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Okinawa 沖縄 #2 Day 106 (19/05/21) 旧真和志村 (4) Nagata Area 長田地区

2021.05.21 06:25

旧真和志村 長田地区 (旧上間底田原)

[土帝君堂を追加 10月28日]

5月17日に再度上間集落を訪問したが、まだ見落としていた文化財やもう一度確認したいこともあり、今日も上間集落を巡った。その後、かつては上間集落の一部だった底田原 (スクタバル) 、現在の長田地区を巡ることにした。長田地区はかつては農耕地だったので、文化財は上間との境界近くに一つしか残っていないのだが、町並みも見てみたく散策した。今日上間集落で見た文化財は5月17日の訪問記に合わせて記載している。 



旧真和志村 長田地区 (旧上間底田原)

長田地区は元々は耕作地だった場所だが、サトウキビ製糖業の落ち込みで、畑を維持するより、住宅地として土地を貸したほうが経済的に有利ということで、いち早く、畑から住宅地に急速に変遷していった場所。その後1979年まで人口が増え続け、上間から分離し、国場地区の一部、寄宮地区の一部と合わせて、新しく長田地区として独立行政地区となったもの。

長田地区が独立した1979年で人口は既に4,777人、国場から約1,500人 (転出後人口 7,287人)、上間から約2,000人 (転出後人口 2,278人)、寄宮から約2,500人 (転出後人口 10,122人) が長田地区に編入された。独立後も人口はコンスタントに1995年頃まで、年平均で2.5%-4%増加している。それ以降は微増から小康状態となり現在は約7,300人と独立時から1.5倍になっている。世帯数は増え続けており、一戸建て住宅よりも集合住宅が増え、独身者や核家族が多くなっている。那覇に近く、那覇のベッドタウンとなっている。

1919年の地図では民家はほとんどない状況だったが、1975年には寄宮近辺に民家が増えているのが顕著で、国場、上間にも民家があらわれている。人口が増え続けていた1994年之地図では民家の範囲が広がり、2015年には大学や高校などの公共施設以外の場所はほとんどが住宅地に変わっている。


長田地区 (旧上間底田原) 訪問ログ


底田井 (スクタガ-)

真珠道を国場から登り、真和志間切に近いところに井戸跡がある、この場所は現在では上間ではなく長田地区になるのだが、長田地区は1979年に人口が増え上間、国場、寄宮から分離し、行政地区として独立した場所。この井戸跡がある場所はもともとは上間の一部で底田原 (スクタバル) と呼ばれていたので底田井 (スクタガ-) という。またヌール井戸 (ヌールガー)とも呼ばれている。底田原 (スクタバル) は戦後しばらくまではほとんどが畑で民家は二軒しかなかったそうだ。戦後、サトウキビ産業が衰退し、畑にしておくよりは土地を住宅地として貸したほうが経済的に有利だったことや、開けていた寄宮に近いこともあり、この底田原 (スクタバル) はいち早く住宅街に変貌していった。現在では長田の人口 (7,219人) は上間の人口 (4,772人) よりはるかに多くなっている。この底田井 (スクタガ-) は底田井は水量も豊かでもともとは真珠道沿いにあり、旅人の往米も多く、豊見城、南風原方面から首里に上る人々が喉を潤したという。井戸は道路開通のため、この地に移設されている。この底田井 (スクタガ-) は上間集落で御願されている。


今日集落を散策していた時に、目に留まった花。初めて見る花なのだが、集落ではこの後にも、よく見かけたので、沖縄では一般的な花なのだろう。スパイラルジンジャーという植物だそうで、松毬 (マツカサ) ジンジャーとかアップルジンジャーともよばれている。赤いのは花ではなく苞葉で、そこから出ている黄色のものが花だ。


土帝君堂 (10月28日 訪問)

10月28日に松川集落に向かう途中に、偶然にも、この拝所に出くわした。帰ってきてこの土帝君堂について調べたが、何人かはこの拝所を訪れた記事があるが、どのような経緯で、屋取集落に造られているのかもはじめ、知りたい情報は見当たらなかった。土帝君は土地の神で、ここで農業をしていた集落が心の拠り所になる拝所としてこれを造ったのではないだろうか?


参考文献