新・景教のたどった道 ①
https://www.christiantoday.co.jp/articles/28840/20201208/shin-keikyo-42.htm 【新・景教のたどった道(42)景教とは、その源流と教え 川口一彦】より
景教について
1)景教の源流
635年、ペルシアから初代宣教師の阿羅本ら21人によって唐代中国にもたらされたイエスの教えを波斯(ペルシア)教と呼び、745年に大秦景教と改称。大秦とは東ローマ帝国のユダヤ、景の字義は大きな光からイエスのこと。彼らは大秦景教と呼んだ。
781年に長安(現在の西安)に建った「大秦景教流行中国碑(大秦からイエスの教えが中国に伝わった碑)」には、メシア降誕のとき東方から来た博士たちを波斯(ペルシア)からの来貢と記し、聖霊降臨日には、使徒の説教を聞いた者の中に「パルティア人、メディア人、エラム人」(使徒2章9節)らがいたとあり、両者とも西アジアの離散のユダヤ人らがメシア待望の時期、イエスがメシアであると聞いて信じた者らが東方に拡大していった。
特にイエスの12使徒のトマスがインドへ、70人弟子のアダイらがシリアへ宣教し、150年ごろから、シリアのエデッサ(現在のウルファ)を都とするオスロヘネ王国はイエスを信ずる王国となり、シリア文化が栄えた。ここでシリア語に翻訳された聖書をぺシッタ(350年ごろ新約完成)と呼び、神学、哲学、医学、地理などを教える総合大学が作られた。さらにニシビスやペルシアに広がり、神学校が設立され多くの指導者が起き、東方の中国宣教へと向かうことになる。
当時の唐帝国とペルシアやローマの東西は陸路や海路で交易が盛んに行われ、バグダッドと長安はアジア最大の都市で栄え、多くの商人の中にペルシア人やソグド人信徒がいて中国宣教が実現した。彼らがシリア語から漢訳した聖書(経)・賛美歌(讃)・教義(論)や地理を皇帝に伝えると、638年に宣教許可が下り各地に旧称で波斯胡寺、後に大秦寺・景寺の会堂が建った。碑には聖書の教えや景教史、西域地理、各皇帝との関係を伝え、玄宗の時代に安史の乱が起き、景教徒の伊斯らが皇帝を支えたことを伝えている。しかし、845年ごろになると武宗皇帝による道教以外の禁圧から景教も国外追放に遭い、碑は地に埋められ、1625年ごろに発見されたことから、景教が世界に知れ渡るようになった。
元代には也里可温(エリカオン・福音)と改称して発展したが、明代に禁教となった。景教はネストリウス派といわれるが蔑称で、本人たちはネストリウスの用語は使わず、また異端説も見直されている。遺跡、遺物として高昌や敦煌の会堂跡から壁画や文書が見つかり、中央アジアから中国各地にはシリア語や一部トルコ語で刻された千個以上の十字墓石、金属十字徽章、聖書類などが発見された。北京郊外の三盆山には元代の也里可温教徒の会堂跡が遺る。
碑文のシリア語
2)特徴
碑の頭部の十字
①彼らは聖書、賛美歌、教義書を持ってきていた。碑には新約27、旧約24と刻され、24はユダヤ教聖書の数の影響がある。聖書はヘブライ語からシリア語に翻訳され、文書類はシリア語のメシア(弥施<師>訶)表記で、煉獄思想も外典もなくマリアや諸聖人崇敬もない。唐代には500以上の漢訳書があるものの、発見されているものは10数点にすぎない。
②神は「三一」で、父を阿羅訶、子を弥施<師>訶(メシア)、聖霊を浄風(ルハー)と表記。敦煌作の『一神論』は創造論を説き、シリア語から漢訳した『三威蒙度讃』は三一神を賛美している。
キルギスで発見された元代の信徒墓石
③十字架の贖罪を常に信じていた。彼らの信仰のシンボルは十字で、多く発見された墓石には必ず救いの証しとしての十字が彫られている。景教碑の頭部も然り。
日本への景教の宣教は史料がなく不詳。大阪の武田科学振興財団杏雨書屋には唐代作『一神論』『序聴迷詩所経』ほか貴重な原本が所蔵されている。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/28922/20201228/shin-keikyo-43.htm 【新・景教のたどった道(43)大秦景教流行中国碑が発見された場所と年代問題 川口一彦】より
景教碑は781年1月7日(現在の2月4日)の主イエスが復活された日曜日に西安の大秦寺に建てられました。碑の高さは約2・8メートル、幅は約1メートル、頭部は二対の龍、下部は亀でなく龍の九番目の子のビシの台座があり、前文の碑陽部分は約1700文字で作られています。側面にも漢字とシリア語が彫られています。
碑は850年の武宗皇帝の迫害で土中に埋められ、江戸時代初期の1623年か25年に発見されました。その後、ローマ教会の中国宣教師を通して西欧に伝えられ、有名となりました。大秦寺が長安の義寧坊区、洛陽、霊武、五郡(周至県の東の終南山)にもあったことから、碑の所在地が問われました。
発見年代も明代の天啓5(1625)年以前説、1623年説かそれ以前説があります。25年以前説は、中国耶蘇会信徒の李之藻が碑の発見について書いた『読景教碑書後』が1625年5月であると書きました。佐伯好郎や中国耶蘇会宣教師のトリゴール(中国名は金尼閣、Nicholas Trigault)やアブレ(方徳望、Havret)もこの説を唱えました。トリゴールは1625年9月以降に西安に行き、盩厔(ちゅうしつ)地方で碑を発見し、碑文をラテン語に翻訳して西欧に伝えた最初の人物です。
アブレは「周至県で発見された碑を西安の金勝寺に運んだ」との一文に注目しています。発見場所については詩人の蘇東波が1062年に盩厔の大秦寺に出掛けたとの詩があり、彼の弟子も詩で詠み、他の文書でも分かると主張しました(『盩厔縣誌』『景教の研究』『唐代長安與西域文明』『唐代景教再研究』他)。
23年説と長安大秦寺発見説は、桑原隲藏(じつぞう)や長安で碑を検閲したセメド、ぺリオなどの景教研究者が唱えています。碑は当然、長安の義寧坊の景教会堂地に建っていたもので盩厔まで運ぶ無駄はしないと述べ、碑が保管されていた金勝寺は義寧坊であると主張しました。そして当時、景教の大秦寺は破壊されており、これは異教の寺院であると反論しました。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29060/20210131/shin-keikyo-44.htm 【新・景教のたどった道(44)大秦景教流行中国碑の内容と構成 川口一彦】より
中国陝西省西安市にある西安碑林博物館には3千余りの碑が立ち、それはまさに碑林の博物館で、石刻芸術の偉大さを感じます。その石刻芸術の一つ、大秦景教流行中国碑が石室の奥に収められています。(写真は筆者撮影)
景教碑の上部には三一神の十字、花や雲のデザインが彫られ、碑陽には1800余の漢字が、両側と下部にはシリア文字が彫られています。両側面にも漢字とシリア文字で当時の指導者たち70人が彫られています。
碑陽は3部に構成され、第1部は聖書の神を三一とし、父なる神による天地人の創造と支配、初人アダムの堕落と子孫である人間の窮状、堕落した人間の救い主・弥施訶(メシア)の降誕と救い、浄風(聖霊)による正しい救いがなされ救われた人を天に導いていることなどが書かれています。
第2部は唐代皇帝五人(太宗、高宗、玄宗、粛宗、大宗)と景教との関わりについて述べ、良い関係であったことを伝えています。太宗皇帝の時、635年に初代宣教師の阿羅本が中央アジアからシルクロードで唐に来て聖書や賛美歌や教理を漢訳し献上した結果、宣教が許され正式に景教会堂が全国に建ち、布教が行われたことが書かれています。粛宗皇帝の時代に教会リーダーの一人、伊斯が粛宗に仕えて活躍した偉業が称えられて書かれています。伊斯の子とは碑の文章を書いた景浄です。景浄は父が皇帝に仕え、教会にも仕えて信仰者として立派に生きた、その証しを書いたのが景教碑です。
第3部には三一神を頌栄賛美し、皇帝たちを誉めています。このように最初に三一神を頌栄し、最後にも三一神を頌栄しています。つまりこの碑は神を頌栄する碑と呼べるでしょう。
中国では古く漢の時代から多くの碑が建てられてきましたが、そもそも何のために建碑したかと言いますと、経典その他の文章を碑に遺すことや、人物の偉業を称え、その活躍を後世に遺すためでもありました。しかし、景教碑は異教の地で神の救いを伝えたことを証しし、それをなされた三一神を称えたもので、他の石碑とは大きく異なるものと言えるでしょう。