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大和魂 ②

2018.05.22 05:37

http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より

■大和魂の歴史

■一 「やまとだましい」のみなもと

紫式部の手になるとされる「源氏物語」が誕生して、今年2008年は丁度千年紀とされます。いろいろの企画が各地で進められているようです。その中に書き始められた「やまとだましい・大和魂」なる日本語もこの千年間生き続け、現在もその命を持ち続けているという、大変長生きの、また日本人好みの言葉のようです。 

「源氏物語」に「大和魂」と書かしめた原因は何に依るのか。その用語は確かに紫式部が初めて言葉にして書き記し、後世に伝えたことは確かですが、突然に紫式部が創出した概念ではないでしょう。紫式部の時代に遡ること数百年の大陸文化の導入の時代があるわけです。一例万葉集の諸歌人の身につけている、紫式部が「ざえ」(漢才)と言った大陸文化の学問・知識に対する習得レベルは現代人とて及ぶものではありません。

必死に大陸文化を取り入れるべく、漢才をこなせばこなすほど、「日本人とは、日本文化とは」と自問自答を繰り返すことになります。たとえば、漢詩に対する大和歌(和歌)の創出が万葉集になり、紀貫之らの古今和歌集は初めとする中世の華やかな和歌時代へと展開していくことになるのでしょう。

■「漢才」(詩文)に対する「大和歌」(和歌)という「やまとだましい」

「大和魂」を『漢才に対する実務的な、あるいは実生活上の才知、能力』(国史大事典解説)と解しますと、和歌の世界に於ける具体的な「大和魂」の原形は、和歌であり、百人一首の歌人で考えますと、紫式部の大凡百年前の大江千里や菅原道真などの文化人の活動実績にその一端を見ることが出来ると思われます。ちなみに吉沢義則「大和魂と万葉歌人」では、「国民精神、すなわち大和魂の意志を考える材料として、万葉歌人の詠歌態度」に焦点を当てています。

大江千里は、「大江千里集」なる「句題和歌」(126首)は、漢詩文の深い知識を和歌世界に展開したものとされ、彼の百人一首歌も白氏文集や李白の五言絶句「静夜思」に、さらには明治時代の小学唱歌もそれに通じるものがあるようです。

菅原道真は平安前期の代表的な文人官僚にして漢学者であり、詩人かつ歌人でもあった人です。道真は文章博士の家柄と「凌雲集」「文筆秀麗集」の撰者として、あるいは「菅家文章」「菅家後集」において漢才の実績が500首以上の漢詩文で遺憾なく発揮され、また一方和歌の世界でも「古今集」以下の勅撰集に三十余首入集し、特に新古今集・巻十八・雑歌下には、配所大宰府での述懐歌十二首が特撰され、自らも「新撰万葉集」(242首の万葉仮名和歌と七言絶句の翻案漢詩からなるアンソロジー)(寛平五年・893)(道真49才頃)を選し、和歌を万葉仮名にしたり、七言絶句に漢詩訳を試みるぐらい和歌と漢詩の世界を行き来できる和漢に通じる歌人であったのです。 

菅原道真の菅家遺戒にいう「和魂漢才」とは、「国体は漢学の知識だけではその神髄を会する能はずして、国学の奥妙は必ず和魂と漢才を併用してのみ会得しうる。」 「・・・道真の「和魂漢才」という考えは、後世の付会にすぎないが、「漢才」の残照によって、「大和魂」の世界にもののあわれという匂やかなほのかな光を点じだした道真文学は、藤原文化、平安文学の性格と深くかかわりあう・・・・」

道真も千里同様に漢詩の世界で活動すればするほど、和歌の世界の遊泳が楽しめたのではないかと思えます。そのように文芸世界を動き回ること自体が「道真のやまとだましいの発露」であったと思います。これらの和漢の文学世界を逍遥する形態は日本初の漢詩集「懐風藻」(751年)から260年後に藤原公任が「和漢朗詠集」(1013年)で展開し、後世の文化人の拠り所を提示しています。

■二 中世の文学世界に於ける「やまとだましい」

源氏物語で創出された「やまとだましい」なる言葉は、その後細々と受け継がれていったようです。

(1)「大鏡」(11世紀後半)藤原時平事績の項において

「・・・かくあさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣の御すゑはおはせぬなり。さるはやまとたましいなどはいみじくおはしたるものを・・・・」 (「やまとたましひ」とは、「融通の利く性質、機転の利く実際家」という意味。) 

(2)12世紀初めの今昔物語(巻第29 明法博士善澄被殺強盗語第二十)に

「善澄 才(ざい)は微妙(めでた)かりけれども、露、和魂(やまとだましい)无(な)かりける者にて、此(かか)るる心幼き事を云ひて死ぬる也とぞ」 (善澄は学才は素晴らしかったが、思慮分別のまるでない男で、そのためにこんな幼稚なことを言って殺されるはめになったのだ。) *学問的知識をいう「漢才」に対して繊細で優れた情緒・精神を意味し、思慮分別という程度の意味に用いられる。

(3)13世紀初めの愚管抄(巻四・鳥羽帝の項)

「公実がらの、和漢の才にとみて、北野天神の御あとをもふみ、又知足院殿に人がらやまとだましいのまさりて」 (公実の人柄は「和漢の学才」に豊かで、菅原道真の後を襲い、また一方忠実に比べて人柄や世間的な才能が勝って、見識ある人からも小野の宮実資などのように思われる事があったのだろうか、・・・)

(4)室町初期と考えられる「詠百寮和歌」(高大夫実無)(群書類従巻72所収)

諸官名に一首ずつの歌108首からなり、文章博士について次の歌が詠まれる 「新しき文を見るにもくらからじ読み開きぬる大和と玉しゐ」 ちなみに、勅撰和歌集に於ける「やまとだましい」あるいは「やまとごころ」なる歌語の引用経過を追いますと、主として「やまとごころ」が、後拾遺集あたりで赤染衛門歌に用いられている程度で、「やまとごころ」とて頻繁に活用されているわけではありません。和歌世界での「やまとごころ」「やまとだましい」の頻出は、江戸期まで待たねばなりません。

■三 江戸期歌人達の「やまとだましい」

紫式部の用い初めは少なくとも「才(ざい)・漢才」を意識したものであったものが、江戸中期以降の国学の中で「漢意」に対する「日本古来の伝統的に伝わる固有の精神」「万邦無比の優れた日本の精神性」「日本国家のために尽くす潔い心」という展開を見せます。

(1)本居宣長(1730~1801)の「やまとごころ」

江戸中期に現れた本居宣長は大和魂を日本固有の心と規定し、その後の国学に大きな影響を持つようになります。次の一首が現代まで、「大和魂」や「大和心」と一緒になって用いられてきています。

「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」 (此の歌の解釈については後述の吉沢博士の項を参照願います。)

この宣長の歌がいろいろの見方で解釈され、宣長から100年後の幕末期の思想家吉田松陰の歌のように展開していくことになります。

(2)佐保川(余野子)(1720年代~1788)の「やまとだましい」家集

佐保川家集には、「やまとだましい」を歌い込んだ歌を長歌二首、短歌一首残しています。

「敷島の大和魂君こそはあれつぎまさめ万代までに」(佐保川集・364番歌) (作者「よのこ」は、賀茂真淵(1697~1769)に和歌を学んだ「県門三才女」とされ、紀州藩で徳川宗將室富宮、側室八重の方、総姫などに使えた年寄り瀬川で、晩年尼凉月と号し、紀州吹き上げ御殿凉月院に住み、天明八年1788年没した。)

(3)井上文雄(1800~1861)「やまとだましい」歌

調鶴家集に、「・・・日の本の やまとだましい ・・・」と歌い込んだ長歌を、また「やまとこころ」を詠み込んだ歌も残している。伊勢津藩藤堂公出仕の武士で、江戸派岸本由豆流や一柳千古に国学と和歌を学んでいる。

(4)平田篤胤(1776~1843)の「古道大意」

宣長の門人篤胤は文化六年(1809)「御国人は自ずからに武く正しく直に生まれつく、これを大和心とも御国魂とでも云ふでござる」

(5)吉田松陰(1830~1859)の「大和魂」

松蔭のいう「大和魂」は、多分に「祖国を大切にする心」「民族を思う心」意味でしょうか。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」 この歌は下田から江戸へ護送されるとき、品川泉岳寺を通過するとき、わが身を赤穂浪士に重ね合わせて「已むに已まれぬ」と詠んだとされます。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」 吉田松陰の和歌は、「日本民族固有の気概あるいは精神」と言った概念を持っていたのでしょう。それが宣長のいう「朝日ににおう山桜花」に譬えられ、清浄にして果敢で事に当たっては身命をも惜しまない心情となるわけです。

吉田松陰の歌はさらに変貌して、天皇制に於ける国粋主義思想、とりわけ軍国主義思想の都合の良い宣伝文句に変貌してゆきます。ちなみに、十九世紀の初め江戸の読み物「椿説弓張月」(1807~1811)では、「事に迫りて死を軽んずるは、日本魂(やまとだましい)なれど多くは慮の浅きに似て」 ととらえています。作品の方が松蔭より先んじていますが、宣長の歌の吉田松陰的解釈の一つと言うべく、武士道の一説明というところでしょうか。

■四 戦前の「やまとだましい」あれこれ

幕末の一時期、吉田松陰によって浮かび上がった「大和魂」の概念は、明治維新と共にさらに言葉の概念が変貌してゆきます。その概念は、明治時代には国家主義や民族主義の興隆と共に時勢に都合の良い偏狭なものとなり、第二次世界大戦前の軍国主義に基づいた「大和魂」と追い込まれ、絞り込まれてゆきます。

(1)夏目漱石の「大和魂」

慶応四年(1867)生まれの夏目漱石は、その小説「我が輩は猫である」(1905年頃発表)で、苦沙彌先生の次のように言わせています。「大和魂!と新聞屋が言う。大和魂!と掏摸(すり)が言う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。ドイツで大和魂の芝居をする。」 「東郷大将が大和魂を持っている。さかな屋の銀さんも大和魂を持っている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を持っている。」 「だれも口にせぬ者はないが、だれも見たものがない。だれも聞いたことはあるが、だれも会った者がない。大和魂は天狗の類か」

これらの会話の文の中には、多分に漱石独特の「大和魂」に関するやや批判的な見方が垣間見られるところです。明治時代はひとそれぞれに「大和魂」の概念は抱いているものの、一様にこれだと定義できないのが「大和魂」の摩訶不思議な言葉だといっているようです。何とも表現しがたい「日本的なもの」に対して、こういう説明をせざるを得ないのは、多分に世の中の時勢が明治維新以来の「西欧文化の一方的な取り込み」の結果、日本人の精神状態は日本的なものへの回帰にあったものとも思われます。軍人から一庶民まで、もはや西欧文明一辺倒でもあるまい、日本にも独自の優れた世界に誇れるものがあるはずだと自覚し始めたのではないでしょうか。それを「これだ」といえないので、やむなく「大和魂」だとしか言えなかったのではと思います。

「明治時代に入り、西洋の知識・学問・文化が一度に流入し、岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきと言う主張が現れ、大和魂と共に『和魂洋才』と言う語が用いられるようになった。」

(2)島崎藤村の「大和魂」

明治5年(1872)生まれの島崎藤村は、その小説「夜明け前」(1932年頃執筆)(第二部(下)第10章・二)において、木曽路馬篭宿の万福寺松雲和尚に言及する下りで、明治初年、世の中は「神仏分離」「廃仏毀釈」の時勢に翻弄される中での和尚の挙動と心意気とを著述して 「不羈独立して大和魂を堅め」と言わしめています。島崎藤村の観点は、主人公青山半蔵が所属する平田派国学世界からの観察と見て、ここでは、多分に旧来の日本的な慣習を一変させないという意味で書いているようです。

(3)明治末から太平洋戦争終結までの間の「大和魂」発現事例

明治期の日本文化への見直しと共に、時代が大正から昭和へ向かうと、ナショナリズム・民族主義が台頭して、「大和魂」の言葉には、日本という国家への強い帰属意識が結びつけられるようになってゆきます。

「剣道は 神の教への道なれば 大和心をみがくこの技」(高野佐三郎)

「国家への犠牲的精神と共に他国への排他的な姿勢を含んだ語として用いられたのであり、大和魂が元々持っていた『外来の知識を吸収して柔軟に応用する』という意味と正反対の受け止められ方をされていた。」  

■五 戦後に復活した藤猛の「ヤマトダマシイ・ファイト」

第二次世界大戦後、敗戦と友に軍国主義的「大和魂」は戦争に結びつくものとして、しばらく「平和日本の文化や思想世界」から姿を消します。しかし、敗戦後十年経って、すこしずつ「大和魂」の言葉が散見されるようになります。

(1)戦後の文芸評論

戦後に於ける作家や文芸評論家の「大和魂」概念の展開はどうなっていたのでしょうか。一例を山本健吉「古典と現代文学」(1955・昭和30年)ー物語りに於ける人間像の形成・2ーにみますと、次のように述べられています。

*「大和魂とは、漢才が学問をするのに対して貴族たるものの生活上の規範となるべき心持ち」と解説していることは、戦前の国粋主義思想や軍国主義思想を捨て去り、千年前の紫式部の抱いていた概念に立ち戻っていると見られます。

(2)小林秀雄の「大和魂」

高見澤潤子「兄小林秀雄との対話」より

「融通の利かない、堅い学問知識に対して、柔軟な、現実生活に即した知恵の事を云っているんだ。学者とか知識人とかは、観念的な生活をしているが、そこには、大和魂はない。一般の当たり前の、日本人的な具体的な生活をしている人達が、大和魂をもっているんだ。」 「在原業平が”遂に行く道とはかねてききしかど昨日今日とはおもはざりしを”という辞世を詠んだろう。契沖はこれをほめて”これは一生のまことを正直にあらわしている。”と言った。宣長もまた、”あっぱれだ、此こそ大和魂をもった法師だ”ってほめたのだ。」 *小林秀雄も山本健吉同様、平安の昔に立ち戻って、本来の意味合いに言及し、解説しています。しかし、「大和魂」の言葉は、思わぬ所に戦前思想としてうずくまっていて、その教育を受けた人々が時勢を見はからないながら、少しずつ形を変えた「大和魂」として展示して見せます。

(3)ワールドサッカー日本チームのコーチの「ヤマトダマシイ」

1960年に来日し、日本代表のサッカーチームのコーチに当たったドイツ人デットマール・クラマー氏のインタビューで「大和魂」について、インタビューされています。

インタビューア「日本代表を指導していた頃、よく「大和魂」という言葉を使っていたとききましたが、どのような意味でつかっていたのでしょうか。?」

クラマー氏「「大和魂」という言葉を初めて聞いたのは戦争の時でした。戦争の時、将校から日本の特攻隊、そして『神風』の役割についてしらされたのです。将校は「大和魂」という言葉の意味についても教えてくれましたが、これらは皆のために自分を犠牲にする精神のことであり、我々にもその精神を持つようにと言いました。・・・」

(4)プロボクサー藤猛の「ヤマトダマシイ」精神

1967年昭和42年4月30日、ハワイ主神の日系三世藤猛統一(WBA・WBC)世界スーパーライト級王座決定戦で王者でイタリア人サンドロ・ロポポを二ラウンドでKO勝ちして、王座を獲得し、報道機関へのインタビューの時、「オカヤマのおばあちゃん」「ヤマトダマシイ」などと発言して、世間を驚かせました。一般には日本人自身忘れかけていた戦前の言葉を思い出させるようなことになり、ハワイ出身の日系三世で日本語がしゃべれないながら、一躍人気者になりました。これには裏話があって、日本語を話せない藤猛を人気者にするため、所属していたリキ・ボクシングジムの吉村会長が藤に教え込んだ「日本語」であったのです。とすれば、藤が関係なく、吉村会長が如何なる「大和魂」を戦前に教え込まれていたかということになります。多分年代的に見て、大正から昭和初年頃の生まれの人間で所謂軍国主義、国粋主義盛んな時代の「大和魂」の教育を受けていたのでしょう。

■六 平成社会での「大和魂」言葉の活用例

(1)「大和魂」論の展開ー昭和初期生れ世代の著述

昭和一桁生まれ世代の人が戦後に「ものしたい」対象はなにか。前述の藤猛を生み出した吉村会長も多分同世代人と推測できる。そこには世代を分析し後世に伝えたい何かがある。

(イ)斉藤正二(1925年生まれ、名前からすると昭和二年生まれかも?)二松学舎大教授「「やまとだましい」の文化史」(昭和47年・1972・1月) まえがきにいう。「軍国主義の兆しが見え始めた」ので、”戦中派世代”として、「ふたたび祖国を硝煙の下に曝したりすることのないよう、」「自分なりに成すべき仕事」として、「やまとだましい」の歴史を解説するのが目的という。「やまとだましい」の本質的意義がデフォルメされて武断主義と結びつくようになるのは、文化年間(1801~1816)に一部の国学者(平田篤胤など)が主唱し、喧伝するようになってからで、国粋主義的な意味に用いられる「やまとだましい」の歴史は、第二次世界大戦終結に到るまでの僅々百三十年間の突発事にすぎない。」 執筆の目的は「日本人すべてが科学的思考をもつべきだとの願いを提示したかった」。 

(ロ)赤瀬川原平(昭和10年前後の生まれ) 「大和魂」(新潮社)(2006・平成18年) 山本健吉著書から丁度半世紀後に出版された当該著書は、「戦後、忌避されてきた言葉「大和魂」に日本人を理解する鉤がある」という観点で、事例を日本人独特の文化である「ラーメン」「土下座」「七福神巡り」「天守閣」「伊勢神宮」「戦艦大和」などのキーワードから読み解こうとするもので、「大和魂」をあることと一義的に解釈しようとするのではなく、永い歴史の流れの中で、時代時代でいろいろ中味、著者の言を借りると「多様なカオス」の中に会ったとするものです。じっくり落ち着いて考えると、紫式部から出発した言葉も、時代の流れと友に、成長と変遷を重ねつつも、時代の一思想に塗り込められない、時勢に流されない日本人それぞれの「大和魂」なるものがあったのだと気づくわけです。

(ハ)渡邊正清(昭和13年生まれ) 「アメリカ・日系二世、自由への戦いーヤマト魂(ダマシイ)」(集英社)(2001・平成13年) この著書の言いたいことは、「日本人として恥ずかしくないように、あなたの国アメリカのために戦え」と言い聞かされて戦場に赴いた日系二世がいたこと、またその兵士が後年「ヤマトダマシイ」があったから、戦えた」と言う戦争体験記録である。如何なるきっかけで、渡邊はこの書を執筆したか。彼は、東北大学を卒業後、UCLAに留学し、そのままカリフォルニア州に35年間奉職している。著者の「大和魂」は、「日本人としての誇りー忍耐、勤勉、節約、という、今日では色褪せてしまった資質こそ、日本民族の生き方を長く支えてきた」とする。

藤猛の吉村会長を含め、上述の二作家の言いたいことは、日本は敗戦によって、徹底的に民族と国家がぼろぼろになってしまったに関かわらず、僅かにニ、三十年で、世界の経済大国にのし上がれた。それには民族的に如何なる原動力ががあったのか、と思い返したとき、敗戦で忘れさられていた「日本人独特の資質」いわゆる「大和魂」なる言葉に思いを致し、それを平成現代の世代に再評価してほしかったのではないか。

ところが、時代が変遷していく中で、平成の世の中での、「大和魂・やまとだましい」なる言葉の使われ方は、つぎのように変貌しているのです。

(2)いろいろな分野での「大和魂」の活用

(イ)若者の音楽演奏グループ名 「大和魂」 広島を中心に西日本で演奏活動中の HIP HOP、ROCK、POPの要素を取り入れたツイン・リード・ボーカルで5人の若者で編成されたミックスチャー・バンド

(ロ)インターネットラジオ番組名 「かかずゆみの超輝け!大和魂」 アナウンサーは声優「かかずゆみ」という1973年生まれの埼玉出身の人気女性

(ハ)インターネットのブログ名 大和魂 漫画家市東亮子のサッカーファンのためのブログ

(ニ)吉本興業のエンタテイナー名 大和魂 (本名片岡)

(ホ)バスケットボールサークル名 早稲田大学の大和魂

(ヘ)藤井寺の避球(ドッヂボールのこと)倶楽部名 大和魂

(ト)焼酎の銘柄 麦焼酎 「大和魂」大分県江井ヶ島酒造株式会社の商品

(チ)スウェットパンツ商品名 「大和魂」

ところで、いろいろの分野で、現代でも、「大和魂」なる日本語を引っ張り出してきて、活用しようとする事例があり、日本人が居るという現状です。そういう命名をした人物は、如何なる理由で、「大和魂」なる千年のやまとことばを敢えて使用しようとするのか。そこには日本人のどの時代のどの世代の人間にも綿々と流れている「大和魂」なる言葉の民族の趣向に合った、また廣い概念を含みうる、伝統的な存在を再認識することになります。 

以上のように、源氏物語に書き出された「やまとだましい」なる言葉はもともと「中国などから取り入れられた知識や学問をあくまで基礎的教養として、それを日本の実情にあわせて応用し政治や生活の場面で発揮すること」であったのが、千年の時代を経ていろいろに理解され用いられ、複雑な内容になってきています。用いる人の考えがどの辺りにあるかによって一様でないところに、この言葉の持つ幅広さ(性格・能力・品性など)が引き出されるようです。あらためて参考情報より参考になる定義の幾種類かを列挙しておきますが、用いかたはひとそれぞれでしょう。

(1)中国などの外国の文化や文明を享受する上で、それ対する日本人の常識的また日本的な対応能力。やまとごころ。

(2)知的な論理や倫理でなく、感情的な情緒や人情によってものごとを把握し、共感する能力や感受性。もののあはれ。

(3)日本民族固有のものと考えられてきた勇敢で、潔く、特に主君や天皇に対しての忠義な気性・精神・心映え。

(4)世事に対応し、社会の中で物事を円滑に進めてゆくための常識や世間的な能力。

(5)各種の専門的な学問・教養・技術などを社会の中で実際に役立ててゆくための才能や手段。

■まとめ

紫式部はじめ平安期の人々は大陸唐文化に対して「大和魂」を用い、(遣唐使廃止と国風文化を造り、) 吉田松陰はじめ幕末の人々は西欧文化に対して「大和魂」を用い、(鎖国下で、国学と尊皇攘夷運動を展開し、) 太平洋戦争敗戦前の人々は欧米文化に対して「大和魂」を用い、(軍国主義と天皇制護持を煽動し、) 自らの文化を再認識して差別化しようとした。

「やまとだましい」という言語は、日本民族が外国文化に「襲われ」(と仮想し)それに「対峙しよう」とする時に用いる、日本文化矜持(の為の個体維持)用言語的保護用具である。

 

■「和魂洋才」の再構築

 

中国や韓国との異文化コミュニケーションが中心であった徳川時代までの日本では 『和魂漢才』。欧米との異文化コミュニケーションが重要な課題となった明治維新以降の日本では、自覚する・しないに関わらず『和魂洋才』的に生活し活動してきました。

■1 『和魂洋才』とは何か?

「 和魂洋才(わこんようさい)とは、日本古来の精神世界を大切にしつつ西洋の技術を受け入れ、両者を調和させ発展させていくという意味の言葉である 」 と書かれています。なお、『和魂洋才』以前の時代の『和魂漢才』については、現在のWikipediaには項目がありませんでした。

『和魂漢才』を新村出編「広辞苑」岩波書店第2版で調べました。

「 【和魂漢才】[菅家遺誡] わが国固有の精神と中国の学問と。また、この両者を融合すること。日本固有の精神を以って中国から伝来した学問を活用することの重要性を強調していう 」と書かれていました。

なお、[菅家遺誡]とあるのは、和魂漢才という言葉の出典が平安時代の学者・漢詩人・政治家で、現在では学問の神様として著名な菅原道真(845-903)が後人のために残した訓戒を記した書籍に出ているという表示です。

しかし、筆者が知る限りでは和魂漢才という熟語を菅原公が直接書いて残したものではないようです。例えば、『菅原道真の実像』の著者(所功)は、次のように言っています。

「和魂漢才」という熟語は、学徳を表わす彼自身の言葉として、幕末ころから全国に広まった。しかし大正時代、加藤仁平氏が明らかにされたごとく、この熟語を、室町時代成立の『菅家遺誡』を解説する文中に記したのは谷川士清であり、しかも道真の言葉として使ったのは平田篤胤であるから、江戸中期以前にはさかのぼりえない。

とはいえ、つとに紫式部が『源氏物語』の中で「才(ざえ)を本としてこそ大和魂の世に用ぬらるゝ方も強うはべらめ」という意味に即して考えれば、外来の儒教・漢詩文に精通し、その『漢才』を活用しながら宮廷社会の現実に柔軟に対応する見識『大和魂』を発揮した人物こそ、実は道真なのである。従って、道真を『和魂漢才』の人と称えることは、十分意味があるといえよう

菅原道真に続いて、紫式部(979頃-1016頃)が女性としての美意識と鋭い感性によって宮廷における『和魂漢才』の重要性を意識していたことは、今日の私たちにとって大変興味深いことであるといえます。

さて、それでは『和魂洋才』を実践した明治時代を代表する人物は誰なのでしょうか?そのことについて書いた書籍(論文)が筆者の手元にあります。比較文学・比較文化学者で東大名誉教授の平川祐弘著:『和魂洋才の系譜~内と外からの明治日本』、河出書房新社(1987)です。この本の中では森鴎外(1867-1916)が高く評価されていました。余談ですが、同書は昨年9月、10月に文庫本の形式で平凡社から上・下一組の復刻版が発売されていました。

筆者自身が、明治における『和魂洋才』のリーダー的存在を独断と偏見で選ぶとすれば、文学者では夏目漱石(1867-1912)、科学者では野口英世(1876-1928)、学者・実業家では福沢諭吉(1835-1901)など多士済々であった、と思っています。

■2 『和魂洋才』と時代の変化

日本国内にあっては、明治から大正、昭和、敗戦、戦後復興から経済大国そして高度情報化の平成へ。この時代、マクロに見て世界的に大きく、しかも急速に変わったのは、自然科学と工学技術そしてグローバルな経済であることは誰も異存はないでしょう。

21世紀は、さらなる高度情報化とグローバル化の時代で、異文化コミュニケーションが極めて重要なことは、日本人の誰しもが感じていることではないでしょうか。そして『より美しい自己実現』との関係で言えば、『和魂洋才』は一部のリーダーだけの問題ではなく、日本国民全員の問題なのです。

明治時代のように海外旅行や海外留学が一部のエリートだけの特権であった時代は、すっかり過去のものとなってしまいました。そしてグローバルな高速インターネット網が世界中に張り巡らされ、誰でもが、いつでも、どことでも、特別な地域を除いては自由にコミュニケーションできる時代が来ています。さらに、個人を知的にサポートするGoogleやWikipediaなどのオープンな機能も急速に充実してきています。

私たち日本人は、『和魂洋才』を根底から見直し、それを再構築し、『より美しい自己実現』を目指す絶好の機会に今遭遇している、と筆者は確信しているのです。

■3 21世紀の『和魂』と『洋才』

自然科学における進化論の今日的な知見を基礎として言うならば、『和魂』とは日本文化の真髄であり、『洋才』とは日本以外の文化の見習うべきいろいろな良い点ということになります。

より具体的に言うならば、国や地域の文化で中核を担っているのは、それぞれの文化に特有な言語体系であるということができます。人間は進化の過程で言語を獲得して使い始めた大昔から、母語を使ってものごとを考えコミュニケーションし、行動してきたのです。

日本では近代に入って、自分たちの認識能力を『感性』と『理性』の二元モデルで把握するようになりました。一方、西欧ではギリシャ哲学以来の伝統文化のうえで『感性(英 語のSensibility)』と『悟性(ドイツ語のVerstand、英語のUnderstanding)』と『理性(ドイツ語のVernunft、英語のReason)』の三元モデルになっているのです。

日本語の『感性』と英語のSensibilityは、同じ感性といっても意味するものは違っています。Sensibilityを感覚と日本語に訳すことも少なくありません。このことは、先に 2.4節で述べた日本の感性工学会の英語名が[Japan Society of Kansei Engineering]となっていることにも表れています。

筆者は、この日本語の『感性』こそが文化的には『和魂』を代表するキーワードであると考えているのです。それは先に3節で述べた本居宣長の短歌[敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花]にも現れていますし、聖徳太子の十七条憲法にもよく現れています。

聖徳太子十七条憲法

一曰。以和為貴。無忤為宗。・・・・・(一にいわく、わをもってとうとしとす。さからうことなきをむねとす。・・・・・)

一、調和する事を貴い目標とし、道理に逆らわない事を主義としなさい。・・・・・

日本人の『感性』の特徴は、西欧文化のように神と人間と自然を峻別しない『神・人間・自然一体』の独自文化の美意識と調和の感覚にあるのだ、と筆者は考えています。これは個人的な価値観とは別次元の問題なのではないでしょうか。

何よりも日本語自体が感性的な言語であって、英語的な論理を持ち合わせていないのです。例えば、日頃私たちが会話している場合、私とあなた、私と他者を厳密に区別して 話しするようなことはありません。常に私なる主語が省略されているのです。英語ではありえないことです。これは善し悪しの問題ではないのです。

文化には優劣はありません。しかし、私たちは日本文化の特徴をしっかりと認識した上で、更に自らの文化的特長を伸ばすと共に、足らざる点は他国の文化の長所に学べばよ いだけの話です。例えば、6節で述べた「適切な自己中心性」の適切の判断も日本人の場合は、自己の『感性』で決定することになるのではないでしょうか。

■4 日本人の『感性』と『理性』

ここで私たちの『感性』と『理性』の二元的思考モデルに関連して、先に4節で述べた美学の源流を創ったことでも有名な、近代哲学の祖の一人であるカントの三元的な思考モデルを見ておくことにしたいと思います。

カントの思考モデルの要素は、感性と悟性、理性そして判断力です。さらに、判断力は規定的判断力と反省的判断力で構成されます。

私たちが風景や絵画や音楽などに接したとき、時間と空間という形式を持つ直感能力で情報(感覚的知覚:印象)を捉えます。これがカントの言う『感性』です。次に、いろいろな感覚的知覚を分類・整理してイメージを構築します。このような論理的能力を『悟性』と呼んでいます。

カントは判断力を、悟性と理性を総合する媒介であるとしていますが、判断力には二つあって第一のものは規定的判断力と呼んでいるものです。特殊なものを普遍的なものに含まれたものとして考える能力のことで、一般的判断力と考えられるものです。

もう一つが、美意識にも関係するカントが言うところの反省的判断力です。ここで言う反省とは、与えられた事象をさまざまな認識能力を使いその本質を知ろうとする心の状態のことです。従って、反省的判断力とは特殊なものの中に普遍的なコンセプトを見出す判断力ということになります。

このような考え方では、美的判断は単に個人的な判断だということではなく、ある種の普遍性を持つということになります。そして、美的創造力は多様なものの調和的統合の理念を呼び起こす力があるとされるのです。これがカント美学の原点なのではないでしょうか。

一方、カントの場合の『理性』は、理性が真理を明らかにすることが可能か?との問いかけで「理性批判」を展開し、理性の有効性と限界を明らかにしました。詳しいことは省略しますが、「純粋(理論)理性」と感性的な世界を超越した「実践(道徳)理性」とに分けて説明しています。

現在の日本語の国語辞典で『感性』とは、「外からの刺激を心で感じとる能力」であり、『理性』とは「ものごとを論理的に考え、正しく判断する能力」であると説明してあります。また、『悟性』は「経験にもとづいて合理的に思考し、判断する心のはたらき」、と出ています。

従って日本人が言う『感性』とは、カントが言う『悟性』の一部を含み、『理性』とはカントが言う『悟性』の一部と「理論理性」、そして八百万の神的道徳律を含んだものなのではないでしょうか。

いずれにしても、4節でも述べたイマヌエル・カント(1724年4月~1804年2月)と前節で紹介した国文学者の本居宣長とは、くしくも生きた時代が全く重なっています[本居宣長(1730年4月=享保15年5月~1801年11月=享和元年9月)]。

今や私たちの身の回りは、すっかり人工環境に囲まれてしまっています。私たちが日本文化の大和心を呼び覚まし、自らの『感性』を磨くためには自然とのふれあいを増し、自然の中に『美』の本質を見出すように心がけるべきではないでしょうか。

そして同時に、日本文化の『理性』は西欧文化の『理性』と比較してかなりあいまいである、と私たちは自覚する必要があります。足らざる自覚の上に立って、他文化の優れた点に学べばよいのです。

私の偏見かもしれませんが、論理的思考法を熟知しているはずの高学歴な若者たちの論理的コミュニケーション能力が、一向に改善されないどころか低下しているのではないかと感じる場面が多くなっています。いろいろな場面での他者との協働の実をあげるためには、『論理的コミュニケーション』のマナーが不可欠です。

■5 『論理的コミュニケーション』とは何か?

誤解を恐れずに言えば、英語的コミュニケーションのマナーのことです。相手とのコミュニケーションに際して、自己の主張と主張を裏付けるデータとそのデータの信頼性保証(根拠)をワンセットとして相手に伝えることです。そして、その主張のワンセットを受け取った相手は、そのデータと根拠が了承できるものであれば主張は共有され、そのテーマに関してのコミュニケーションは完結します。

しかし、提示されたデータや根拠に疑問があれば議論は継続されます。この場合にあっても、最初の主張は主張として尊重されるのが原則です。人間は互いに自律した存在で、それぞれの人格が尊重されるべき協働にあっては、反対の意見であっても、それを尊重することで新たな創造が生まれるからです。

日本のコミュニケーション様式に対して、従来からも「あいまい」であるとか「腹芸的」などと指摘されてきたことと同一平面上の問題なのですが、自己主張のすれ違いではなく、それぞれの自己主張を共有し、さらに精緻化していくためには『論理的コミュニケーション』のマナーが不可欠なのです。

聞きっ放し、言い放し、沈黙は金、さらに自己主張の感情的なぶつけ合いでは全く建設的ではありません。昨年の夏ごろでしたが、筆者はある書店で平積みされている本の山の中から日本語の特徴と英語の特長を比較した一般向けの易しい解説書を見つけ出し、一定部数を購入して関係者に配布したことを思い出しました。