星野道夫の『旅をする木』
海はしょっぱい。
そんなこと知っていたけど、ぼくにとって、それはあくまでしょっぱい「らしい」ということでしかなかった。サーフィンをして自分の顔面を海面に叩きつけるように転んだとき初めて、自らの感覚として海がしょっぱいことを感じた。知識が感覚に、そして体験に変わった瞬間だった。
そんな些細なことから、自分に視覚が備わっていることに感謝せずにはいられなくなるようなきれいな朝焼けを見て、ぼくはその日から何となく”自然”に対し関心を抱くようになった。
そんなとき書店で手にとったのが、探検家で自然写真家の、星野道夫の『旅をする木』だった。この人の名前だけは以前から知っていた。最近BRUTUSやCoyoteなどの雑誌で特集をされているのを目にしていたから。そして、小学6年の妹の国語の教科書に教材として氏の随筆が掲載されており、よく妹が宿題として家で音読していたからだった。
偶然開いたページに、こんな文章があった。
ある夜、友人とこんな話をしたことがあった。私たちはアラスカの氷河の上で野営をしていて、空は降るような星空だった。月も消え、暗黒の世界に信じられぬ数の星がきらめいていた。時おり、その中を流れ星が長い線を引きながら落ちていった。
「これだけの星が毎晩東京で見られたらすごいだろうな。夜遅く、仕事に疲れた会社帰り、ふと見上げると、手が届きそうなところに宇宙がある。一日の終わりに、どんな奴だって、何かを考えるだろうな
いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって」
何気ない文章なのかしれないけど、やわらかいタッチの文章に惹きつけられた。そして何より、自分も「どうしたら伝わるんだろう」と一瞬立ち止まらずにはいられなかった。その文章の続きが気になって仕方がなかった。それなのに、ぼくはそこで本を閉じた。その続きを立ち読みで済ましてしまうのが何だか勿体無い気がして、家でゆっくり読もうと思ったからだった。何よりその文章を読んだだけで、全ページに期待感が充満した。
続きはこうだった。
「・・・もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いてみせるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって。その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」人の一生の中で、それぞれの時代に、自然はさまざまなメッセージを送っている。この世へやって来たばかりの子どもへも、去ってゆこうとする老人にも、同じ自然がそれぞれの物語を語りかけてくる。
ぼくはこの本を買ってから、少しこの人のことを調べてみた。1952年生まれであること。今年で没後20年になること。テレビ番組の撮影のために立ち寄ったカムチャツカでクマに襲撃され亡くなったこと、アラスカに魅せられていたこと。何でもいいからもっと彼のことを知りたくて、妹のランドセルから国語の教科書を引っ張り出してきて、掲載されている氏の文章も丸々目を通した。
高度に文明化された、そして「人と人とのコミュニケーションが大事だ」と喧伝される現代社会を生き抜くぼくらに、ちょっと足を伸ばせば自然があること、コミュニケーションの相手は必ずしも人じゃなくてもいいじゃんってことを思い出させてくれる本です。
キャンプ道具持っている人もしいれば、近くの山でも一緒に行きましょう。