歴史に秘められた謎を解く ①
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-category-21-1.html 【歴史に秘められた謎を解く 】より
歴史に秘められた謎を解く その1
『日本人の特殊性の謎を解く その4』に『歴史に秘められた謎を解くに続く』と書いてからずいぶん時間が経過してしまいました。理由は、どう書き出すべきか少々迷ったからです。犯罪捜査に現場百回という言葉があります。この言葉は、現場に行けば小さなものかもしれないがヒントがある、行かなければとんでもない間違いを犯す可能性がある、ということを意味しているのだと思います。
翻ってこれから書こうとしていることは、シュメールだのイスラエルだのと現場には行けない内容ばかりです。実は、鎌倉の地名由来を考える、においても現場を見ることの重要さを痛感させられました。鎌足稲荷神社の存在は知っていたのですが、ここに足を運んではいない段階で鎌を埋めた場所は鶴岡八幡宮と記事に書いたのです。その後何となく気になって、急きょ鎌足稲荷神社に行ったのですが、解説板にここが鎌を埋めた場所であるとする内容が記載されており、愕然としました。現場に足を運んでいなかったために見落としがあったのです。
もちろん、解説板の内容が絶対ということではありません。しかし、物的証拠がほとんどない中で何かを検証していく場合、このような伝承が伝わっていることは無視できず、非常に重いものがあります。このため、鎌を埋めた比定地が二カ所ある矛盾をどう解いていくか、あれこれ考えざるを得なくなりました。しかしその作業のお陰で、続編で書いたように、新たな視点を得ることもできました。やはり現場を踏むのは大切なのです。
ですが、これから書いていく内容は現場を踏めない以上、過去にある議論も参考にしつつ、推論と仮説を積み重ねるものにならざるを得ません。結果鎌倉同様の見落としや判断ミスもあるでしょうし、ご指摘を受け後で訂正することがあるかもしれません。このようなケースが出た場合は、酔石亭主の力不足ということですが、ご寛容いただければ幸いです。
あれこれ考え尻込みしているだけでは、何も前に進みません。アインシュタインの特殊相対性理論は、彼が宇宙の果てまで行って見つけ出したものではないはずです。それを励みとして、とにかく書き始めることにしました。
世界最古の文明はシュメール(スメル=須弥)で始まりました。シュメール文明はある日忽然と姿を消してしまうのですが、その文化はイスラエルに接続していきます。『旧約聖書』のノアの方舟は、イスラエルに大洪水を引き起こす大河などないことから、シュメールのティグリス、ユーフラテス川の氾濫による大洪水伝説が元になっていると考えられます。またバベルの塔はメソポタミアのジッグラト(聖塔)がその原型であり、イスラエルの祖であるアブラハムは現在のイラク南部ウルに居住して、シュメールの女を妻にしています。イスラエルの原点はシュメールにあったと言えるでしょう。
シュメールと旧約の神ヤハウェ。この両者の情報は長い年月の後、古代の日本にまで伝えられたと考えられます。そう聞いただけでトンデモ説だと決めつける方もおられるでしょう。しかし、およそ10万年前にアフリカを出た現生人類(ホモ・サピエンス)は、技術も文明も未発達な状態であったにもかかわらず、大地溝帯に沿って移動しイスラエル近辺に進出、世界中に広がりました。それよりはるか後代の、文明も技術もある彼らが、日本にまで到達できないと決めつける方が間違っているとは思いませんか? (もちろん現生人類が世界に広がったことをもって、シュメールとイスラエルの民の日本渡来を証明できる訳ではありません)
また同時に、日ユ同祖論のように、日本とイスラエルが同祖だと主張するつもりもありません。長い時代スパンで見れば、人類は20万年前にアフリカにいた一人の女性の子孫だそうですから、人類みな兄弟ということになってしまいますが、その議論も横に置きます。
ちょっと待て、日本人とユダヤ人やイラクの人たちとでは容貌も容姿もまるで異なっている、それはどう説明できるのかという意見もあろうかと思います。この意見に対しては次のように答えたいと思います。(そもそも古代イスラエルの民と現在のイスラエルにいる人たちは人種的にはまるで別物です)
彼らが渡来する過程で当然のことながら中央アジア、中国、朝鮮半島などの違う血が入り、日本においても混血が繰り返されて、容姿・容貌は元の姿とは異なってくる。しかし彼らの思想や文化は受け継がれる、と。
長い年月の経過により姿・かたちは変わるでしょう。しかし文化や風習は時代を超えて受け継がれていく。日本に対するシュメールやイスラエルの影響も、そのような視点に立脚して書いてしていくつもりです。
ところで世界最古のシュメール文明を担った民はどこから来たのでしょう?残念ながらそれは謎とされまだ確定していません。ただ彼らは、巨丹(ホータン)からメソポタミアに到来した民だという説があります。酔石亭主はこの説が正しいと思うのですが、その解明はまた後の話とします。
巨丹:現在の中国新疆ウイグル地区の和田がその場所です。ここは崑崙山脈の麓のオアシス都市で、ホータンの玉と呼ばれる軟玉ヒスイを産出し、現在相場は高騰しています。
シュメールの文明は海上ルートと陸上ルートの二つの経路で日本に流入しました。まず海上ルートを見ていきましょう。メソポタミアからペルシャ湾とオマーン湾を抜ければ、もうインダス川の河口に達します。この中下流域にはインダス文明が発展しました。そこからインド度亜大陸に沿って南下し、突端で北上すれば、東南アジアは目と鼻の先です。
そしてベトナム中部へ至ると、チャンパ(林邑)があります。チャンパは、太平洋に広がった海洋系のオーストロネシア語族であり、とても古い民です。
このように、チャンパは印度に繋がり、インドはシュメールに接続していくのです。一方、チャンパから百越と呼ばれた中国南部を陸沿いに北上し、長江河口付近から黒潮に乗れば、朝鮮半島経由か、または直接日本海方面に上陸できるでしょう。他には長江から陸路朝鮮半島に渡る方法もあります。
そこで、シュメールとインダス文明を接続してみましょう。インダス文明の特徴は通常なら必ずあるはずの神殿や軍事施設がなく、大きな倉庫があることです。では、なぜ神殿がなかったのでしょう?神殿がないのは、宗教と政治権力の中心がなかったことを意味します。その前提で、インダス文明の時代に宗教と政治権力が存在していた場所を考えれば、メソポタミアのシュメールしかありません
モヘンジョ・ダロはシュメールの交易拠点でしたから、神殿や軍事施設は不要だったのです。事実ウルのサルゴン王(紀元前2360年~2305年)の時代を示すメソポタミアの遺物の中には、インダス文明の印章も含まれています。シュメールとインダス文明の関係は学会でも定説になっているのです。これで、シュメール人がインドまで到来したことはご納得いただけると思います。
次にインドから東南アジアです。大野晉氏の研究によると、日本語はオーストロネシア語にインド南部ドラヴィタ人のタミール語が被さっているそうです。彼らはインダス文明を担った一団であり、その言葉が日本語のベースの一つになっているのです。とすれば、インダス川河口に到来したシュメール人が、ドラヴィタ人の支援を得てインド亜大陸を南下、チャンパに渡来し、中国大陸を経由して日本にまで至る可能性は高いと言えましょう。
またベトナムの創世神話には例の角を持つ神農が出てきますし、紀元前800年ごろから始まるドンソン文化(青銅器文化)は中国、台湾、朝鮮、日本、インドシナ、マレー半島まで広がりを見せています。さらに紀元前後にはインドと古代ローマとの交易が盛んになり、インド人の航海者は金や香料を求めて東南アジアへと来航しています。
ベトナム・アンザン省のオケオ遺跡(紀元2世紀~6世紀)からは古代ローマのマルクス・アウレリウス帝の肖像が入った金貨やガラス、装身具まで発見されています。しかもベトナム中部で発見された東南アジア最古の石碑文には、チャンパに建国者とされる王の名が登場するのですが、その名前は何とシューリーマーラ王で、シュメールのシュが入っています。
上記は海上ルートですが、陸上ルートはもっと簡単です。後代シルクロードと呼ばれたルートを辿ったのです。主たるルートは西域南路。彼らは父祖の地である巨丹に入り、西域南路を東に進み、漢の時代でいえば長安があった地方に入りました。続いて、中国大陸を横断し泰山近辺から海岸線に至り、朝鮮半島を経由して日本に渡来したのです。以上が、シュメール人の日本への渡来ルートとなります。
もちろんこれだけでシュメール人やイスラエルの民の日本渡来が証明された訳ではありません。引き続き様々な角度で論証したいのですが、問題は、彼らの渡来を示す物的な資料や証拠がないことです。もし日本の古墳からシュメールやイスラエルの言葉で書かれた粘土板でも出土すれば決定的な証拠になるでしょうが、その可能性は当面なさそうです。従って、日本や世界各地に残されているかすかな痕跡を手掛かりにして細い糸を手繰っていくしかありません。
さて、イスラエルからの渡来民であるとされる秦氏は、大酒神社の解説板によれば始皇帝の子孫となります。また彼らは徐福の子孫であるとも自称しています。それが真実か否かはさておいて、少なくとも秦氏は中国大陸から朝鮮半島経由で日本に到達していることは間違いないでしょう。中国からイスラエルの間は相当な距離があります。しかし彼らにとって、中国とイスラエルの間を繋ぐのは、兄貴分であるシュメール人の足跡を辿るだけですから比較的簡単だと思われます。
歴史に秘められた謎を解く その2
秦氏景教徒説という議論があります。これは佐伯好郎氏が1908年に『太秦を論ず』で唱えたもので、秦氏の京都における本拠地太秦とキリスト教が盛んだった古代ローマが大秦と呼ばれていた関係などを論拠としており、日ユ同祖論に繋がっていく重要な論考ではあります。
しかし一方で、秦氏原始キリスト教徒説、秦氏イスラエル10支族説などもあり、加えて秦氏はミトラ教、仏教、道教、陰陽道、神道、修験道などの要素も自分の中に持っています。秦氏の出自も同様に諸説あって、朝鮮半島、中国、巨丹(現在の新疆ウイグル自治区和田)、イスラエルなどが挙げられています。
さあ、大変!!秦氏の実像はどのようなものか考えるだけで、眩暈がしてきそうです。では、彼らはどんな一族であると考えればいいのでしょう?酔石亭主の見解は次の通りです。
秦氏は景教徒、仏教徒と言った枠組みに収められる矮小な存在ではない。世界史レベルのあらゆる要素を自分の中に包含してしまう摩訶不思議な一族である。彼らの実像を把握するには、グローバルな視野に立って、できる限り俯瞰的に見ていくしかない…などと大風呂敷を広げては、最後に収拾がつかなくなるかもしれません(笑)
ただ、秦氏景教徒説を検証する中から見えてくるもののありそうなので、今日はこの説について考えてみたいと思います。
秦氏と関係の深い人物に空海がいるのですが、空海の高野山には『大秦景教流行中国碑』という石碑が置かれています。この石碑は中国にある石碑のレプリカで、E.A.ゴルドン夫人という女性(1851年イングランド生れの人物)によって建てられました。ゴルドン夫人は空海が長安で景教を学んだと考え、石碑を高野山に建てたそうです。この点に関しては、司馬遼太郎氏も『空海の風景』の中で空海が景教を学んだ可能性について言及しています。
では元になった『大秦景教流行中国碑』とはどのようなものでしょうか?岩波書店の『桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑』によればこの石碑は唐時代に建設されたもので、その当時支那に流行した、キリスト教の一派のネストリウス派に関連する古碑である、としています。では次に、景教について見ていきましょう。以下Wikipediaより引用します。
ネストリウス派(ネストリウスは)とは、古代キリスト教の教派のひとつ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれ、431年、エフェソス公会議において異端として排斥された。中国においては景教とも呼ばれる(ネストリウスはラテン語式表記で、ネストリオスはギリシア語式)。中国へは、唐の太宗の時代にペルシア人司祭「阿羅本」(アラボン、オロボン、アロペン等複数の説がある)らによって伝えられ、景教と呼ばれた。当初、唐の朝廷は初期には皇族を含めて支配層が濃厚な北族(鮮卑・匈奴など)的要素を有したこともあり、景教や仏教など、非中華由来の宗教に寛容で、信仰を容認、保護したため、盛んであった。
この景教が唐に入り、空海も接触を持ったと思われるのですが、以下大秦寺に関してWikipediaより引用します。
中国への景教の伝来は、635年にネストリウス派宣教団が長安に到着したことから始まる。『唐会要』によると、このとき太宗の命により、宰相の房玄齢が宣教団の団長阿羅本(アラホン、アロベン)を迎えたとある。時の宰相が出向いていることを考えると、少なくとも朝廷に対する何らかの働きかけを行った者が、既に長安で活動していた可能性が高い。これほどの高官の歓待を受けたことより、宣教団には西域の何処かの国(サーサーン朝ペルシアが有力か)からの外交使節的な意味合いが含まれていたとも考えられている。
3年後の638年に景教は唐により公認され、長安に寺院が建立されることとなった。この段階では「波斯寺」(あるいは「波斯経寺」、波斯はペルシャのこと)と呼ばれており、「大秦寺」の名称は使われていなかったが、745年に教団の名称が「波斯経教」、「波斯教」から「大秦景教」に変更されたため、朝廷側からの寺院の呼び名が「波斯寺」から「大秦寺」に改称された(『旧唐書』大秦寺の条参照)。これは、キリスト教が大秦国で(すなわちローマ帝国で)生まれた宗教であることを、唐側が認知したからといわれている。
秦氏の日本渡来は時代的に唐代以前と考えられ、彼らは唐に伝わった景教を信奉する一族でないと考えられます。(秦氏は景教についての知識を持っていたと推測はされます)また上記のように大秦とはローマ帝国を意味しているのですが、大秦という言葉は後漢書に既に出ています。以下大秦に関するWikipediaよりの引用です。
後漢書
「和帝の永元九年(97年)に西域都護の班超が甘英を使者として大秦に派遣した」
大秦の初出である。この後甘英はシリアにまで到達し、地中海を渡って大秦へ赴こうとしたが、パルティア人の船乗りに「大秦までは長ければ二年以上も航海せねばならず、長期間陸地を見ないために心を病んで亡くなる者さえいる」と言われたために大秦に行くことを諦めたとの記述がある。
漢の時代、ローマは大秦と呼ばれていた。これは何を意味するのでしょう?それを考える前に始皇帝の秦に関して見ていく必要があるでしょう。以下秦に関するWikipediaよりの引用です。
紀元前900年ごろに周の考王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったという。 伝説上では嬴姓は帝舜の臣伯益が賜ったとされている。秦は殷の紂王に仕えた奸臣悪来の末裔とされるが、後に秦が西戎の覇者となった事、非子が馬の生産に携わっていたことから西戎の一派であったという説もある。秦が最初に興った場所は現在の甘粛省礼県であったらしく、この地より秦の祖の陵墓と目されるものが見つかっている。
甘粛省は中国大陸の北西に位置しており、西に新疆ウイグル自治区と接しています。上記の記述から始皇帝の秦は、西戎の一派つまり西域から渡来した一族であることが窺えます。ちなみに巨丹も新疆ウイグル自治区内にあります。(前回方丹のグーグル地図画像を載せ忘れたので、ここに載せます)
大きな地図で見る
赤い印が方丹(和田)です。詳しい位置関係は拡大して見てください。
そこで、ローマ帝国が大秦であるとは、始皇帝の秦の大本が西域よりさらに西方にあることを示唆しています。多分漢代においてもそのような印象が残っており、ローマ帝国を大秦と呼んだのでしょう。
秦氏景教徒説を検討する中で抽出できるものがありました。秦は少なくとも西域より西に起源があること。よって秦の始皇帝及び徐福の子孫と自称する秦氏も、その出自を辿ると朝鮮半島、中国、西域(巨丹)にとどまらず、さらに西のエリアに行き着く可能性があると言うことです。
歴史に秘められた謎を解く その3
前回までの検証で、シュメールとイスラエルの民が日本に渡来した可能性は多少なりともありそうだ、と思っていただければ幸いです。続いて今回は、宗教や文化の側面からも探っていきます。皆さんもご存じのように、キリスト教はフランシスコ・ザビエルが日本に持ち込んだとされますが、ずっと昔、古代の天皇の時代には我が国に入っていた形跡があります。宗教だけではありません。古代の日本には世界のあらゆるものが流れ込み、溶け合って渾然一体となっているのです。
そこでまず、ユダヤ教を例に取ります。文献が整っているユダヤ教は『旧約聖書』を原典としています。『旧約聖書』にあるノアの方舟は、初回で述べたように、世界最古の文明であるシュメールの洪水伝説が元になっています。そもそもイスラエルは、メソポタミア地方の遊牧民が神に導かれてこの地を強奪し、建国したものです。言い換えれば、『旧約聖書』はシュメールが源となります。
『旧約聖書』にイエスの『新約聖書』を加えたものがキリスト教になります。また『旧約聖書』にコーランを加えたものがイスラム教です。次に仏教とヒンドゥー教を見て行きましょう。仏教の創始者は釈迦ですが、実は釈迦自身『一切経』の中で自らの祖先はシュメールだと告白しています。経典の系図では大須弥小転輪王から五十六代目の浄飯王が釈迦の父に当たるのです。
シュメールはsumerですが、一方、仏教やヒンドゥー教の根本的宇宙観を示す須弥山はsumeruと書きます。この二点から、仏教思想の根本は、実はシュメールにあるとわかります。以上から、世界三大宗教の源流はシュメールとなるのです。
続いて、シュメールの言葉の意味を探ってみましょう。(以下は相撲の関連で既に書いたものです)スやシュは崇高=神を意味しますから、シュメールは崇高なメール族です。そこで、日本の天皇はスメラミコトとも呼びます。崇高な神であるメール族の痕跡は日本にも存在するのです。
しかも、スやシュの意味は日本に入っても変化しませんでした。スやシュに当てはまる文字は、主、朱、首、須などが挙げられ、主は神やイエスを意味しますし、スサノオの命、主人、首長、神社の朱塗りなど、その多くが崇高や至高といった意味を含み、神と関連する言葉となっています。
シュメールの情報は西欧にも伝えられました。ですから英語にも、summit、 super、 supreme、supraなど同様の意味を持った言葉が出現しています。
シュメールに続き旧約の神であるヤハウェ神を見ていきましょう。ヤハウェのヤは、矢幡、八幡、邪馬台国、大和、ヤマタノオロチ、矢、弥など古代の日本にとって重要な地名や事物に当てられています。シュメールに須弥(シュメールに繋がる須とヤハウェに繋がる弥)という漢字が当てられているのには、明確な意味があるのです。
次にアーリア系とされるミトラ教を見ていきましょう。まず、ミトラ教はキリスト教に大きな影響を与えています。イエスの誕生日は12月25日とされますが、この日は、実はミトラ神の誕生日なのです。イエスの中には、ミトラの神格が流れ込んでいると考えられます。
またこの神はインドに入り、弥勒菩薩に変容しました。さらに謎の神である摩多羅神へと変容を遂げていますし、イエスのみならずアマテラスの神格にもミトラは入り込んでいます。ですからミトラは、自ら変容し、且つ神々の変容を媒介する神とご理解ください。以上のように、シュメール人とアーリア系の宗教や占星術は中国に影響を及ぼし、道教や陰陽道に形を変え、日本もそれらを取り入れていくのです。
世界の三大宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)だけでなく、ユダヤ教や中国、日本の宗教もシュメール人とアーリア系が源流になっていました。(アーリア系も巨丹が父祖の地だという説があります)
遠い昔、言葉や宗教のみならず、あらゆる事象が日本にまでなだれ込みました。その結果、日本には古代から現代に至るまで、途方もない謎が仕掛けられているのです。であれば、それらは当然私たち日本人にまで影響を及ぼしていると考えられます。
それは、既に述べた日本に封印された謎や、日本国と日本人が空洞化され、他律的集団主義の新しい世界が開けた特異点とも関連しているはず。では誰が謎を仕掛けたのでしょう?
怪しそうなメンバーの第一に秦氏が挙げられます。なぜなら秦氏は、日本に渡来し国内で活動する過程で、ありとあらゆるものを自分の中に取り込んでいるからです。
シュメール、旧約聖書、原始キリスト教、景教、ミトラ教、仏教、道教、陰陽道、修験道―これら全てに秦氏の関与が見られます。彼らは始皇帝や徐福の子孫を自称し、聖徳太子に密着してその死後には聖徳太子信仰を広め、空海と深い関係を持ち弘法大師信仰を広め、賀茂氏を取り込み、藤原氏に入り込み、頼朝を動かすと言う変幻自在ぶりです。
また土着の古くからの神々も取り込んでいきます。例えば稲荷神である宇迦之御魂神(うかのみたま)、倉稲魂命、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)は本来食物神ですが、秦氏に取り込まれることにより狐が前面に出て、祟る、憑く、化かす、霊夢に出現するなど、全く異なる性格の神となりました。これはミトラ神の変容する術を学んだからこそできる技と言えましょう。
彼らは平安時代初期以降、漂白遊行の陰陽師、猿楽、傀儡子、アルキ白拍子、金タタキなどに変容し自ら姿を隠してしまいます。秦氏は何と摩訶不思議な一族でしょうか。
注:できましたら、人類進化の謎を解く、旧約聖書創世記の謎を解く、日本人の特殊性の謎を解く、に目を通していただいた上で、歴史に秘められた謎を解く、をお読みいただけると幸いです。理由はこれらの内容全てがリンクしていくからです。また、酒匂川あれこれ、パワースポット探訪、相模国の秦氏、鎌倉の謎を解く(鎌倉歳時記のサブカテゴリーとして分けることにしました)、日々の雑感(学校教育、相撲)などにも関連した記事があります。
歴史に秘められた謎を解く その4
相撲のところで既に触れましたが、シュメールのすぐ近くにはスサという都市国家があり、ここからの連想でスサノオはスサの男、すなわちシュメールから渡来した神だとする説があります。一方日本におけるスサノオは荒ぶる神、祟り神であり、また産鉄の神でもあります。
彼が日本に渡来しタタラ製鉄を持ち込む以前には祟りもありませんでした。タタラなかったのです……(^_^;)というのはダジャレですが、産鉄と祟りは接続するように思え、必ずしもダジャレや語呂合わせとは言い切れない部分があります。
今後ともこの種の語呂合わせ的な論証は出てきますが、語呂合わせは必ずしも馬鹿にできません。言葉にはそれ自体に深い意味が含まれていると考えられるからです。例えば『祟』によく似た漢字で『崇』があります。崇は音読みするとシュウ、スウでシュメールのシュ、スに繋がり、祟もスイで同様です。
『祟』は神仏などが人をとがめるために下すわざわい、を意味し、『崇』はたっとぶ、あがめる、で漢字はほとんど同じなのに意味は正反対です。祟を良く見ると、崇のウ冠がひっくり返っています。ウ冠すなわち宇宙がひっくり返るような凶事が祟りであり、神は崇めないと祟るのです。
吉本隆明氏はその著作『共同幻想論』(河出書房)において、「ある事象にたいして心を迂回させて触れたがらないとすれば、この事象はかならずといっていいほど患者にとって願望の対象でありながら、恐れの対象でもあるという両価性をもっている」と述べています。崇と祟がほとんど同じ漢字に見えるのは、この両価性の心理を反映しているからだと思われます。
『日本人の特殊性の謎を解く』で、私たち日本人の中には謎の実体が封印されていると書きました。謎の実体は恐れの対象ですから、私たちは心を迂回させ触れたがらないのですが、それは同時に、見たい、知りたいという願望の対象でもあったのです。
話が横にそれてしまいました。まず日本におけるスサノオの実体とはどんなものだったのか見ていきたいと思います。
スサノオを検討するには、京都にワープする必要があります。794年に桓武天皇が都を移し、爾来京都は、日本国の中心であり続けました。遷都から現在に至る長い歴史の闇に包まれた王城の地。それが千年の都、京都です。四条通を東に歩くと、突き当たりに朱塗りの楼門が姿を現します。スサノオを祀る八坂神社です。
八坂神社の創建は斉明天皇2年(656年)と伝えられます。この年には高句麗の使い伊利之(いりし)が来朝しましたが、彼は八坂造の祖先である意利佐(いりさ)と同一人物と考えられ、新羅にある牛頭山のスサノオを祀ったとされます。
神社の前身は、観慶寺(別名を祇園寺)という寺の域内にあった『天神堂』ですが、観慶寺の衰退に反比例するように天神堂が次第に発展し、祇園社(八坂神社)となりました。
『日本書紀』によれば、スサノオは、新羅の曽尸茂利(そしもり)という地にいたとされ、ソシモリは牛頭または牛首を意味します。あらぶるスサノオは渡来の神だったのです。しかも、印度祇園精舎の守護神である牛頭天王であるとされています。
西楼門から入ってすぐに、小さな社が目に止まります。社名は疫神社で祭神は蘇民将来命(そみんしょうらい)、関東ではなじみの薄い神様ですね。それに疫神とは疫病神を意味します。スサノオの存在は、シュメールからの渡来というだけでなく、疫病や祟りとも密接に結びついていました。ちなみに、蘇民の蘇はスとも読みここでもシュメールに繋がりそうです。
蘇民将来命はスサノオの伝承に出てくる人物で、内容は大略次の通りです。
スサノオが南海の沙渇羅龍王の王女に会いに行く途中、二人の兄弟に宿を請うた。富裕な弟巨丹(こたん)将来は断ったが、貧しい兄の蘇民将来は宿に泊め歓待した。後年、八人の御子を率いて蘇民のところへ戻ってきたスサノオは、巨丹の家に蘇民の子孫がいるかどうか訊ねた。蘇民が、『自分の娘がいる』と答えると、茅の輪(ちのわ)の護符を腰につけるように教えられた。その夜、蘇民の娘を除いて巨丹一家は殺された。スサノオは蘇民に対して、『後の世に疫病が流行っても、蘇民将来の子孫と称して、茅の輪を腰につけた者は、疫病から免れるだろう』と告げる。
この話では茅の輪ですが、一般的に蘇民将来は護符の一種です。蘇民将来譚は面白いことに、『旧約聖書』の過越祭と核になる部分が同じです。
過越祭については『旧約聖書』出エジプト記12章を参照ください。モーセがエジプトを脱出するに当たり、ファラオは妨害しようとします。そこで神はエジプトに災いをもたらすこととしました。神はモーセに、入口の二本の柱に羊の血を塗れと命じます。そうすれば、神がエジプト人を撃つ際、血を見て過ぎ越すからです。
以上、過越祭と蘇民将来譚の両者に共通するのは、印を付けておくと神がもたらす災厄から逃れられるという点です。
疫神社では7月31日に、祇園祭の最後の神事となる「疫神社夏越祭」が執り行われ、祇園祭は幕を閉じます。この日、疫神社の鳥居に大茅輪が設けられ、善男善女がこれを潜って厄気を祓います。祇園祭の山鉾巡行は有名ですから誰でも知っているはずですが、実は、その最後に行われるこの神事と疫神社が最も重要なのです。最も重要なものと古い言い伝えの中には最も重要な事柄が隠されています。
例えば、巨丹(こたん)将来です。シュメールの民は巨丹からメソポタミア地方に渡来し、最古のシュメール文明を花開かせ、ある時点で東に向かい巨丹に入り、中国、朝鮮半島を経て日本に渡来したとの仮説を立て議論を進めているのですが、八坂神社に関連して巨丹が出現している点は無視できません。
歴史に秘められた謎を解くその5
スサノオの伝承をあれこれ調べていくと、なぜか頻繁に胡瓜が出てきます。これは、どうしてでしょう?蘇民将来譚で巨丹が出てきましたので、スサノオ族が少なくとも西域に関係する一族であることは確かです。この視点から胡瓜を見ると…、そう、胡瓜は中国の西方が原産の野菜です。胡瓜はスサノオを西域に結びつける鍵のようなアイテムかもしれません。ということで、胡瓜について見ていきましょう。
胡瓜の原産地は北部インド、ネパール辺りとされ、西アジアでは、紀元前千年頃から胡瓜を食用として栽培していました。中国に広まったのは、漢の武帝の時代で、武帝から西域諸国に派遣された有名な探検家・張騫(ちょうけん)が持ち帰ったものとされています。しかし胡瓜の中国への伝来は、実際には、張騫よりかなり以前だと思われます。
日本では、縄文や弥生時代の遺跡の中から、胡瓜の仲間のマクワウリ、夕顔、瓢箪の種子が出土しています。また、胡瓜の『胡』という文字自体がペルシャ方面を意味しています。たかが胡瓜と思っても、その背後には様々な歴史がありそうです。
日本における胡瓜の記録は、黄瓜の名で天平年間に出てきます。そして、胡瓜とスサノオとの間には密接不可分な関係がありました。八坂神社の神紋はなぜか胡瓜です。これに対しては、八坂神社の紋は木瓜(もっこう)で、胡瓜ではないと反論が出るでしょう。
しかし酔石亭主の観点からは、木瓜ではなく胡瓜とすべきです。理由は次の二つ。まず、木瓜紋は胡瓜の切り口から案出されていること。次にスサノオ系の神社や祇園祭には、胡瓜にまつわる話や言い伝えが実に多いこと。以上から、この紋は木瓜ではなく、胡瓜であると断定できるのです。
そして、スサノオと胡瓜の関係が偶然ではなく必然なら、そこには有意性があるはず。胡瓜はシュメール陸上系であるスサノオが、西域から中国、朝鮮半島を経て、わざわざ日本に持ち込んだとは考えられないでしょうか?自分が特別大切にしていて持ち込んだから、その記憶を留めるため紋にした、そう考えるのが自然ではないかと思えます。
一方で奇妙なことに、祇園祭の最中や、祭り以後は胡瓜を食べない、また祭りの以前には食べないといった地方によって異なる習慣があります。しかも初なりの胡瓜あるいは瓜には毒があるとされ、天王の祭には川へ流して疫病を避ける習俗が広く行われているのです。
胡瓜はスサノオを西域に結びつけるだけでなく、蘇民将来譚と同様に、祟りや疫病にも関係していました。いかがでしょう。たかが胡瓜されど胡瓜ですね。
話は飛びますが、胡瓜を大好物にしているのが他にもいるはずですね。……わかりませんか?では、ヒントを差し上げましょう。この場合、人間に限定する必要はありません。
もうおわかりですね。多分、ある架空の存在が心に浮かんできたのでは、と思います。そう、河童です。河童は大相撲のところで既に書きました。以下はその内容をもっと詳しく書いたものとお考えください。
皆さんが河童に抱くイメージはどんなものでしょう?頭の上にお皿があって、水が溜まっている。水がなくなると死んでしまう。河童ことを、カワタロウとか、ヒョウスベとも呼ぶ。河童は相撲や胡瓜が好きで、瓢箪が嫌い。人に悪さして尻子玉(内臓)を抜いたりする。馬を川の中に引っ張り込んだりもする。河童のイメージには悪いところだけでなく、いいところもある。川の水が溢れて堤防が決壊したとき、河童は村人の田畑を守った。そんなところでしょうか。
しかし、どうして河童にかくも多彩なイメージが付与されたのでしょう?次はそこを探らなければなりません。河童が胡瓜や相撲を好み、瓢箪を嫌う理由を検証すれば、巨丹から日本に到達したスサノオ族の動きが見えてくるはずです。
ということで、まず河童の起源を、中国と日本の伝承から探っていく必要があります。
もうご存知のように、河童のことをヒョウスベとも言います。ヒョウスベは兵主部と書き、大和には穴師兵主神社があります。それだけではありません。このすぐ近くには相撲神社もあるのです。
『兵主部』はもともと『兵主』という中国の武神を意味していました。兵主神とは漢の高祖が蚩尤(しゆう)を祀り、付けた名前です。蚩尤は武勇を好む半人半獣の神ですが、蚩尤戯は相撲を意味します。
蚩尤は、奇怪な姿をした怪物で、砂・石・鉄を食い、霧・雨・風を自由に操り、矛・戟・斧・盾・弓矢を次々に生み出せました。砂・石・鉄を食いとは、鉱山の開発を意味しています。風を操るのは製鉄の際、鞴(ふいご)で風を送ることを意味するでしょう。矛や盾を作るのは鍛治仕事になりますね。
蚩尤の特徴は残らず産鉄族のものであり、鉄を製造する漢族ではない異民族を表したものです。とすれば、蚩尤は西域から中国に渡来した神になります。そして、蚩尤=兵主は日本に入りました。以上より西域の異民族である蚩尤、兵主と河童は同族と考えられます。河童は日本独自の妖怪と思っていましたが、そうではなかったのです。
次に日本の河童伝承を見ていきましょう。長崎県北松浦郡田平町の伝承によると、河童のふるさとは、シルクロード沿いのパミール高原にある渓水の一つであり、タクラマカン砂漠を流れるヤルカンド川の源流地帯に位置しているそうです。
ある日のこと、河童一族は西隊と東隊に分かれ、西隊は欧州方面へ、東隊は中国の東部を目指して出発、まずヤルカンド川を下り、楼蘭(ろうらん)を通過、4世紀(応神天皇の頃)になって蓮来島(ほうらいじま=日本)に渡ることを決意。苦難を乗り越え、彼らは日本の土を踏んだとか。
いかがでしょう?日本の伝承でも、一気に西欧まで関係してきました。河童の故郷ヤルカンドは、西域に位置し、具体的な年代まで示されています。ヤルカンド川は巨丹の西方約300kmに位置しており、河童と巨丹を軸にして欧州から日本までが直結し始めました。
けれども、河童とスサノオを同族と考える根拠がまだ薄いとの反論が出るでしょう。では次回で、河童とスサノオについて、背筋も凍る恐ろしい神事から検証してみます。
歴史に秘められた謎を解く その6
スサノオを祀る愛知県の津島神社では、御葦(みよし=神葭)放流神事という極秘の神事があります。これは神主家でさえタッチできない秘事であり、服部勾当太夫ただ独りが執行しました。
この神事は疫神である牛頭天王を葦に仮託して川に流すものでした。神事は六月十一日の『御葦刈り』から始まり、『御葦放し』で終わるのですが、津島では、この御葦流し以前は、白瓜を食べてはならないとの禁忌がありました。八坂神社のスサノオと胡瓜とも共通する内容です。
そして『御葦放し』の最中は、津島の民家は全て灯火を消し静まり返りました。もし灯火をつけている家があれば白瓜を投げ込むのですが、その家は必ず凶事があると人々は恐れました。息の詰まるような静寂と緊張の中、所定の場所で御葦船に葦を積み込みます。
船は川を下流に下り、ある地点に到達すると太夫は御葦を川中に放流し、後を一切振り返らずに急いで漕ぎ戻ります。二十二日までは燈明を掲げず謹慎し、翌二十三日段階で御葦が津島域内に流れ着いた場合、着岸祭を行うそうです。さもなければ、御葦が着岸した地域は疫病が発生すると言われていたからです。
以上がこの神事の概要で、御葦放流神事は疫神を送却する神事でした。そこでこの恐ろしい神事と河童との関連を見ていきます。
河童に関して、人形化生説という説があります。左甚五郎や飛騨の匠といった大工の棟梁が、神社仏閣、城郭などを建立する際、人手が足りないので呪術を駆使し、藁人形に魂を入れて手伝わせました。工事が済めば藁人形は不要となり、川に捨てた。捨てられた人形は河童と化し、人畜に悪さをして、人間の尻子玉を取るようになったとされます。
津島神社のスサノオは川に流し、どこかに着岸すれば害をなします。大工が川に流した人形は河童に化けて害をなします。川に流す点と、流された側が害を及ぼすという、核になる部分がぴったり一致しました。とすれば、スサノオと河童は同族だと理解されます。
また白瓜(胡瓜)には、秦氏の謎とも連結する重大な意味がありました。津島神社におけるシュメール系スサノオの禁忌は白瓜です。そして、秦氏も同様の禁忌を持っていました。
下記も以前に説明済ですが、再度書いておきます。秦氏の創建になる有名な神社が、京都の伏見稲荷大社です。伏見稲荷大社といえば、お稲荷さん。そしてお稲荷さんといえば、誰でも知っているように、狐です。白狐が秦氏の係わる禁忌となるのです。では白狐から獣偏を外してみましょう。すると白瓜に戻ってしまいます。瓜と狐。そしてスサノオ族と秦氏。この二つの部族が持つ禁忌は、なぜ類似しており、またどのような意味があるのでしょう?
想定されるのは、秦氏とスサノオ族が協力関係にあるということです。とすれば、日本に謎を封印したメンバーにスサノオ族も一枚噛んでいる可能性があります。
『記紀』には両者の関係を証するような記述が見られます。『古事記』の仁徳天皇の段には、秦人に茨田堤(寝屋川市付近)また茨田三宅を作り、云々とあるのですが、『日本書紀』の仁徳天皇11年の記述においては、冬十月、茨田堤を築くのが困難で、神のお告げにより強頸(こわくび)・衫子(ころものこ)の二人を河伯(かわのかみ)に捧げることになった。強頸は川に入り死んだが、衫子は、河神の祟りをしずめるために匏(ひさご)を川に投げ入れ、匏が沈まないなら偽りの神であると言った。匏は瓢風(つむじかぜ)にも沈まなかったので、衫子は死ぬこともなく堤が完成した、とあります。(つむじかぜを瓢風、つまり瓢箪の風と書いてあるのが面白いところですね)
河伯が河童を意味し、瓠は瓢箪のことです。河童の瓢箪嫌いはここからも窺えます。秦氏とスサノオ族の絡む場面が『記紀』に見られるのも、彼らの前身がイスラエルの民であり、シュメールの民であるとすれば当然ですね。
以上、河童とスサノオが同族であることから、スサノオ=河童=兵主=蚩尤=神農と全てが連結してしまいました。
シュメール人は巨丹からメソポタミアの地に入り最古の文明を創ったと推定されますが、日本のスサノオと河童の足跡を辿っていくうちに、秦氏との関係が浮き彫りになり、巨丹へ行き着きそうな気配が強くなっています。
歴史に秘められた謎を解く その7
もう少しスサノオについて見ていきます。言い伝えによれば、スサノオは牛頭天王として天竺(=インド)に示現し、釈迦を助けたそうです。そこから中国に渡った天王は、牛の頭を持つとされる神農となりました。釈迦を助けた後で中国に渡り神農に変身するのは、時代的に不可能だとの指摘もあるでしょう。しかしこの伝承で押さえておくべきは、スサノオと牛頭天王、神農が同体・同族であるという点だと思います。
また相撲の項で書きましたように、スサノオと河童、蚩尤(=兵主)は、相撲を軸にしても完全に繋がっていました。 相撲はシュメールが起源であり、蚩尤(=兵主)は蚩尤戯で相撲と接続し、河童は相撲を好みます。そして、河童と兵主、スサノオは同体・同族で、穴師兵主神社のすぐ近くには相撲神社があるのです。
これらの複雑な相互関係は一定の指向性を持っており、偶然と片付けることはできません。スサノオと河童、牛頭天王、神農、蚩尤、兵主神は同じグループに属し、巨丹から中国、朝鮮半島を経て日本に到来した可能性が高くなってきました。そして巨丹には、謎を解く鍵の一つがあると考えられます。
だとすれば、彼らの拠点巨丹とはどのような場所なのか、明らかにする必要があるでしょう。巨丹は中国の新疆(しんきょう)ウイグル自治区の和田であり、ここの特産品は『崑崙の玉』と呼ばれる軟玉翡翠です。完璧って言葉があるのはご存知ですね。中国の故事に見られる、瑕のない玉の意ですが、それがホータンの玉のことです。
この玉は不老不死の霊力を持っており、漢の武帝により派遣された張騫(ちょうけん)が発見したとされます。武帝は、河の源である山の名前を考え『崑崙』と命名しました。ここは、周の穆王(ぼくおう、紀元前十世紀頃)が西の方に赴き、西王母にまみえて、不老長寿の霊薬を授かったという伝説の地。巨丹では養蚕も盛んで、桑の木が多く上質なシルク製品が生産されています。養蚕は秦氏の得意技であり、蚕の変態はその姿から、死と再生を象徴しているとされます。またこの地には水銀も産出するようです。
それにしても、なぜ巨丹には、崑崙の玉や蚕、水銀、不老長寿の伝説など、死と再生に関連する記号が数多く出現するのでしょう?
しかも巨丹の丹という漢字自体、不老不死の秘薬金丹の元になる水銀の原石辰砂の赤い色を意味しています。また、崑崙の玉の産地は、不老不死に憧れる中国皇帝が気にする黄河の源と同じでした。
ちょっと不思議ではありませんか?死と再生に関連する記号が、やたら巨丹周辺に集中しています。だとすれば、この背後には必ず隠されたものがあるはず。また、巨丹と日本の丹生や丹波-なぜ遠く離れた場所の地名に、同じ『丹』の文字が使われているのでしょう?
丹は鳥居の形にも似ており、その鳥居は朱塗りであり、朱はシュメールのシュであり、神の死と再生を意味し、死と再生は新しい世界が開ける際の特異点となります。
それだけではありません。辰砂の辰は字音がシン。次々に連想が湧いてきます。神も秦も字音はシンでした。まだあります。プレート境界にある日本。日本は言うまでもなく地震国です。そして地震の震も字音はシンでした。歴史だけではなく、言葉の裏側にも不思議な繋がりと広がりがありそうです。
中国の皇帝の意識は、不老不死を媒介として、黄河源流の巨丹に強く向いています。ここからも、神農など伝説の始祖皇帝達は、巨丹を経由して中国にやって来たと推測できるでしょう。また一方で、彼らの意識には不老不死薬があるという蓬莱島、すなわち日本にも目が向いています。
巨丹には不老不死(=死と再生)を示す記号が揃っていました。そして巨丹と日本の丹波や丹生に共通する丹の文字。不老不死薬があるとされる日本。巨丹と日本の間には共通する何かがあると見て間違いありません。謎の広がりは、日本の枠を大きく超えていきそうです。