会昌の廃仏 / 円仁
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-060_6.html 【会昌の廃仏 / 円仁】 より
中国の唐代、845年、道教を深く信仰した武宗によって行われた仏教弾圧。日本僧円仁が遭遇した。
唐の後期、唐の仏教の隆盛の中で、武宗(在位840~846)の時、845年~846年に行われた仏教弾圧。三武一宗の法難の一つ。会昌(かいしょう、またはえしょう)とは時の年号。
唐の歴代皇帝は道教を保護することが恒例であり、その保護が続いていたが、太宗のころから外来の宗教である仏教やマニ教、ゾロアスター教(祆教)、ネストリウス派キリスト教(景教)、イスラーム教(清真教、後に回教と言われる)に対しても寛容で、都長安にも各宗派の寺院が建ち並んでいた。しかし、唐の後半になると、9世紀の中ごろの武宗は、道教を信仰して他の宗教を排除するようになった。特に仏教に対しては、845年を中心に厳しい弾圧を行い、4600の寺院を破壊し、26万5百人の僧尼を還俗(僧籍を離れ一般人になること)させ、寺院に隷属していた奴婢15万を解放した。同時に仏教以外のマニ教など外来宗教も弾圧された。このときの仏教弾圧に直面した日本からの留学僧円仁は、『入唐求法巡礼行記』に詳しく記録している。<布目潮渢・栗原益男『隋唐帝国』講談社学術文庫 p.401-405>
仏教弾圧の背景
背景には武宗が道教を篤く信仰していたことと、当時の寺院の中に腐敗堕落したものがあったことなどもあるが、財政難に苦しむ唐王朝が寺院の財産を没収し、税収を増加させようとしたねらいもあった。事実、この時破壊された寺院の荘園などの財産は国家に没収され、還俗僧と解放された奴婢は一般農民に編入され両税法の負担戸とされた。また没収された仏具は銅銭と農具の材料に回された。このようにこの廃仏は経済的な理由によるものであり、仏教そのものが否定されたわけではなく、長安と洛陽にはそれぞれ4寺院、各州に1寺院は残された。それにしても仏教にとっては大打撃であり、これにより鎮護国家仏教の時代は終わったと言える。
三夷教に対する弾圧
また、仏教のみならず、景教(ネストリウス派キリスト教)、ゾロアスター教(祆教)、摩尼教の三夷教も弾圧され、唐文化の国際性という特徴も終わりを告げることとなった。
Episode 道士にだまされた?武宗
(引用)武宗は仏教排斥をおこなったことで有名であるが、排仏の裏にはつねに道教派の策動があり、道士が天子に取り入る手段は、常に不老不死の強壮薬を進めることであった。しかるにこの強壮薬ははなはだ危険な代物で、これまで何人の帝王がそのために精神錯乱におちいったり、死期を早めたりしたか知れなかった。武宗もまたその愚かな犠牲者のひとりであり、薬をのんで身体の異状を感じたが、道士らは「それは陛下の骨に仙人の骨が入れかわったためで、なが生きの証拠です」とあざむいた。しかし現実はあざむくことができず、まもなく天子が病没すると、宦官らはその叔父に当たる宣宗をかつぎ出して天子の位につけた。<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫版 p.397 1968>
円仁
日本の天台宗の僧侶。9世紀前半に唐に渡り天台宗を学ぶ。長安で845年に起こった仏教弾圧に遭遇した。帰国後、天台座主となる。天台宗山門派を形勢、その流派から多くの宗派が生まれる。
円仁の見た仏教弾圧
唐の武宗による仏教弾圧会昌の廃仏については公式の歴史書『旧唐書』や『新唐書』には情報が少なく、そのリアルなルポルタージュとなっているのが日本僧の円仁の『入唐求法巡礼行記』である。円仁は平安初期の日本で天台宗を開いた最澄の弟子で、師と同じく遣唐使に従い838年に入唐した。847年に帰朝し延暦寺の堂宇の整備に努めるとともに天台密教を大成し、854年天台座主となった。その系統は山門派といわれ、日本仏教の一大勢力となる。
円仁が五台山で天台宗を学んだあと長安に入ったのは840年で、ちょうど武宗の即位の年であり、資聖寺という寺院で活動しながら唐の仏教の盛衰を目の当たりにすることとなった。彼はそこで見聞きしたことを詳細な記録として残しており、それが『入唐求法巡礼行記』である。唐の正史である『旧唐書』などでは伝えられていない当時の唐の朝廷と仏教・道教の関わりを知ることができて貴重な資料となっている。
同書に依ると、武宗による仏教寺院への攻勢はすでに842年10月に始まっており、非公認の寺院の僧尼の個人財産の没収、還俗させて両税・賦役に服させる勅令が出されている。仏教に対しては、それ以前から韓愈などが儒教の立場から批判を加えていたが、武宗を動かしたのは道教の道士たちであった。道士はさまざまな説を唱えて仏教を危険な教えとして排除することを主張し、一方で皇帝に不老不死の術や「不死の峰」の造営などを喧伝した。それをうけて845年、武宗の仏教弾圧は頂点に達し、寺院の廃止と僧尼の還俗が強制され、外国人僧侶は追放されることになった。円仁もそのため長安を離れざるを得ず、帰国することになったのだった。<E.ライシャワー/田村完誓訳『円仁 唐代中国への旅』1963初刊 1999講談社学術文庫刊 p.335-390>
なおライシャワー博士は同書で、“三武一宗の法難”といわれる四つの仏教弾圧事件の中で、845年の唐の武宗による弾圧は華北だけでなく全土に及んだこと、後の仏教に大きな影を及ぼしていることなどから他の三回の弾圧事件と同列にすることはできないと言っている。
Episode 不老長寿薬の作り方
円仁の『入唐求法巡礼行記』によれば、道教の道士がどのように仏教を中傷したかがわかる。
(引用)道士の趙帰真らが天子に申し上げて言うには「仏陀は西方えびすの国インドに生まれ、“不生”の教えを説きました。しかしその“不生”とはただの死ということに過ぎません。人を教化して涅槃に入らしめると言いますが、涅槃とは結局死のことであります。そこでさかんに無常、苦、空の理を説きますが、これはまことに奇怪なまやかしの説でありまして、道教でいう無為長生の原理に及ぶものではありません。太上老君(老子)は聞くところによりますと、中国に生まれ最上天であります元始天尊の居所大羅天を本拠として、無為自然に逍遙し教化します。仙人の作った不老長寿の薬を調剤してこれを服用すれば、長生きができ、ひろく神仙界の一員となって限りなく大きな利益を得ることができます。どうか宮廷内に神仙の台(仙台)を築き立て、身体を錬磨し登仙し九天に逍遙し給わらんことを。乞い願わくば天子の寿命に福(さいわい)あり、永く長生の楽しみを保つことができますように、云々」と。<円仁/深谷憲一『入唐求法巡礼行記』1990 中公文庫 p.555>
いよいよ仙台が完成すると、天子(武宗)は道士に不老不死の仙薬の調剤を命じた。其の時天子は不老長寿の仙丹は何から作るのかと質問した。道士は薬の品目として「李子の衣(スモモの皮)、桃の毛(桃の実に生える毛)、生鶏膜(鶏の生き皮)、亀の毛、兎の角をそれぞれ十斤(約6kg)が必要」と応えたので、勅を出して都中を探させたが「冗談じゃない、そんなものがあるはずがない」と応えた店の者は鞭打たれた。それでも結局、どうしても入手することができなかった。<円仁『同書』 p.560> それでも道士たちはひそかに劇薬を調合して飲ませたらしい。武宗も道士を疑い、お前たちはその薬を飲んでも死んでしまうではないか、と詰問した。すると道士は「それは世の中にまだ仏教がのさばっているからです」と答えた。巧妙な答えにだまされた武宗はさらに仏教排除を進め、道士のすすめる薬を飲み続けた。しかし、そのうちに言動がおかしくなり、誰もが狂ったとわかるようになって最後はほんとうに狂死したという。宦官によって担ぎ出された次の宣帝は武宗に取り入った道士を殺し、道教一辺倒を改めたが、皇帝の位は宦官によって左右されるようになり、唐王朝は一気に衰退していった。