大和魂 ⑦
http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より
神話
日本に伝わる神話。古事記、日本書紀などに記されている。
■八雲立つ
○ やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを
八雲立つ 出雲八重垣 妻蘢みに 八重垣作る その八重垣を
夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁 --速須佐之男命( スサノオノミコト)、『古事記』
○ やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきゑ
夜句茂多菟伊弩毛夜覇餓岐菟磨語昧爾夜覇餓枳都倶盧贈廼夜覇餓岐廻 --素盞嗚尊、『日本書紀』
日本初の和歌とされる。
■久米歌
○ おさかの おほむろやに ひとさはに きいりをり ひとさはに いりをりとも みつみつし くめのこが くぶつつい いしつついもち うちてしやまむ みつみつし くめのこらが くぶつつい いしつついもち いまうたばよらし
忍坂の 大室屋に 人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも みつみつし 久米の子が 頭椎 石椎もち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子等が 頭椎 石椎もち 今撃たば宜し
(忍坂の大きな室屋に、人が多く来て入っている。人が多く入っていても、久米部の者が、頭椎や石椎(の大刀)でもって、撃ってしまうぞ。久米部の者たちが、頭椎や石椎(の大刀)でもって、今撃てば良いぞ)
意佐賀能 意富牟廬夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母 美都美都斯 久米能古賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 宇知弖斯夜麻牟 美都美都斯 久米能古良賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 伊麻宇多婆余良斯 -- 『古事記』
○ みつみつし くめのこらが あはふには かみらひともと そねがもと そねめつなぎて うちてしやまむ
みつみつし 久米の子等が 粟生には 臭韮一本 そねが本 そね芽繋ぎて 撃ちてし止まむ
(久米部の者たちの粟畑には 臭いニラが一本生えている。それの根から芽まで繋いで抜き取ってしまうように、(敵を一繋ぎにして)撃ってしまうぞ)
美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟 -- 『古事記』
○ みつみつし くめのこらが かきもとに うゑしはじかみ くちひひく われはわすれじ うちてしやまむ
みつみつし 久米の子等が 垣下に 植ゑし椒 口ひひく 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ
(久米部の者たちが垣の下に植えた山椒は(食べると)口がひりひりする。私は(敵から受けた攻撃の痛手を今も)忘れない。撃ってしまうぞ)
美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 久知比比久 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟 -- 『古事記』
○ かむかぜの いせのうみの おひしに はひもとほろふ しただみの いはひもとほり うちてしやまむ
神風の 伊勢の海の 生石に 這ひ廻ろふ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ
(伊勢の海の生い立つ石に這い廻っている細螺のように、(敵の周りを)這い回って撃ってしまうぞ)
加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美能 伊波比母登富理 宇知弖志夜麻牟 -- 『古事記』
■国偲び歌
○ やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまこもれる やまとしうるはし
倭は 國のまほろば たたなづく 青垣 山隱れる 倭しうるはし
(大和の国は国々の中で最も優れた国だ。重なり合って青々とした垣のように国を囲む山々。(その山々に囲まれた)大和は美しい)
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯 -- 倭建命『古事記』景行記
夜麻苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜麻許莽例屡 夜麻苔之于屡破試 -- 大足彦忍代別天皇(景行天皇)『日本書紀』景行記
○ いのちの またけむひとは たたみこも へぐりのやまの くまかしがはを うずにさせ そのこ
命の 全けむ人は 疊薦 平群の山の 熊白檮が葉を うずに挿せ その子
(命の完全な人は、平群の山の熊樫の葉を髪に挿せ(挿して、命を謳歌せよ)、その人々よ)
伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古 -- 倭建命『古事記』景行記
異能知能 摩曾祁務比苔破 多々瀰許莽 幣愚利能夜摩能 志邏伽之餓延塢 于受珥左勢 許能固 -- 大足彦忍代別天皇(景行天皇)『日本書紀』景行記
○ はしけやし わぎへのかたよ くもゐたちくも
愛しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も
(ああ。懐かしい我が家の方から、雲がわき上がってくることよ)
波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母 -- 倭建命『古事記』景行記
波辭枳豫辭 和藝幣能伽多由 區毛位多知區暮 -- 大足彦忍代別天皇(景行天皇)『日本書紀』景行記
○ をとめの とのこべに わがおきし つるぎのたち そのたちはや
嬢子の 床の辺に 我が置きし 劔の大刀 その大刀はや
(少女(妻の美夜受比賣)の床の側に、私が置いてきた大刀。ああ、その大刀よ)
袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯 都流岐能多知 曾能多知波夜 -- 倭建命『古事記』景行記
『古事記』では倭建命の辞世。『日本書記』では景行天皇が日向で詠んだ歌。
■夜麻登登母母曾毘売命
■夜麻登登母母曾毘売命 (やまとととびももそひめのみこと)
三輪山のオオモノヌシ神と神婚する女神
概要この女神は第七代、考霊天皇(こうれいてんのう)の娘で、神話では有名な箸墓伝説(箸墓は現在の奈良県桜井市箸中にある前方後円墳で、ヤマトとトヒモモソヒメ神が箸で陰部を箸でついて死んだのちにここに葬られ、当時の人々が箸墓と呼んだ)の主人公で、三輪山の主であるオオモノヌシ神と神婚した。
一般的に古墳の規模は、葬られた人の生きていた時の社会的地位を表している。その意味で、立派な箸墓古墳に葬られたモモヒメは大きな力を持っていたとされる。日本書紀の記述には大変聡明で叡智に長け、霊能力が優れていたといい、第十代、崇神天皇(すじんてんのう)の支配力を背後で支えているような存在だったことがうかがえる。
預言者的巫女という夜麻登登母母曾毘売命(やまとととびももそひめのみこと)の姿は、国の政治を左右する力を発揮した卑弥呼や神功天皇といった女性の姿を連想させる。
別名・別称 / 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと、まとととびももそひめのみこと)等
神格 / 預言者的巫女
性別 / 女神
神徳 / 諸願成就、家内安全、厄除け、延命長寿など
備考 / 神社には弟神のキビツヒコと一緒に祭られている
神社 / 田村神社(香川県高松市)・吉備津神社(岡山市吉備津)
■倭迹々日百襲比賣命 (やまとととひももそひめのみこと)
別名
夜麻登登母々曾毘売命 やまととももそひめのみこと
大倭迹々日百襲比賣命: おおやまとととひももそひめのみこと
百襲比賣命 ももそひめ
倭迹々姫 やまとととひめ
……
○ 第七代天皇・孝霊天皇の皇女。『古事記』では、母は意富夜麻登玖邇阿礼比売命。 兄弟姉妹は日子刺肩別命、比古伊佐勢理毘古命(大吉備津日子命)、倭飛羽矢若屋比売。
『日本書紀』では、母は倭国香媛。 弟妹は彦五十狭芹彦命、倭迹迹稚屋姫命。
○ 『日本書紀』の孝元天皇(『古事記』では夜麻登登母々曾毘売命の異母兄)の皇女、倭迹々姫と同一人物とする説もあり、 その場合、母は欝色謎命。兄は大彦命、稚日本根子彦大日々天皇(のちの第九代天皇・開化天皇)。
○ 『日本書紀』によると、 崇神天皇の時、四道将軍派遣の際の少女の歌の予兆を解して、武埴安彦の謀反を崇神天皇に告げた。
○ また、神懸りして大物主神の神託を告げ、後に大物主神の妻となった。 だが大物主神は昼は現れず夜だけやって来た。 そこで倭迹々日百襲比賣命は、朝まで居て欲しいと懇願したところ、 大物主神は「あしたの朝は櫛箱に入っていよう」と告げた。 翌朝、櫛箱を見ると小蛇が入っており驚いて叫んだため、大物主神は恥じて人の形となり、 「今度は私がお前を辱しめよう」といい、御諸山に登られた。 姫は悔いて座り込んだ時、陰部を箸で撞いて死んでしまい、箸墓に葬られた。
○ 倭迹々日百襲比賣命 を祀る神社
水主神社 香川県東かがわ市 / 田村神社 香川県高松市 / 神御前神社 奈良県桜井市 / 吉備津神社 岡山県岡山市 / 岡山神社 岡山県岡山市 / 吉備津彦神社 および境内 下宮 岡山県岡山市 / 二宮神社 境内 太郎社 静岡県湖西市 ……
■まほろば (真秀呂馬)
古事記に、倭建命(ヤマトタケルノミコト)が詠んだとされる望郷の歌の一節に「まほろば」という言葉が登場します。
夜麻登波 / やまとは
久爾能麻本呂婆 / くにのまほろば
多多那豆久 / たたなづく
阿袁加岐 / あをかき
このあとは、
夜麻碁母禮流 / やまごもれる
夜麻登志宇流波斯 / やまとしうるはし
と続きます。
古事記では、遠征に出た倭建命が故郷の倭(やまと)を想って「大和は国々の中でも格別に優れた美しい国だ。幾重にも連なった青々と茂る山々、その山々に囲まれた大和こそ本当に麗しい国だ。」と望郷の念を詠ったとされています。
日本書紀ではまた少し違った表記で景行天皇の詠んだ歌として紹介されたりしていて、歴史家のみなさんの間では色々と議論があるそうです。現代人の我々としては、とりあえずそのあたりのことは置いておき、純粋に日本の美しさを賛美した歌として心に留めておけばいいんじゃないでしょうか。
まほろばをけがすようなことをすると怒られますよね、いにしえの神々に。
■「記紀」に登場する女性
『勘注系図』には膨大な人名が記される。その中に『日本書紀』などが伝える天皇系譜と密接に関わる人物名を見る。中で私が特に注目する女性がある。
その第一は、七代孝霊天皇の妃となった、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おおやまとくにあれひめのみこと)である。意富夜麻登玖邇阿禮比賣命は亦の名を倭国 香媛(やまとのくにかひめ)といい、今日邪馬台国畿内説の多くの論者が、卑弥呼ではないかとする倭迹迹日百襲姫の母親である。
この意富夜麻登玖邇阿禮比賣命という女性が、『勘注系図』にも登場する。七世孫建諸隅の妹である。表記は大倭久邇阿禮姫命である。
『記紀』伝承では、倭国香媛または意富夜麻登玖邇阿禮比賣命は、亦の名を蝿伊呂泥(はえいろね)とする。蝿伊呂泥は三代安寧天皇の曾孫に当たる人物で、海部氏や尾張氏とは関係ない人物である。
しかし『勘注系図』には九世孫日女命の別名として倭迹迹日百襲姫という名前も見る。倭迹迹日百襲姫やその母親大倭久邇阿禮姫命が尾張氏あるいは海部氏と何らかの関係があると考える。
二人目は竹野姫命という女性である。
開化の妃になった竹野媛という女性がある。『日本書紀』では丹波の竹野媛とするだけであるが、『古事記』ではその父親を丹波の大県主由碁理(おおあがたぬしゆごり)とする。
『勘注系図』ではこの由碁理を七世孫建諸隅とする。その子供に天豊姫命という女性がある。亦の名を竹野姫命とも云う。すなわちこの女性が九代開化の妃になった竹野媛なのである。
三人目は豊鋤入姫命である。
崇神の妃になった女性がある。『日本書紀』では、一書に云うという別伝であるが、大海宿禰の娘、八坂振天某辺(やさかふるあまいろへ)という女性がある。こ の女性と崇神の間に生まれた子供が、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)で、天照大御神を祭る斎宮(さいぐう)となる。
この二人の女性が『勘注系図』にも登場する。前者は八坂振天伊呂邊、後者は豊鋤入姫命と表記される。
『勘注系図』では崇神の時代、この豊鋤入姫が、天照大神を戴(いただ)き大和国、笠縫(かさぬい)の里から、丹波の余社郡(よさのこおり)久志比之眞名井 原匏宮(くしひのまないはらよさのみや)に移ってきて天照大神と豊受大神(とようけおおかみ)を同殿に祀ったとする。そしてまた大和国伊豆加志本宮(やま とのくにいずかしもとみや)に遷ったとする。
これは天照大神が伊勢に祭られる前に、各地を渡り歩いたという伝承につながる。
四人目は日葉酢姫命である。
崇神の時代、各地に派遣された四人の将軍がある。四道将軍と呼ばれる人達である。
丹波に派遣されたのが、丹波道主王(たんばみちぬしのきみ)である。
この丹波道主と川上麻須(かわかみます)の娘、川上麻須郎女(かわかみますろめ)との間に生まれた子供が、日葉酢媛(ひはすひめ)である。
後に十一代垂仁天皇の妃となって十二代景行天皇を生んだとされる。この日葉酢媛や丹波道主の名前を『勘注系図』にも見る。
そして最後が宮酢姫命(みやずひめのみこと)である。
『日本書紀』では宮簀媛(みやずひめ)古事記では『美夜受比賣』と表記される。
十二代景行天皇の皇子で、熊襲をはじめ東国平定に活躍したとされる日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃となった女性である。
宮簀媛の父親は乎止余命と云われる人である。乎止余命が、現在の愛知県に移り、後の尾張氏となる。宮簀媛はその子供である。
このように『勘注系図』には『日本書紀』や『古事記』に、その名を見る女性が数多く登場する。しかもそれらの女性は天皇やその皇子と深く関わる。
またこのあたりは『本系図』が、意図的に削除する部分でもある。
これが史実であるとしても、天皇家との関係を作為した偽系図として、非難される可能性がある。それが『勘注系図』を「他見許さず」として、隠し続けなければならなかった理由の一つと考える。