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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

2019年7月6日記事 Plus 2021年5月16日記事をお届けします

2021.05.16 22:00

2019年7月6日F.Chopin、姉ルドヴィカの弟フレデリックへの愛

フランスでは、1830年憲章に基づく7月王政が成立して以来、ルイ=フィリップ1世は、フランスの王としてではなく「フランス人(フランス国民)の王」と名乗り、政治体制は絶対王政を否定しながらも立憲君主制が採られていた。ルイ=フィリップの王族は、1831年以降は、オルレアン家の代々の邸宅パレ・ロワイヤルからチェイルリ宮殿の公邸に移り住んでいた。

ショパンは、1831年にパリに来て以来、ルイ・フィリップ王からの計らいを事あるごとに断って来た。1837年にはロシア皇帝の宮廷ピアニストの職を断わり、ショパンは自身を革命家であると名乗った。そのため、旅券問題が片付かなかったショパンはポーランドへ帰れる機会を逃した。行かされた先は、産業革命で地獄の環境と当時言われていたロンドンであった。それから、1841年12月には、ルイ・フィリップ王から褒美として受けるお金を断ったショパンであった。

それからというもの、ポーランドのエルスネル先生がショパンのオペラの作曲の才能に期待し、度々、パリのショパンを手紙で励ましてきたものの、パリで貧乏なショパンはオペラの道も絶たれ、当時の他の作曲家が成功を収める中で、ショパンは自身の曲の出版に自分で奔走するのが精いっぱいで、精神的にも肉体的にも苦労続きであった。

ショパンは自分の精神性を貫いて生きてきたが、それはフレデリックの生まれながらの才能だけではなく、涙ぐましい努力によるものであった。

1844年にとうとう、フレデリックの音楽を影で支え続けてきた父ニコラスが亡くなり、ショパンは、ルイ・フィリップとの遺恨を残したままであることを姉ルドヴィカ夫妻の力を借りれないものかと考えたのであろう。このままでは、ポーランドの家族にこの先も何が起こるかわからないからだ。

ルドヴィカ夫妻は7月のパリの国民祭に合わせてパリにやって来たのである。ショパンは、グシマーワに頼んだのは、ルドヴィカ夫妻がチェイルリ宮殿に赴き、ルイ・フィリップ王に面会出来るようにするためであった。ルドヴィカ夫妻はルイ・フィリップ王に会えたかは不明であるが、恐らく一族の誰かには面会は出来たであろう。そして、ショパンを無条件で賛美してくれる、あのド・キュスティヌ侯爵にもルドヴィカ夫妻は面会に行き、「弟フレデリックが世話になっています」と、お礼を述べた場面があったと思われる。

ショパンはグシマーワに、パリでのルドヴィカ夫妻が面会するべき人を書いて頼んでいた。その後、ショパンが幸せを感じていたところを見るとそれは実現したのであろう。

8月に入り、ルドヴィカ夫妻は弟フレデリックがパリで世話になってきた人々に頭を下げに行くことに忙しく1週間が過ぎた。そして、パリから約300キロ離れたノアンへ、馬車でルドヴィカ夫妻は気の遠くなる田舎道を走り、懐かしい弟フレデリックに会いに行った。

姉ルドヴィカの、その想いとは想像を超えるものがあったであろう。

実は、この時、数々の権力のある男や芸術家を手玉に取って来たサンドでさえ、父ニコラスを亡くした悲しみに打ちひしがれているショパンを操ることができなかったのだ。

ショパンは、ちょうどこの頃、ソナタ作品58を書いている途中であった。それが、途中で棒を折ってしまっていたショパンだった。今まで困難があっても父ニコラスの心の支えがどこかにあり、曲はなにがあっても書いてきてきたショパンだった。しかし、ショパンは1842年から、友人マッシンスキを亡くし、フォンタナはアメリカへ、そこへ、リストの回し者のフェルチ親子の邪魔が入りショパン自身の演奏会が途絶え、そして父ニコラスが亡くなりと、不運続きであるのだ。

ショパンの曲を書くエネルギーが湧いてこない状態は、サンドでは助けられないのである。

それを救ったのは、姉ルドヴィカであった。

ルドヴィカは10年ぶりに会ったフレデリックの変貌ぶりに心を痛めたと思われる。

ルドヴィカは曲が書けなくなっているフレデリックを励ました、ルドヴィカはノアン滞在中に、フレデリックが書きかけて捨ててあったソナタ作品58を手伝った。

ルドヴィカは幼い頃から音楽と文学の才能があり、彼女はヴォイチェフ・アダルベルト・ジヴヌィイ先生、フレデリックと同じ先生に習ったことがあった。

ルドヴィカは3歳年下の弟フレデリックにピアノと作曲を教えたことがあった。 つまり、フレデリック・ショパンの音楽の天才の一部は、子供の頃から姉ルドヴィカの影響を受けていたのだ。

ショパンは、1825年のワルシャワ時代に、フレデリックは幼なじみのヤン・ビャウォブウォッキ(1806年-1828年3月)に書いた思い出があった。「ルドヴィカは、ワルシャワが決して踊ったことがない完璧なマズルカを作曲しました。」

ショパンの作曲の原点は姉ルドヴィカのマズルカにあったのだった。

21年5月16日

〜姉ルドヴィカ・ショパン&少年フレデリック・ショパン〜

 フレデリック・ショパンの姉、ルドヴィカはニコラ・ショパンとジャスティナ・クルジサノフスカの長女として生まれた。

1815年にアレクサンドル1世がポーランド王国に先行した、1795年の第三次ポーランド分割以来、プロイセンが併合した領土にワルシャワ公国が設立される直前でした。

彼女は、フレデリック・ショパンの恩師でもあるヴォイチェフ・ジヴヌィイに音楽を学びました。

そして、ルドウィカは弟フレデリックにピアノと作曲を教えました。そのため、フレデリック・ショパンの音楽は姉ルドヴィカから影響を受けたことが原点でした。

フレデリックは、1825年11月にワルシャワから友人のヤン・ビアウォブウォッキに語りました。

「僕は【セビリアの理髪師】主題からポロネーズを作曲してみました。友達も大好評でしたので明日にでも原稿を石版印刷にしようと思っています。

ルドヴィカ  は、ワルシャワでは長い間、踊ることが禁じられていたのですが、彼女は

素晴らしいマズルカを書いているのです。

それは、※ノン・プルス・ウルトラだ。

それは、本当にユニークなノン・プラス・ウルトラで、その種類の弾むような魅力的なものです。

端的に言えば、ダンスをするのに理想的で、お世辞ではなく、非常に稀な作品です。

あなたが(私の家へ)来たら私が演奏してあげます。」

 フレデリックは※[ノン・プルス・ウルトラ]と例えて、ドヴィカの作曲したマズルカを、これ以上の素晴らしい作品はないですと称賛した。

わずか15歳のフレデリック・ショパン少年は

この頃、ワルシャワでロッシーニの【セビリアの理髪師】を鑑賞していた。オペラの作曲を目指していたフレデリックは歴史や神話に興味があった。(【セビリアの理髪師】の主題のポロネーズの原稿は現存しない)


※(プルス・ウルトラはもっと先へ、もっと向こうへ、更なる前進を意味するスペインの国の標語。語源はカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)が元となっている。

ノン・プルス・ウルトラとは『グラナダにおけるカール5世の宮殿』ジブラルタル海峡の近くにヘルクレスによって建てられた。

ローマ神話によると世界の果てのことだ。

神話の中で、宮殿の柱はネク・プルス・ウルトラまたは(Nec Plus Ultra, Non Plus Ultra, と呼ばれ、先には何もない)という警告を意味する。船員や探検家が、それ以上進まないための警告。コロンブスの新世界の発見にも採用されました。