キリスト教ネストリウス派の日本への伝播と影響について
https://coppoumon.exblog.jp/11339804/ 【景教と秦氏】 より
1700年も前のことなど、判るはずがないが「いすら井」という名の井戸を見たくなった。
いすらいは、イスラエルのこと。秦氏族が大勢で渡来したことは、いろんな文献で知っていたが、まずは、対馬に上陸したであろう、と誰も言ってくれない。
対馬の和多津美神社には三本鳥居が祭ってあり、京都にくるまでは、それが何だとは、脈絡も、関連付けもないままに、そんなものだ、という認識でしかなかった。
秦氏は聖徳太子とも、八幡神社とも、惟宗氏とも関連があるという。
郷里の八幡神社は10月10日が祭礼の日だった。いまは、その日に近い日曜日らしいが、蚕ノ社社はどうなのだろう、とおもい、ミサを休んで出かけたら、案の定、今日、11日が祭礼の日でみこしが出た。
ここの三本柱の鳥居は、初代キリスト教ネストリウス派の影響を受けている、といわれる。
拍手を3回打つ。父と、子と、聖霊なのだ、という学者がいて、なるほど、とおもう。
鳥居の中央に小石を積むのも対馬と同じやり方で、おどろく。
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神輿が拝殿に置かれていた。何と、立派な、と思っていたら、担いでもうすぐ帰ってくるのはもっと軽いほうの神輿だというが、カチャッ、カチャッ という打楽器と太鼓の音がして、にぎやかに神輿が上下に揺れながら社に戻ってきた。
京都で、神輿の先触れに二組のこのカチャッ、カチャッという楽器が二人一組になって所作をつけて打ち鳴らしながら通っていくのを興味を持って、見た。
悪い気、悪霊を追い払うのには、カチカチ、カチカチと音を立てると良い、という話を聞いたことがあるからだ。
京都では、塩を撒くのを見たことは無い。
といっても、それほど多くの神輿を見たわけではないが。
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神主が馬に乗って来たなあとおもったら、そこで行列は終わった。
家々は、葵の紋のついたちょうちんを出している。
教会は、神様を礼拝するところ。神社は神様がおわしますところ・・・こういうふうな、説明を昔、聞いたことがある。
なるほど・・・確かに神社はパワースポットだとおもう。
確実に神様がいる場所なのだといわれると、神社だらけの日本のことをなんとなく身びいきながらうれしい。
サンマルコ大聖堂や、カンタベリーカテドラルなんて、比じゃないなあ。
京都の神社は、ときどきキリスト教のにおいがして、面白い。
http://232927h.blog.fc2.com/blog-entry-53.html 【キリスト教ネストリウス派の日本への伝播と影響について(改訂版)】より
キリスト教ネストリウス派の日本への伝播と影響について
―日本に影響を与えたのはユダヤ人ではなく、ネストリウス派教徒である―
(―日ユ同祖論反駁―)
YOUTUBEにおいてテレビ東京の「日本ミステリー」という番組で徳島にはユダヤ人(ユダヤ教)の痕跡があるという話題が取り上げられていました。
タイトルはThe Roots of Japan Were Ancient Israel!? - Part 1of7です。
URLは次の通りです。https://www.youtube.com/watch?v=TLc30VSPdgY
私見によると結論を言えば、ユダヤ教の痕跡ではなく、ユダヤ教の伝統を受け継いだキリスト教の一派であるネストリウス派の痕跡というべきでしょう。当然、日ユ同祖論は支持できません。また、徳島にユダヤ王国があったなどというのも都市伝説の類です。以下にその消息を記します。
キリスト教の一派ネストリウス派は、コンスタンティノポリス総主教ネストリウスにより説かれ、431年、エフェソス公会議において異端として排斥されました。中国へは、唐の太宗の時代(在位626~649年)にペルシア人司祭阿羅本(アラボン)らによって伝えられ、景教と呼ばれました。景教とは中国語で光の信仰という意味であり、景教教会は唐の時代、大秦寺という名称で建造されました。
9世紀は空海らが遣唐使として唐の長安に留学した時代です(空海は804年に長安で密教を学び、806年に帰国)。そのころ、長安ではユダヤ教の名残が強くあったキリスト教ネストリウス派(景教)が大秦寺を中心に広がっていました。空海も留学時にこのネストリウス派に触れたのではないかといわれています。
845年、武宗によって外来宗教が取り締まられ、ネストリウス派は衰微していきます。おそらく、このときにネストリウス派教徒たちは長安を離れたのではないかと思います。ちょうど838年に円仁らが遣唐使として派遣され、847年に帰国しています。ネストリウス派教徒は遣唐使を通じて知った日本に円仁らの帰国便で渡来したのではないでしょうか。
あるいはもっと早く日本にネストリウス派教徒は渡来していたかもしれません。もともとペルシア人の宣教師がシルクロードを通って長安にまで布教に来たのが中国におけるネストリウス派の始まりであるといわれているぐらいですから、非常に布教熱は高く熱心な一派でした。そんな彼らが長安にとどまったまま100年,200年と過ごしていたようには思われません。おそらくさらに東へと布教したことでしょう。そのルートは布教という目的遂行のために単純に地理的に考えると朝鮮半島から日本へ渡ったというパターンが最も有力です。
たとえば、秦氏の祖先は、720年に完成された『日本書紀』には百済系渡来氏族であるといわれており、弓月君が百済の127県の人民(19万人)を率いて帰化したとの所伝があります。また、秦氏に所縁の深い伏見稲荷大社は和銅年間(708 - 715年)(一説に和銅4年(711年)に鎮座されました。同様に秦氏に所縁のある木嶋坐天照御魂神社(通称:木嶋神社)は起源は定かではありませんが『続日本紀』の大宝元年(701年)4月3日の条にこの神社の名があることから、それ以前から祭祀されていたとされています。
これにネストリウス派が中国に伝来した唐の太宗の時代(在位626~649年)を考え併せると、少なくとも701年以前にネストリウス派キリスト教徒が日本に渡ってきたという立論も不可能ではありません。ではどのような人々だったのでしょうか。ネストリウス派が中国に伝来した当時、ペルシア人宣教師たちに伴ってきたペルシア人信徒たちの子孫や弓月国の信徒たち―彼らの中に宣教師がいたことでしょう―、さらにその一団が移住した先々で信仰に加わった人々を交えて日本に渡ってきたのではないでしょうか。この中にイスラエル十支族の一部(マナセ一族など)が大勢いたとはいえないでしょう。ましてや白人ではないでしょう。
渡来したネストリウス派教徒は現在の京都の太秦に落着き、帰化したことでしょう。太秦の地は彼らの長安における寺院名から名づけられたのか、それとも秦氏の大きな集落という意味合いからその地を太秦と名付けたのかもしれません。彼らは先進の文化文物(織機技術、灌漑技術、衛生習慣、行政知識、都市管理、音楽、宗教儀式、学術など)を所有しており、朝廷から重んじられたことでしょう。彼らは長安にあった本拠寺の名称の大秦寺から一字をとり、秦という姓を天皇から賜り、各地に神殿(教会堂)を建設し、そこを信仰生活の拠点としたように思います。京の太秦を中心に教勢は拡大し、今日の秦氏関連の神社(伏見稲荷神社など)が全国各地に残っているのではないでしょうか。
つまり、秦氏は全国にネストリウス派キリスト教を布教し、各地に信仰の拠点に伏見稲荷神社などを建設していったのではないでしょうか。尤も後世にはこうした所以は忘却され、伏見稲荷神社は稲作の神として崇められ、各地に分霊されたのではないでしょうか。そして伏見稲荷神社がある地は京の伏見稲荷にちなんで伏見という地名がつけられていったのではないでしょうか。これが全国に伏見という地名がある理由であるように思います。
ちなみに伏見は「伏し水」を意味し、京都の伏見の伏流水の豊かさを表す地名と言われています。筆者はこれに異論があります。というのも伏見は元来「不死の身」つまり「不死身」と書いていたのではないかと思うのです。さらに、稲荷はもともと「伊奈利」とかき、漢字が使われる以前から「イナリ」であったとされるそうです。イナリには、INARIが転化したという説があります。千葉大学准教授で景教の研究家であるケン・ジョセフ氏などが唱えています。INRI は、ラテン語のIESUS NAZARENUS REX IUDAEORUMの頭字語であり、日本語では「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と訳されます。これはキリスト教徒にとっては実になじみのある表現です。というのも、ヨハネによる福音書19章19節に「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった」と記されています。
つまり、INRIにはイエス・キリストの死を象徴する意味が込められているのです。ここで「伏見」の意味と併せて考えると、伏見稲荷は「ユダヤ人の王・ナザレのイエス、不死の身」を意味しているということになります。この場合、不死の身はキリスト教の重要な教義であるイエス・キリストの復活を意味しています。そうすると、伏見稲荷神社という名称はキリスト教の重要な信仰であるイエスの死と復活を表明(信仰告白)した呼称であるということになります。まさにこのことは伏見稲荷神社の建立は景教つまりネストリウスはキリスト教徒である秦氏の信仰の証しであるといえるのではないでしょうか。
ヨーロッパでは14世紀に疫病(ペスト)が流行しました。その時にある地区だけペストによる死者が出ませんでした。その地区がユダヤ人街でした。その理由はユダヤ人が宗教儀礼としてのみならず、生活の中でも手洗や沐浴が浸透しており、この高い衛生観念がペストの罹患を防いだのではないかといわれています。同様のことがヨーロッパに先んじて日本で9世紀に起こっていたのではないでしょうか。
朝廷は疫病の流行により863年に神泉苑で初の御霊会を行いました。しかし、その後も疫病の流行が続いたために御霊会を行って無病息災を祈念しました。そのような社会状況の中で869年に御霊会を執り行ったのが祇園祭の起源であるといわれています。京で疫病がはやったこの時期に衛生観念の発達していたこのキリスト教徒たちは当時の日本社会に衛生習慣を浸透させ、防疫に寄与したのではないかと思います。そしてこの出来事を記念して始まったのが祇園祭なのではないでしょうか。尤も、この祭りの起源は旧約聖書であり、ネストリウス派キリスト教徒がユダヤ教徒から受け継いでいた宗教儀式だったのでしょう。
のちにこのキリスト教徒らのうち一部は徳島に移住したのではないでしょうか。おそらく布教目的あるいは政争関連かもしれません。そのため徳島のある地域には秦(はた)姓が多く、秦氏関連の神社があるということなのではないでしょうか。ネストリウス派キリスト教はユダヤ教の影響が強かったため、当時の教会堂(神殿)=今日の秦氏関連の神社にメノラー(七枝の燭台)が徴として残っているということのように思います。