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「宇田川源流 日本万歳!」 台湾で誰もが知る八田與一をあなたは知っていますか?

2021.05.16 22:00

「宇田川源流 日本万歳!」 台湾で誰もが知る八田與一をあなたは知っていますか?


 月曜日は「日本万歳!」をお届けしている。日本人のすばらしさや日本人のすごいところを紹介し、そのうえでに同じ日本人として自信をもって一週間を過ごしていただこうという企画である。

毎週言っているが、実際にこの企画は、読者の皆さんが元気になるということなので、何か特別な能力のある人を讃えたり、あるいは世界で英雄となっている人、日本人の誰もが認めるすごい人をここで紹介するのではなく、普通の人、日本人として当然のことをしている人の話を行い、そして、その中で日本人である自分たちの中にある「普通に行うこと、言い方を変えれば「日本人の魂の中の刻み込まれた日常」の中にある、当然の事、普通の事、日常のことをここで紹介し、その中で世界に人々から見て日本人のすばらしさを感じられたということを考えてみたいのである。

 分野などが違ったり、あるいは海外に行くというようなことを考えれば、その勇気がないという人は少なくないのかもしれないが、ある意味で環境が整い、そして自分の中で何かそのタイミングになって、自分がやらなければならない状況になれば、あるいは気が向いた場合は、当然に同じように何かをする。結果は伴わなくても、少なくとも似たような行動はとるということを紹介したいと思うのである。

 そのようにして「世界に出た日本人」で、その地域の人から親しまれ、そして英雄になっている日本人は少なくない。それは現代の社会でも同じであり、日本人がいることによって非常に様々な良いことがあった、日本に感謝するというような国の人は少なくないのである。


台湾、ダム建設日本技師たたえる 着工100年式典に蔡総統出席

 【台南共同】台湾南部・台南市にある烏山頭ダムを中心とする大規模かんがい施設の「着工100年」を記念する式典が8日、ダム近くの記念公園で蔡英文総統らが出席し開催された。施設の建設に尽力した石川県出身の日本人技師、八田與一(1886~1942年)の功績をたたえた。

 蔡氏は「世界は気候変動などの試練に直面している。八田技師の視野と実行力に学んで、気候変動などに対して日本と手を携えて立ち向かっていきたい」と述べ、日台間の交流を「今後もつないでいきたい」と強調した。蘇貞昌行政院長(首相)も出席した。

 この日は八田の命日に当たり、八田の銅像前で慰霊祭も開いた。

2021年5月8日 20時7分 共同通信


 台湾には日本型の神社が8社存在するといわれている。私がここに「言われている」と書いているのは、実際に私自身がその神社に参拝していないからである。その中で最も有名であったのが、八田與一である。戦前は、このほかにも北白川宮能久親王なども祀られていたが、その祀られていたことに関しては様々な生前の話が伝わっている。

 では八田與一とはどんな人物なのであろうか。日本人のほとんどは知らない(特に台湾に行ったことがない人は全く知らない)ので、そのことを書いておこう。

<以下抜粋>

 八田与一 はった-よいち

 1886-1942 大正-昭和時代前期の土木技術者。

 明治19年2月21日生まれ。42年東京帝大を卒業し,台湾総督府土木局につとめる。大正9年から10年をかけて南部の嘉南平野に大規模な灌漑(かんがい)施設「嘉南大圳(たいしゅう)」を完成させた。軍に徴用されフィリピンにいく途中の昭和17年5月8日乗船が撃沈され死去。57歳。石川県出身。

<出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典>

 日本統治時代の台湾では、初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し嘉義市・台南市・高雄市など、各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移った。1910年総督府土木部工務課で浜野弥四郎に仕えることになった。台南水道の事業で実地調査を共にするうちに八田は浜野から多くのことを学び、後述の嘉南大圳や烏山頭ダムにその経験が活かされることになった。

 1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほど、嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。そこで八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまで工事を指揮した。そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。ダム建設に際して作業員の福利厚生を充実させるため宿舎・学校・病院なども建設した。爆発事故の翌年には関東大震災が起こり予算削減の為に作業員を解雇しなければならなかった。八田は、有能な者はすぐに再就職できるであろうと考え、有能な者から解雇する一方で再就職先の世話もした。

 中学生向け教科書『認識台湾 歴史篇』に八田の業績が詳しく紹介されている。2004年(平成16年)末に訪日した李登輝台湾総統は、八田の故郷・金沢市も訪問した。2007年5月21日、陳水扁総統は八田に対して褒章令を出した。

 また、当時の馬英九総統も2008年5月8日の烏山頭ダムでの八田の慰霊祭に参加した。翌年の慰霊祭に参加し、八田がダム建設時に住んでいた宿舎跡地を復元・整備して「八田與一記念公園」を建設すると語った。2009年7月30日に記念公園の安全祈願祭、2010年2月10日に着工式が行われ、2011年5月8日に完成した。完成式典には、馬英九総統や八田の故郷・石川県出身の元内閣総理大臣・森喜朗が参加した。記念公園は約5万平方メートルだが、約200棟の官舎や宿舎のうち4棟は当時の姿に復元された。宿舎は一般公開されている。

 さて、ここに書いてあることは八田與一の功績であるが、やはり日本人が見ると「ある意味で国の政策をしっかり行った」だけであるという評価もある。しかし、ここにあるように作業員の福利厚生まで考えたり、あるいは、そのことによって困難がありながらもダムを完成させる使命感などは日本人ならではではないか。

 現在海外のインフラ事業に多くの日本人が出向いている。日本の企業の施工が世界でも品質が良いだけではなく、各国にその日本の最先端の技術や雇用を生むということで、かなり多くの国から感謝されることが多い。

まさに、日本人はそのようなことをしっかりと行うということが最も重要であるということをよく知っている。自分がやらなければならないこと、外からの命令であってもそれを行うことの重要性を知っている。そのことを台湾の人は、しっかりと評価しているのである。