大和魂 ㉒
http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より
■フィリピン戦 / 日本陸軍
■航空特攻
陸軍の特攻は鉾田教導飛行師団の万朶隊と浜松教導飛行師団の富嶽隊によって最初に行われた。通常の編成は航空本部から電文で命令されるが、命令は天皇を介するため、任命電報が送れず、菅原道大中将が編成担当者に任務を与えて派遣した。富嶽隊と万朶隊は、梅津美治郎参謀総長が藤田東湖の「正気の歌」から命名した。
万朶隊は、1944年10月4日航空総監部から鉾田教導飛行師団に九九双軽装備の特攻隊編成の連絡があった。10月13日、師団長今西六郎中将は航空総監と連絡して特攻部隊の編成を打ち合わせ、中旬に九九双軽の特攻改修機が到着した。特攻改修機とは、機首の風防ガラスから3mの起爆管3本を突出させ、爆弾を操縦席から投下できないようにしたものであったが、後に前線基地にて手動索で投下できるように改造された。
10月20日、参謀本部から編成命令が下され、21日岩本益臣大尉以下16名が決定した。22日、航空総監代理による総監訓示が行われ、今西師団長も訓示を行う。26日、九九双軽の特攻隊はフィリピンのリパに到着。29日、万朶隊と命名された。
万朶隊は初出撃を待つが11月5日、第4航空軍の命令で、作戦打ち合わせに向かった岩本の操縦する九九双軽がアメリカ軍戦闘機に撃墜され、同乗中の将校を含めて5名全員が戦死した。万朶隊は岩本が「航法の天才」と呼ばれていたなど、全員が鉾田教導飛行師団の精鋭をもって組織されていたため、出撃前の大損害となった。11月12日に田中逸夫曹長以下4機が、岩本らの遺骨を抱いてレイテ湾に出撃し、全機未帰還、戦艦1隻、輸送艦1を撃沈したとして、南方軍司令官寺内寿一大将より感状が授与された。しかしこの戦果は、海軍の神風特別攻撃隊が空母を撃沈したという戦果発表に張り合って陸軍は戦艦を撃沈したという過大戦果発表であり、実際にアメリカ軍がこの日に被った損害は工作艦2隻の損傷のみであった。この日出撃した万朶隊の4機は全員戦死と思われていたが、後に佐々木友次伍長が敵艦に体当たりせず通常攻撃を行い、ミンダナオ島のカガヤン飛行場(英語版)に生還していたことが判明している。佐々木はこの後も合計9回出撃しながら敵艦に突入せず、いずれも生還している。
富嶽隊は、浜松教導飛行師団長川上淸志少将が特攻隊編成の内示を受けると、同師団の第1教導飛行隊を母隊として編成し、1944年10月24日から特別任務要員として南方へ派遣した。26日、参謀総長代理菅原道大航空総監が臨席して出陣式が行われ、富嶽隊と命名された。四式重爆撃機飛龍には海軍より支給された800kg爆弾2発を搭載する代わりに、軽量化のために爆撃装備や副操縦席に至るまですべてが撤去され、機首と尾部の風防ガラスをベニヤ板に変えられた特攻専用機「ト」号機を配備された。四式重爆撃機には通常8名(機長、操縦士、整備兵2名、通信士、爆撃手機銃手など4名)が搭乗するが、「ト」号機には操縦者と機関員(ないし通信員)の2名のみが搭乗した。富嶽隊もフィリピンに到着後、こちらも待機していたが11月7日早朝、初出撃した。この出撃は空振りに終わり、山本中尉機が未帰還となった。富嶽隊は13日に、隊長西尾常三郎少佐以下6名が米機動部隊に突入して戦死し、戦果確認機より戦艦1隻轟沈と報告され、南方軍より感状が授与された。残った富嶽隊は、1945年1月12日まで順次出撃を繰り返した。
1944年11月6日、陸軍中央は海軍が小回りの利く零戦などの小型機による特攻で成果を挙げていることを知り、明野教導飛行師団で一式戦闘機などの小型機を乗機とする特攻隊を編成し、「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。名前の由来は日本書紀(淮南子)の「八紘をもって家となす」(八紘一宇)による。アメリカ軍のレイテ上陸により、一時司令部をネグロス島に移転していた第4航空軍司令官の富永恭次中将が11月7日にマニラ軍司令部に戻ると、「八紘隊第1隊」「八紘隊第2隊」などと呼ばれていた各隊を八紘隊、一宇隊、靖国隊、護国隊、鉄心隊、石腸隊と命名し、「諸子のあと第4航空軍の飛行機が全部続く、そして最後の1機には富永が乗って体当たりをする決心である。安心して大任を果たしていただきたい。」と訓示激励し、軍司令官自ら隊員一人一人と握手し、士気を鼓舞している。後に八紘隊は、明野教導飛行師団・常陸教導飛行師団・下志津教導飛行師団・鉾田教導飛行師団などにより合計12隊まで編成され、丹心隊、勤皇隊、一誠隊、殉義隊、皇魂隊、進襲隊と命名された。
八紘隊各隊は「十神鷲十機よく十艦船を屠る」と称されたほど、陸軍特攻隊では最も大きな戦果を挙げた部隊と言われている。以下はすべて確実な戦果として、11月27日に八紘隊(一式戦闘機「隼」)が戦艦「コロラド」、軽巡洋艦「セントルイス」、軽巡洋艦「モントピリア」に突入して損害を与え、駆潜艇「SC-744」を撃沈。11月29日、靖国隊(一式戦「隼」)が戦艦「メリーランド」、駆逐艦「ソーフリー」、駆逐艦「オーリック」に突入し、損害を与えている。さらに12月13日には一宇隊(一式戦「隼」)あるいは海軍特別攻撃隊第2金剛隊が軽巡洋艦「ナッシュビル」に、1月5日には重巡洋艦「ルイビル」に石腸隊あるいは進襲隊(九九式襲撃機)、1月8日には軽巡洋艦「コロンビア」に鉄心隊あるいは石腸隊(九九式襲撃機)、1月9日には戦艦「ミシシッピ」に一誠隊(一式戦「隼」)がそれぞれ突入し、損害を与えた。なかでも、靖国隊の一式戦「隼」が40.6cm砲(16インチ砲)を備える主砲塔に突入した戦艦「メリーランド」は大破炎上し、修理のために翌1945年3月まで戦列を離れている。メリーランドに突入した一式戦「隼」は、雲の中から現れて急降下で同艦に突入する寸前に機首を上げて急上昇をはじめ、尾翼を真下に垂直上昇してまた雲に入ると、1秒後には太陽を背にしての急降下でメリーランドの第2砲塔に突入した。その間、特攻機はまったく対空射撃を浴びることはなかった。その見事な操縦を見ていたメリーランドの水兵は、「これはもっとも気分のよい自殺である。あのパイロットは一瞬の栄光の輝きとなって消えたかったのだ」と日記に書き、その特攻機の曲芸飛行を見ていたモントピリアの艦長も「彼の操縦ぶりと回避運動は見上げたものであった」と感心している。
■水上特攻
大損害を被りながらフィリピンに到着していた海上挺進戦隊は出撃の機会がないままに空襲や艦砲射撃により損害を重ねていたが、1945年1月9日にルソン島上陸のためにリンガエン湾に来襲したアメリカ軍輸送艦隊に高橋功大尉率いる海上挺進第12戦隊の90隻のマルレが攻撃した。1月10日の午前3時にスゥアルの基地から発進したマルレは1艇あたり2名〜4名の搭乗員を乗せ、機銃や小銃を射撃しながら警戒が不十分だったアメリカ軍輸送艦隊に襲い掛かり、わずか1.45トンのマルレの攻撃で385トンの上陸支援艇LCI-974を撃沈し、6,200トンの攻撃輸送艦ウォー・ホーク(攻撃輸送艦)(英語版)1,625トンのLST-925、LST-610(この2隻はそのまま放棄)LST-1028を大破させ、LCI-365他6隻に損傷を与えた。第12戦隊はこの戦いで壊滅したが、アメリカ軍はこの損害で特攻艇への警戒を強化せざるを得なくなった。
アメリカ軍はPTボートをかき集めると、魚雷を下ろす代わりに40mm、37mm、20mmといった機関砲やロケット砲を可能な限り搭載したPTボートで編成した特攻艇対策部隊を編成した。PTボートの他にも上陸支援艇や歩兵揚陸艇も機銃やロケット砲などで武装させパトロールに当たらせた。この特攻艇対策部隊と特攻艇の間の戦いが激化し、多数の特攻艇が攻撃前に撃破された。しかし1月31日にはマニラ湾のナスプで上陸船団の護衛艦隊に20隻の特攻艇が襲い掛かり、PC-1129(英語版)を撃沈している。また護衛艦隊の駆逐艦ローフとカニンガムがPTボートを特攻艇と誤認し射撃を加えた。慌てたPTボートは味方識別信号を送ったが、駆逐艦はこれを日本軍の謀略と判断しPT-77とPT-79の2隻を撃沈してしまった。アメリカ軍の記録によれば「これは日本の特攻艇の勝利である。日本の特攻艇が、アメリカ軍水兵を不安に陥れた結果である。」と記された。しかし、陸軍の特攻艇による組織的な攻撃はここまでで、アメリカ海軍は2月11日にリンガエン湾での特攻艇の脅威はなくなったと宣言した。
■成果
海軍航空隊はフィリピン戦で特攻機333機を投入し、420名の搭乗員を失い、陸軍航空隊は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失ったが、アメリカ軍はレイテ島、ミンダナオ島、ルソン島と進撃を続け、特攻は遅滞戦術に過ぎなかった。フィリピン戦末期には四式戦闘機「疾風」の集成戦闘部隊として戦っていた第30戦闘飛行集団にて特攻隊である精華隊が編成され、250kg爆弾2発を装備した四式戦が1945年1月8日に護衛空母「キトカン・ベイ」に、同月13日には護衛空母「サラマウア」に突入、それぞれ大破の戦果を残した。この13日の精華隊の出撃でフィリピンでの特攻作戦は終結した。1月17日に陸軍第4航空軍司令官の富永は、一式戦4機の護衛を付けて九九式軍偵察機で台湾台北に脱出したが、脱出に際し上級司令部の許可はとっていなかったため、予備役に編入された。
海軍第1航空艦隊は1月6日のリンガエン湾攻撃により陸軍より先に航空機をほぼ全て消耗してしまったため、司令の大西はルソンの山中で陸戦隊としてアメリカ軍を迎え撃つべく陣地の構築を命じ、第2航空艦隊の福留らには台湾への撤退を提案した。大西は201空の玉井と中島に、神風特攻隊の戦績を報告するために台湾への脱出を命じ、自分らはルソン山岳地帯への移動の準備をしていたが、連合艦隊より第1航空艦隊は台湾に転進せよとの命令が届いた。大西は躊躇したが、猪口ら参謀の説得に応じて、第1航空艦隊司令部と生存していた搭乗員は台湾に撤退することとなった。1月10日に陸軍航空隊より一足早く第1航空艦隊の一部はルソン島から台湾に移動したが、整備兵や地上要員など多くの兵士がそのまま残されて後に地上戦で死ぬ運命に置かれた。残った兵士らは、杉本丑衛26航戦司令官の指揮下で「クラーク地区防衛部隊」を編成し地上戦を戦ったが、大西は残してきた兵士らに気を揉み、台湾に転進後も常々「いつか俺は、落下傘でクラーク山中に降下し、杉本司令官以下みんなを見舞ってくるよ」と部下に話していた。
日本軍からは特攻の戦果の確認が困難だったために、直援戦闘機などからの戦果報告は、実際に与えた損害より過大となり、その過大報告がそのまま大本営発表となった。NHKや新聞各社は、連日新聞紙上やラジオ放送などで、大本営発表の華々しい戦果報道や特攻隊員の遺言の録音放送など一大特攻キャンペーンを繰り広げた。国民はその過大戦果に熱狂し、新聞・雑誌は売り上げを伸ばすために争うように特攻の「大戦果」や「美談」を取り上げ続けた。やがてこの過大戦果は、軍の中で特攻に反対していた人々の意見を封殺するようになっていった。
フィリピン戦時点では、特攻による損失機数は戦闘における全損失機数の14%に過ぎなかったように、日本軍の航空作戦の中心は特攻ではなかった。アメリカ軍も、「特攻が開始されたレイテ作戦の前半には、レイテ海域に物資を揚陸中の輸送艦などの「おいしい獲物」がたっぷりあったのに対して、アメリカ軍は陸上の飛行場が殆ど確保できていなかったので、非常に危険な状況であったが、日本軍の航空戦力の主力は通常の航空作戦を続行しており、日本軍が特攻により全力攻撃をかけてこなかったので危機は去った。」と評価していた。しかし次の決戦地は沖縄になると考えていた軍令部第一部長兼大本営海軍部参謀富岡定俊少将らにより、過大な戦果判定を判断の材料として、沖縄戦では特攻戦法を軸にして戦うという方向性が示された。
■対空特攻
1944年6月から中国大陸を基地とするアメリカ陸軍航空軍のB-29が、九州北部を中心とする日本本土への爆撃を開始した。排気タービン過給機を装備し、高高度を平然と飛行するB-29に対する日本軍戦闘機の迎撃は困難を極めていた。苦戦する日本軍の防空戦闘機が、自発的な体当たり攻撃をすることがあり、1944年8月20日の八幡空襲において、迎撃に出た飛行第4戦隊の二式複座戦闘機「屠龍」の搭乗員野辺重夫軍曹と後方射手高木伝蔵伍長は、搭載のホ203(37mm機関砲)で、第794爆撃飛行隊の「ガートルードC」号を攻撃するも撃墜できなかったため、「ガートルードC」に体当たり攻撃を敢行し、激突した両機は空中爆発し墜落、またその破片の直撃を受けた僚機の「カラミティ・スー」号も墜落した。体当りに成功した野辺・高木は戦死したが、屠龍1機で2機のB-29を撃墜することに成功している。
サイパン島が陥落し、首都圏へのB-29による空襲の懸念が高まると、B-29の必墜を期す戦術が求められた。1944年10月に首都防空部隊であった第10飛行師団師団長心得吉田喜八郎少将ら幕僚は、武装、防弾装備や通信アンテナなどを外して軽量化した戦闘機による体当たり攻撃がもっとも効果的と結論し、これまでのような搭乗員の自発的なものではなく、組織的な体当たり攻撃隊を編成することとした。吉田は隷下部隊に対し「敵機の帝都空襲は間近にせまっている。師団は初度空襲において体当たり攻撃を行い、大打撃を与えて敵の戦意を破砕し、喪失せしめんとする考えである。」と訓示し、体当たり攻撃の志願者を募った。
昭和19年11月7日に吉田から、隷下1部隊各4機ずつ体当たり機の編成命令が発令された。この対空特攻部隊は震天制空隊と命名された。初出撃は同年11月24日、サイパン島より東京に初来襲したB-29に対するものであった。この戦闘で飛行第47戦隊所属の見田義雄伍長が二式複戦「屠龍」で体当たりを敢行し1機を撃墜して戦死。同じく飛行第53戦隊入山稔伍長は突入間際に機体が空中分解し戦死するなど、特攻機以外の戦闘機も含め6機を喪失したのに対し、B-29の損失は2機であった。(日本軍は5機撃墜、8機撃破と主張)第10飛行師団の目論見は外れて、東京空襲を防げなかったことにより、震天制空隊は各隊4機から8機に倍増し、強力に対空特攻を推進していくこととした。また、この後、大都市圏の防空任務部隊を中心に空対空特攻部隊が組織されていくこととなる。
■全軍特攻
■沖縄戦前
■日本海軍
ここまで航空特攻は現地部隊の自発による編成の形式をとっていたが、1945年1月19日に陸海軍大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行い、1945年2月10日には第5航空艦隊の編成で軍令部、連合艦隊の指示・意向による特攻を主体とした部隊編成が初めて行われた。5航艦司令長官となった宇垣纏中将は長官訓示で全員特攻の決意を全艦隊に徹底させた。 フィリピンでの大量損失で大打撃を受けていた海軍航空隊も再編成が進められ、3月上旬までに第5航空艦隊600機、第3航空艦隊800機が準備可能と見込まれていた。
1945年2月4日、軍令部の寺内義守航空部員は、松浦五郎とともに従来の訓練を止め命中の良さから特攻に集中すべきと主張した。田口太郎作戦課長は練習生が練習機で特攻を行う方法の研究を求め、寺崎隆治も練習機「白菊」が多数あることから戦力化が必要と発言した。1945年2月、硫黄島の戦いが開始されたことを受けて、全航空隊特攻化計画が決定する。同年3月1日、海軍練習連合航空総隊を第10航空艦隊に改編し、特攻隊員訓練のため一般搭乗員の養成教育を5月中旬まで中止した。第10航空戦隊は4月末を目途に、通常の作戦機700機と練習機1,100機を戦力化する計画であった。 1945年5月15日、中止されていた新規搭乗員教育が再開したが、戦闘機搭乗員の他は特攻教育が主になった。
台湾に転進した大西ら第1航空艦隊は台湾でも特攻を継続し、残存兵力と台湾方面航空隊のわずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成された。台南海軍航空隊の中庭で開催された命名式で大西は「この神風特別攻撃隊が出て、万一負けたとしても、日本は亡国にならない。これが出ないで負けたら真の亡国になる」と訓示したが、幕僚らは「負けても」という表現を不思議に感じた。この訓示を聞いていた201空の中島は、この時点で大西は目先の戦争の勝敗ではなく、敗戦した場合の日本の悠久性を考えていたのだろうと戦後に述懐している。1月21日に台湾に接近してきた第38任務部隊に対し「神風特攻隊新高隊」が出撃、少数であったが正規空母 タイコンデロガ に2機の特攻機が命中し、格納庫の艦載機と搭載していた魚雷・爆弾が誘爆し沈没も懸念されたが、ディクシー・キーファー(英語版)艦長が自らも右手が砕かれるなどの大怪我を負ったが、艦橋内にマットレスを敷き横になりながら、12時間もの間的確なダメージコントロールを指示し続け、沈没は免れた。
1945年2月6日に陸軍が沖縄方面で大規模な航空作戦をおこなうことを(大陸指第2382号)海軍に提案、当初海軍は陸軍の提案に難色を示していたが、3月1日に大本営により陸海軍の調整により「航空作戦に関する陸海軍中央協定」が結ばれ「海軍は敵機動部隊、陸軍は敵輸送船団」を主攻撃目標とする方針が決められ、作戦名は天号作戦と名付けられた。天号作戦は敵を迎え撃つ海域に応じた番号が付され、沖縄方面の場合は「天一号作戦」台湾方面は「天二号作戦」東シナ海沿岸方面を「天三号作戦」海南島以西を「天四号作戦」と呼称することとしたが、海軍は次に連合軍は沖縄に攻めてくる公算が大きいと考えており、3月20日に南西諸島の緊張が高まりつつあるのを受けて大本営海軍部は「帝国海軍当面作戦計画要綱」を発令し、沖縄での航空決戦に舵をきっていくことになった。
硫黄島の戦いには航空特攻の「第二御盾隊」と回天の「千早隊」「神武隊」が栗林忠道中将率いる小笠原兵団の支援のために送られた。「第二御盾隊」は32機と少数であったが、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガに5発の命中弾を与えて大破させた他、キーオカック(防潜網輸送船) など数隻を損傷させる戦果を挙げた。特攻によるアメリカ軍の被害は硫黄島からも目視でき、第27航空戦隊司令官市丸利之助少将が「敵艦船に対する勇敢な特別攻撃により硫黄島守備隊員の士気は鼓舞された」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電している。またこの成功を聞いた大西は特攻作戦について自信を深め、その後就任した軍令部次長として特攻を推進していく動機付けともなった。
1945年2月17日、豊田副武連合艦隊司令長官はアメリカ艦隊をウルシー帰着の好機をとらえて奇襲を断行する丹作戦を命令した。宇垣纏5航艦司令長官は陸上爆撃機「銀河」を基幹とする特攻隊を編成し菊水部隊梓特別攻撃隊と命名した。3月11日からウルシーに帰投した米機動部隊の正規空母を目標に24機の銀河で特攻が行われたが、途中で脱落する機が続出し、1機が 正規空母ランドルフに命中し中破させたに終わった。
1945年3月17日、海軍大臣の内令兵第八号をもって、正式に兵器として採用された桜花は、3月18日に開始された九州沖航空戦が初陣となった。3月21日に第五航空艦隊司令宇垣纏中将が、第七二一海軍航空隊に第58任務部隊攻撃を命令したが、5航艦はそれまでの激戦で戦闘機を消耗しており、護衛戦闘機を55機しか準備できなかった。そこで第七二一海軍航空隊司令の岡村基春大佐が攻撃中止を上申したが、宇垣は「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と岡村を諭し、出撃を強行している。野中五郎少佐に率いられた一式陸攻18機の攻撃隊は、途中で護衛の戦闘機の多くが故障で脱落する不幸にも見舞われ、岡村に懸念通り、アメリカ空母に接近することもできずに全滅した。