説いていないことです。
ただ、孟子の場合には、人間の本性ということについては、ご承知のように「性善説」というものを主張し、人間はだれから教えられなくても、生まれつきとして先天的に善を行なう本性を持っておるのだ、と説く。
-政治と倫理の秩序と規範、これはずっと大むかしの聖王たちが、それを苦心して作りあげ、実践してきたものであるというように説明して、それを「先王の道」とよぶ。その秩序や規範を理論的に体系づけるというよりも、むしろ、具体的な過去の帝王に託し、かつて古代においては、事実として実現していたのだというように、過去の歴史のなかに理想化する。 それが、需教のいわゆる「先王の道」です。
儒教の理想主義は偽善を生む
このような儒教の思想は、当時の時点としては、かなり進んだものであったといってよいと思います。ただ、この儒教の思想の特徴は、次に説明します老荘の思想との対比で申しますと、あまりにも人間性の善美に信頼しすぎている。あるがままの人間よりも、あるべき人間を強調しすぎて、そこに無理な背のびが感じられる。
-人間のこのあるがままの姿、下限を見落とし、もしくは無視して、上限の善美さばかりを強調すると、みかけはたいへん立派だけれども、しかし、内実はそれについていけない。- お題目をとなえるけれども、裏側ではごまかすということになる。つまり、偽善です。
老荘思想は儒教批判から出発
ここで『老子』や『荘子』の言おうとしていることは、ある規範、"ねばならない"をあまり強調しすぎると、ごまかし、偽善が出てくる。だから、人間が本来なんであるのかということをよく見つめたうえで、それから、"ねばならない"ということを考えてゆくことが大切である。"である"と"ねばならない"との問の対応関係に絶えず注意していないと、-逆に自由な生を束縛して、人問の社会は生々澄刺としたあり方を失ってしまう。その点を、老荘は批判するわけです。
現実の常識的な「為」や「言」や「用」を批判し、否定しながら、批判し、否定することによって、真の「為」や「言」や「用」を肯定する。このロジックの構造は老荘思想に独特のものです。のちには、中国仏教もまたこのロジックと表現を使いますが、このようにして老荘の思想は、人間にとってのほんとうの行為を追求し、よけいなもの、不必要なものをできるだけ切り捨ててゆく。切り捨ててしまったところから、ほんとうに必要なものを肯定してゆく。人間の行為についても、言葉についても、それから、知識だとか財貨だとか、有用性とかについても、すべて老荘では同じように考えるわけです。
老荘思想の成立基盤
司馬遷の『史記』によると、老子の生地は楚の国の苦県(こけん)、いまの地図では、河南省の鹿邑(ろくゆう)県ということになっています。一方、荘子の生地は、やはりその付近で、古い地名でいえば宋の国の蒙、現在の地図では河南省の商邸市。いまの商業とか商売の商という行為は、だいたいこの地方から発生したというように言われていますが、この商邸とか、鹿邑とかいうのは、歴史的、風土的にどんなところかといいますと、この地域は、周の王朝に滅ぼされた殷民族の末裔が集団的に集められて住んだところ、それから商邸とは商の丘の意味で、商すなわち股の王朝の都の跡です。
商ともよばれた殷の王朝が滅びますと、政権をにぎっているのは、征服者としての周の王朝であって、この地域の人々は、現実の政治の舞台で活躍することにはハンディがある。そこで、政治的に道を閉ざされていた彼らは、経済の世界に活路を求めて商業に従事する。そういうことで、あきないの行為を商とよぶようになったという説があります。
老荘と儒教思想との異同
ですから、老荘の思想は、そういうようなきびしい歴史的な現実をふまえて、いたずらに〃ねばならない"を絶叫するよりも、"である"こと、現実になんであるかということ、人間が本来なんであるのかということを深くつきつめる。と同時に、人間にとって、いったい、ねちのあること、価値とはどういうことなのか、儒教の説くような価値観は、すべてそのまま肯定してもいいものなのか、どうか。いったい根源的な価値とはいかなるものなのか。-人間という存在はいったい、本来的にはなんなのか、といったような問題をつきつめていく。儒教のめざすところとは、ですから、大きく方向を異にするわけです。
もちろん、同じ中国古代の思想ですから、共通する点も少なくない。たとえば、老荘の思想では自然にまかせよという。自然にまかせれば、すべてはうまくゆくのだ。鳥や魚だって、自然にうまくやっているではないか。まして人間の場合には、人為のさかしらを捨てるならば、万事うまくやれるのだ。ただ、よけいな干渉を加え、作為を弄するから、うまくいかないだけだ、というふうに考える。そういう考え方は、やはり人間の本性が善であるということを暗黙のうちに認めているわけであって、これは儒教と共通した考え方であると思います。
乱世の思想
ここで乱世というのは、狭い意味で戦乱の世ということだけではなしに、表面は一応、治世のように見えても、秩序のゆがめられた社会、固定化し形骸化し、偽善の満ち満ちた社会を含みます。たとえば、わが国の江戸の後半期では、武士の階級社会、幕藩体制が固定化するとともに、形骸化してきて、表面は平和のように見えても、ゆがめられた社会、偽善の横行する社会であるという、一種の乱世の意識が芽生えてきます。
否定の精神と論理
現実の社会のあり方はゆがんでいる、おかしい。人間の本来のあり方がごまかされているぞという、今あるものを批判し否定する考え方、これも中国の思想の歴史では、老荘ではじめて出てくる思想です。
もちろん、儒教の経典のなかにも、否定的な表現は用いられています。しかし、それはあくまで儒教という土俵のなかで、こうこうしてはいけないという禁止的な教訓にとどまる。
真と俗を問う
真、仮ということは、のちに中国に仏教が入ってきますと、むしろ仏教の言葉として有名になりますが、「真」を追求する生き方を第一義とするものに対して、「利」を追求する生き方を第一義とするもの、それをこの「真」に対する「俗」と呼びます。
「真」は老荘では「道」と同義ですから、「真」と「俗」はまた、「道」と「俗」ということにもなりますが、真と俗との対比、もしくは道と俗との対比を最初に言葉として、また思想として打ち出してきたのも老荘です。人生の根源的な真理にめざめを持つ者と、そうではなくて、ただ目前の利益を追求している者との違い、それが、道と俗との違いです。道と俗の対比も、のちには、中国の仏教でよく用いられる言葉になります。
「私」の思想と「憂愁の病」
はじめにも申しましたように、儒教の思想を「公」とすれば、老荘の思想は「私」の思想であるということです。もともと、公という漢字はどういう文字の構造になっているかと申しますと、ハとムに分解されます。ムというのは私という文字の古い形です。それに対して、ハは背反、反対の意を示します。ムすなわち私の反対という意味で公です。
公は私の反対、私は公の反対、公と私は相互に対立する概念です。儒教の「公」に対する老荘の「私」の思想というのは、どういうことか。一言で言えば、老荘の思想は、国家というものを絶対的な前提としない。
儒教は国家とか、君主とかいう存在を一応肯定して、そこで人倫を説き、国を治め、天下を平らかにすることを説く。国家というものを軸にして家族、個人の倫理を説くわけです。個人といっても、いまのわれわれの言う個人とは、必ずしも同じ意味ではない。
ちなみに中国で厳密な意味での個人という考え方が出てくるのは、仏教が入ってきて、「業報」の思想が正確に理解されるようになってからだと言われます。
もちろん、いかなる時代でも思想と感情の主体は個人ですから、その意味では、近代の個人の概念と重なるものをもつわけですが、ただ、中国人の場合には、いつでも複数になりうる個人、つまり、家族をその背後にもつ個人です。中国ではたとえ隠遁者の場合でも、だいたい家族ぐるみで隠遁するというケースが多い。とくに仏教の入るまでは、「出離」といっても、世俗すなわち政治的な秩序の世界をすてることを出離と考えています。ですから、儒教で考える個人も同じことで、-個人から家族、家族から国家、国家から天下すなわち世界へいく。そして、個人、家族が国家の秩序に対して従う場合、これが「公」です。個人、家族に対して、国家は公の価値です。
ところが、ここで老荘の思想では、国家を通り越して、一挙に個が普遍につながる。個人が「道」すなわち根源的な真理の前に国家を媒介とすることなしに、ただ一人、その前に立つ。
それが、老荘の「私」です。これは、老荘の思想の非常に大きな特徴だと思います。ですから、国家という媒介項を抜く傾向をもつこの思想が世の中に広まると、国家を第一とし、その強盛をはかるというような考え方にとっては、それは無用であるばかりか、害毒を流すとされる。
私の例からすぐに一般化してしまうのは危険ですけれども、この思想に興味を持つ人間は、『荘子』のいわゆる"幽憂の病"を持つものだろうと思います。幽憂とは別の言葉でいえば、憂愁です。よくいえば、一種の非常に鋭くて繊細な感受性、悪くいえば、小心で、ひっこみ思案な臆病さ、ということにもなるだろうと思いますが、そういった幽憂の病、なぜとも知らぬ憂愁を心にいだく人間たちです。
生命の価値を優先
第五の特徴として挙げられますのは、人間が生きているということ、人間の生命を最高の価値として、人間や、人間の社会のあり方を考えていく思想であるということです。儒教の場合には、「大義は親を滅す」とか、「身を殺して仁を成す」とか、国家の危機に臨んでは命を投げ捨てるとかいうような倫理道徳をいろいろと説く。それはそれでいいわけでしょうが、ごまかされる場合もある。仁が為政者のための仁であったり、倫理が権力者のために利用されていたりするというように。ですから、思いきって角度をかえて、人間の定めた倫理や規範よりも、人間の生命そのものがいちばん値うちがあるのだ、もしくは、はじめに倫理規範があるのではなくて、はじめに人間の生命があるのだというように考えてみる。つまり、人間の生命を至高の価値として、現実の社会の倫理だとか、道徳だとか、社会の成立ち、組立てなどを考えなおしてみたら、いったいどういうことになるかという、そういった考え方、思想です。
さきほどの「公」と「私」の問題、すなわち儒教の思想が「公」の価値を説くのに、老荘の思想は「私」の価値を説くという問題とも関連して、この点もまた、儒教からきびしく批判されるところですが、老荘はすべて人間の作為したものよりも、自然であるものを根源的と見るわけです。
人間が安らかに生きるためには、国家社会に秩序や規範が必要である。けれども、秩序や規範は、人間の生を安らかにするとともに、人間の生を束縛する桎梏となる。かくて、生きているということを重視するかぎり、人は時として二者択一を迫られる。生きている無秩序をえらぶか、秩序ある屍をえらぶかという、二者択一です。秩序というものは、ある意味で規範的な要素をもちますから、固定化し、形式化する。そうすると、自由にまた創造的に生きようとすれば、どうしても既成の秩序にすっぽりとはまり込んでしまえない。秩序で割り切れないものが残る。それを『荘子』の言葉でいえば、「両行」、ふたつながら行なわれる、矛盾の同時存在ということになる。生きているということは、矛盾が同時に存在するということです。
江戸期の老荘思想
-江戸期の老荘思想でとりわけ注目を引くのは、芭蕉と、良寛と、賀茂真淵です。良寛は諸国を行脚していたとき、僧侶でありながら仏典はまったくたずさえず、『荘子』二巻だけを持ち歩いていたという記録があります。
質疑応答と「資料」
仏教の「空」と老荘の「無」
老荘の「道」というのは、別の言葉でいいかえると、「真」ということになります。それからまた、「無」ともいいかえられ、さらにはまた「無名」、「無為」、「自然」あるいはいっしょにして「無為自然」などともよばれます。これらはいずれも「道」のあり方を説明する言葉であり、また道の同義語として使われます。その場合に、「無」という言葉は、ちょっとみると、仏教の「空」とたいへん似ているように思われますけれども、これは違うんです。少なくとも、仏教が中国に入ってくるまでは違うんです。どこが違うかというと、中国人にはもともと仏教のように、ものの実体性、ものそれ自体の存在性を否定するという考え方はないわけです。
中国人には、仏教が入ってくるまでは、ものの自性、すなわち物それ自体の存在性を否定するという考え方はないわけで、だからこそ、仏教が入ってきてから、「空」の解釈をめぐって、たいへんな論争が展開されるわけです。『老子』の「無」というのは、そもそも「道」の同義語ですが、道は人間の感覚、知覚では、その存在を確認することができない。しかし、全くの非存在ではなく超越的な何物かは存在しているのです。
天地造化のはたらき、「無」と「道」と「空」
-「道」である、ということになります。しかし、その道は形もなく、声もなく、色もなく、ないという否定形でしか表現できない。それが、老荘の「無」ということなんです。ところが、仏教が中国に入ってきますと、仏教を布教するために、老荘の「無」が仏教の「空」と結びつけられる。また、これは先ほどもちょっと申しましたが、仏典が漢訳される場合に、老荘の「無」が訳語として用いられる。そうすると、そこに混同が起きてくる。そして、仏教の「空」は老荘の「無」と同じだというような解釈が生まれてくる。いわゆる「本無説」などがそれです。4世紀、5世紀ごろのことです。-それからあとは、仏教の「空」と「無」とをほとんど同じものとみるような解釈がかなり有力になってきて、とくに禅教でそれが目立ち、それがまた、日本にも伝えられてくるわけです。日本の禅坊主が好んで「無」の一字を揮毫するのもこのためです。