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共存の都市計画

2021.05.21 12:01

盛岡通・近藤隆二郎(1996): 共存の都市計画,講座「文明と環境」シリーズ第4巻「都市と文明」(金関恕・川西宏幸編), 朝倉書店, 291­312.

モヘンジョダロの研究成果を中心にしながら、他古代都市についても考察したもの。周囲が考古学の先生たちばかりの中で工学部として書いたので、ちょっと腰引けたけれど、良い経験でした。盛岡先生ともやりとりできたのでよかった思い出かな。
【注意】なにせ、原稿が一太郎で作成していたので、現在から再編集することが難しいので、ファイナルverではないことをご容赦ください。また、図は花子でつくっていたので、これまたもうあけることができないので、往時の貼り付けた一太郎データを画像変換してトリミングして載せています。もろもろ、ご容赦ください。そういえば、ファイナルverをコピーしてscanしたものもどっかにあると思うので、これまたみつかれば掲載します。


Ⅰ. はじめに

1.文明と環境における「共存」
2.共存のしかけ

 

Ⅱ. 環境に適応する試み

1.古代文明・都市にみる「共存のしかけ」

(1) エジプト都市…「ナイル河との関係の象徴的内在化」

(2) 中国都市…「生存のための資源サイクルの形成」

(3) イスラム都市…「水の分節的利用による小オアシス都市の成立」

(4) 風水都市…「関係を翻訳する民俗的環境診断」

2.環境への適応

 

Ⅲ. モエンジョ・ダロ(Mohenjodaro)に「共存」を読む

1.インダス文明とモエンジョ・ダロ

(1) インダス諸都市の環境・農業・インダス河

(2) インダス諸都市におけるモエンジョ・ダロ

2.モエンジョ・ダロにおける「共存」

(1) モエンジョ・ダロの都市計画

(2) モエンジョ・ダロと水

(3) モエンジョ・ダロにおける「共存のしかけ」

 

Ⅳ. 将来世代からみた現在の都市

(1) 自然のリズムとの同調

(2) 都市の作法

(3) 共存の都市計画へ

 

最後に

 

文献


はじめに

文明と環境における「共存」

 環境計画や都市計画の分野においても、江戸が「リサイクル都市」と称されるように、古代都市や中世都市が注目されている。都市の歴史を遡ることで、人間と環境との結合様式からみた次世代型環境都市のあり方をさぐることができる。人間自身も人間をとりまく環境も近代技術の発達により大きく変貌を遂げ、人間活動の所産の都市が地球的自然とズレ始めていることが近年の環境問題の根本的な原因となっているからである。すなわち、安定かつ持続的な関係性を歴史都市・古代都市のなかに発見し、その関係性がどのような変形と変容を示していたのかを冷静に見つめる目が必要となっている。このような模索の対象である関係性を「共存」としておこう。人間と環境との「共存」であり、文明にとっての環境の内部化である。本論では、「共存」からみた都市像とともに共存のしかけの再構築を考えてみたい。

共存のしかけ

 時間を遡る前に、「共存のしかけ」について説明する。歴史学や考古学の実証の成果の上に、工学的立場から過去を見る場合は、意図的な働きかけの効果を見抜くことが求められる。つまり、計画論を構築し、適用するための「翻訳」「抜き出し」が必要である。もちろん、「共存のしかけ」は、現代の視点からのひとつの解釈であり、普遍的な「正解」を示すわけではない。「共存のしかけ」は過去の濃厚な断面を切り取ったものであるとともに、現在そして未来への意味を持たせて引き出すことに意義がある。さらに、「共存」の度合いの強弱をある軸上で比較することよりも、多様多彩な結合様式があるという面を強調したい。

 「共存のしかけ」を見抜くには三種のアプローチが考えられる。人間主体からアプローチする方法、結合様式からアプローチする方法、環境そのものの特性からアプローチする方法の区別である(図1)。「共存のしかけ」は、当時の人間の立場では、「共存のしかけ」であることは自明ではなかったと思われる。後世のわれわれが「共存のしかけ」として読み解くカギは、彼らが必死で生きていた中で無意識にうみだされた知恵にある。生活主体にとって「共存のしかけ」は、現代からみれば別の定義であり、「タブー」や「神の水」といった宗教的な意味付けで理解されていたのものも多い。このことは、「共存のしかけ」を現代に読み直す際、しかけが当時の都市の居住者の意識や行動と結びついていかにあらわれ、組み込まれていたかに気を配るべきであろう。

◆図「共存のしかけ」へのアプローチ

環境に適応する試み

古代文明・都市にみる「共存のしかけ」

 「共存のしかけ」として古代都市などを眺めてみる。古代都市の情景を描くだけではなく、現代的な意図を示す言葉に翻訳する努力を試みる。

エジプト都市…「ナイル河との関係の象徴的内在化」

◆図 ルクソール神殿平面図

環境に適応する試み

古代文明・都市にみる「共存のしかけ」

 「共存のしかけ」として古代都市などを眺めてみる。古代都市の情景を描くだけではなく、現代的な意図を示す言葉に翻訳する努力を試みる。

エジプト都市…「ナイル河との関係の象徴的内在化」

出典:堀内清治・増田義郎編:世界の建築第1巻 古代オリエント・古代アメリカ, 66頁,学習研究社,東京, 1983

 乾燥砂漠地帯であったエジプト文明は、自然の降雨量では農耕は不可能であり、文明を支えた農法はナイル河を母とする「溢流潅漑農法」であった。塩害が少ないこの農法は、安定した高生産を維持し、300万人を養ったという。ナイル河の恵みの上に成立していたため、ナイル河の水文挙動への関心は高いものであった。この農法が順調に進行するためには、①堤防による耕地の保持と取排水路にる水の適切な配分、②天文学的知識等によるナイル河の変動予知、③これらの仕事を遂行するための労働力の組織と運用及び蓄積された知識の保存と活用のための管理組織、国家の存在の必要性が指摘されている(湯浅,1993: 51頁~53頁)。

 このような農耕の成果にともない巨大な中央集権国家が形成され、ピラミッドのような巨大な土木工事や計画的な都市が建設された。それらは記念碑的な葬祭建造物複合体に表現されている。しかし、明確な美学原理に従う規律正しい円熟した計画は、神殿とその神域だけに適用され、長期にわたった建設、改造、拡張の期間を通じて厳密に固守されたものらしい。エジプトの偉大な都市計画は、莫大な財源をもち、完璧な仕事に情熱を燃やす天賦の才をもつ建築家と計画家を動員することができた強大な中央権力の賜物であった。特別な関心を持つところには、このはっきりした目的をもつ高水準の計画手法が適用されたが、そうした関心が向けられない場合には、「放任主義」が幅をきかせていた(Lampl, 1983: 56頁-59頁)。

 新王国時代に上・下エジプトの首都として繁栄の頂点を迎えたテーベ(Thebai)にあたるルクソール(Luxor)は、ナイル河両岸にまたがって分布し、東岸は“生者の町”として、神殿・王宮・官庁・貴族の邸宅・庶民の住宅が存在し、西岸は“死者の町”として王墓・貴族の墓・各王の葬祭殿などが分布していた。新王国時代に建立されたルクソール神殿は、第ⅩⅧ王朝のアメンホテップ3世(AmenhotepⅢ)が第ⅩⅡ王朝の神殿を取り払って至聖所から列柱まで建立し、その前面に第ⅩⅨ王朝のラメセス2世(RamsesⅡ)がピロン(pylon)と中庭を増築している()。この区画は、神殿主軸よりはやや東へ向かった方向に曲がっているが、このカーブはナイル河の流れに合わせて設計されているという(伊達,1983: 296頁~300頁)1)。

 溢流潅漑は、湯浅が言うように、自然を無理に屈折させることがない、いわば半永久的に繰り返されて支障が出てこない「柔らかなシステム」であった(湯浅,1993: 56頁)。エジプト文明の都市は、ナイル河の営みにあわせて形成されている。神殿の設計にナイル河のカーブが取り入れられていることは、都市の計画の中に自然の<存在>を埋め込む手法として理解することができる。それは、植栽や小動物といった自然要素を局所的に取り入れる現代の近自然型の環境都市の計画手法とは異なる。物理的には必要のない神殿の曲線として、都市施設の中に自然を昇華して取り入れることは、都市の外部に位置する自然を都市の中心的位置として据えなおすことであり、都市が自然を忘却しないための、あるいは都市が暴走しないための装置ではなかったのだろうか。

中国都市…「生存のための資源サイクルの形成」

中国の古代文明にも「共存のしかけ」があり、それが現代の環境計画の中に再生している状況が見受けられる。古代中国文明が形成された黄河流域は全体として黄土に覆われているが、地形としては西部が高くて台地をなし、東部はほとんど起伏の無い大平原をなしている。有史以来黄河は二年に一度の割合で洪水を起こし、そのたびに河道も変化してきた。農耕が本格的に始まった殷代ではもっぱら雨水に依存する栽培であったようである。春秋戦国時代になり、鉄製農具と牛が導入され、まずは乾地農法が広まった。しかし、降雨の状態は極めて不安定で、水害なども頻発しており、この問題を解決したのが水路による潅漑であった。

 漢族は極限に至るまで資源を活用することに習熟し、ぎりぎりの状況で生存を享受してきた。洪水といった天災ですら農耕を永続させる機会として受け入れ、「持続」を隠された方向づけとする「人命の損害と復活の過酷な生物学的リズム」が存在していたと指摘されている(湯浅,1993: 141頁)。その生死を超えた現実は、宗教的・信仰的な宇宙観を背景にして、人間社会の実生活の生産性と生活の安定を考慮することを必要とさせた。中国の古代の都城は、太陽光線や北極星の観測によって、四方位を正確に定め、経と緯でもって正方形に区画した基本的形態を持つ。この都市計画の背景には、自然のなかに人間が把握しえない節理や秩序があると信じ、その節理や秩序に調和しようとして正東西・正南北に区画線を施したものという(山田,1978: 42頁~49頁)。安全を祈願して都市を神の意に沿うように象徴化させたのである。方角と同時に水系を考慮していた計画された大都市には大小の水路があり、用水を供給するとともに街をきれいにしていた。自然の水循環が都市のなかに秩序づけられていたのである。また、排泄物は豚などの飼料と肥料として徹底的に利用された。都市を象徴化すると共に、過酷な自然条件のもとで必死に生存してきた経験が、逆に資源の有効利用という点で現在の都市プランの中で新たな価値を帯びて注目されている(武内,1994: 57頁~79頁)。項目だけ挙げれば、排泄物を利用したメタンガスによる自家発電、屋上を利用した野菜の生産と屋上緑化、生産と環境の調和を図る複合的な土地利用システム、生態トイレなどの例に新たな価値が見いだされている。

イスラム都市…「水の分節的利用による小オアシス都市の成立」

砂漠気候では、潅漑なしで農業は成立しない。イランにおいて、水は「つくり出したもの」であった。山麓部に掘った井戸に溜まった水を、長い暗渠を通して導水する横井戸をカナート(Qanat)と呼ぶ。多くのオアシス集落と都市の成立を可能にしたカナートは、暗渠であることから、蒸発による水の損失を防ぎ、また季節による変動も比較的少ないという利点をもっていた。この水は潅漑用ばかりでなく、生活用水としても使用されている。「カナート投資」と呼ばれるように、都市の富者が農業後背地にカナートを造り、営利のために「農業植民地」を造り、村落が形成されるパターンが多く見られる。都市が農村を作ったのである。経典『アヴェスター(Avesta)』には、水の神や農業の神をたたえる賛歌が数多く納められているように、水が崇拝されてきたゾロアスター教においては、用水の生産や土地の開発は神聖な行為とみなされていた。つまり、ペルシア人貴族の水利活動や王による堰堤建設は、富の獲得という実利的目的と、水利と農耕活動を神聖視するアヴェスターの倫理観に支えられていたのである。イランの歴史では、「王による用水の生産・支配」ではなく、むしろ地主、商人、官吏、宗教家などの「小権力」のカナート掘削による、「用水の生産・支配」が、農業水利の中で大きな役割を占めてきたという(岡崎,1988: 202頁~212頁)。

 また、イスラム都市には、日本の銭湯にあたる多くのハンマーム(Hammam)が建設され、維持されてきた。浴場を暖めるための燃料には、各家庭から出る人や家畜の排泄物を乾燥させたものが利用された。イエメンのサナアでは都市内各所に設けられたマクシャーマと呼ばれる菜園に、各家庭からの雑排水を流すとともに、ハンマームで乾燥汚物を燃やした灰が敷かれ、エジプトのカイロでもハンマームのかまどはフール豆を煮るのに利用され、さらに残りの灰は石灰と混ぜて、セメント・モルタルに使われるなど、徹底した有機的な物質サイクルがあったという(山田(幸正),1993: 211頁~223頁)。イラン中部の都市ホラナク(Khoranaq)という集落では、カナートに依存して水の有効利用が仕組まれて生活している()。標高の高いカナートによって導かれた水は、集落で最も高い地点にある貯水槽にいったん貯められ、最も清潔な状態にあるこの水は、飲料水や調理用に用いられる。この貯水槽からはじまる地下水路の水は地上に設けられた水汲み場でまず家庭用水となり、下流で食器などの洗い水となる。ハンマームで使われる水は、さらに下流に設けられた貯水槽に貯められる。浴場より下流では、洗剤を使った洗いものや洗濯に使われ、小麦粉をつく水車をまわし、家畜用の水などとなり、最終的にはこれまでの雑排水とともに耕作地への潅漑水路につながる。

 つまり、カナートは氾濫農耕などで見られる巨大な権力にもとづく水の大規模な国家的活用ではなく、水を小集団の手によって操作することを可能にしたため、小規模な共存区域を拡大することが可能であった。現代のコンパクトシティにも通じるオアシス都市の成立である。自然を比較的静的に操作する方法であり、水の安定的操作的活用であった。同時に、イスラムの生活と密接に結び付いた施設としてハンマームがあり、貴重な水をその使用条件ごとに優先順位を決めて日常生活の中心に据えて大いに利用しながら、自然環境に調和させていた。ハンマームとカナートはイスラム都市における一つの文化であり、「生活に潤いと歓びをもたらす都市の重要なアメニティーの一つに他ならない」(山田,1993: 223頁)のである。

◆図 ホラナク(Khoranaq)村の水環境システム

出典(一部著者が加筆):Beaumont, Peter., Bonine, Michael., and Mclachian, Keith.: Qanat, Kariz and Khattara -Traditional Water Systems in the Middle East and North Africa, p58, MIDDLE EAST & NORTH AFRICAN STUDIES Press Limited, 1989.

風水都市…「関係を翻訳する民俗的環境診断」

 風水とは、地形、風や水の流れ、方位などから環境と人間の関係を精緻かつ相対的に知ることによって、自然の動きに調和した人間(生者と死者)の生活を組み立てていこうとする、一種の環境認識科学、あるいは生活空間設計思想である。3世紀頃に中国で体系化されはじめた風水は、<家相>と<墓相>を統合した思考体系であり、環境評価としての<地相>や都市プランとしての<立地論>、山水画の<美学>、日本庭園の<造園法>までも含む。その考え方は、地を生きたもの、動態的なもの、直接人間生活に影響を与えるもの、万物を化生する神秘力を有するもの、総じて人間生活の吉凶禍福の根元とみる観法よりなる。すなわち<風水>は<立地論>であると同時に<環境論>である。それは、人の棲まう土地それぞれの固有の特性を認め、それに影響・拘束されるかわりに、それを活かし、折り合っていこうとする姿勢である。まず自然環境の構成原理がかくあると規定した前提のうえで、そこに人為的環境を構築する考え方は、自然環境と調和した人為的環境をいかに構築するべきかといった「環境診断」の道具として用いられてきた。風水の場合、自然環境が一個の生命体として存在し、人間である自分もまた、それと調和したり有機体全体の一部として存在していると解する。したがって自然環境の調和が乱れれば、その害が人間の情緒にも及んでくるという関係を説く。災厄は自然環境の乱れに原因があるとする(渡邊,1990: 107頁~109頁)。つまり、風水とは自然と人間とのより良い、好ましい関係を翻訳して解説する言語であった。

環境への適応

 これらの環境との共存の数例を眺めると、自然への対し方にタイプがあることがうかがえる。エジプトや中国の例は、自然に対して対峙し、ときにそのリズムの上で人間がほんろうされる姿である。このリズムを知り、それを表象し、ときに都市の構成にとり入れてリズムへ同調する人間の努力の姿(リズム同調型)が見える。他方、イスラム都市の例は、素朴な直感ではあるが有限性の認識を前提としている点(有限認識型)に特徴がある。乾燥地で水が乏しい限界の中で、いかに利用するかをさぐった歴史の中で培われた知恵を読みとることができる。生活の断面を資源の有効利用に合わせて抑制するという操作的な意図がある。また、風水の場合には、自然環境は風水そのものの場であり、体系化された風水の言語で環境と人間との関係を操作している点が興味深い。集団として環境とのかかわりあいを知り、それを伝達する手法(知恵認識型)と言えよう。


モエンジョ・ダロ(Mohenjodaro)に「共存」を読む

 本節では、インダス文明の中心都市であったモエンジョ・ダロ(Mohenjo-daro)に注目する。モエンジョ・ダロの滅亡要因問題に関しては触れない。より詳細に古代都市から「共存のしかけ」を抜き出す試論2)を試みる。


インダス文明とモエンジョ・ダロ

インダス諸都市の環境・農業・インダス河

 モエンジョ・ダロは紀元前3,000年ごろから約1,000年程度営まれた都市である(図2)。インダス文明の主要都市のなかでも、その整然とした都市プランと排水設備でとくに有名である。まずは、インダス諸都市の成立条件としての環境と農耕の関係について述べる。

 インダス諸都市の気候に関しては、現在の気候よりはもっと湿潤であったという説と現シンド(Sindh)地方のような高温小雨の気候とする説があるが、乾燥地気候であったことはまちがいない。インダス河と砂漠という二つの大きな環境条件がインダス人の暮らし、そして心情を決定していた(Allchin,1984;Raikes,1984)。インダス文明の生活は、河、地震、洪水、水不足、凶作といった過酷な条件に支配されていたと思われる。このような乾燥地での文明成立を可能にしたのはインダス川であった。川なしでは生きられなかった。インダス川はすべての生命のもとであり、インダス諸都市の成立は農業の余剰生産物が集約されたためであった。

インダス文明では明らかにかんがい水路(canal)と思われるものは発見されていない。インダス文明の初期農法は、水路を用いない氾濫農耕(receding-flood cultivation)であったとされている。洪水バンク(flood bank)と堰によるシステムで管理していたようである。年間スケジュールでは、春の3月頃にヒマラヤの融雪によってインダス川は水量を増加し、広大な流域で氾濫する。8月を過ぎると減水し、秋に種を播く。冬期の小麦、大麦を中心とする穀物農耕が基本であった。インダス諸都市のひとつであるロッジ(Rodji)遺跡についてpaleoethnobotanical analysis(古生態植物学)の視点から農業や暮らしを推測したウェバー(Weber)によれば、インダスでは畜牛なども労力として使用されたが、肥料は使われず、氾濫による有機物によって農耕が行われていたという(Weber, 1991: pp170-186)。多くの地域は自然の蒸発と浸透のままであったらしい。また、インダス諸都市の遺跡から発掘されたものをもとに、地域的・植生的にその植物種の分布をまとめるた結果(Weber,1991: p176)、後期ハラッパー(Harappa)時代にかけて徐々に多毛作へ遷移していったことを示している。それは、農法技術(dry farming)に加えて水の管理技術(irrigation agriculture)も発達したためと考えられる。夏季用の種も用いた多毛作(multicropping system)へのシフトは、年間を通して収穫と安定性を増し、この変化が人口と居住地パターンに大きく影響したと思われる(Weber, 1991: p184)。畜牛だけでなく、羊や山羊も使用するようになった。このような農耕が基礎となってインダス諸都市は成立していた。

 そして、農耕だけではなく、インダス河は他にもさまざまな「恵み」をもたらしていた。インダス川が沖積平野をつくったことから、図3に効果や影響を概念的に示すように、その土が木を育て、燃料や果物を生み、その土と燃料によって焼成レンガを生成し、家や都市施設を建築した。また、土は壷などの器をつくるのにも使用された。そして、直接的には川の魚は食料として採取され、交易の手段としての舟運を発達させた。この交易はメソポタミアなどと行われ、インダス地方では入手できない貴重な農産物の種や石といった資源、そして文化や技術をもたらした。地下水は飲料水としてまさに命の水としてハラッパー人の口に入った。インダス川なしには生きられないと共に、その氾濫による被害を受けながらインダス諸都市は有限の水土に分散して適合しつつ、それぞれがせめぎ合って発展していた(有限認識型)のである。

インダス諸都市におけるモエンジョ・ダロ

 長年にわたる発掘から明らかになったインダス諸都市の姿は、非農業従事者である労働者、常勤の職人を養うことのできる豊かで高度に統制のとれた社会であった。この豊かさは他文明や各都市間での盛んな交易も可能にした。それはまた発展した社会・政治制度と宗教制度が存在したことを示し、入念に計画された都市、公共建造物、広大な要砦、穀倉、大量生産による規格化された産物などにも示されている。直接生産者から都市の穀倉へと送られた大量かつ恒常的な余剰農産物は、政治的権力の存在を裏付けている。

現在のモエンジョ・ダロ遺跡(1994.7)


モエンジョ・ダロとインダス川の関係

 「二首都論」もあるように、モエンジョ・ダロとハラッパーがインダスの二大都市であった。インダス文明の及ぶ広大な範囲はその権力の高さと強さを意味している。また、盛んに行われた交易で海上交易の範囲は拡大され、富の蓄積や新知識の導入をもたらした。その背景には、商取引を安定かつ円滑にする度量衡の統一が見られ、それはインダス文明の秩序の正しさ、統制力を指摘していて、ギルドシステムの存在すらもうかがえる(Pracchia et al., 1985, Gupta, 1984)。

 印章(seal)分布の解析によれば、さまざまな印章のモチーフはモエンジョ・ダロから他のインダス都市へ広がっている。通商都市であったハラッパーに対して、モエンジョ・ダロはインダス流域における宗教的センター、イデオロギーの中心地であったといわれている(Atre,1987: p176)。インダス川流域での農産物は交易品として流通するとともに、モエンジョ・ダロには供物として集中したと思われる。このような宗教的センターとしての権威づけがモエンジョ・ダロに人口集中を呼び、密集都市を成立させた。それは、この地域で貴重な森林資源を使用して製造される焼成レンガが大量に使用されていた建築構造からもうかがえる。

 インダス文明では、宗教が都市および農村を支配していたと思われる。モエンジョ・ダロがあるシンド地方は生命の再生・増殖に対する信仰が強く、司祭・神官が都市を動かしていた。火の祭祀は、カーリバンガン(Kalibangan)やロタール(Lothal)で見られる。インダス都市の代表的遺跡に共通する城塞(Citadel)は、宗教センターの地であったとの見方ができる。宗教上の祭式がモエンジョ・ダロにおいて特有あるいはもっとも聖性が高いものであったとも考えられる。穀物倉は農産物の保存庫であると同時に再生・増殖信仰の象徴であり、穀物量を誇示し、指導者たちの権力を象徴する役割があった(辛島他,1980: 97頁)。

 つまり、モエンジョ・ダロはインダス流域の村落、そして諸都市の宗教面において頂点に立っていた聖なる都市(聖地)であったと考えることができよう。カーリバンガンにとって代わられるまでは、インダス人の心の拠り所であった。大浴場(Great Bath)を擁するモエンジョ・ダロの城塞地区は、モエンジョ・ダロ自体の聖所であるばかりでなく、インダス文明全体の神殿(sacred space)であったといえるだろう。数多くの巡礼者が訪問した光景を想像できる(図4)。


モエンジョ・ダロにおける「共存」

モエンジョ・ダロの都市計画

 インダス諸都市の遺跡はすべて河川に沿った沖積地に位置している。「ハラッパー人は世界で最初の都市計画者であった」(Rao, 1982: pp13-14)といわれるように、都市は、一般に西に城塞、東に市街地を持つといった一定の形式を持つものが多い(辛島他,1980: 47頁)。

 3万5千人程度の人口が居住していたと見積もられているモエンジョ・ダロでは(Chakrabarti, 1979: pp205-206)、神官階級を中心とする城塞エリアと俗世界である市街地とは分離されていた(Atre, 1987: p188)(図5)。市街地には、南北の主要通りを軸として方形の住居が並んでいる集住構造がある。東西と南北の大通りは通風と衛生のためでもあろう。壁の厚さや家の大きさの差からは階層の差がうかがえる。住居の3/4はほぼ等しい広さの家に住んでおり、残りが、非常に小さいもの(使用人のもの等)か非常に大きい家(上流階級等)に住んでいた。その均一性は当時としては高度の福祉と快適さをもつ標準的な家屋の存在を示している。壁の厚いものは寺院あるいは貴族階級の住居ではないかとされている。また、フェヤサーヴィス(Fairservis, 1979: p84)によれば、モエンジョ・ダロの非農業人口は、行政的階層としては神官と書記、印章彫刻者、音楽家、舞踏家があり、生産者層としては陶工と織工、レンガ製造者、石工、大工、冶金師、商人で構成されていて、手工業や商店などが混合している街区であったことがわかる。全体としてバザールのような雰囲気であっただろう。各手工業は集中化されず、モザイク状に混合しながら埋め込まれていた(Pracchia et al., 1985)。インダスの都市では、大通りに開く戸口というものがなかった。家々の戸口は、住居の大小を問わず、大通りから入った小路に開かれていて、街路-路地-戸口という構造が貫かれていたため、大通りの景観は、家々の外壁ばかりが目立っていた。

モエンジョ・ダロの城塞地区の復元図

出典:Michael Jansen: City of Wells and Drains - Mohenjo-Daro - Water Splendour 4500 Years Ago, p124,

Frontinus-Gesellschaft e.V. Bergisch Gladbach,1993.

モエンジョ・ダロ遺跡の全体平面図

出典:Michael Jansen: City of Wells and Drains - Mohenjo-Daro - Water Splendour 4500 Years Ago, p25,

Frontinus-Gesellschaft e.V. Bergisch Gladbach,1993.

入り口から家に入ると、窓はほとんどなく、あってもバルコニーとともにすべて中庭に面している(Mandel, 1976: 94頁)。中庭型の住居である。出入りはただ路地からのみである。モエンジョ・ダロの住居内に個人のものとして井戸を占有している例は非常に少ない(Sarcina, 1979: p178)。ほとんどが、公共的なものか職人のものであった。町には、道路清掃人がいたに違いない。大通りの角のところには、くず入れが備え付けられていた。

 その壁の厚さは、建物が二階建て、あるいはそれ以上の高さであったことを示している(図6)。空間を有効に使うために、階段は高くて狭く、時には高さが15インチだが、幅が5インチしかないものさえある。公共建築や豊かな人物の家は、大きい階段を使う。時おり、街路からの外階段のある家があり、各階を別々の家族が住んでいた過密な状況を示している。しかし、階段のための場所は一般に内庭にあり、バルコニーが屋根に通じていた(Mandel, 1976: 78頁)。建物は直線的で、規則的であり、屋根は平らで、陶器および木で作られた樋から排水され、下の街路に注がれていた(Mackay, 1984: 26頁)。調理は、ほとんど中庭で行われた。戸口にはまた小さな台所がある。燃料はレンガを積み上げた台の上で燃やされた。その上に調理用器具が置かれている(Mackay, 1984: 30頁)。また、中庭では動物が飼育されていたらしい。

 モエンジョ・ダロでは、多くの建物が焼成レンガで建てられており、極めて幅広く普及していた(メソポタミア文明では神殿等に使用を限定)。レンガのサイズが一定していたことも驚くことであり、焼成レンガを焼きうるだけの都市の経済力の高さ、支配力の強さが伺える。焼成レンガの需要が急激に上昇したために、習熟した日干レンガ建築の技法をそのまま焼レンガに対しても用いている例が見られるという(辛島他, 1980: 64頁)。

 洪水後の街の再建をもとの計画に従うという面も見られ、何らかの強い統御がそこに働いていたことを考えることもできる(辛島他, 1980: 105頁)。時代を経るごとに部屋が細分化されていく傾向を持つものの(Jansen, 1985: pp157-206)、住居を全く同じ場所に再建築したのである。部品であるレンガは再利用しやすい面もあったが、このような意図を感じさせる再現志向のなかで、都市の領域もある範囲を越えては膨張しなかったのではないか。成長率は市街地面積でみるかぎりゼロに近く、住宅地区は当初の計画都市の内部から一歩も市壁の外にはみ出していない。持続原理はあっても、成長拡大はない。モエンジョ・ダロの都市の平面プランには、例えばバリ(Bali)島の方角観のような家屋に個別に天空から働く強い法則性は見いだせない。しかし、何回も大洪水に襲われながら同じ場所に同じ建物を再建するということは、その地上に脈絡をもつ人為の計画の強固な存在を証明しているように思われる。それは、都市の祝祭の中心性によるものと推定される。

モエンジョ・ダロにおける路地の復元想像図

出典:Stefania & Dominic Perring (桐敷真次郎訳): 復元透し図 世界の遺跡,p135, 三省堂,1994.

モエンジョ・ダロの排水溝(1994.7)


モエンジョ・ダロと水

 モエンジョ・ダロで有名な排水施設は、高度なネットワークを形成しており、排水施設の構築、設計に当たっては細やかな感覚が活かされていた(図7)。排水施設の華麗さである。この排水施設がいかなる種類の水を流していたのかは定かではない。雨水の排除用にしては規模が小さく、屎尿などの排除としては大量の水洗用の水が必要となり、その堆積のおそれもある(市川他,1994)。方々の家からの排水は、通常、主要街路の排水渠に直接流し込むことは禁止され、集水孔か汚水溜に入れられ、固形物が沈殿し、集水孔の水深の3/4以上に満ちたとき、大きな排水渠へ流入する(Mackay,1984: p34)。幹線に相当する長い排水渠には、時に内側にレンガを装着した特に容量の大きい排水溜が備えられていた。排水溜は、時には内側に階段があり、定期的な清掃が容易であった。また、排水ネットワークから遠方の家では、少しばかり地中に埋められた大きな瓶が用いられた。

 ところで、数多く掘られている井戸は、洪水に見舞われたり、インダス川の挙動による不安定な水の供給を少しでも安定にするためのものであった。各家には1㎡程度の水浴び場がほぼ必ず設置されており、床が漆喰で固められ、傾斜がつけられて排水にも気を使っていることがわかる(図8)。実質的に、あらゆる家屋に水浴び場があり、排水の便を考えて常に建物の街路側に設置されている。排水は、普通、壁の厚い部分の内側にあるレンガ溝に流れ落ちるようになっているか、ごく稀には外側の開けっ放しの溝に流れ落ちるようになっている。この溝の排出口の多くは、別の方向に向けられているので、流れ落ちる水が街路の通行人にはねかかることはなかったと思われる。モエンジョ・ダロの住民は自分たちの街の排水システムを満足に思っていたことがわかる。それは、排水溝を直接に囲む壁は、しばしばレンガがとくに注意深く研磨され、きっちりと組み合わされて造られ、優れた技能の産物で装飾的な趣きさえも持っている。これらのことから、排水、水浴び、おそらくは沐浴(ablution)が生活の中でかなりの重点を占めていたと思われる。排水溝で発見された陶器の模型が数多いことから、浴室に(遊び)道具を持ってゆく習慣が盛んだったことを示している(Mackay, 1984: p31)。

 以上のような都市プランを持つモエンジョ・ダロでは、「水」「水浴び場」「排水」に対する感覚がきわめて強く、都市プランに反映されるほど支配的であったと推測される。そのような暮らしを、前述の聖地性や氾濫農耕と組み合わせて仮説を展開しよう。

 氾濫農耕に基礎を置く都市文明では、インダス川が氾濫することで農地は肥沃になり、結果として都市文明を成立させているのであるが、まれな大氾濫では都市そのものが埋まるという事態にも陥る。インダス川は“恵みの神”であると同時に“恐るべき神”という両義的な認識の上にあった。都市民の大洪水への不安な気持ちや河川のふるまいへの依存には信仰という媒介が必要であった。地母神や火に関する信仰も指摘されているが、ここでは水への信仰を重視したい。「水」への信仰はインダス川への気持ちへとつながる。高度な排水施設の設置の裏には水への信仰があったと思われる。

モエンジョ・ダロの“漆喰塗り空間(水浴び場)”

出典:Michael Jansen: City of Wells and Drains - Mohenjo-Daro - Water Splendour 4500 Years Ago, p122,

Frontinus-Gesellschaft e.V. Bergisch Gladbach,1993.


モエンジョ・ダロの水への結合様式

 沐浴と氾濫農耕、洪水との関係を大胆に図示してみる(図9)。氾濫とは、いわば大地が水を“かぶる”ことで“恵み”を得るという図式である。そして、「沐浴」はヒトが水を“かぶる”のである。ここでの信仰儀礼としての沐浴は、水を浴びて身体の汚れを落とすという感覚ではなく、耕地がそうであるように、水を“通す”ことで神の恵みを得ようとしたのではないだろうか。この感覚は流し去るゆくえへの意識にもつながる。“恵み”は排水の後に付与される。氾濫を経た大地と同じように水は身体を通った後は消えなければならない。いつまでも目の前に存在していてはいけない。そのために排水施設の整備が求められたのではないだろうか。同時に、恵みの水を“通す”範囲を拡大するという意図もあったのではないか。排水ネットワークに水を流せば、モエンジョ・ダロ・シティ全体が日常的に水を通していることになる。「氾濫(=水を通す)の日常化」を求めたものではないか。乾いている都市ではなく、水の流れを常設しようとしていたのではないか。宗教的センターを担っていたモエンジョ・ダロは、水が流れる聖地としての姿を演出していなければならなかったのである。つまり、衛生施設であるとされる市街の給排水設備を宗教施設としてみることが可能である。

 モエンジョ・ダロのHR地区を対象として実証的に見てみよう(近藤・盛岡,1995 )(図10)3)。水浴び場として考えられるレンガを縦にして漆喰で丁寧に舗装されていた“漆喰塗り空間(Paved Space)”に注目する。街路に沿う排水溝は直線的形態を持つが、家屋内の排水溝はむしろ部屋の真中を通る。排水溝は嫌悪施設ではなかった可能性が高い。HR地区は全部で90戸数あり4)、51家屋(57%)が“漆喰塗り空間”を備えている。1家屋に1から3部屋程度の“漆喰塗り空間”が標準的である。23基ある井戸のうち(Jansen, 1993: pp68-84)、井戸がある部屋に排水溝が接続しているのは11カ所であり、排水が必ずしも井戸と結びついてはいないことがわかる(表1)。また、井戸とつながらない排水溝の多くが“漆喰塗り空間”に接続している。89カ所ある全“漆喰塗り空間”のうち、井戸と排水溝に接続しているものは少なく、“漆喰塗り空間”のみあるいは排水溝つきのものが多い(表2)。排水溝は“漆喰塗り空間”をより意識して設置されたと考えることができる。排水溝が接続している“漆喰塗り空間”は水浴び場(bath room)であろう。“漆喰塗り空間”のみの部屋の使用法は不明だが、すべての“漆喰塗り空間”が水浴び場であるならば使用水量はそれほど多くなかったことが推測できる。非常に大切に水を扱った(‘聖なる水’として)のではないか。すなわち、「入浴は、モエンジョ・ダロの住民にとって儀式であり、聖職者も一般人も一月のうちで決められた時間に、ちゃんときまった沐浴を行っていたということである。大浴場は、その収容力から見て、毎日、全住民が使用することは不可能であったと思われる」(Mackay, 1984: p42)とし、大浴場は、ある種の式典の場合にのみ使用されたものとも考えられる。

 すなわち、聖都モエンジョ・ダロの排水施設と都市空間構成は、水を“通す”ためのものであった。大浴場は常に膨大な水を貯めて水にひたったり、何度も浴びるための場所ではなく、都市外から来た巡礼者が水を汲み、かぶるような、水を“通す”場所であったのではないか。このように、大浴場の司祭たちが民衆の宗教生活を統括する役割を果たしていたと思われる。

 HR地区の井戸空間および隣接空間の設備

 HR地区の“漆喰塗り空間”の設備

モエンジョ・ダロ, HR地区における井戸・排水溝・「漆喰塗り空間」の様子

※Sarcinaの地図をベースに著者が加筆した(Sarcina, Anna : A Statistical Assesment of House Patterns at Moenjo-daro, Mesopotamia , vol.ⅩⅢ-ⅩⅣ, Pl.XXXV, 1979)。


モエンジョ・ダロにおける「共存のしかけ」

 モエンジョ・ダロは、物理的にも意味的にもインダス川とは切っても切れない関係であった。しかし、自然の脅威に耐えながらの禁欲的な生活ではなく、高度な生活文化を創造していたことが、ゲーム盤の存在やおもちゃの存在からも分かる。ヒマラヤの融雪に関連する氾濫という現象は、自然のリズム、鼓動と密接に関連していた。氾濫農耕をベースとして、モエンジョ・ダロ、ハラッパー都市の人々は自然のリズムに敏感であったに違いない。沐浴儀礼は日常生活のリズムをつくっていた。また、高度な排水施設は宗教施設であり、水を「通す」ことによるくらしのリズムをと氾濫のリズム-自然のリズム-を融合し、媒介するための装置であった。都市そのものが自然のリズムと離れた存在ではなく、自然のリズムと共振し合う存在であることを明示するものであった。つまり、モエンジョ・ダロでは、インダス川の持つ大きなリズムと共鳴し合うようにして人々が生活していたのである。そこには、自然を押さえ込もうとする感覚はない。信仰を介して、自然と共鳴するくらしの姿を見ることができる。モエンジョ・ダロからみたインダス川との関係はまさに「共に存(あ)りて」響き合う関係と称することができるのではないだろうか。

将来世代からみた現在の都市

 都市を計画することは、集住形態を基本とする現代の人類にとって必須のものである。しかし、都市の膨張を支える技術が結果として自然と人間との距離を拡大し、「自然の基盤の上に成り立っている都市」という事実を都市民から見え難くし、あるいは常に自然(資源)は豊富にあるものとして都市が計画されてきた。エコロジカルな都市づくりは、そのような都市形態において自然との関係を再構築しようとする試みであり、戦略である。その内容の多くは実際的対応の要求に応えるべく、既往の都市にいかにエコロジカル的装置を盛り込むか、エコロジカル的に配置するかという方向が強い。古代都市を人間と環境との共存から読み解いてきた本稿では、そのような実務対応型の戦略はさておき、都市(集住としての主体群)と自然との共存の関係の上で考えられる都市計画の基本的な視点を示したい。

自然のリズムとの同調

 モエンジョ・ダロに代表されるインダス諸都市の都市計画は、インダス川を中心とする自然とのせめぎ合いの中で成立していた。氾濫農耕の上に成立した都市であり、必然的にインダス川との関係を意識せざるを得なかった。時として都市自体を滅亡させてしまうインダス川の氾濫という危険性を背負った都市であり、インダス川の(乱暴な)リズムが都市の基調として流れていたと言えよう。さらに、仮説的に言えば、沐浴という行為がインダス川のリズムと共振する生活のリズムとして行われていたことは、自然の持つ大きなリズムと都市生活者のリズムが共鳴する、同調するように組み込まれていたと解釈できる。

 これより、共存の都市計画の重要な一要素として、リズムの存在を指摘できる。リズムは<循環>に通じる時間的概念である。自然のリズム、都市(場所)のリズム、そして個人の生活のリズムが共振することは、「共に在(あ)る」ことの必要条件となるのではないだろうか。自然のリズムと生活のリズムを媒介するものが都市のリズムであるにもかかわらず、この観点から都市像が捉えられたことは少ない。俳句や短歌などは人間の生活のリズムと自然のリズムとを媒介するひとつの表現手段として考えられるが、都市像としてリズムが反映された事例を探すのは難しい。むしろ、今までの都市は、自然のリズムを平均化することで合理性、機能性を高めてきた。われわれ人類は自然の持つリズムさえもコントロールし、継続的に成長する方向に都市を計画してきたが、「快適」や「機能合理」という目標設定を変更する時期に来ていると言えよう。都市は集住を可能とする装置であると共に、人間と自然のリズムを融合させる装置でもある。

都市の作法

 自然のリズムへの同調性という考え方は、エコロジカルな都市像として提案された現代のエコポリスやエコシティといった装置系の提案とはやや異なる。極端な表現をすれば、自然と都市像との関係が「畏敬」と「利用」に分かれるとも言える。エコロジカル装置が都市内に設置された段階では、われわれ人間は、従来の都市装置と同様に機能や性能に注目して利用してしまう。数値に囲まれた生活は窮屈である。他方、例え定量化はできなくても、自然のリズムと感性的に共振することが求められる。それは、各装置と生活との関係を束ねる役割を担い、エコロジカル・シティの暮らしを想像力に富んだ、豊かなものにしてくれる。そこには、「なぜ」「どの程度」という疑問符と共に感動や怖れといった感性的なつながりも重視される。

 このリズムへの同調性という方向にある計画・デザインも現れ始めている。単体としての建築ではかなり風土性や象徴性などが取り入れられている。地域計画レベルでも「風の道」と呼称される風向を意識した配置計画や、太陽の方角を都市軸の中に取り入れたコスモロジカルな都市プラン構想(吉村, 1993: 183頁-198頁)などを見ることができる。著者らも大阪の上町台地からの夕陽にこだわって自然のリズムをさぐってきた(盛岡・近藤,1990, 近藤・盛岡, 1994)。そこでは、自然と集住(都市)との関係が明示(象徴)される。そこに住む市民にとって、都市とは機能的存在であると共に意味的な存在となるだろう。このような認識をもう一歩進めて具体的に都市像を実際に計画することが求められている。自然の持つ大きな繰り返す力に人間がリズムを介して合わせていく作法を都市に組み込まなければならない。集住の舞台である都市の持つ多様な役割を構造物で置き換えてきた都市計画では限界が見えてきている。われわれ人間が歴史の中で育んできた共存の知恵を発掘して、「都市の作法」として再定義し、再構築することが求められる。

共存の都市計画へ

過去の世界が培ってきた共存の知恵には、時代や場所によってリズムが異なるが、自然のリズムへの接し方に共通点があろう。仮説として、人間が自然に対して畏敬をもってつきあってきたと考えることができよう。歴史の時間の中で身の丈に合わせて成熟した知恵があるはずである。場所による限定を受けながら、人間は自然のリズムと同調するしかけを共通項のある作法として発達させた。

 これからの計画意図とは、この脈々と持続しているしかけを発見して都市像に反映させ、計画に内部化する単に形の再現ではなく、意味の再生(再創造)である。過去にあった人間と自然との結びつきを理解しつつ、画一的な計量よりは多様性(パターン)を求めていきたい。「都市の作法」としての「しなやか」な共存のしかけを生み出し、都市計画に組み込んでゆくことは、持続可能な都市をもとめるプランナーの課題である(参照)。著者らもまた、「共存の歴史」をふまえてこそ、「共存の都市計画」が生まれると確信している。

人間と自然、都市のリズムと作法としての都市計画の関係

最後に

 筆者らは考古学を専門とする者ではなく、古代都市に関しては乱暴で飛躍した議論も含まれていると思われるが、計画論への視点を導出するための手順としてご容赦いただきたい。もしも誤りがあればご指摘いただければ幸いである。なお、東海大学の近藤英夫教授に文献などを御教授いただいたので記して感謝したい。

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