ベートーヴェン作曲『クロイツェル・ソナタ』
そのプレストには
音楽の獰猛なまでの力が
287時限目◎音楽
堀間ロクなな
「ああ……あのソナタは恐るべき作品ですよ。まさにあの部分がね。(中略)音楽は確かに人間に作用する、それもおそろしく作用します。これは私の体験から言っても間違いありませんが、でもそれは精神を高める作用などではありません。音楽は精神を高めるのでも低めるのでもなく、ひたすら精神を興奮させる作用をするのです。どう説明したらいいのでしょう。音楽は私にわれを忘れさせ、自分の本当の状態を忘れさせ、何か別の、異質な世界へと移し変えてしまうのです。(中略)たとえばあのクロイツェル・ソナタの第一プレストです。いったい肩もあらわなデコルテをまとって客間に集まった貴婦人たちの真っただ中で、あんなプレストを演奏していいものでしょうか? 演奏しておいて、終わったら拍手をし、それからアイスクリームをほおばって最新のゴシップを語り合おうなんてことが許されるでしょうか?」(望月哲男訳)
トルストイが61歳の年に発表した中篇小説『クロイツェル・ソナタ』(1889年)の一節だ。およそ世界的な文学で、ここまであからさまに音楽を告発した例は他にないのではないか。それも、よりによってベートーヴェンの傑作中の傑作を題材にして――。上に引用したのは、結婚生活に深く絶望したあげく妻を殺害した初老の貴族ボズスィシェフのセリフで、ピアノをたしなむ妻がパーティでフランス帰りのヴァイオリン弾きの男とその曲を合奏したことが凶行の引き金になったと説明している個所だが、主人公の口を借りて作者が本心を披瀝しているのは明白だろう。
ベートーヴェンにとって九つ目のヴァイオリン・ソナタは、かれが重度の聴覚障害に襲われて「ハイリゲンシュタットの遺書」をしたためるほどの危機に瀕しながら、強靭な精神力によって乗り越え、新たな「傑作の森」(ロマン・ロランの表現)へと足を踏みだしたなかでつくられた。ヴァイオリニストのロドルフ・クロイツェルに捧げられたための呼称を持つこの作品には、実際、荒々しいエネルギーの奔流があり、とりわけトルストイが指摘する第1楽章のイ短調のプレストは、唸りをあげるヴァイオリンと一歩も引けを取らないピアノの掛けあいが凄まじいばかりだ。
トルストイは幼少時から音楽を愛好し、かつてモスクワ音楽協会(のちの音楽院)の設立にも力を尽くしたほどだから、『クロイツェル・ソナタ』の弁には千鈞の重みがあったろう。それだけに、ベートーヴェンとトルストイの双方を深く敬愛する前出のロマン・ロランは股裂きとなって、著書『トルストイの生涯』(1911年)では「事実この題名は間違っている。これは作品を誤解させる。音楽はこの作品で二義的な役割しか演じていない。あのソナタをやめにしてみても、なんら変ってくるものはないように思われる。トルストイは考えていた二つの問題、音楽と恋愛との反道徳的な力を誤って混同している」(蛯原徳夫訳)と困惑を隠せないでいる。
しかし、とわたしは思う。後世のわれわれはとうにベートーヴェンを楽聖として神殿に祀りあげてしまっているけれど、ベートーヴェンが世を去った翌年に生まれたトルストイにとってはもっとずっと近しく、かれが残した作品は同時代の音楽といった印象が強かったのではないか。そう、『クロイツェル・ソナタ』のプレストをわれわれにとってのジャズやロックに置き換えてみれば、トルストイはロマン・ロランのいう「音楽と恋愛との反道徳的な力」を混同したのではなく、ときにはそうした社会のモラルを揺さぶりかねない音楽の獰猛なまでの力を暴いてみせたのではなかったか。
ところで、わたしがこの曲について親しんでいるレコードは、ミルシテイン、オイストラフ、クレーメル……と、なぜかロシア出身のヴァイオリニストによる演奏が多い。わけても、レオニード・コーガンが義兄で名ピアニストのエミール・ギレリスと組んで1964年にレニングラード・フィルハーモニー・ホールで繰り広げたコンサートのライヴ録音は、眼前で灼熱の火花が飛び散っているかのようなエキサイティングぶりで、まさしくトルストイが「われを忘れさせ、自分の本当の状態を忘れさせ、何か別の、異質な世界へと移し変えてしまう」と書きつけたとおりの威力が漲っている。
今日、われわれの前にある『クロイツェル・ソナタ』が立派な額縁に収まってすっかり落ち着き、もはや社会のモラルとなんら干渉しあうことなく安全安心に演奏されているとしたら、それはベートーヴェンの去勢された残影なのかもしれない。