この世界の不合理は「誰」のせいか
国際女性デーに2本も記事を上げるとは思わなかったけれど、どうしても言いたいことが出てきてしまったので、今せっせとパソコンに向かっています。
その理由となったのが、とあるツイートを見かけたから。
それは、ざっくりまとめるとこういう内容だった。
「半径5メートルの人を幸せにし、そこにいる人たちの価値観を尊重できる人が増えていけば日本のジェンダーギャップは解消される。」
その発言を真っ向から否定するつもりはない。確かに、身近なところから意識を変えていくことが、引いては社会の空気を変え、大きなムーブメントになっていくこともあるだろう。
だから、そういう視点も、価値観も大切ではある。
けれど。そうして社会問題を「個々人の努力」に収斂させてしまって果たして良いのだろうか。
周知の通り、日本のジェンダーギャップ指数は153カ国中121位。G7では最下位を記録している。この現実に対して、「半径5メートルの人を〜」なんて言えるのはなんて牧歌的なのだろうと思えてならないのだ。
なぜなら、このジェンダーギャップの問題の根本は「社会構造」自体に問題があるから。
なぜ、「女性活躍推進」という言葉は生まれて、「男性活躍」は当然とされているのか。
なぜ、女性の方が男性よりも年収が低い現状が続いているのか。
なぜ、非正規労働者のうち、女性の割合の方が男性に比べて大きいのか。
なぜ、政治家や経営レイヤーを占める女性の比率が上がらないのか。
こういった「なぜ」の背景には、一体いつからか分からないほどに堆積した、負の歴史が積もり積もっている。私たちは、もはや岩盤と化した歴史の堆積物と戦わなければならないのだ。
20世紀初頭に女性参政権を求めて闘った”サフラジェット”と呼ばれる活動家たちがいた。彼女たちは電線の切断や、郵便ポスト、家屋の爆破などを行い、刑務所へ送られると、劣悪な状況との闘争に注目を集めるためハンガーストライキを行い、「過激派」と評されることもある。
なぜ、そこまで過激なことをしなければならなかったのか。
それは、彼女たちが闘っていた”相手”が、岩盤と化した社会構造そのものだったからだ。
(ちなみに、このサフラジェットの歴史を描いた映画”Suffragette”は『未来を花束にして』という邦題で上映された。なんともお花畑なタイトルになってしまったものだと、当時思った)
ジェンダーギャップは社会構造が生み出している問題であり、だからこそ社会に生きるすべての人が目を背けてはならない問題であり、声を上げ、行動し、時に闘いながら変えていかなければならない。
それは、相対的貧困の問題やその他多くの社会問題にも言えることだ。
「半径5メートルの世界」を幸福にし、理解を分かち合うことは素晴らしい。だが、それは問題の本質を覆い隠し、誤魔化すことにも繋がる危うさがある。(「みんなでコロナに打ち勝とう!」や「がんばれ!東北!」にも通じると個人的には思う。)
そもそも、社会構造上ジェンダーギャップがあるから、アンコンシャスバイアスが生まれ、それがジェンダーの不均衡を再生産していくという側面もある。
個々人がジェンダーの問題に敏感になり、まずその第一歩として身近な人と話し合ったり、価値観をすり合わせていくことはとても大切だ。
だけれど、それだけで「ジェンダーギャップがなくなる」ことは決してないと思う。
だからこそ、私たちは連帯し、声を上げ、アクションを起こし、政治を、社会を動かすパワーを持たなければならないのだ。
負の堆積物をぶち壊すために。そして更地になったところに、新しい社会の、世界の構造を構築するために。