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枯れるように逝くこと

2018.05.16 06:46

http://www.tampopo-clinic.com/zaitaku/mitori02.html 【第2章 人が自然に亡くなる過程

~「楽な最期」とは枯れるように逝くこと~】より

■人が自然に亡くなる過程

 人は、亡くなる前に食べられなくなることにより、脱水状態となり、徐々に眠くなる時間が増えて、ADL(日常生活動作)が低下していきます。これは、子どもの成長と逆と考えればわかりやすいでしょう。生まれたばかりの子どもは自分で寝返りを打つこともできません。介護保険で言えば要介護5ですね。これが次第に食事量が増えていき、起きている時間が長くなる。成長と共に介護度が減っていくわけです。

 人間の終末期はこの逆です。なぜ、亡くなる前に食べられなくなるかというと、水分を体内で処理できなくなるからです。このような状態で強制的に水分や栄養を取り入れていくと、身体がむくんだり、腹水がたまったり、痰がたまったりとかえって本人をしんどくさせてしまうのです。

 ですから、私は「身体で処理できなくなったら、できるだけ脱水状態にして自然に看ていくのが最期を楽にする方法ですよ」と説明しています。死は病気ではないので、身体の状態にあったちょうどよい傾眠、ADL、そして食事があれば、呼吸も穏やかに最期を迎えることができると考えています。

■天寿を全うすることを医療が邪魔をしないこと・・・

 もう十数年前、私が僻地診療所に勤務し始めた頃のことです。それまでは、私も病院勤務しかしたことがなく、食べられなくなったら点滴をする、状態が悪ければ入院をさせるということしか頭にありませんでした。

 当時、地域で最高齢の102才のおばあさんのところに、在宅医療にお伺いしていました。もう長年、脳梗塞で寝たきりでしたが、長男夫婦の手厚い介護を受け、自宅で療養されていました。徐々に状態が悪化し、食事がとれなくなってきました。長男夫婦は高齢でもあり、入院は望みませんでしたが、食事がとれないことを心配し、点滴を希望されました。私は本人に食事が摂れないから点滴をするように告げましたが、本人は「食事が摂れないようになったら終わりだから、絶対に点滴はしてくれるな」と言いました。その後も、何度も家族の依頼を受けて本人に点滴を勧めましたが、頑として受け付けませんでした。

 家族も私もどうすべきか悩みましたが、私は患者さんを押さえつけてまで点滴をすることはできませんでした。患者さんがこれまで生きてきた102年間の最期を汚してしまう気がして・・・。おばあさんの希望通り点滴をせず、自然に看ていきました。点滴をしないとむくみもなく、痰も出ず、楽そうでした。私は、最期に点滴も何も医療処置をせず、自然に看ていくことはこのときが初めてでした。

 おばあさんは、約2週間後に息をひきとりました。おばあさんの顔はむくみもなく、とても穏やかで凛としていました。もし、本人の意志に反して点滴をしていたら、むくみや痰が出て、吸引をしたり、本人を苦痛にしたりしていたことでしょう。本人の天寿を全うすることを医療が邪魔をしない・・・そんな自然な看取りも選択肢にあるんだということを教わりました。

 これまで、日本の医療はとにかく治すことを主眼に発展してきました。最期まで治すことを追求して、長寿を目指してきたのです。しかし、多死社会を迎え、どんなに素晴らしい医療を持ってしても、いつか必ず人間は亡くなるということにしっかりと向き合った上で、自然の死を受け入れることが必要になっていくと思います。「亡くなるまでどう生きるか」を追求して、天寿を全うする生き方も選択肢としてあると思います。

■「老衰」は誇れること

 老衰とは、「老いて心身が衰えること」とされています。老衰死とは、高齢の方で死因と特定できる病気がなく、加齢に伴って自然に生を閉じることです。今の日本では、食事が摂れなくなったら「病院で検査を」となります。すると、がんなどの病気が見つかることもあります。そうなると、手術や抗がん剤などの治療の選択肢を提示されることが多いと思います。しかし、在宅医療では、無理に積極的な治療を行わず、楽な治療を優先し、できる限り輸液を制限していくので、老衰死の確率は高くなります。

 在宅医療では、無理な延命措置を行わず、あくまで自然に看ていきますので、苦痛を伴わず、呼吸も穏やかに枯れるように亡くなる老衰死に出会うことが多いです。その時、私たちは死亡診断書の死亡原因の欄に、長年生きてこられ、介護をされてきたご本人とご家族への敬意を払い、自分自身の在宅医としての誇りを持って「老衰」と書くのです。

■「楽な最期」とは、枯れるように逝くこと。

 親戚のお葬式に参列した時のことです。その方は肝がんが肺に転移し、長年入院して亡くなられたそうです。お別れとなり遺体のお顔を見たとき、とてもむくんでいたので、「最期まで点滴をされたんだな」とすぐに理解できました。遺族にお聞きすると、体全体がむくんでいて、安置している間も遺体から水分が滴るように出ていたそうです。介護力もある家庭だったので、病院から在宅医療の選択肢もあることを提示されていれば、おそらく自宅で看取ることもできたのではないかとも思いましたが、その気持ちは、自分の中で押し殺しました。

 映画『おくりびと』誕生のきっかけとなった、青木新門の著書『納棺夫日記』1) にはこう書かれています。青木さんが納棺の仕事を始めた1970 年代前半は、自宅で亡くなる人が半数以上で、「枯れ枝のような死体によく出会った」そうです。ところがその後、病院死が大半になり、「点滴の針跡が痛々しい黒ずんだ両腕のぶよぶよ死体」が増え、「生木を裂いたような不自然なイメージがつきまとう。晩秋に枯れ葉が散るような、そんな自然な感じを与えないのである」と記しています。

 死も人の大切な営みの一つです。ですから、その時が来たら、人の身体は楽に逝けるよう、死の準備をはじめるのです。身体はどうすれば楽に逝けるのかを知っています。それは、草や木と同じ、枯れるように逝くことです。

 前と同じように、食べられなくなったからといって、無理に食べなくてもいいのです。身体は楽に逝くために体内の水分をできるだけ減らそうとしていきます。そんなとき、無理に水分や栄養を入れると、体に負担を欠けることになります。むくみが出たり腹水がたまったり、痰も多くなってしまうのです。

 死は人の最後の営みです。その時が近づいたら、体が求めるままにうとうとと眠り、食べたいものを食べたいだけ口にしてください。その穏やかな寝息を聞きながら、家族はお別れのときが近づいていることを静かに覚悟することでしょう。


Facebook・竹元 久了さん投稿記事 🔵欧米にはなぜ寝たきり老人がいないのか?

ヨーロッパの福祉大国であるデンマークやスウェーデンには、いわゆる寝たきり老人はいないと、どの福祉関係の本にも書かれています。他の国ではどうなのかと思い、学会の招請講演で来日したイギリス、アメリカ、オーストラリアの医師をつかまえて聞くと、「自分の国でも寝たきり老人はほとんどいない」とのことでした。一方、我が国のいわゆる老人病院には、一言も話せない、胃ろう(口を介さず、胃に栄養剤を直接入れるため、腹部に空けた穴)が作られた寝たきりの老人がたくさんいます。

不思議でした。日本の医療水準は決して低くありません。むしろ優れているといっても良いくらいです。

「なぜ、外国には寝たきり老人はいないのか?」

答えはスウェーデンで見つかりました。今から5年前になりますが、認知症を専門にしている家内に引き連れられて、認知症専門医のアニカ・タクマン先生にストックホルム近郊の病院や老人介護施設を見学させていただきました。予想通り、寝たきり老人は1人もいませんでした。胃ろうの患者もいませんでした。

その理由は、高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら、口から食べられなくなるのは当たり前で、胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると、国民みんなが認識しているからでした。逆に、そんなことをするのは老人虐待という考え方さえあるそうです。

ですから日本のように、高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません。肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。したがって両手を拘束する必要もありません。つまり、多くの患者さんは、寝たきりになる前に亡くなっていました。寝たきり老人がいないのは当然でした。

引用終了☆

欧米では人生最後の医療は自分で決める。

欧州やオーストラリアは、病院・施設が公的医療機関のため、国家の「医療費を抑制したい」という意向が医療現場に反映され、濃厚医療が抑制される。一方、日本の病院は、民間が中心のため、国が医療費を抑制して医療報酬を下げると、濃厚医療を行って採算を採ろうとしやすい。

🔵スウェーデンにはなぜ「寝たきり老人」がいないのか!

病気で食事が取れなくなったとき、日本では胃ろうや点滴などを行いますが、スウェーデンの場合はそういった処置は行われません。 無理な延命をせずに、自然な死を迎えるという価値観があるからです。 これは、欧米諸国では一般的な考え方となっています。 延命治療を受けることと、自然な死を迎えること、どちらが良いかは人それぞれです。

幸福度世界1位「北欧の楽園」に学ぶ老いと死

高福祉・高負担の国で知られるスウェーデンが実は「寝たきりゼロ」社会だとご存じだろうか。幸福度調査で常に上位にランクインする「幸せの国」の住民は、どのように老い、死を迎えているのか?

最後まで人生を楽しむ

「この施設には40人ほどのお年寄りが暮らしています。8割以上が認知症を患っていますが、寝たきりになっている人は一人もいません。自分の力で起き上がれない人でも、毎朝必ずスタッフが手伝って車椅子に乗せます。そして食堂で一緒に食事を楽しむのです」

こう語るのは、スウェーデンの首都ストックホルム郊外にある、介護サービス付きの特別住宅で働く介護士のアンナ・ヨハンソンさん。この住宅に暮らす人たちは、ほとんどが80歳以上のいわゆる後期高齢者で、在宅で介護サービスを受け続けることが難しいほどの要介護状態にある。

しかし、車椅子に乗っている人でもきれいな服に着替え、パジャマでうろうろしているような高齢者はいない。日本の後期高齢者が集う施設に比べるとずっと穏やかで、明るい雰囲気だ。

(中略)

高福祉国家として知られるスウェーデンは、OECD(経済協力開発機構)が行う国別幸福度ランキングでも上位の常連だ('13年度はオーストラリアと並んで1位。日本は21位)。

スウェーデン人の平均寿命は81.7歳。日本人の83.1歳に比べれば短いが、それなりの長寿国である。にもかかわらず、この国には寝たきりになる老人がほとんどいないという。

子供と暮らさない

スウェーデンの高齢者ケアに詳しい東京経済大学の西下彰俊教授が語る。

「日本では寝たきり状態にある高齢者が150万人から200万人ほどいると言われています。一方、スウェーデンはそもそも寝たきりになる人がほとんどいない。いたとしても、終末期ケアが行われる数日から数週間の短期間だけです」

この驚くべき違いは、どこからくるのか?

スウェーデンの人が特別に健康的な生活を送っているというわけではない。例えば食生活。厳しい冬が長く、食材も貧しいため、北欧の食事は日本のそれほど豊かなものではない。

(中略)

基本的な前提としてスウェーデンの高齢者は、子供などの親族と暮らすことをしない。夫婦二人か、一人暮らしの世帯がほとんどで、子供と暮らしている人は全体の4%に過ぎない(日本は44%)。

これは「自立した強い個人」が尊ばれる伝統に根差したもので、高齢者に限らず、若者も義務教育を終えた16歳から親の家を出て一人暮らしを始めるのが普通だ。だからといって家族関係が希薄というわけではなく、近くに住んで頻繁に交流する家族は多い。

(中略)

国を一つの「家族」と考える♥

現在の日本の病院では、死ぬ間際まで点滴やカテーテルを使った静脈栄養を行う延命措置が一般的。たとえベッドの上でチューブだらけになって、身動きが取れなくなっても、できるだけ長く生きてほしいという考えが支配的だからだ。

(中略)

「日本の場合だと介護施設に入っても、病状が悪化すれば病院に搬送され、本人の意思にかかわらず治療と延命措置が施されます。施設と病院を行ったり来たりして最終的に病院で亡くなるケースがほとんどです。自宅で逝きたいと思っても、延命なしで看取ってくれる医師が少ない。

一方、スウェーデンではたとえ肺炎になっても内服薬が処方される程度で注射もしない。過剰な医療は施さず、住み慣れた家や施設で息を引き取るのが一番だというコンセンサスがあるのです」

介護する側もされる側も、寝たきりにならないように努力をする。それでもそのような状態に陥ってしまえば、それは死が近づいたサインだということで潔くあきらめる。それがスウェーデン流の死の迎え方なのだ。

このような介護体制を根底から支えているのは、充実した介護福祉の人材である。介護士は独居老人の家を頻繁に回り、短い場合は15分くらいの滞在時間でトイレを掃除し、ベッドメイクを済ませ、高齢者と会話をして帰るというようなことをくり返す。

日本では介護というと、どうしても医療からの発想になりがちで、手助けよりも治療という対処に傾きやすい。

スウェーデン福祉研究家の藤原瑠美氏は語る。

「日本の場合は病院経営をする医師などが主導権を持っているケースが多く、すぐ投薬・治療という方向になる。

しかし、スウェーデンの場合は介護士たちが大きな権限を与えられていて、認知症の場合には薬を使うよりも、本人がどんな助けを必要としているか汲みとることが重視されています。

例えば私が調査した3万人ほどの自治体では2300人の職員がおり、そのうち400人が介護福祉士でした。介護は重要な雇用創出の機会にもなっているのです」

日本では介護士というと薄給なわりにきつい仕事というイメージだが、スウェーデンでは安定した公務員で、経済的に困窮するようなこともない。

藤原氏によると、スウェーデンでは認知症の人のうち約半数が独居しているという。しかしそれで大きな問題が起きたこともない。

日本では'07年に認知症患者が徘徊して起こした鉄道事故で、監督責任を問われた遺族が鉄道会社から損害賠償を求められるという裁判があったが、このようなケースはスウェーデンでは考えられない。

「この国では、介護の負担はすべて国や自治体がします。『国は一つの大きな家族である』という発想が定着していて、家族が介護のために経済的負担を強いられるということもありません。

また、施設を訪れた家族が、食事や入浴の手伝いをすることもまずありません。家族は一緒に楽しい時間を過ごしてもらえばそれでいいのです」(前出のヨハンソンさん)

老後破産や孤独死、老老介護による共倒れなどがますます深刻化している日本の現状から見ると、まさに「北欧の楽園」だ。

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(引用終)