宗像占部の祖は?
http://urabe-roots.net/urabegenryu.htm 【宗像占部の祖は?】 より
宗像の占部氏の祖は占部兼安である。その祖をたどるに桓武平氏より出た臼井氏で、元の名は臼井六郎常有といった。戦に敗れて宗像に逃れ大宮司宗像氏国を頼る。氏国は空いていた旧臣占部の戸籍に入れて、占部兼安と名乗らせた。
兼安が継いだ氏国の旧臣占部氏とは、初代宗像大宮司清氏が京より下向された時にお供して来た四人のうち(卜部)占部尹安という人を祖とする氏族である。この氏族は、他の三人の子孫とともに「四任(しとう)の家」といわれ、代々宗像家に仕えた。兼安が継いだときすでに姓は「占」の字を使っていたが、下向当初は「卜」部の方であったと思われる。
知っての通り卜部とは亀卜(亀甲を焼くことで現れる亀裂の形(卜兆)により吉凶を占うこと)を職とする神祇官(しんぎかん)である。兼安の兼の字は神祇官卜部氏の本流が用いていた通し名を意識したものであろうか。
坂東平氏の子にはおおよそ似合わぬ家を継ぐこととなった。その後にくる戦国の世は、大宮司さえも戦に引き込んだ時代である。戦乱の世に兼安の子孫は名を残し、一族の系図が遺された。たが、占部氏族全体からみれば、それもある特別な時期の、極一部のできごとにすぎない。宗像大社に仕える神職としての姿が本来のものである。そして、神祇官としての本分は太古の歴史にまでつながる長い長い伝統があるのだ。
清氏の下向
宗像氏の歴史は古い。古族としての宗像氏は別に扱う必要があるだろう。宗像大宮司の系図は初代を清氏とし、古代から続く宗像族の足跡はここで途切れ、新たに宗像大社の大宮司家としての宗像氏の歴史が始まった。
清氏は、宇多天皇(867-931)の末子という。一系譜には、桓武天皇の子で太政大臣であった清廣という人の猶子となり源姓を賜わったとある。源清氏が京より下向したのは延喜14年(914年)醍醐天皇の時であった。
「宗像記追考」によれば、光仁天皇天応元年(781年)造営の時以来、130年間は田島(宗像大社)の祭礼には勅使を下されていたが、この時から清氏に祭礼の事を任せられ、勅使の下向は差し止められたという。源清氏は筑前国司として下向すると同時に、宗像姓に改め宗像三社の大宮司も補任した。
国司=大宮司という構図は、宗像という地域が宗像三女神への信仰と切り離しては治めることができない特殊性を表している。神職としては素人の清氏であるから、卜部などの神祇官を伴って下向したのも当然であろう。
卜部尹安とは誰か?
醍醐天皇の治世は律令制の立て直しが図られた時代である。延喜5年(905年)、天皇は藤原時平に延喜式(えんぎしき:律令の補完集)の編纂を命じた。
それより以前、7世紀半から律令国家としての形態が整えられるに従って、神祇官により神(神社)が組織化され、卜占の管理が成された。大宝律令に続く「養老職員令」によれば、中央に神祇官として卜部20人が配置されていたことがわかる。宝亀6年(775年)には卜部の中で技術の優れた者を長上(常勤)に任命することが定められた。「類聚三代格」巻4
延喜式が実際に施行されたのは967年になってからだが、1巻から10巻は神祇官関係の式となっており、9・10巻では延喜式神名帳としてそれまでの神名帳(全国の官社一覧)を再び整備している。 この延喜式3巻の「臨時祭」によれば、対馬より10名、壱岐から5名、伊豆から5名 の卜術に優れた者が神祇官として朝廷に登用されている。
素直に考えれば、卜部尹安とは、この20人の中の一人だったことになるだろうか。
骨卜と亀卜
動物の骨(鹿など)を焼き神意や吉凶を占う骨卜の信仰・習俗は、弥生時代に大陸から日本列島に伝わったと考えられ、弥生時代から奈良・平安時代までのト骨出土例は現在までに全国約60遺跡で報告されているという。
こうした卜占自体は全国各所に風習としてあったのだ。
しかし、神祇官の卜部は、ウミガメの甲羅を用いる亀卜(きぼく)の技術を持つ者の氏名(うじな)であった。その元をただせば、壱岐・対馬の国造(くにのみやつこ=古代の地方官豪族)である壱岐直(いきのあたい)・津島上県直(つしまかみあがたのあたい)・津島下県直(つしましもあがたのあたい)に源を発する氏族である。
亀卜は、5世紀後半、壱岐と対馬から中央に伝えられ、7世紀後半から始まった律令国家体制の浸透とともに、宮中・天皇祭祀と結びつくことで地方の骨卜とは分離されて特別なものとなった。
天皇と東宮・中宮ら聖家族の卜占に用いられ、中央の神祇官卜部は亀卜を独占的に扱うことでその位置を向上させたのである。
神祇官卜部氏のルーツ
古代日本の亀卜占の発祥の地は対馬とされている。中国では、すでに殷代に卜甲が多く用いられ、周代以降は卜甲を使う卜占法、亀卜が長く伝えられた。しかし、体系的な書がこれといって残されているわけでもない中で、その習得は極めて困難であった。その亀卜を大成させた人物こそ、雷大臣なのである。
一.雷大臣(いかずちのおおおみ)という人
太古の昔、神功皇后が新羅に兵を出した時、雷大臣がお供していった。(雷大臣は中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)と同一人物とされている)雷大臣の仕事は審神者(さにわ)である。神功皇后が受けたお告げ(ご神託)を判断する役だ。
現代でも霊能者と言われる人々に霊が降りて、何事かを告げる様子は度々目にするが、重要なのはその信憑性である。霊が己は何者だと自己紹介しても、それを鵜呑みにはできない。まして、古代においてご神託は国の重大事を決めるものであったから、降りてきた霊(神)の名前・格位・内容の真偽を見極めることが何より大切な仕事であったのだ。
神功皇后は巫女だったといわれるが、巫女と審神者はペアで働く。神功皇后が神がかった時、そばにいて受けるお告げを見極めるのだから、直観的感性に優れ、冷静沈着な判断力と知識が備わっていなければならない。
雷大臣は新羅遠征という重責を果たし、帰国途中で対馬に残った。朝鮮からの襲来に備えるためだったともいわれるが、韓と倭の入貢をつかさどり、祭祀を行い、その礼を教えたという。対馬の旧下県郡には今も雷神社・雷命神社・太祝詞神社など、雷大臣の居館跡とされる場所が残っている。
更に、雷大臣は亀卜術に天賦の才を発揮してそれを伝えた。それまで列島に伝わっていたのは動物の骨を使った卜占だったが、対馬では動物の骨よりむしろ亀の甲羅の方が手に入れやすかったからだろう。
亀卜(きぼく)とは亀の甲羅にヒビを入れ、そのヒビの様相から占う。亀を捕まえてきて焼ばしを立てればいいという残酷だが簡単な方法を想像したが、全く違っていた。うまく結果を得るためには、甲羅をそれなりに加工する必要がある。独特な下処理と加工の工程があるのだ。
又、加工途中で割れにくいものを選ぶなど、亀の種類や甲羅の特徴を熟知しなければならない。道具が整っても、その先それを用いてうまくヒビを入れるための方法や、それを読み取る技術など、神意を正しく知るためには、数々の奥義があるようだ。
雷大臣が亀卜に長じ、卜部姓を賜ったという記載を時折見かけるが、中臣や大臣を名乗った人物が卜部を賜るというのは格から言って少々疑問が残る。実際は代が移ってからのことだろう。
雷大臣は、百済に使いしたとき、土地の女を娶り一男をもうけたという。中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)或いは、『続日本紀』の伊賀都臣と同一人物で、中臣氏の先祖とされている。又、『新撰亀相記』には天児屋命(あめのこやねのみこと)の12世の孫であり、東国にある卜部の姓は、皆この後裔であるとの内容が書かれている。中臣氏と卜部氏の関係については諸説ある所だが、《津速産霊尊裔氏族綱要》の系図が流れを知るのにわかりやすい。
( webサイト・日本の苗字七千傑>姓氏類別大観>中臣氏/大中臣氏>)
注)別ウィンドウでひらきます
二.対馬・壱岐から中央へ
一方、雷大臣の子、真根子は壱岐島に留まり卜部を名乗ったといわれている。壱岐(壱伎)氏は、その末裔という。
日本書紀には、顕宗天皇(けんぞうてんのう)の時(450-487)、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が任那に使いをした。そのとき月神が降りて、月神に民地を奉るようにとの託宣を受け、山背国葛野郡(かづのこほり)歌荒樔田(うたあらすだ)を奉った。又この時に、壱伎県主が奉斎していた月神を山背国葛野郡(かづのこほり)に移し、押見宿祢(おしみのすくね)に祭祀させたとある。歌荒樔田(うたあらすだ)の月読神社は葛野坐月読神社の根源であるという。(月読神社=京都府京都市西京区:歌荒樔田の比定地は諸説あるが、水害を避けて松尾山麓に遷座され現在に至るという。今は松尾大社の摂社となっている。)月神は天月神命(あめのつきがみのみこと)のことで、壱岐には月読神社があるが、現在の箱崎八幡神社(壱岐)がそれに当たるとする説もある。
押見宿祢(忍見宿祢)は雷大臣命・真根子(まねこ)親子の後孫である。つまり、押見宿祢(忍見宿祢)の時に壱岐から山背に移ってきたのである。押見宿祢より代々卜部を名乗り月読神社の神職を務めた。
又、同じ頃顕宗天皇の時(450-487)に、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に日神が降り、その神託に従って日神の祖・高皇産霊(たかむすび)に大和の磐余(いわれ)の田を奉り、対馬下県直が祠に仕えたという。大和の磐余(いわれ)は、現在の奈良県橿原市で、目原坐高御魂神社(めはらにいますたかみむすびじんじゃ)に比定する説と、月神と同じ山背国葛野郡の木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)にあてる説があるという。日神とは天日神命(あまひのかみのみこと)のことで、対馬島下県郡阿麻氏留(あまてる/氏の下に_ )神社に祀られている。又、日神の祖とされる高皇産霊(たかむすび)は対馬島下県郡高御魂神社(対馬市厳原町豆酘・現在は多久頭魂神社の境内に鎮座する)が元という。
祠に仕えた対馬下県直というのは小枚宿祢という人物である。壱岐と対馬から同時期に進出した卜部は、中央に亀卜を広めて神祇官卜部としての地位を確立したと言われている。ただ、壱岐の卜部は神祇官としては勿論、月読宮長官を代々勤め、松尾社などにも関係して興隆し、中央にその足跡をはっきりと残しているのに対し、対馬卜部の人々は対馬県直が祀ったという社とともにいつしか消え、その足跡が残らない。中臣氏の中に吸収されてしまったと言われる。
<真根子の悲劇>
竹内宿祢(たけうちのすくね)という有名な人物がいる。天皇5代に仕えた恐ろしく長寿な人物である。実際は、同じ名称の何人かではないかとも言われている謎のヒーローである。特に仲哀天皇・神功皇后を補佐して北部九州に出陣して功績があったために北部九州にはその足跡が多く残されている。異母弟の讒言によって応神天皇に殺されそうになったが、後日無実を証明した。この時、その容貌が似ていたということで竹内宿祢の身代わりとなって死んだのが真根子である。真根子の母親が武内宿祢の妹であるという説が本当ならばありうることだ。自ら命を差し出したか、誤って殺されたかの違いはあってもその死に関して多くの伝承が残っている。
<真根子の関係する神社>
壱岐神社:福岡市西区下山門 黒田藩主によって創建された
伏尺神社:佐賀県武雄市若木町 真根子の死体があまりにも重くて運びきれずに葬ったとされる
織幡神社:宗像市鐘崎 宮司が真根子の子孫とされる
高良大社:久留米市御井町高良山 ご祭神は高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)であるが、その裏を探れば何やら興味深い事実が現れる。高良山にはもともと高木神(=高皇産霊)が鎮座していたが、高良玉垂命に一夜の宿を貸したところ取られてしまったというのである。結果現在は近くの高樹神社に遷座されている。高良大社の奥の院は、古くは「高良廟」「御神廟」と言われ、高良の神である武内宿祢の葬所と伝えられていたらしい。大社のご祭神は竹内宿祢だとする説や月神とする説‥等今だ定まらない。ここには高良御子神社と真根子神社の境内社が並んで鎮座している。 壱岐直の祖高皇産霊、高皇産霊を祖とした月神、それに竹内宿祢と真根子など、関係者総出である。
驚くべき結論
宗像清氏とともに下向した卜部が、神祇官の内の一人だとして、対馬系か壱岐系かその痕跡をたどろうと悪戦苦闘しているとき 『古樹紀之房間』というwebページに行き当たった。
その中の「姓氏氏族概観試論>中臣氏族概観」の中に、対馬のト部が筑前国宗像社家の占部であるとの記述を見つけた。 管理者にその出所を訪ねたところ、ありがたいことにすぐにお返事をいただいた。
宝賀会長編著の『古代氏族系図集成』という本をご紹介いただいた。その中巻の中臣氏族と宗像君の頁を見ればわかるという。更に、
「占部が宗像郡に来たのは貞観5年に真岡が同郡主政という郡司職についてからで、真岡の孫の安用が宗像社祝部になったと伝えていること。そして、これは時期的に10世紀前半頃とみられ宗像清氏の頃にあたる」
等の情報を頂いた。更に
「源清氏が京より下向」というのは虚構であって、「卜部尹安」なる者が、信頼できそうな系図には見えないこと。 又、「平氏流臼井六郎常有を祖とする占部」ということにも疑問を感じておられること。従って 「宗像の占部氏は古代から1系」
との結論を助言いただいた。
これは実に衝撃的な出来事であった。
確かに源清氏の話が創作されたものであるとの噂は耳にしたことがあった。 又、卜部尹安が果たして正確な名前かどうかも自信はない。 しかし、よくよく冷静に思い起こしてみれば、臼井六郎常有という人物が実在したことは事実だと思った。
何故なら、全く別のルートで残されたと 思われる臼井氏の系図にも常有とその兄弟の名前が登場し、常有の長兄の妻と子が叔父の常有と図って千葉家を頼ったことが記載されているからだ。 (臼井氏項参照)
又、千葉家筋の系図にも、臼井常安の子として、三人の兄弟の名が残っている。勿論これは昔の系図にありがちな、天地さかさまになった名前であるが、 同人物が存在したと考えた方がいいだろう。
少なくとも、長年信じていた事実が全て崩れてなくなることだけはなさそうだ。後は、教えて頂いた文献を見るだけである。 文献は福岡県立図書館にあった。占部氏系図その2に掲載したのでご覧いただきたい。系図総覧へ(別ウィンドウ)
系図より読取れること
この系図を見る限り、著者は占部家系伝にある臼井六郎の話を史実としてある程度認めているようである。胸をなでおろした。
次には宗像に主政としてきたという眞岡の名と孫の安用の名を発見する。ウィキペディアによれば、701年(大宝元年)に編纂された大宝令により、郡司として大領・少領・主政・主帳の四等官に整備されたそうだ。郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)は、律令制下において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官で、その地の有力豪族が務めた。普通、近親者の連任は許されていなかったが、一時期、宗像は神郡として特別に それが許されていた。宗像神社の祭祀や信仰が関わっている地域なだけに誰でもいいというわけにはいかなかったのだろう。
眞岡という人は貞観5年(863年)4月に主政に任じられた。外従七位上という。後にも先にもこの系図の中で官位とみられるものはこの記録しかない。源清氏とともに下向した四人が官位を得たというのは、この辺の話が交錯しているのではないか。又、四任(しとう)と呼ばれたというが、四等官のことではなかったのか。清氏が国司として下向したとするのは延喜14年(914年)であるから、年号的にはやはり孫の安用の時くらいだろうか。安用は宗像神社の祝部であった。下向の話は、宗像氏についてもう少し調べなければ真偽のほどは結論付けられない。
占部家の系図
下にもう一度、占部家の系図冒頭にあった記述を挙げておこう。これは、桓武平氏系の占部六郎兼安の子孫の家に伝わる系図冒頭の文章である。
占部氏系伝記
占部氏は元 天兒屋根命(あめのこやねのみこと)12代の孫雷大臣命(いかつおおみのみこと) 始めて仲哀天皇の御時卜部姓を賜ふ。雷大臣命から6代の孫常磐大連(ときわのおおむらじ)卜部姓を改めて中臣姓とす。 常磐大連の曽大職冠鎌足(たいしょかんかまたり)其の従弟(いとこ)右大臣清丸をして神道中臣姓を継がしめ 其の身は藤原姓となる。清丸 は意美丸の子なり。清丸の曽孫平丸 大中臣(おおなかとみ)を改め、又卜部となる。爾来(=以来)世々詞部を掌(つかさど)り、今山城国吉田を以って正嫡とす。又同国松尾筑前国胸肩大神に従ひまつるあり。 然れども今、我が占部家においては平姓を用ふ。系図記及び宗像大神の旧記等も又しかり。享保14年2月3日大災に罹(かか)り宝物什器(じゅうき)(=日常使用する器具・家具類等)殆ど灰埃に帰せしむ。
この記述は中臣氏の系図に準じている。もともと卜部と中臣は根を同じくしているので当然と言えば当然であるが、中臣鎌足が藤原氏の初代となり、藤原氏が権力を握った為に、系図は改竄工作され真実は歪められてしまった。
途中登場する平丸というのは9世紀中頃の卜部平麻呂のことで、伊豆卜部の流れとされる。伊豆卜部は壱岐・対馬とともに優秀者を神祇官として中央に輩出した。平麻呂は幼少より亀卜を習得し、最後の派遣となった承和の遣唐使に参加して、大陸の卜占術を学んだ。
この人物の登場により神祇官卜部の位置が飛躍的に向上したのである。
ただ、この人物、実はその出生が明らかではなく、系図は偽作とされている。神祇官の選出地にであった対馬と壱岐の卜部については述べたが、伊豆の卜部については別項で扱わなければならないだろう。
卜部平麿(平麻呂とも)の後裔は天皇の宮主(みやじ:宮中の神事を司る職員)を歴任し、中央において「亀卜道宗家」としての位置を築く。又、吉田社と平野社の社預となって後吉田流と平野流に分かれて興隆した。室町時代に至り、有名な卜部神道(吉田神道)を大成し、日本の思想界に大きな影響を残した。宗像の占部とは随分昔の分かれだが、占部を名乗る者としては、対馬神道・吉田(卜部)神道なるものを少しはのぞいてみたいのだ。