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Write It Down

アートは感じるべきなのか読み解くべきなのか

2016.06.24 14:21

今回は少し難解な話になりますが、一見すると理解不能に思えるアート作品の捉え方について思ったことを書きます。最後まで読んでも理解できなかったら、きっとぼくの文章力のせいです。

*アートは”理解”できるのか

何を書こうか、そう思いながら自分の本棚を眺めていました。

そのとき手に取ったのがとあるフリーペーパーで、

その中で目に止まったのが横尾忠則のインタビュー記事でした。

横尾忠則は、今年で齢80になるグラフィックデザイナー出身の画家。

最寄駅近くに横尾忠則現代美術館があり、実際に作品を目にしたことがあります。

こんな感じの、たぶん括り的にはアンディ・ウォーホルなどに代表されるようなポップアートとして分類されるような画風。

(ぼくのブログだから勝手なことを言わせてもらうけど)そこに美学は感じられなかったけど、胸の奥にむず痒さみたいなものを感じました。

広告デザインのポスターのような絵に、家族や学校の集合写真が遺影のように散りばめられた作品群。ぼくは、アートというのは何かを伝える手段(表現)だったり、心惹かれるような美を創出することだと(ぼんやりとだけど)思っていました。だから、横尾氏の作品が示唆するものが理解できず、アートというものがますます分からなくなってしまいました。

*理解しなくていい

そんなとき再びフリーペーパー上の横尾氏のインタビュー記事を目にし、飛び込んできたのが横尾氏のこんな言葉でした。

”20代になると知識と情報でものを見てしまうでしょう?その視点のままに描いたら、観る方だって「ああ、知ってる、知ってる。」となりますよ。でも、人間の心とか、魂とか、霊性をえぐるには、それは違うんだよな。”

この言葉をかみしめたとき、難解なアート作品との接し方が少し分かった気がしたんです。

横尾氏は自分の知識と情報を信頼せず、別次元の自分・もしくは心の深層に横たわる根源的な自己が作品を描いています。

他にも記事内で「自分は何を描きたかったのか、絵を完成させたあとに気づくことが多い」という旨の発言があるように、制作段階では横尾氏自身も自分が何を表現したいのか自分で自分を理解していないと思います。それって、作者自身が理解不能な作品を、われわれ鑑賞者側が理解できるはずがないということです。

ただ、アートはそれでいいんじゃないかって思います。アートはそもそも理解するものじゃないかもしれない。そこに論理性はなく、理解できたとしても、他人と同じように解釈する必要もない。だから、作品から受けた印象を言語化する必要もなく、もやもやとした感覚をそのまま胸の中で飼い慣らしておけばいいのかもしれない、ということです。