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大和魂 ⑫

2018.05.22 07:34

http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より

■武士道 3

 

日本において共生した神道・仏教・儒教の三宗教は、武士道の中で合体を果たした。

武士道とは何か。

「日本に武士道あり」と世界に広く示した新渡戸稲造によれば、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華、それが武士道である。日本史の本棚の中に収められている古めかしい美徳につらなる、ひからびた標本の一つではない。それは今なお、私たちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きた対象である。それは手にふれる姿や形は持たないが、道徳的雰囲気の薫りを放ち、今も私たちを引きつけてやまない存在なのだ。

新渡戸稲造は、言うまでもなく名著『武士道』の著者である。明治三二年(一八九九年)に刊行された英文『武士道』が、その直後の日本のめざましい歴史的活躍を通して、いかに見事にその卓見を実証していったか、今では想像もできないほどのものだった。ことに、義和団の乱、日清戦争、日露戦争における正々堂々たる戦いぶりと、敗者への慈悲を通して。そして、自らの潔い死があった。

こうしたふるまいは、すべて、極東の未知の小国における、他のどこにもない「ブシドー」という生き方の極みのフォルムによるものであると知って、世界は熱狂したのである。

武士道とは封建制度の所産であるが、その母である封建制度よりも永く生き延びて、「人の道」をありようを照らし続けた。『資本論』を書いたカール・マルクスは、生きた封建制の社会的、政治的諸制度は当時の日本においてのみ見ることができるとして、読者にその研究の利点を呼びかけた。これにならって、新渡戸は、西洋の歴史および倫理の研究者が日本における武士道の研究にもっと意を払うことをすすめている。

日本に武士道があるように、ヨーロッパには騎士道がある。新渡戸が大まかに「武士道(シバルリー)」と表現した日本語は、その語源において「騎士道(ホースマンシップ)」よりももっと多くの意味合いを持っている。ブ・シ・ドウとは、その文字を見れば、武・士・道である。戦士たる高貴な人の、本来の職分のみならず、日常生活における規範をもそれは意味しているのである。新渡戸は、武士道とは一言でいえば「騎士道の規律」、武士階級の「高い身分に伴う義務(ノーブレス・オブリージュ)」であると、海外の人々に説明している。

新渡戸の『武士道』は、今日に至るまで多くの日本人に影響を与え、かつ世界中の人々に「武士道」のイメージを植え付けた。日露戦争後にポーツマス条約の仲介をしたアメリカ第二六代大統領セオドア・ルーズベルトは、この本に大きな感銘を受け、三〇冊も取り寄せたことで知られる。彼は、五人のわが子に一冊ずつ渡したという。さらに残りの二五冊は大臣や上下両院の議員などに分配し、「これを読め。日本武士道の高尚なる思想は、我々アメリカ人が学ぶべきことである」と言ったという。

しかし、一方で新渡戸『武士道』こそが、武士道概念を混乱させてきたという見方もある。新渡戸の語る武士道精神なるものが、武士の思想とは本質的に何の関係もないというのである。そういった批判は、『武士道』の日本版が刊行された直後に、すでに歴史学者の津田左右吉によってなされている。専門に研究する人々の間では、新渡戸の論が文献的にも歴史的にも武士の実態に根ざしていないというのが定説になっているという。

倫理学者の菅野覚明氏は、著書『武士道の逆襲』でこう述べている。

「新渡戸武士道は、明治国家体制を根拠として生まれた、近代思想である。それは、大日本帝国臣民を近代文明の担い手たらしめるために作為された、国民道徳思想の一つである」

そもそも、「武士道」という言葉が一般に広く知られるようになったのは、明治も半ばを過ぎた頃からであるという。特に、日清・日露という対外戦争と相前後して、軍人や言論界の中から、盛んに「武士道」の復興を叫ぶ議論が登場してくる。武士はすでになく、自らも武士でないにもかかわらず、自分たちの思想は武士道であると主張する者たちが、ひきも切らずに現れてくるのだ。いわゆる「明治武士道」である。

徳川幕府を倒して権力を握った明治政府の指導者たちは、自分たちの倒幕を正当化するため、意図的に江戸時代を「暗黒時代」と見る歴史教育を行った。そこでは、幕府の支配のもと、刀を指した武士だけが威張って暮らし、農民や町民は武力で脅され、抑圧されて暮らしてきたとされた。また、武士たちは「武士道」という時代錯誤の意地によって、些細なことで怒って刀を抜き、斬り合いをしたり、庶民を無礼射ちにした。さらに、切腹や仇討ちといった血なまぐさいことを、武士たちは日常的にやっていた。ところが明治維新によって、事態は一変した。士農工商の身分制度は廃止され、みな平等になった。また、武士から刀を取り上げ、切腹や仇討ちも禁止することによって、日本は大きく進歩したのである。

以上のようなイデオローグを明治政府は国民に与えたのである。しかし、真実は違う。徳川幕府は庶民を第一に考えた政治を行い、勝手に刀を抜いて刃傷沙汰を起こした武士は重い罰を受けたのだ。武士道が最も重んじる「義」にために吉良上野介を討ち、その名も「義士」と庶民から讃えられた四七人の赤穂浪士が切腹を命じられたのが好例である。

しかしその後、明治政府は一転して、武士道の復興を必要としたのである。明治六年(一八七三年)、徴兵令が布告され、国民が兵士となって日本の武力を担うことになった。

明治七年に佐賀の乱、明治一〇年に西南戦争が起こり、旧武士による反乱軍は「百姓兵」と嘲(あざけ)られた国家の軍隊に完敗した。戦闘のプロフェッナルとしての武士は名実ともに滅び去り、「軍人精神」と呼ばれるものが「武士道」に代わって登場し、新たに近代における戦闘者の思想を形づくることになるのである。その思想の基本を確立したのが、明治一五年に発布された「軍人勅諭」である。

だが明治の「軍人精神」には不安があった。

新政府の軍隊とは、つまるところ諸藩の連合軍である。連合であるからには一時的な雑軍にすぎず、情勢によって離合集散もありうるという不安があったのだ。事実、戊辰戦争の官軍は、西南戦争では二つに分裂して敵対したわけである。菅野氏は述べる。

「国家の軍隊を一つのものとみなす発想がないということは、それがいつ分裂しても不思議ではないという観念が行きわたっていることでもある。実際、肝心の新政府軍の軍人たち自身が、軍隊の分裂はありうることと考え、神経を尖らせていたのである。そうした不安が衝撃的な形で現実となったのが、明治十一年に起こった近衛砲兵隊の反乱事件(竹橋事件)である」

そして、国家の軍隊は、「天朝さまに御味方する」諸藩の連合軍すなわち「官軍」であってはならないという発想が生まれた。それは、天皇自身が「大元帥」として統率する帝国軍隊すなわち「皇軍」でなければならないのだ。国家の軍隊としての統制原理を一個の人格たる天皇に置いた瞬間、わが国初の近代的軍隊、「皇軍」が成立したのである。

新しい国家の軍隊の統制を支えるために、西周や山県有朋らはその精神原理として、かつての武士が持っていた「忠」に目をつけ、それを欲しがった。武士にとっての「忠」は、命に代えても貫くほどの強烈さを持っている。

城山に立てこもった西郷軍には、死をともにする「士心合一」があったが、それも武士ならではの「忠」の精神に支えられていた。しかし、武士の「忠」は私的主従関係としての御家意識と切り離せず、国家の軍隊のような一種の「メカニズム」の中では発動できない。

天皇に対する忠誠心を真実のものとするために、西周は「日本人」「民族」そして「大和心」というコンセプトを打ち出した。徳川や島津といった武士団、さらには武士という「階級」は、「日本人」という「民族」の中に含まれた一部であるとされる。武士の精神とみなされていた「武士道」もまた、民族全体の精神である「大和心」の一部とみなされるわけである。

もともと西は、「哲学」や「宗教」をはじめ数多くの海外概念を翻訳したコンセプトの天才であった。その彼が、武士道の「忠」に代わる、大和心の「忠」を示したとき、軍人精神の原理である『軍人勅諭』の基本的な枠組みはほぼ完成したと菅野氏は述べている。それはまた、武士の武士道に代わる、民族の武士道、すなわち「明治武士道」の誕生した瞬間でもあったのである。

それは、菅野氏によれば、戦闘することによって「私」が実現され、主君や共同体との結びつき、道徳も戦闘の中から生まれるという、武士という存在の根幹にかかわる部分を排除したものだ。いわば武士道の断片であり、残滓(ざんし)であるにすぎないが、明治以来今日に至るまで、人々が武士道の名で親しんできたのは、他でもないこの「明治武士道」だったのである。

典型的な明治武士道には、新渡戸稲造、内村鑑三、植村正久などのキリスト教徒によるものと、井上哲次郎のような国家主義者によるものがあるとされる。数の上では国家主義的なものが圧倒的に多い。この流れは昭和に至るまでの武士道思想を形づくってきたが、敗戦とともに忘れ去られた。逆に、少数派であった新渡戸『武士道』のみが今日まで生き残っているのである。

多くの研究者たちが指摘するように、欧米列強に伍する近代国家を創る目的を持った明治武士道の産物である新渡戸『武士道』が、武士の本当の実態を記していないとしても、やはり思想としての「武士道」を考察した名著であることに変わりはない。特に、武士道の起源に関する新渡戸の視点は鋭い。

平安時代中頃から鎌倉時代初頭に武士という新興階級が起こり、封建制が形成されていった。このような時代に、武士道もつくられていった。もともと「兵(つわもの)の道」「弓矢の道」「弓馬の道」などと呼ばれており、「武士道」という言葉が使われ始めるのは江戸時代の初頭である。それは、初めは戦闘の場における心がけを中心とする掟であったが、次第に神道、仏教、儒教と深く関わる形でつくられていったという。

ヨーロッパの騎士道がキリスト教から生まれたことと同じように、武士道も宗教によって育まれたのである。しかし、それは単一の宗教ではなく、神道、仏教、儒教の三宗教によるものであると新渡戸は言うのだ。この、武士道の中に神仏儒の三宗教が入り込んでいることを指敵したことこそ、新渡戸『武士道』の最大の功績ではないだろうか。かつて森鴎外はヨーロッパの地で「日本人の信仰する宗教は何か」と尋ねられたとき、「それは武士道である」と返答したという。鴎外もまた、武士道の正体が神仏儒の混淆宗教であることを見抜いていたのだ。

『武士道』の第二章では、日本の宗教と武士道との関わり合いが述べられている。まず仏教からである。新渡戸は述べる。

「仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした(奈良本辰也訳)」

仏教の中でも、武士は特に禅を学んだ。禅は、鎌倉時代の末期に栄西が宋から日本に伝えたものである。以来、室町、戦国、江戸、明治維新と、禅は武家社会に大きな影響を与えてきた。そして特定の禅僧と武士の間に師弟関係なるものができて、武士の軍略や治世、生き方を決定づけることになったのである。

代表的な例としては、源実朝と栄西、北条泰時と明恵、北条時頼と普寧・道元・聖一、北条時宗と無学祖元、楠正成と明極楚俊、足利尊氏と夢窓疎石、武田信玄と快川紹喜、上杉謙信と益翁宗謙、伊達政宗と東嶽、前田利家と大透などが挙げられる。江戸時代になると宮本武蔵や柳生但馬守と沢庵の関係が有名だが、武家社会は盤珪、鈴木正三、白隠、東嶺などにも多大な尊敬の念を示し、武士がこれらの禅僧を慕って教えを乞うた。さらに幕末から明治維新にかけては、西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟など回天の役割を果たした武士も禅を究めたとされる。

武士は禅僧から何を学んだのか。人には、「いったい何のために生きているのか」と、ふと感じるときがある。禅は、言葉でそれに答えることないが、内なる「智恵」を導き出してくれる。

現代の禅僧を代表する玄侑宗久氏は著書『禅的生活』で、たった今、私たちが息をしている瞬間こそ、すべての可能性を含んだ偉大なる瞬間であると述べている。日常の中でこそ「お悟り」で得られた「絶対的一者」が活かされなくてはならない。過去の自分はすべて今という瞬間に展かれている。そして未来に何の貸しもない。そのことを心底胎にすえて生きれば、いつどこで死んでもいいという覚悟になる。「人間、到る処青山あり」の青山とは「死んでもいいと思える場所」のことなのである。鎌倉以降、武士たちの心をとらえた禅の魅力は、おそらくこの辺りにあると玄侑氏は推測する。

仏教の次は、神道である。新渡戸は述べる。

「仏教が武士道に与えなかったものは、神道が十分に提供した。他のいかなる信条によっても教わることのなかった主君に対する忠誠、先祖の崇敬、さらに孝心などが神道の教義によって教えられた。そのため、サムライの傲岸な性格に忍耐心がつけ加えられたのである(奈良本辰也訳)」

しかし、本書を読んできた読者ならば、神道に教義にないことはよく知っているだろう。主君への忠誠、先祖への崇敬、そして孝心などは、むしろ儒教である。中世以来、神道は教義らしきものの多くを儒教から借りたことを、図らずも新渡戸は明らかにしているのだ。

新渡戸はさらに神道について述べる。ギリシャ人は礼拝のとき、目を天に向ける。そのとき彼らの祈りは凝視することによって成り立つ。ローマ人はその祈りが内省的であるために頭をヴェールで覆う。そして日本人の内省は、ローマ人の宗教に対する考え方のように、本質的に個人の道徳意識よりも、むしろ民族的な意識を表すこととなった。

神道の自然崇拝は、国土というものを私たちにとって心の奥底から愛おしく思われるような存在にした。また神道の祖先崇拝は、次から次へと系譜をたどることによって、ついには天皇家を民族全体の源としたのである。

新渡戸は述べる。

「私たちにとって国土とは金を採掘したり、穀物を収穫したりする土壌以上のものである。そこは神々、すなわち私たちの祖先の霊の神聖なすみかである。私たちにとって天皇とは、単に夜警国家の長、あるいは文化国家のパトロン以上の存在である。天皇は、その身に天の力と慈悲を帯びるとともに、地上における肉体をもった、天上の神の代理人なのである(奈良本辰也訳)」

ここに明治武士道の精神を見事に見ることができるだろう。天上の神の代理人としての天皇をいただいた日本は、急速に近代国家を

つくり、日清・日露の対外戦争を勝ち抜いていったのである。

そして新渡戸は、神道が日本人の感情生活を支配している二つの特徴をあわせ持っていると述べる。すなわち、愛国心と忠誠心である。ヘブライ文学においては作者の述べていることが、神のことか、国家のことか、天国のことか、エルサレムのことか、はたまたメシアか、その民族そのものか、それらのいずれを語っているのか、しばしば判断に困ることがある。これとよく似た混乱がわが国民の信仰を「神道」と名づけたことに起きていると新渡戸は言う。神道はその用語のあいまいさゆえに、論理的な思考を持った人から見れば、混乱していると考えられるに違いないというのだ。その上に、民族的本能や種族の感情の枠組としては、神道が必ずしも体系的な哲学や合理的な教学を必要としていないことを指摘する。

神道は武士道に対して、主君への忠誠心と愛国心を徹底的に吹きこんだ。これらのものは教義というより、その推進力として作用した。というのは、中世のキリスト教の教会とは異なり、神道はその信者にほとんど何も信仰上の約束事を規定しなかったからである。その代わりに行為の基準となる形式を、儒教によって与えたのだ。新渡戸は述べる。

「厳密にいうと、道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となった。孔子が述べた五つの倫理的な関係、すなわち、君臣(治める者と治められる者)、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係は、彼の書物が中国からもたらされるはるか以前から、日本人の本能が認知していたことの確認にすぎない。冷静、温和にして世才のある孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとって特にふさわしいものであった。孔子の貴族的かつ保守的な語調は、これらの武人統治者に不可欠のものとして適合した(奈良本辰也訳)」  

孔子に次いで孟子が武士道に大きな影響を与えた。孟子の力のこもった、ときにははなはだしく人民主権的な理論は、思いやりのある人々にはことのほか好まれたのである。そのため、彼の理論は既存の社会秩序にとっては破壊的で危険とされ、『孟子』は永く禁書とされていたのである。それにもかかわらず、孟子の言葉は武士の心の中に永遠のすみかを見出していった。

正確には、儒教と武士道は微妙に違う。最も明らかな相違点は、儒教が「仁」を徳目の最上位に置いたのに対して、武士道はその中心に「義」を置いたことだ。したがって、武士の行動基準は、すべてこの義をもととし、「仁」「義」「礼」「智」「信」の五常の徳を「仁義」「忠義」「信義」「節義」「礼儀」などに改変し、さらには「廉恥」「潔白」「質素」「倹約」「勇気」「名誉」などを付け加えて、武士道は行動哲学となったのである。

そして、これらの道徳律の集大成として、「誠」の徳が最高の位置にすえられた。現在では「誠実」という意味にとられる「誠」は、その字が「言」と「成」からできているように「言ったことを成す」の意味とされ、そこから「武士に二言はない」という言葉が生まれた。武州・三多摩の農民あがりの新撰組(しんせんぐみ)は、「誠をつらぬく者」としての真の武士とならんがために「誠」をその旗印に掲げたのである。

このように武士道とは儒教のアレンジであったとしても、『論語』や『孟子』は武家の若者にとって大切な教科書となり、大人の間では議論の際の最高の拠り所となった。しかし、これらの古典を単に知っているというだけでは評価されることはなかった。よく知られた「論語読みの論語知らず」ということわざは、孔子の言葉だけをふりまわしている人間を嘲笑しているのである。武士の典型である西郷隆盛は文学のわけ知りを「書物の虫」と呼んだ。

三浦梅園は、実際に役立つまでは何度も煮る必要のある臭いの強い野菜に学問を例えている。また梅園は、知識というものは、それが学習者の心に同化し、かつその人の性質に表れるときにのみ真の知識となると述べた。

知性そのものは道徳的感情に従うものと考えられたのである武士道は知識のための知識を軽視した知識は本来、目的ではなく、智恵を得る手段であるとした。したがってこの目的に到達することをやめた者は、求めに応じて詩歌や格言を生み出す便利な機械以上のものではないとされた。知的専門家は機械同然だったのである。

このように知識は、人生における実際的な知識適用の行為と同一のものとみなされた。このソクラテスの哲学にも通じる思想は「知行合一」をたゆまず繰り返しといた中国の思想家、王陽明をその最大の解説者として見出したのである。新渡戸稲造によれば、神道の単純な教説に言い表されているように、日本人の心は王陽明の教えを受け入れるために、特に開かれていたという。

陽明が、人間性の根本に「良知」というものを考えたことは、単なる学説としてみれば

一つの理論にすぎない。しかし、この理論は「知行合一でなければならない」という信念に支えられている。そして、その信念が時代の要求に応じて武士の生き方を規定していったのである。

新渡戸『武士道』を英文から翻訳した歴史学者の奈良本辰也によれば、近世封建社会は、それが朱子学を採用したことによって、著しく無宗教的になっていたという。わが国の思想や宗教のあり方を永く規定してきたのは、言うまでもなく仏教であった。人々は仏の教えに導かれて生き、そしてその安心を得て死んだのである。その生活が厳しければ厳しいほど、彼らは仏の教えに従った。

しかし、朱子学はこの仏教に対して激しい敵意を抱き、人倫を乱すものとして攻撃した。つまり仏教が、現世を仮の世と説くことによって、現実の社会関係や道徳観念を相対化するというのである。林羅山によれば、仏教は「山河大地を以て仮となし、人倫を幻妄(げんもう)となす」ゆえに不可であり、拒否さるべきなのである。

仏教をより深いところから考えた中江藤樹でさえ、「仏教は無欲無為清浄の位を悟りの位にしているが、これは本体と現象の関係を理解しないで、現象面からのみ、人間の行動を規制していっているから十分でない」と述べている。ここでも、仏教というものは大きな意味を与えられておらず、代って儒教が精神的権威とならなければならないのである。奈良本辰也は、著書『武士道の系譜』に次のように書いている。

「だが、儒教という現実的な道徳学は、人間の心をその内面的な絶対の位置においてとらえることができるであろうか。ということは、そのために死に、そのために生きる絶対的なものを、人間の心のなかに定着することができたであろうか。朱子学的な合理主義では、それは困難であったと言うよりほかはない。なぜならば、その合理主義は生の側面においては一貫したものを持つことができようが、死という問題については人々を安心させる説明を持ち得なかったのである。簡単に言うならば、死は非常理なのだ。合理的説明ではとらえることのできない非合理性をもっている」

陽明学が、きわめて精神的なものを持つ理由もそこにあった。もともと武士道なるものは、その人間の生死の関わるところに生まれてきたのである。『葉隠』の「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」はあまりにも有名だが、大道寺友山(だいどうじゆうざん)の『武道初心集』の冒頭にも、「武士たらむものは正月元日の朝、雑煮の餅を祝ふとて箸を取初るより其年の大晦日の夕べに至るまで、日々夜々死を常に心にあつるを以て本意の第一とは仕るにて候」とある。

いま、その死が後背に退いたといっても、自分を律する規範がそこで霞むようなことがあってはならない。宗教的な信念によるものでなければ、自分の心による絶対的な判断力なのだ。陽明学はそれを「良知」と名づけ、それを発動することに最高の意味を与えたのである。生死をかけて武士の道を教える方法が、時代とともに古くなるにつれて、それに代るものとしての陽明学は精神至上主義を強めていったのである。

明治維新のキーマンとなった吉田松陰は陽明学を学び、高杉晋作や久坂玄端といった弟子に授けた。維新のスイッチャーとなった西郷隆盛も陽明学の徒であった。近年、「ラスト・サムライ」なるハリウッド映画が大ヒットし、武士道ブームが起こったことは記憶に新しいが、最後のサムライ・勝元のモデルは西郷隆盛であるという。最後まで、武士道は陽明学とともにあったのだ。

 

■武士道 4

 

武士道は、日本の武士階級に由来する思想です。日本史において、武士階級が政治上の実権を掌握した期間はおよそ600年の長きに渡ります。武士の思想は時代とともに変遷していますが、大きく分けると、鎌倉時代に始まる戦場における主従関係を基にしたものと、江戸時代の天下太平における儒教の聖人の道に基づいたものに分類できます。前者は、献身奉公としての武者の習いであり、後者は武士を為政者とする士道(儒教的武士道)です。武士道は、武士たる者の身の処し方としての「武士の道」であり、武士道関連の書物には、武士の「道」についての伝統が展開されています。その影響は、武士が政治の実権を握った時代のみならず、その前後の期間にも見ることができます。本章では、日本の武士道における武士の「道」を見ていきます。

■第一節 和歌

『万葉集』の[巻第三・四四三]には、武士と書いて「ますらを」と読む用法が見られます。〈天雲の向伏す国の武士(ますらを)〉とあり、天雲が遠く地平につらなる国の勇敢な男が武士なのだと語られています。また、[巻第六・九七四]には〈丈夫の行くといふ道そおほろかに思ひて行くな大丈の伴〉とあります。つまり、雄々しい男子の行く道は、いいかげんに考えて行くな、雄々しい男子どもよ、と謡われているわけです。『万葉集』において既に、〈武士〉という単語があり、武士道の前身となる道が「丈夫の行くといふ道」として謡われているのがわかります。

室町前期の勅撰和歌集である『風雅和歌集(1349~1349頃成立)』にも、「武士の道」を見つけることができます。[雑下・一八二三]に、〈命をばかろきになして武士の道より重き道あらめやは〉とあります。武士の道は、命よりも重いものだと考えられています。

■第二節 説話物語

日本の説話物語においても、武士道に連なる道を見ることができます。

『今昔物語集』には、「弓箭の道」が語られています。〈我弓箭の道に足れり。今の世には討ち勝つを以て君とす〉とあり、勝つことの重要性が説かれています。他には、〈心太く手利き強力にして、思量のあることもいみじければ、公も此の人を兵の道に使はるゝに、聊か心もとなきことなかりき〉とあり、「兵の道」という表現を見ることができます。〈兵の道に極めて緩みなかりけり〉ともあります。「兵の道」という言葉は、『宇治拾遺物語』にも見ることができます。

『十訓抄』には、〈最後に一矢射て、死なばやと思ふ。弓矢の道はさこそあれ〉とあります。また、〈弓箭の道は、敵に向ひて、勝負をあらはすのみにあらず、うちまかせたることにも、その徳多く聞ゆ〉ともあり、弓箭の道は敵に向って勝負を決するばかりではなく、多くのことに武芸は見られると語られています。

無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈武勇の道は、命を捨つべき事と知りながら〉という表現を見ることができます。

■第三節 軍記物語

軍記物語とは、平安時代末期から室町時代に至る武士集団の戦闘合戦を主題にした叙事文学のことです。その先駆的作品は『将門記』や『陸奥話記』です。編纂された時代の主従の道徳、情緒や献身、不惜身命の精神、家名と名を惜しむ武士のあるべき姿が、仏教、儒教、尊皇思想を背景に語られています。

『保元物語』では、「弓矢取る者」について語られています。〈弓矢取る者のかかる事に遭ふは、願ふ所の幸ひなり〉とあり、武士たる者が名誉の戦死に逢うことは、願うところであり幸いであると語られています。また、「兵の道」や「武略の道」という表現も物語の中に見ることができます。

『平治物語』では、「弓箭取り」や「弓矢取る身」などの表現が見られます。弓箭取りに関しては、〈弓箭取りと申し候ふは、殊に情けも深く、哀れをも知りて、助くべき者をば助け、罰すべき者をも許したまへばこそ、弓箭の冥加もありて、家門繁昌する慣らひにて候ふに〉とあります。つまり、武士は特に情け深く哀れを知り、助けるべき者を助け、罰すべき者も許し助けてこそ武芸に加護もあり、一家が繁昌することになると語られているのです。

『平家物語』では、仏教的な因果論が語られています。その中で「坂東武者の習」や「弓矢とる身」などの表現が見られます。坂東武者の習に関しては、〈坂東武者の習として、かたきを目にかけ、河をへだつるいくさに、淵瀬きらふ様やある〉とあります。坂東武者(関東武士)の習わしとして、敵を目前にして、川を隔てた戦いに、淵だ瀬だと選り好みしていられるか、というわけです。

『太平記』では、儒教的な名文論が語られています。その中で「弓矢取る身の習ひ」、「弓馬の道」、「弓矢の道」、「弓箭の道」、「侍の習ひ」などの表現が出てきます。弓矢取る身の習ひに関しては、〈大勢を以て押し懸けられ進らせ候ふ間、弓矢取る身の習ひにて候へば、恐れながら一矢仕つたるにて候ふ〉とあります。大軍勢で押し寄せられたとき、弓矢取る身の習いとして一矢報いたというのです。弓矢の道に関しては、〈述懐は私事、弓矢の道は、公界の儀、遁れぬところなり〉とあります。恨みは私事で弓矢の道は公の道理で、これは避けられないことだというのです。また、〈今更弱きを見て捨つるは、弓矢の道に非ず。力なきところなり。打死するより外の事あるまじ〉ともあります。今更に弱いものを見捨てるのは、弓矢の道ではないと言います。そのときに力がなければ、討死する他の選択肢はないというのです。

歴史的な事実がどうあれ、軍記物語からは現実の武士が、武士としての規範を持っていたことが伺えます。そうでなければ、軍記物語において武士の理想が語られることはありえないからです。

■第四節 家訓

武士道に連なる道は、武家の家訓においても見ることができます。

■第一項 北条早雲

北条早雲(1432~1519)は室町後期の武将です。

『早雲寺殿廿一箇条』は、早雲が定めたと伝えられています。この家訓に、〈文武弓馬の道は常なり。記すに及ばず〉とあります。「弓馬の道」は当たり前のことであり、記すまでもないと語られています。

■第二項 黒田長政

黒田長政(1568~1623)は、安土桃山から江戸初期の武将です。

『黒田長政遺言』には、〈殊ヲ文武ノ道ヲワキマヘ、身ヲ立テ名ヲ上ント思フ程ノ士ハ、主君ヲ撰ビ仕ル者ナレバ、招カズシテ馳集ルベキ事勿論ナリ〉とあります。身を立て名を上げたいと思う武士は、主君を選ぶために招かれなくても馳せ参じるのだと語られています。戦国時代の主従関係を念頭においたもので、後代になると家訓にこれに類する文章は見られなくなります。

■第三項 本多忠勝

本多忠勝(1548~1610)は、江戸初期の大名です。通称は平八郎です。

『本多平八郎書』では、〈武士たるものは道にうとくしてはならず、道義を第一心懸べし。又、道に志し賢人の位にても、武芸を知らねば軍役立ず〉とあります。武士の道では道義が第一であるとともに、武芸も大事だと述べられています。

■第五節 甲陽軍鑑

『甲陽軍鑑』は、全20巻59品から成ります。内容は、甲州武田武士の事績や心構えや武将の条件などが記されています。戦国乱世に形成された武士の思想が集大成されています。武田家は1582年(天正10年)に滅亡しています。

『甲陽軍鑑』の「甲」は、甲斐を意味します。「陽」は、万物が豊かに成長し、稔る意のことばで、「甲」を修飾しています。「軍鑑」は、戦いの歴史物語の意です。「鑑」には、歴史物語が世俗世界を映し出す鏡であり、後代のひとびとにとっての戒めであることが含意されています。

『甲陽軍鑑』の〔品第六〕では、〈若しこの反古落ち散り、他国のひとの見給ひて、我家の仏尊しと存ずるやうに書くならば、武士の道にてさらにあるまじ。弓矢の儀は、たゞ敵・味方ともにかざりなく、ありやうに申し置くこそ武道なれ〉とあります。もしこの『甲陽軍鑑』が散らばって他国の人が読むとき、自分の領国の武将を贔屓目に書いていたのでは、それは「武士の道」ではないというのです。合戦では、敵味方を問わずに、ありのままに述べ伝えるのが「武道」だとされているのです。

〔品第十三〕では、〈またよきひとは、各々ひとつ道理に参るにつき一段仲よきものにて候ぞ〉とあり、優れた武士はそれぞれ同一の道理に従うから、一段と仲がよいものだと語られています。

〔品第十六〕では、〈其故は法をおもんじ奉り何事も無事にとばかりならば、諸侍男道のきつかけをはづし、みな不足を堪忍仕る臆病者になり候はん〉とあります。たとえ掟であっても、不足なことでも堪忍するのは「男道」のきっかけを外すものとされています。〈男道を、失ひ給はんこと、勿体なき義也〉ということから、〈某子どもに男道のきつかけをはづしても、堪忍いたせとあることは、聊も申し付けまじ〉と語られています。

〔品第四七〕では、〈是は只の事にあらず侍道の事なれば、目安をもって信玄公の御さばきに仕られ〉とあり、ただ事ならざるものとしての「侍道」が語られています。

■第六節 兵法家伝書

柳生宗矩(1571~1646)は、江戸初期の剣術家です。徳川家康に仕え、徳川秀忠に新陰流を伝授しました。

『兵法家伝書』では、〈道ある人は、本心にもとづきて妄心をうすくする故に尊し。無道の人は、本心かくれ妄心さかんなる故に、曲事のみにして、まがり濁たる名を取也〉とあります。道ある人とは、物事の道理をよくわきまえた人で、無道の人とは、道理をわきまえず、道理に反する人のことだと語られています。

■第七節 五輪書

宮本武蔵(1584~1645)の書に『五輪書』があります。宮本武蔵は江戸初期の剣法家で、二天一流兵法の祖です。『五輪書』は1643年(寛永20年)から死の直前にかけて書かれたと言われています。地水火風空の五大五輪にそって5巻構成です。

[地之巻]では、〈武士は文武二道といひて、二つの道を嗜む事、是道也〉とあり、武士における文武両道が語られています。武士と云えば死の思想ですが、武蔵は〈大形武士の思ふ心をはかるに、武士は只死ぬといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也〉と述べています。

宮本武蔵といえば兵法が有名ですが、〈武士の兵法をおこなふ道は、何事においても人にすぐるゝ所を本とし、或は一身の切合にかち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ〉と述べられています。兵法を行う道では優れているということを基本とし、切り合いや戦に勝ち、主君や自身のために名を上げ身を立てるのです。そこでは〈何時にても、役にたつやうに稽古し、万事に至り、役にたつやうにをしゆる事、是兵法の実の道也〉と言われ、役に立つという有用性の観点から論じられています。そのため武士の道では、〈兵具しなじなの徳をわきまへたらんこそ、武士の道なるべけれ〉とあり、道具類の大切さが説かれています。その中でも刀は特別で、〈我朝において、しるもしらぬも腰におぶ事、武士の道也〉とあり、日本では刀を帯びることが武士の道だと述べられています。

道全般については、〈其道にあらざるといふとも、道を広くしれば、物毎に出であふ事也。いづれも人間において、我道我道をよくみがく事肝要也〉とあり、自分自身の歩むべき道を磨くことが説かれています。

[水之巻]では、〈太刀の道を知るといふは、常に我さす刀をゆび二つにてふる時も、道すぢ能くしりては自由にふるもの也。太刀をはやく振らんとするによつて、太刀の道さかひてふりがたし。太刀はふりよき程に静かにふる心也〉とあります。太刀の道について、太刀の扱い方が語られています。

[火之巻]では、〈我兵法の直道、世界において誰か得ん〉とあります。わが二天一流の兵法の正しい道をこの世において誰が得られようか、と述べられています。

[風之巻]では、〈おのづから武士の法の実の道に入り、うたがひなき心になす事、我兵法のをしへの道也〉とあります。自(おの)ずから武士の道に入り、疑いなき心に至ることが兵法の教えの道だとされています。

[空之巻]では、「空」という概念が語られています。〈ある所をしりてなき所をしる、是則ち空也〉と語られるところのものが、空です。その空が、〈武士は兵法の道を慥に覚え、其外武芸を能くつとめ、武士のおこなふ道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也〉と語られています。武士は兵法の道をしっかりと覚え、武芸をつとめて行う道に後ろ暗いところなく、心の迷いなく、その時その時で怠ることなく、心と意を磨き、見ること観ることを研ぎ澄ました曇りなく迷いない境地こそが空だというのです。そこでは、〈直なる所を本とし、実の心を道として、兵法を広くおこなひ、たゞしく明らかに、大きなる所をおもひとつて、空を道とし、道を空と見る所也〉とあり、「空」と「道」が関連付けられて語られています。真っ直ぐを基本とし、実の心を道として兵法を行い、正しく明らかに偉大なものを思い取るのが「空」であり「道」だというのです。

また、宮本武蔵の『独行道』の中にも、道についての言及を見ることができます。〈世々の道をそむく事なし〉、〈いづれの道にも、わかれをかなしまず〉、〈道においては、死をいとはず思ふ〉、〈常に兵法の道をはなれず〉とあります。