Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

道教と日本思想 ⑨

2018.05.16 04:07

http://honnomori.jpn.org/syomei/4-ta/dou-nihon-1.html 【道教と日本思想】 著者 福永光司 徳間書店  より

 Ⅵ 記紀と道教

中国学の資料を置き去り

 私の見るところ、未解決の問題の最大のものは、やはり、記紀の神話伝説と中国古代の宗教思想信仰、とくに記紀が文献として成立する8世紀初めに至るまでの中国古代のそれを集大成するところの、道教の神学教理、もしくは宗教哲学と記紀との比較検討、綿密な文献学的照合などです。

道教の神学との類似

 いわゆる天地開闢(この世界の始まり)を説く文章であります。-『日本書紀』の漢文が『書紀集解』でも注記しているように、西暦前2世紀、前漢の武帝の時代に成立が確認される『淮南子』の椒真訓、天文訓の文章、および西暦後3世紀、三国鼎立の呉の時代に成立している徐整の『三五暦記』の文章などをもふまえて書かれているのに対し、一方の『古事記』のほうは、記紀の成立年代とは逆に、『淮南子』『三五暦記』などより遙かに新しい、中国南北朝後半期に成立したと推定される道教の神学教理書の類をふまえて書かれている事実がとくに注目されます。

記紀冒頭の錬金術

『日本書紀』の天地開閣神話における「三→八」すなわち三神から八神への展開は、中国の古典哲学書『老子』第42章の「三は万物を生ず」および『易経』繋辞伝の「太極は両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」の「八卦を生ず」をふまえたものと解されるのに反し-、『古事記』の「三→五→七」の展開は、まさに6世紀後半に成立した上記『無上秘要』に収載する中国南北朝期の道教神学書に説く三気から五気(五行の気)へ、五気から七気(陰陽の二気と五行の五気の和)への展開を神格化し、神話化したものと見てよいであろうと思います。

〔補論〕『古事記』神話と道教の神学

道教思想史研究覚書-みずから学習する人のために-

道教の思想史的概観

-西暦2世紀の半ば(後漢の順帝の治世)、張陵(張道陵)による五斗米道(ごとべいどう-天師道)の教としての道教の創始から11世紀の初め(北宋の真宗の治世)、道教の神学教理百科全書『雲笈七籤』120巻の成立に至るまで-

 中国における民族宗教としての道教は、その源流と成立基盤とを中国古代の巫術(鬼道)および墨家が『詩経』・『書経』などを典拠として強調する上帝鬼神の思想信仰、さらには秦漢時代の災異祥瑞の思想信仰、神仙不死の信仰と各種の道術およびそれらと密接な関連を持つ医学薬学の理論と現実的実践などに持ち、2世紀の半ば、後漢の順帝(125-144在位)時代、熱烈な神仙不死の信仰者でもあった漢の高祖劉邦と同郷の道術老・張陵(張道陵)によって五斗米道の教として創始された。

 五斗米道とは信者となった人々が五斗の米穀を供出するので、この名があるといわれるが、教の中核をなすものは殷周以来の伝統的な巫術(鬼道)であり、この教は順帝の漢安元年(142)、太上老君すなわち神格化された哲人の老子(老タン)が蜀の成都(四川省)の近くの鵠鳴山-『道蔵』洞神部に収載する『正一法文天師教戒科経』によれば、同じく臨卭の赤石城-のうえで張陵に垂訓した教誠(「正一盟威の道」の教)に基づくといわれる(「正一」の語は『老子』の「一を得て天下の貞〈正〉と為る」に、また「盟威」の語は儒教の経典『尚書』の「天の明威」に基づく)。

 張陵が五斗米道の教を創めたのと同じ後漢の順帝の頃、瑯邪(ろうや・山東省)の道術者宮崇は、師の干吉が海州(江蘇省東海県)の曲陽泉で得たという神書(『太平清領書』)170巻を朝廷に献上したが、

 この神書に説く道術に基づいて後漢の末期、霊帝(167-189在位)の時代に黄巾の乱の首謀者となった鉅鹿(きょろく・河北省)出身の張角は太平道の教を説き、この教は後に上記の張陵から子の張衡、孫の張魯に受けつがれた五斗米道の教と合流して天師道の教とよばれた(張陵、張衡、張魯を「三張」とよび、初期の天師道の教をまた「三張の道教」ともいう)。

 「天師」とは、天のごとく偉大な宗師を意味して『荘子』(徐無鬼篇)に見えている語である。干吉の神書『太平清領書』(『太平経』)にも多く用いられているが、張陵もまた教団の最高指導者としてこの「天師」の称号を用いていたといわれる。なお干吉の神書には「天師」の語と共に「神」もしくは宗教の真理を意味する「神道」の語もまた多く用いられており、この語は『易』の観卦に初めて見える言葉であるが、

 ただ干吉の神書に多く見えている「神道」の語は、『易』のそれが自然哲学的傾斜を強くもつのに対して呪術宗教的傾斜を顕著にもつ。ちなみに、五斗米道(天師道)の張魯の教団で幹部教育用に用いたとされている『老子想爾注』の内容もまた干吉の神書の影響を強く受けており、その呪術宗教的傾斜を『老子道徳経』の解釈のなかに大幅に持ちこんでいる。

 張陵の五斗米道の教や張角の太平道の教が興った後漢の時代にはまた『史記』(封禅書)にいわゆる「丹沙は化して黄金と為すべし」という錬金術(黄白の術)が、益寿延年の神仙信仰もしくは医療薬術と関連して理論と実験の面で新しい展開を見せた。理論書としては呉(江蘇省)の魏伯陽の『周易参同契』が書かれている。この書は中国古代の錬金術を『易』(『周易』)と『老子』の形而上学で理論化したものであるが、その錬金術理論を基盤的に継承し、広く戦国以来の神仙方術の思想信仰、科学技術を整理解説して、道教の神学教理ないし思想哲学の基礎を確立したのは句容(江蘇省)の葛玄の従孫、西晋末期の葛洪・抱朴子(283-343)である。

 葛玄および葛洪が思想的に密接な関連をもつ洞玄霊宝の道教神学については、ここであまりくわしく触れる余裕がないが、葛洪が『老子』の「玄」の哲学を最大限に重んじながら『荘子』の「斉物」の哲学に対しては厳しい批判の態度をとっていること、また仏教に対して積極的な受容の姿勢を見せていないことなど、次の陶弘景とは大きく異なる点であり、この時期の江南の道教思想を考えるうえで注目される。

 いわゆる「二葛」すなわち葛玄とその従孫の葛洪とは江南(江蘇省句容)の出身者であり、葛洪の晩年には中国全土は政治的に二分されて南朝と北朝との対立となり、そのなかで道教も変わっていく。

 南朝では盧山の道士・陸修静(406-477)が、上述の「三張」・「二葛」の道教を祖述敷衍(ふえん)して南天師道の道教を確立、当時、現存の道教文献のすべてを「三洞」に整理分類すると共に新しく道教の神学教理、宗教儀礼(斎醮儀範)などを整備、南朝の皇帝貴戚の篤い信奉をも受けるに至っている。

 陸修静が確立した南天師道の道教は南斉の道士・顧歓(420-483)らを経て梁の陶弘景(456-536)に引き継がれる。江南の茅山(ぼうざん・江蘇省)に拠点を置いた陶弘景は、とくに道教の神学教理の面における整備と強化とに努めた。彼の編著に成る道教の神学奥義書『真誥』7篇がよくその成果を代表するが、それを読むと『荘子』の「真」の哲学と共に『妙法蓮華経』をはじめ、漢訳仏典に基づく中国仏教の教理学を積極的に採り入れている点が彼の道教神学の大きな特色であり、この『真誥』の著作が洞真部を輔ける太玄部の代表的道教文献とされているのもこのためにほかならない。

 陸修静から陶弘景に至る南天師道の道教に対して北朝における北天師道の道教を確立するのは、北魏の道士寇謙之(こうけんし・365?-448)である。彼は北魏の明元帝の神瑞2年(415)、嵩山の頂上で太上老君から「吾が新科の誠を宣べて道教を清め整え、三張の偽法を除去せよ……」という神勅を受け、太武帝(423-451在位)の支持のもと、老君の神勅の実現に努め、ついに道教を北魏の国教とすることに成功している。彼の道教は、神学教理の哲学的な面よりも宗教儀礼、とくに国家的宗教儀礼の実践的な面を重視し、太武帝の太平真君3年(442)には帝みずから道壇に至り、親しく符籙を受くるに至らしめている。

 北魏の王朝は5世紀の前半、東魏と西魏に分裂し、東魏は北斉に、西魏は北周に交替していくが、北周の武帝(561-578在位)の時、勅命によって編纂されたという(『続高僧伝』釈彦琮伝)『無上秘要』(100巻。ただし原欠32巻)は、現存する最古の道教教理百科全書であり、また6世紀後半の頃の北朝における道教学の実態を知る具体的な資料として貴重である(『無上秘要』に引用されている経典の延総数は708首であるが、そのうち8割近くの536首に三洞の区分が明記されている点がとくに重要である)。

 これに対する南朝では、梁の阮孝緒(479-536)の『七録』仙道録に当時の道教文献を経戒、服餌、房中、符図の四部に分類し、それぞれの巻数828、167、38、103、合計1136巻を載せている。そして『晴書』経籍志「道経」章では「服餌」を「餌服」に、「符図」を「符録」に改めて『七録』とほぼ同じく四部の巻数908、167、38、103、合計1216巻を載せているが、それに続く「道経」の教理内容を解説する「元始天尊は太元の先に生まれ、自然の気を稟(う)く云々」以下約1400字の文章は、7世紀の初め、随唐初の時代における道教の神学教理を教団外部の一般知識人が解説しているものとして注目される。

  随の文帝が皇帝として正式に即位してから僅か30年たらずで滅亡した楊氏の随王朝に代って李氏の唐王朝が成立すると、道教の開祖とされる老子の姓が『史記』で同じく李とされていることもあって、道教の熱烈な信奉者である高宗(649-683在位)の時には、老子(太上老君)は唐の皇室の遠祖とされ、太上玄元皇帝の尊号をおくられることになり、これ以後、皇帝としてさらに熱烈な道教の信奉者である玄宗(712-756在位)を経て、10世紀の初め、王朝の滅亡に至るまで道教は北魏と同じく国教の地位を占め、その黄金時代を迎えることになる。

 天下の士庶の家ごとに『老子』(『道徳真経』)一本を蔵させ、国立の道教大学ともいうべき崇玄学を設置し、その生徒に老子、荘子、列子、文子を習わせ、毎年、科挙の明経に准じて考試を行なわせたのは玄宗であるが、この皇帝の時にはまた道教の一切経目録である『瓊綱(けいこう)経目』7300巻が作られ、この経目に『玉緯別目』を加えると収載の道教文献は九千余巻になったという(杜光庭刪『太上黄籙斎儀』巻52)。しかも、玄宗皇帝自身が『道徳真経』(『老子』)に『御注』を書くくらいであるから、道教の神学教理もしくは思想哲学の整備研究は最高度に達し、同じく黄金時代を迎えていた仏教のそれとも十分に競合しえて、孫思邈、史崇玄、呉筠、司馬承禎、張万福、杜光庭など多くのすぐれた道教学者を輩出している。

 このような道教黄金時代の唐代およびそれを承ける五代の時代の道教の学術思想研究の成果は、11世紀、北宋の初め、この宗教の熱烈な信奉者であり護持者でもあった真宗皇帝の天禧3年(1019)、一種の道教「神学大全」-思想百科全書として勅撰された『雲笈七籤』120巻=その編集実務担当者は科挙の合格者で、当時第一級の学者・知識人である道士の張君房=の具体的な内容を詳細に検討考察することにより、道教がこの時代、みずからをどのような宗教として理解し自覚し、もしくは解釈し規定しているかを如実に知ることができる。つまり、道教とは何かに対する教団内部者の立場からの解答が、最もまとまった形で最も適切に提示されているわけである。

 すなわち、その全120巻の冒頭第1巻には、道教の宗教哲学の根本概念である「道(タオ)」とは何かを考えるための基礎文献資料を列挙し、ついで第2巻以下に道教の神学教理の基本的な概念、各種経典の成立の歴史とそれの整理分類の原則、歴代の天師すなわち教団の最高指導者たちの伝記などに関する解説資料を整然と排列し、第6巻から第20巻までの14巻に代表的な道教の神学教理書約60種の解題もしくは本文を収載している。また第21巻から末尾の第120巻に至る100巻の内容は、6世紀に北周で編纂された上記の道教教理百科全書『無上秘要』100巻のそれとあらまし対応し、引用経典も古い時代のものは『無上秘要』のそれをほとんどそのまま引き継いでいるが、『無上秘要』の編纂が儀礼儀式に重点を置いて金丹部門に粗略であるのに対し、『雲笈七籤』のそれは、『周易参同契』、『抱朴子』内篇などを基底におく金丹部門にも力を注ぎ、全般的に道教の神学教理ないし思想哲学に関心の重点を置いている。

 なお、この『雲笈七籤』120巻の具体的な記述内容によって道教の何たるかを検討考察するとき、道教の神学教理が中国宗教思想史として四つの層の重なり、すなわち最底部の鬼道の教としての道教、その上部に神道の教としての道教、さらにその上部に真道の教としての道教、最上部に聖道の教としての道教が四重構造として検出されるということ、またこの四重構造をもつ「道の教」を総合総括して、その重なりの全体を中国伝統の民族宗教「道教」と考えるほかないであろうことについては、本書のⅠ「空海と中国」31ページ以下の記述を参照されたい(「四重構造」については37ぺージに載せる別表を参照)。

初出一覧

空海と中国  1984年5月12日 善通寺市民会館ホール(IBMシンポジウム)にて講演

鬼道と神道  1979年3月1日 駒沢大学大学会館にて講演(同大学『宗教学論集』第10輯掲載)

天皇と真人 『道教と古代の天皇制』(徳間書店刊)所収 1978年5月

天皇と道教  泊園 1984年6月 第23号

老荘の思想  週刊朝日ゼミナール 1972年3月1日 82A-4号

記紀と道教  国文学 1984年9月号

『古事記』神話と道教の神学 朝日新聞 1984年7月19日夕刊

〔略年表〕

『道蔵』中の唐(五代)人著作一覧