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古代日本のキリスト教徒たち

2018.05.17 12:25

http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/100kodai.htm 【古代日本のキリスト教徒たち】より

ザビエルよりはるか以前の日本に、多くのキリスト教徒がいた。

「世尊」とは、シャカではなく、イエス・キリストである。

 キリスト教は、一般には、カ トリックの宣教師フランシスコ・ザビエルが一五四九年に日本に来てから、初めて日本に広まったと思われている。

 しかし、ザビエルが日本に来るよりはるか以前――ザビエルより約一千年も前に、多くの景教徒、すなわちネストリウス派キリスト教徒たちが、続々日本にやって来ていた。

 しかもその景教徒たちのことを調べていくと、日本の古代について、多くの想像を私たちに、もたらしてくれるのである。

いろは歌のキリスト

 以前、レムナント誌に、「いろは歌のキリスト」という記事を載せたことがある(一九九三年八月号。レムナント出版刊の「古代日本にイスラエル人がやって来た」にも収録)。まず、この話から始めたい。

 それは、「いろはにほへとちりぬるを」で始まるあの「いろは歌」が「折句(おりく)」であって、そこにはイエス・キリストに関するメッセージが"折り込まれている"という話である。

 「折句」というのは、そのままの文章の意味のほかに、もう一つ別のメッセージを折り込むことをいう。いろは歌は昔から、七文字ずつに区切られ、次のように記される。

 「いろはにほへと  ちりぬるをわか よたれそつねな  らむうゐのおく

  やまけふこえて あさきゆめみし  ゑひもせ  す」

 この各行一番下の文字を右から左へ読むと、「咎(とが)なくて死す」

すなわち、"罪がなくて死んだ"の意味になる(歌の中では清音と濁音は区別されない)。このように歌の中に、もう一つのメッセージや暗号文を折り込むことを、折句というのである。

 また、いろは歌の各行一番上の文字を続けて読むと、

 「イチヨラヤアエ」 となる。これはおそらくヘブル語の、「イーシ・エル・ヤハウェ」

 であり、"神ヤハウェの人"の意味であろう、とレムナント誌に書いた(イーシは人、エルは神、ヤハウェは神の御名)。すなわち、イエス・キリストである。

 "神ヤハウェの人"イエス・キリストが"咎なくて死なれた"という、もう一つのメッセージが、いろは歌の中に折り込まれている。

 このように各行の下や上の文字に、もう一つのメッセージをこめることは、平安時代などに歌人の間で流行していた。それにしても、一字も重複せずに、よくこれほどの歌をつくったなあと、感心せざるを得ない。

 ともかく、いろは歌の解読もこれで完了した、と思っていたのであるが、この記事を読んだある牧師の方が、「もう一つありますねぇ」と教えて下さった。

 「いろは歌の右上端、左上端、左下端の三文字を読むと、『いゑす』すなわち"イエス"となります」というのである。

 なるほど、そうなる。さらに、右上端、左上端、右下端、左下端の四隅の文字を読むと、「イエトス」となり、これはイエスの御名のギリシャ語の発音イエススに似ている。ラテン語の発音イエズスにも、よく似ている。

 出来過ぎの感はある。確かに、偶然にしては出来過ぎである。やはり「いろは歌」は、天才的な作者がその中にもう一つのメッセージ──イエス・キリストに関するメッセージを折り込んだ歌なのだろう。

 いろは歌の文字通りの意味も、よく読んでみると、決して仏教的な歌ではなく、クリスチャン的な感覚にもピッタリする。

 仏教界では、いろは歌は涅槃経と同じ内容としているが、国文学者の宮嶋弘氏や、岡田希雄氏らは、涅槃経とは関係がないとしている。

 いろは歌の「うゐのおくやま」の部分は「有為(うい)の奥山」と仏教界では読んでいるが、そうではなく、「憂(う)ゐの奥山」だという学者もいる。そうすると、いろは歌は、

 「色は匂えど散りぬるを  我が世誰ぞ常ならむ  憂ゐの奥山今日越えて

  浅き夢見じ酔ひもせず」となって、こうなるとクリスチャン的な感覚にもピッタリするのである。聖書に、「すべての人は草、その栄光はみな野の花のようだ」(イザ四〇・六)

 「むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かして下さい」(詩篇一一九・三七) とある。こうした内容を歌ったのが、いろは歌なのではないか。

いろは歌は景教徒の作

 いろは歌は、平安時代(九~一二世紀)に作られた、と言われている。

 作者は、俗説では弘法大師・空海と言われたりしたが、多くの学者はこの説を否定している。一般には、作者不詳ということになっている。

 では、誰が作ったのか。

 いろは歌に折り込まれたイエス・キリストに関するメッセージからして、作者はおそらく「景教徒」であろう。また、単なる景教徒ではなく、ヘブル語を知っている景教徒かも知れない。

 景教徒とは、ネストリウス派キリスト教徒のことであり、クリスチャンたちである。

 景教徒は、ペルシャのほうから東に進み、六三五年に初めて中国にやって来た。そして中国の唐の時代には、景教は中国全土で隆盛をきわめた。

 中国・西安にある有名な「景教流行碑」には、その様子が記されている[このレプリカ(複製)が、日本の高野山にある。これは、景教について研究したゴルドン女史によるものである]。

 景教徒たちは中国に来ると、すぐ聖書翻訳をなした。彼らは『イエスメシヤ経』という、主イエスのご生涯を略述した福音書を、まず初めに訳した。続いて『一神教論』等を翻訳した。

ネストリウス派キリスト教(景教)は、中国の唐で栄えた。

 景教の「景」は、日の光の意味である。ヨハネ福音書一・四に、「この方(イエス)に命があった。この命は人の光であった」と記されているが、キリスト教は、光の教えという意味で中国では景教と呼ばれたのである。

 明(みん)の耶蘇会士(やそかいし)陽瑪諾(Emmanuel Dias)著の『唐景教碑正詮』に、「泉郡南邑西山古石聖架式」・「刺桐城の十字架」(The Zaiton Cross)として、中国の景教徒の墓紋が紹介されている。この裏面には、「あなたはこれを見つめ、これによって希望を得よ」と記され、また旧約聖書・詩篇三四・五、

 「主を仰ぎ見て光を得よ。そうすればあなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない」

 と記されている。景教徒たちは、じつに生き生きとした信仰を持っていた。

 景教徒たちは、中国にやって来ただけではない。朝鮮半島にも来た。

 景教の十字架が、なんと、韓国の慶州にある仏教の寺――仏国寺で発見されている。慶州と言えば、朝鮮半島の南端近くであり、日本の対馬は、もう目と鼻の先である。

景教の十字架(石材、年代は統一新羅)。

1956年に、韓国の慶州仏国寺で発見された。

唐の時代の中国で栄えた景教が、新羅に伝来したことを物語っている。

 『イエス・メシヤ経』など、景教の書物も、その慶州の石窟から、仏教の経典と一緒に発見されている。景教のものが仏寺で発見されたり、仏典と一緒に発見されたりというのは意外に思うかもしれないが、これは当時の仏教が景教と深く交流していたことを如実に示しているのである。

景教の聖書。635年に中国に入った景教徒は、すぐに聖書翻訳をなした。この景教聖書は、石窟から仏教経典と共に近年発見された。

これは景教と仏教の交流を如実に物語る。

 景教徒が、このように朝鮮半島南部にまでやって来ていたのであれば、当然彼らはそのすぐ近くの日本にまでやって来ていたと推測できる。

 景教は朝鮮半島に六〇〇年代にはやって来ていたので、日本にもすでに六〇〇年代にはやって来ていたかも知れない。聖徳太子の周辺にはマル・トマという景教徒がいたと、京都大学の池田栄教授は書いている。

 また『続日本紀』はこう記している。

 「天平八年(七三六年)一月、聖武天皇は中臣朝名代に従五位下を授け、遣唐使の随員たちの労をねぎらわれ、唐人皇甫(とうじんこうほ)、波斯人李密医(ペルシャじんりみつい)らに位を授けとあり」。

 この「唐人皇甫、波斯人李密医」(景人皇甫と書いた本もあるがこれは誤植。続日本紀本文は唐人皇甫)は、景教徒ではなかったかもいわれている。というのは、彼らの来日以来、聖武天皇やその后、光明皇后の業績や人生に景教的なものが多々見られるようになるからである。

 この頃から宮中の記録には、「景福」という景教用語が見えるようになる。

 また京都の西本願寺の宝物中には、『世尊布施論』があるといわれている。これは内容は、イエスの山上の説教であり、景教の書物である。

 聖武天皇の后「光明(こうみょう)皇后」(七〇一~七六〇年)は慈悲深く、貧しい人々のために病院を建て、薬を恵み、また孤児院を造って、孤児たちを養った女性として知られている。奈良の法華寺(滅罪寺)には、光明皇后がライ病患者の膿を吸って吐き出したという浴室が残されている。ナイチンゲールやマザーテレサのようなことを、今から一二五〇年も前の日本人が行なっていたのである。

 また光明皇后は、仏教にはない「罪」の観念と、「悔過」(けか)=悔改めの観念を非常に重んじた。これはキリスト教的な観念である。皇后のキリスト教的行動は、上記七三六年に来日した景教徒たちに感化された結果と思われる。

発見されたJNRIの文字

 景教の影響は、このように日本の皇室や、仏教界、その他に及んでいた。

 景教徒たちは、日本へ単に"お客様"として来ていただけではない。景教徒たちは日本に住み着き、彼らの信じる景教は、日本の庶民の間にも広まった。

 じつは群馬県で、古代の景教徒の遺跡が発見されている。

 江戸時代に、肥前平戸藩の藩主・松浦静山(まつらせいざん)が記した『甲子夜話』という随筆がある。ここに書かれた話を現代語にすると、こうなる。

 「先年、多胡碑(たこひ)(羊大夫碑(ひつじだゆうひ))のかたわらから、石槨が発見された。そこにJNRIという文字が見られた。

 ある人が外国の文献を見たところ、キリスト処刑の図にもこの文字が見られたので、蛮学(ばんがく)に通じた人に聞いてみたがわからなかった。なお、この多胡碑の下から、十字架が以前に発見されているから、それと関係のあることであろう」。

 この「多胡碑」というのは、和銅四年(七一一年)に建立された古代碑文である。現在の群馬県にあるが、そのかたわらの石槨に「JNRI」という文字が見られ、また碑の下からは十字架も発見されたという。

江戸時代の人物、松浦静山は、多胡碑(群馬県)において十字架と、「J N R I」の文字が発見されたことを述べている。

(平凡社刊「東洋文庫385甲子夜話続編6」より)

 JNRIというこの文字について、江戸時代の松浦静山は、当時の蛮学(西洋の学問)に通じた人に聞いてみたが意味はわからなかったという。しかし、現代のクリスチャンなら、多くの人はわかるであろう。

 「JNRI」は、ラテン語のJesus Nazarenus, Rex Iudaeorumの頭文字をとった略語であって、"ユダヤ人の王ナザレのイエス"の意味である。十字架につけられた主イエスの頭上にかかげられた言葉である(ヨハ一九・一九)。

 JNRIは、INRIと記されることもある。この場合の最初のIは、Iesusの頭文字である。

 しかしJでもIでも、どちらでもよい。INRIというのは、よくキリストの十字架を描いたラテン系絵画に見えるが、昔はJNRIもINRIも両方用いられたのである。

フラ・アンジェリコ(1400~1455年)画。

今日私たちが見ることのできるキリスト受難の絵では、頭上の言葉はI N R I と書かれていることが多いが、昔はJ N R I とも記された。

 JNRIという文字と共に発見されたこの「多胡碑」は、この地域に新たに「多胡郡」をおき、それを「羊」にまかせるという内容を記した碑である。

 「羊」というのは、当時のこの地域の有力者の姓であろう。しかし、なんともキリスト教的な名なので気になる。いずれにしても、このために多胡碑は「多胡羊大夫の碑」とも呼ばれるのである。

 「多胡」の「胡」は、「胡人(こじん)」が異国人、「胡弓」が異国の楽器の意味であることからも知れるように、異国人のことである。すなわち「多胡」は、渡来人の多く住んでいることからきた地名なのである。

 じつは、奈良の正倉院に残る掛布屏風袋の銘文に、

 「上野国多胡郡(こうずけのくにたこぐん)山部郷戸主秦人」

 とある。「多胡郡」は多胡碑の出た多胡郡であり、「秦人」は渡来人の「秦氏」をさす。つまり多胡郡には、秦氏をはじめ、多くの渡来人が生活していたわけである。

 「秦氏」は、渡来人の中でも特に高度な文明をもった人々で、日本に大きな影響を与えた人々である。

 早稲田大学名誉教授の佐伯好郎(さえきよしろう)教授によれば、秦氏は、古代東方キリスト教徒であった。

 あの多胡碑のJNRIという文字や、その下で発見された十字架が、秦氏のものかどうかはわからない。秦氏以外の渡来人のものかも知れない。

 日本には秦氏のほかにも、多くの渡来人が来ていた。彼ら渡来人の中には、景教徒も多くいた。彼らは、日本のあちこちで景教、すなわちネストリウス派キリスト教の信仰を持って暮らしていたのである。

羊神人・・・・

 古代の日本に――すなわちザビエル来日より約一千年も前に、多くの景教徒が日本に移り住んで暮らしていたことを示す、他の幾つかの証拠を見てみよう。

 やはり群馬県で発見された奈良時代(八世紀)の瓦に、

 「羊神人宿子福麻呂」

 と記されたものがある(国分二寺中間地域で出土の刻書瓦)。

 「羊神人」の文字は、"神人"として神の小羊となられたイエス・キリストを思い起こさせる名前である。

 「宿子(すくね)」は、景教徒の使ったシリヤ語であって、「偉大な」とか「勇敢な」の意味の尊称である。「麻呂(まろ)」(maru, maro)も、シリヤ語で殿様とか閣下という意味の尊称である。

 日本では九世紀に、「麻呂」を「朝臣(あそん)」に改めるという法令が出された。一般の日本人には、外国語の意味が不可解だったからである。

 つまり、これらはみな景教用語である。「景教流行碑」には、景教徒の名前がシリヤ語でも記されている。

 また、平安時代(九~一二世紀)の土器にも、「神人子真丘神人」

 と記されたものがある(戸神諏訪遺跡、刻書土器・羽釜)。

 この「神人」や「子」の文字も、やはり"神ヤハウェの人"イエス・キリストを連想せずにはいられない。「神人」であるこのかたは、"咎なくて死す"と言われたあのおかたである。

 景教徒が用いていた聖書や聖書解説書を見てみると、天地の創造主は「神」という漢字で記され、御子イエス・キリストは「子」「羊」「神人」などの漢字で記されているのである。

 これらのことは、古代の日本に多くの景教徒が住んでいたことを、示していると思えてならない。

(右) 「羊神人宿子福麻呂」。刻書瓦(国分二寺中間地域・奈良時代)

(左) 「神人子真丘神人」。刻書土器・羽釜(戸神諏訪遺跡・平安時代)

秦氏は古代東方キリスト教徒だった

 秦氏は、景教徒よりも早く日本に渡来した古代東方キリスト教徒だといわれている。

 景教とはネストリウス派キリスト教のことで、東方キリスト教の一派だが、中国に来たキリスト教徒はみな「景教徒」と呼ばれたので、そのような意味で、秦氏も「景教徒」といわれることがある。

 秦氏が京都の太秦につくった神社に、「木島坐天照御魂神社」(俗名は蚕(かいこ)の社(やしろ))というのがある。

 この神社の祭神は、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」ということになっている。この神は、古事記によれば神々の中でも一番最初に現われ出た神とされ、目に見えない最高神、また宇宙の根元の神とされている。

 しかし古神道では、一般の神社で「天之御中主神」というような絶対神、最高神を祭ったりはしない。それ以外の神――天照大神その他の神々を祭っている。

 けれども秦氏はキリスト教徒であったので、相対神(八百万(やおよろず)の神々)を忌避する努力を続けたのであろう。そのために彼らは、みずからの信じる唯一の神を「天之御中主神」の名においても信奉したようである。

 実際、この神社の社務所の由緒書には、

 「ここは景教(ネストリウス派キリスト教)が渡来し、秦氏と関連があったことの名残りをとどめる遺跡として伝えられる」

 と記されている。

 秦氏のこの神社には、景教を思わせる多くのものがある。たとえば、この神社には全国にも珍しい「三柱鳥居(みはしらとりい)」がある。

 二本の柱からなる普通の鳥居とは違い、三本の柱からなる鳥居である。しかも、ふつう鳥居といえば門として神社の入り口に立っているが、この三柱鳥居は、清水のわく「池」の真ん中に立っている。

蚕の社の三柱鳥居。

池の真ん中に立つ。

三位一体を表す象徴か。

 この池は、「元糺(もとただ)すの池」と呼ばれる。この神社の神号も、別名「元糺す神」である。

 「元糺す」とは"元を正しくする""誤りを直す"の意味であり、ここには元の神観の誤りを正そうという、キリスト教徒であった秦氏の信仰態度が見えている。

 「元糺すの池」の中に立つ「三柱鳥居」は、キリスト教徒たちの信じていた三位一体の神を象徴するものと言われている。

 景教徒など中国や日本に来たキリスト教徒は、「妙身」(御父アラー)、「応身」(御子メシヤ)、「証身」(聖霊ルアハ)の神の三位一体を信じていた。三柱鳥居は、三位一体の神の御一座が臨在することのシンボルであったのだろう。

 由緒書には、この「元糺すの池」で禊(みそ)ぎが行なわれた、と記されている。実際は、禊ぎ(水による清め)だけでなく、バプテスマ(洗礼)も行なわれていたのであろう。

景教の経典。

景教は、妙身(御父アラー)、

応身(御子メシヤ)、

証身(聖霊ルアハ)の、

神の三位一体を信じる――上の句を参照。

ウズマサの起源

 秦氏のこの神社の付近は、「太秦(うずまさ)」と呼ばれる。

 かつて唐の時代の中国に伝わった景教は、「大秦」教(だいしんきょう)とも呼ばれ、景教の教会も「大秦」寺と呼ばれた。古い時代には「大」と「太」は混用されたから、これは「太秦」と同じ字である。

 「大秦」といえば、もともと中国ではローマ帝国を意味した。しかし四世紀にローマ帝国はキリスト教を国教としたから、景教といえばローマ帝国の宗教だという意味で、景教は「大秦教」とも呼ばれたのである。

 その「太秦」の字を、なぜ「ウズマサ」と訓読みしたのか。あるいは、「ウズマサ」という言葉になぜ、ローマ帝国のキリスト教を思い起こさせる「太秦」の漢字を当てはめたのか。

 日本書紀などには、秦氏によって皇室に貢納された絹の布が、山のように"うづまりまさる"ので、そう呼ばれるのだと、こじつけ的な解釈をしているが、当時の日本人にも不可解な言葉だったと見える。

 江戸時代の国学の大家、本居宣長(もとおりのりなが)も、「ウズマサ(兎豆満佐)と言うに至った理由は、詳(つまび)らかならず」と述べている。

 しかし景教研究の大家、佐伯好郎博士は、この「ウズマサ」の名は、もともとはイエス・キリストという意味のアラム語"イシュ・マシャ"(Ishu Mashiah)から来たものであろう、と述べている。イシュがウズとなり、マシャがマサになった。

 実際、皇極(こうぎょく)天皇(六四一~六四三年)の治世において、こんな和歌が民の間で唱われだした、と日本書紀に記されている。

 「ウズマサは神とも神と聞こえくる。常世(とこよ)の神を打ちきたますも」

 これは、

 "ウズマサさまは、神の中でも神だ、との大評判だ。人々が尊崇した常世の神を打ち懲らされるほどに強く、霊験あらたかだから"

 の意味であろう。これをみればウズマサは、もともと単なる地名でも人名でもなく、神の名であり、宗教の本尊名であると推測される。

 ウズマサさまが打ち懲らしたという「常世の神」とは、本来は出雲神話に出てくる神である。しかし、じつは皇極天皇の代に、民の間に、蚕に似たある"虫"を神として祭って、それを「常世の神」と呼んであがめる風潮が流行した。

 人々はその"神"の前に財産を投げ出したが、何の御利益もなく、損害が積み重なるばかりであった。

 こんな邪教が流行したため、当時の秦氏の族長・秦の河勝はそれを見て激しく怒り、"虫"を神と教える人々を懲らしめた。すると、彼らはもはや虫を神と教えるのをやめ、この"虫"の新興宗教は滅びたという。

 こうして「ウズマサ」の名は、神々の神として全日本に大きく聞こえるようになった。そして民衆は、ウズマサの名をたたえる和歌をつくった。

 そんな話が日本書紀に記されているのだが、これはまさに、「ウズマサ」(イエス・メシヤ)を信じ「元糺す神」を信奉する秦氏の、宗教改革の行為だったのである。

 この宗教改革は一時的なものに終わったが、それでも、当時の日本に邪教が広まるのを防いだ。

 宗教改革は、いつの時代にも必要である。私たちも、今日の日本において、真のキリスト景教の再興を願ってやまない。

イナリ信仰の起源

 さて、イエス・メシヤ(イシュ・マシャ)が、ウズ・マサという言葉になったとすれば、「JNRI」また「INRI」という言葉は、何になったのか。

 どうもそれは、「イナリ」という言葉であったようである。

 「INRIがイナリとなった?――まさか。稲荷神社のイナリと、景教と一体何の関係があるのか」

 という人もあるであろう。確かに現在の稲荷神社を見ると、キツネがすわっていたり、赤い鳥居があったりで、質の悪い宗教という感じである。景教とは何の関係もないように見える。

 しかしこうした姿は、じつはどうも、イナリ信仰が変質してしまった、なれの果ての姿のようである。もとのイナリ信仰は、もっと別のものであった。

 イナリ信仰の変質は、空海がイナリ信仰を詔勅(しょうちょく)したときに始まった。空海がイナリ信仰を受け入れて、習合させたことはよく知られている。

 空海はこのとき、それまでのイナリ信仰を変質させてしまった。あの稲荷神社の「白キツネ」も、空海が中国から持ち込んだものである。

 空海は、中国の唐で学んで日本に帰ってから、密教を広めた。このとき、彼は日本でイナリ信仰をも習合した。なぜイナリ信仰なのかというと、それは空海が中国で景教にふれたことに関係がある。

 彼は中国で景教の僧と長々と議論をしていて、景教に関する相当な知識を得た。空海の伝えた密教にも、景教の影響が指摘されている。

 彼は表向きには仏教徒であったが、部分的には、景教の教えにも魅力を感じていたのであろう。その空海が日本に帰ってからイナリ信仰を取り入れたのは、イナリ信仰とは当時、日本における景教の一種だったからである。

 イナリは、現在はふつう「稲荷」と書くが、元来は「伊奈利」と書いた。学者は、空海が「伊奈利」を「稲荷」と書くように変えた、と述べている。

 じつは、もとの字である「伊奈利」は、「いなり」という音に対して当てはめられた"万葉がな"に過ぎない。

 つまり「伊奈利」という漢字自体に意味はない。「いなり」という音に万葉がなが当てはめられたのは、それはこの言葉が、もともとは外来語だったからである。INRIという言葉から、「いなり」となったのであろう。

 実際、先の秦氏の「木島坐天照御魂神社」(俗名・蚕の社)には、岩屋の中にイナリが祭られている。このように、イナリとはもともと景教のものではないか。

 この近くにある、やはり秦氏系の「天塚古墳」にも、前方後円墳の石室にイナリ神が祭られている。長野県の諏訪大社の東北の奥にも、イナリがあり、その入り口には、あの蚕の社と同じ三柱鳥居が立っている。

 このようにイナリとは、もともとは三位一体の神を信じる秦氏系のものであり、"ユダヤの王ナザレのイエス"――INRIではなかったか。

 しかし、景教に親しみを覚えていた空海が、のちにイナリ信仰を密教に習合させてしまったとき、イナリ信仰は本来の景教的特徴を失ってしまった。

 そしてその後、あの白キツネと、赤い鳥居の、異教的礼拝所に堕してしまったのである。

タイムカプセルが光を放つ

 イナリ信仰の起源はともかく、七世紀あるいは八世紀頃から日本に数多くの景教徒が住んでいたことは、疑い得ない事実であろう。

 それはザビエルが日本にキリスト教を伝えるより、さらに一千年近くも前であった。聖徳太子の少しあと、大化の改新の少しあとの頃には、すでに多くの景教徒が日本に住んでいたのである。

 西洋まわりのキリスト教が来るよりずっと以前に、景教という、東洋づたいのキリスト教が日本に来ていた。キリスト教は、日本史のきわめて初期から、日本史の形成に深くかかわってきたのである。

 日本にとって、キリスト教は決して"最近"のものではない。キリスト教は、非常に古くからの日本の伝統なのである。日本の歴史や伝統を語るうえで、キリスト教を欠かすことはできない。

 残念ながら、今日の日本には、昔ながらの「景教」は見られない。見られるのは、西洋まわりで入ってきたカトリックや、プロテスタントである。

 しかし、古代において、日本の景教徒たちは、主イエス・キリストに対する生き生きとした信仰を持って生活していた。そしてその時代にあって、世の光、地の塩となって生きていた。

 彼ら景教徒たちは、時代を越えて、今日の日本人に対してあるメッセージを残した。それはタイムカプセルのように、今や我々に向かって光を放つ。

 それは、あの「いろは歌」に託されたメッセージ、

 "イエス(イエトス)――神ヤハウェの人――咎なくて死す"

 である。神ヤハウェの人であるイエスは、咎(罪)なくて死なれた。あの十字架上で、私たちを罪と滅びから贖う(救う)ための犠牲として。

 彼こそ、私たちのためのメシヤ(救い主)である。彼を信じるとき、私たちは、いにしえの日本の聖徒たちが信じた真の神に立ち帰るのである。

久保有政著(レムナント1997年11月号の文+修正)

(注)以前、[雅楽の「越天楽(えてんらく)」は、「ペルシャから伝わった景教の音楽です」と日本雅楽会会長・押田久一氏は断言する](森山諭著『神道と仏教とをただす』よりの引用)という文を載せておりましたが、日本雅楽会に確認したところ、会長の名は押田良久氏であり、また景教との関係について言ったとされる言葉も勘違いではないか、とのことでした。明確な確認がとれなかったため、この文は削除いたしました。お詫びして訂正いたします。