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大和魂 ㊱

2018.05.22 14:11

http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より

■海上特攻隊の準備

4月2日、第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦矢矧での第二艦隊の幕僚会議では、次の3案が検討された。

1. 航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する。

2. 好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する。

3. 揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする。

この3案に対し古村少将、山本祐二大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた。伊藤は山本を呉に送り、連合艦隊に意見具申すると述べた。4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっていた。

一方連合艦隊では、連合艦隊参謀神重徳大佐が大和による海上特攻を主張した。連合艦隊の草鹿龍之介参謀長はそれをなだめたが神大佐は「大和を特攻的に使用した度」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。司令部では構想として海上特攻も検討はされたが、沖縄突入という具体案は草鹿参謀長が鹿屋に出かけている間に神大佐が計画した。神大佐は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」と強調していた。神大佐は草鹿参謀長を通さずに豊田副武連合艦隊司令長官に直接決裁をもらってから「参謀長意見はどうですか?」と話した。豊田司令長官は「大和を有効に使う方法として計画した。50%も成功率はなく、上手く行ったら奇跡だった。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと決めた」と言う。一方の草鹿参謀長も「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。淵田美津雄参謀は「神が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という。

神は軍令部との交渉に入ったが、作戦課長富岡定俊少将は反対であった。富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れた。大和を九州方面に陽動させて敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。第一燃料がない。本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として若干残しておかなければならない。ところが私の知らないところで小沢治三郎軍令部次長のところで承知したらしい」と話している。神の提案を軍令部総長及川古志郎大将は黙って聞いていたが、軍令部次長小沢治三郎中将は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。戦後、小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という。第五航空艦隊長官の宇垣中将は戦時日誌に、及川軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、天皇から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったとして及川軍令部総長の対応を批判している。

4月5日、神参謀は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し、草鹿は大和の第二艦隊司令部を訪れ、長官の伊藤整一中将に作戦命令の伝達と説得を行った。なかなか納得しない伊藤に「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤中将は「そうか、それならわかった」と即座に納得した。連合艦隊作戦参謀の三上作夫中佐によれば、自身も作戦に疑問を持っていた草鹿参謀長が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上が「要するに、一億総特攻のさきがけになって頂きたい、これが本作戦の眼目であります」と説明したという。草鹿参謀長は「いずれその最後を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と回想している。この特攻隊は連合艦隊長官豊田副武大将によって「海上特攻隊」と命名された。

大和では命令受領後の4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた。大和の高角砲員であった坪井平次によれば、しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、「よしやってやろう」「武蔵の仇を討とう」と逆に士気を高めたが、戦局の逼迫により、次の出撃が事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していたという。4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦。夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振った。

4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。

「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」

4月6日、

「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任された。第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」

を掲げた。

大和は菊水作戦で沖縄までの片道分の燃料しか積まずに出撃したとする主張が存在したが、記録、証言から約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいたことが判明している。戦闘詳報でも大和の出撃時の燃料搭載量は4000tと表記されており、生存者の三笠逸男は出撃前に燃料担当の同僚と会い、周囲のタンクなどからかき集めて合わせて4000t程大和に搭載する事を聞いている。

第二艦隊は大和以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月、涼月)、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧、槇)の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。

アメリカ軍偵察機F-13『スーパーフォートレス』(B-29の偵察機型) により上空から撮影された出撃直後の大和の写真が2006年7月にアメリカにて発見された。当時の大和の兵装状態は未だ確定的な証拠のある資料はなく、この写真が大和最終時兵装状態の確定に繋がると期待されている。

天一号作戦の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和させることである。さらに立案者の神重徳参謀の構想では、もし沖縄にたどり着ければ、自力座礁し浮き砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させることも描いていたとされる(神大佐は、以前にも戦艦山城を突入させ浮き砲台としサイパンを奪還すると具申して、中沢佑軍令部作戦部長に「砲を撃つには電気系統が生きてなければならない」と却下されたことがある)。沖縄の日本陸軍第三十二軍は、連合艦隊の要請に応じて4月7日を予定して攻勢をかけることになっていた。なお、大和を座礁させて陸上砲台にするには、(1)座礁時の船位がほぼ水平であること、(2)主砲を発射するためには、機関および水圧系と電路が生きており、射撃管制機能が全滅していないこと、の2点が必要であり、既に実行不可能とされていた。実際、レイテ沖海戦で座礁→陸上砲台の案が検討されたが、上記に理由で却下されている。また、現実を見ればアメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、作戦の主意は、攻撃の主役である菊水作戦による航空特攻を支援するための陽動作戦であった。戦争末期には日本海軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近ではアメリカのスレッドフィン、ハックルバックの2隻の潜水艦に行動を察知された。4月6日21時20分、ハックルバックは浮上して大和を確認、ハックルバックの艦長のフレッド・ジャニー中佐は特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡した。この電報は大和と矢矧に勤務していた英語堪能な日系2世通信士官に傍受され、翻訳されて全艦に連絡された。

当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた。しかし大和が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈することが目的であり、そのために手段は選ぶべきではないと考え、マーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じたという。しかし実際には、スプルーアンス大将が戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャー中将が先に攻撃部隊を送り込んでしまった。武蔵は潜水艦の雷撃で沈んだという噂があり、ミッチャー中将は何としても大和を航空攻撃のみで撃沈したかったのだという。またミッチャー中将は、各部隊の報告から大和が沖縄へ突入すると確信し、スプルーアンスに知らせないまま攻撃部隊の編成を始めた。なお、スプルーアンス大将はアメリカ留学中の伊藤中将と親交を結んだ仲であった。  

■坊ノ岬沖海戦

4月7日6時30分ごろ、大和は対潜哨戒のため零式水上偵察機を発進させた。この機は鹿児島県指宿基地に帰投した。九州近海までは、レイテ沖海戦で大和に乗艦していた宇垣中将率いる第五航空艦隊第二〇三航空隊(鹿児島県南部笠、原飛行場)の零式艦上戦闘機が艦隊の護衛を行った。能村副長はF6Fヘルキャット3機を目撃したのみで、日本軍機はいなかったと回想する。一方、日本軍機の編隊を見たという証言もある。実際に護衛は行われたが、天候不良で第二艦隊を発見できず引き返す隊や、第二艦隊の壊滅により発進中止となる隊があるなど、急遽決定した特攻作戦のため準備不足の中途半端な護衛になってしまった。

その数機単位の護衛機も4月7日昼前には帰還し、入れ替わるようにアメリカ軍のマーチン飛行艇などの偵察機が艦隊に張り付くようになる。スレッドフィンが零戦の護衛を報告し、ミッチャーが零戦の航続距離を考慮した結果ともいわれる。アメリカ軍の記録によれば、8時15分に3機のF6Fヘルキャット索敵隊が大和を発見した。8時23分、別のヘルキャット索敵隊も大和を視認した。このヘルキャット隊は周辺の索敵隊を集め、同時にマーチン飛行艇も監視に加わった。大和は主砲以外の対空火器で砲撃したが、アメリカ偵察機を追い払うことはできなかった。

4月7日12時34分、大和は鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。8分後、空母ベニントンの第82爆撃機中隊(11機)のうちSB2C ヘルダイバー急降下爆撃機4機が艦尾から急降下する。中型爆弾500kg爆弾8発が投下され、アメリカ軍は右舷機銃群、艦橋前方、後部マストへの直撃を主張した。大和は後部指揮所、13号電探、後部副砲の破壊を記録している。後年の海底調査ではその形跡は見られないが、実際には内部が破壊され、砲員生存者は数名だった。前部艦橋も攻撃され、死傷者が出た。また、一発が大和の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある。同時に、後部射撃指揮所(後部艦橋)が破壊された。さらに中甲板で火災が発生、防御指揮所の能村副長は副砲弾庫温度上昇を確認したが、すぐに「油布が燃えた程度」と鎮火の報告が入ったという。建造当初から弱点として問題視された副砲周辺部の命中弾による火災は、沈没時まで消火されずに燃え続けた。実際には攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している。前部中甲板でも火災が発生したとする研究者もいる。清水副砲長は沖縄まで行けるかもしれないと希望を抱いた。

アメリカ軍は戦闘機、爆撃機、雷撃機が大和に対し同時攻撃を行った。複数方向から多数の魚雷が発射される上に、戦闘機と爆撃機に悩まされながらの対処だったため、巨大な大和が完全に回避する事は困難だった。ベニントン隊に続きホーネットの第17爆撃機中隊(ロバート・ウォード中佐)が大和を攻撃した。艦首、前部艦橋、煙突後方への直撃弾を主張し、写真も残っている。12時40分、ホーネット (CV-12) の第17雷撃機中隊8機が大和を雷撃し、魚雷4本命中を主張した。「軍艦大和戦闘詳報」では12時45分、左舷前部に1本命中である。戦後の米軍対日技術調査団に対し、森下参謀長、能村副長、清水副砲術長は爆弾4発、宮本砲術参謀は爆弾3発の命中と証言。魚雷については、宮本砲術参謀は3本、能村副長は4本、森下参謀長は2本、清水福砲術長は3本(全員左舷)と証言した。これを受けて、アメリカ海軍情報部は艦中央部左舷に魚雷2本命中と推定、アメリカ軍攻撃隊は魚雷命中8本、爆弾命中5発と主張し「風評通りに極めてタフなフネだった」と述べている。大和では主要防御区画内への浸水で左舷外側機械室が浸水を起こし、第八罐室が運転不能となっていた。左舷に5度傾斜するも、これは右舷への注水で回復した。

13時2分、第二波攻撃が始まった。アメリカ軍攻撃隊94機中、大和に59機が向かった。第83戦闘爆撃機中隊・雷撃機中隊が攻撃を開始。雷撃隊搭乗員は、大和が主砲を発射したと証言している。射撃指揮所勤務兵も、砲術長が艦長の許可を得ずに発砲したと証言するが、発砲しなかったという反論もある。いずれにせよアメリカ軍機の阻止には至らず、エセックスの攻撃隊が大和の艦尾から急降下し、爆弾命中によりマストを倒した。さらに直撃弾と火災により、大和からアメリカ軍機を確認することが困難となった。アメリカ軍機は攻勢を強め、エセックスの雷撃隊(ホワイト少佐)が大和の左右から同時雷撃を行い、9本の魚雷命中を主張した。バターンの雷撃隊(ハロルド・マッザ少佐)9機は全発射魚雷命中、もしくは4本命中確実を主張した。バンカーヒルの雷撃隊(チャールス・スワッソン少佐)は13本を発射し、9本命中を主張した。キャボットの雷撃隊(ジャック・アンダーソン大尉)は、大和の右舷に照準を定めたが進行方向を間違えていたので、実際には左舷を攻撃した。魚雷4本の命中を主張し、これで第一波、第二波攻撃隊が大和に命中させた魚雷は29本となった。これは雷撃隊が同時攻撃をかけたため、戦果を誤認したものと考えられる。

大和の防空指揮所にいた塚本高夫艦長伝令、渡辺志郎見張長はアメリカ軍が見た事のない激しい波状攻撃を行ったと証言している。宮本砲術参謀は右舷に魚雷2本命中したとする。大和の速力は18ノットに落ち、左舷に15度傾いた。左舷側区画は大量に浸水し、右舷への注水でかろうじて傾斜は回復したが、もはや限界に達しようとしていた。左舷高角砲発令所(左舷副砲塔跡)が全滅し、甲板の対空火器が減殺された。

13時25分、通信施設が破壊された大和は初霜に通信代行を発令した。

13時30分、イントレピッド、ヨークタウン、ラングレーの攻撃隊105機が大和の上空に到着した。13時42分、ホーネット、イントレピッドの第10戦闘爆撃機中隊4機は、1000ポンド爆弾1発命中・2発至近弾、第10急降下爆撃機中隊14機は、雷撃機隊12機と共同して右舷に魚雷2本、左舷に魚雷3本、爆弾27発命中を主張した。この頃、上空の視界が良くなったという。

大和は多数の爆弾の直撃を受け、艦内では火災が発生した。大和の艦上では、爆弾の直撃やアメリカ軍戦闘機の機銃掃射、ロケット弾攻撃により、対空兵器が破壊されて死傷者が続出する。水面下では、アメリカ軍の高性能爆薬を搭載した魚雷が左舷に多数命中した結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。「いったい何本の魚雷が命中してるかわからなかった」という証言があるほどである。後部注排水制御室の破壊により注排水が困難となって状況は悪化した。船体の傾斜が5度になると主砲、10度で副砲、15度で高角砲が射撃不能となった。また13時30分に副舵が故障し、一時的に舵を切った状態で固定され、直進ないし左旋回のみしか出来なくなった。このことに関して、傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと錯覚する生存者もいる。また、大和が左舷に傾斜したため右旋回が出来なくなったとする見方もある。船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという。これらのことにより、アメリカ軍は容易に大和に魚雷を命中させられるようになったが、15分後に副舵は中央に固定された。左舷にばかり魚雷が命中していることを懸念した森下参謀長が右舷に魚雷をあてることを提案したが、もはやその余裕もなく、実行されずに終わった。

また、傾斜復旧のために右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令が出されているが、機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にある冷却用の配管を人力で壊して浸水させる必要があり、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。

14時、注排水指揮所との連絡が途絶し、舵操舵室が浸水で全滅した。大和の有賀艦長は最後を悟り、艦を北に向けようとしたが、大和は既に操艦不能状態だった。大和は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた。14時15分、警報ブザーが鳴り、全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプがついたが、もはや対処する人員も時間もなかった。護衛駆逐艦からは航行する大和の右舷艦腹が海面上に露出し、左舷甲板が海面に洗われるのが見えた。

大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンの第9雷撃機中隊TBF アベンジャー6機による右舷後部への魚雷攻撃であった。14時10分、トム・ステットソン大尉は、左舷に傾いたため露出した大和の艦底を狙うべく、大和の右舷から接近した。雷撃機後部搭乗員は、艦底に魚雷を直撃させるために機上で魚雷深度を3mから6mに変更した。4機が魚雷を投下、右舷に魚雷2-4本命中を主張する。やや遅れて攻撃した2機は右舷に1本、左舷後部に1本の命中を主張した。後部への魚雷は、空母ラングレー隊の可能性もある。

この魚雷の命中は、大和の乗員にも印象的に記憶されている。艦橋でも「今の魚雷は見えなかった…」という士官の報告がある。三笠逸男(一番副砲砲員長)は、「4機編隊が攻めてきて魚雷が当たった。艦がガーンと傾きはじめた」と証言している。黒田吉郎砲術長は「右舷前部と左舷中央から大水柱があがり、艦橋最上部まで伝わってきた。右舷に命中したに違いない」と証言した。坂本一郎測的手は「最後の魚雷が致命傷となって、船体がグーンと沈んだ」と述べた。呉海事博物館の映像では、5本の魚雷が投下されたが回避することが出来ないので有賀艦長は何も言わずに命中するまで魚雷を見つめていたという生存者の証言が上映されている。

このように14時17分まで、大和はアメリカ軍の航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、大和の対空火力を破壊した。ただし艦隊の上空に到達して攻撃に参加したのは309機。その中から大和を直接攻撃したのは117機(急降下爆撃機37、機戦闘機15機、戦闘爆撃機5機、雷撃機60機)である。

『軍艦大和戦闘詳報』による大和の主な被害状況は以下のとおり。ただし、「大和被害経過資料不足ニテ詳細不明」との注がある。また大和を護衛していた第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の被害図や魚雷命中の順番とも一致しない。例えば第二水雷戦隊は右舷に命中した魚雷は4番目に命中と記録している。

  ○ 12時41分 後部に中型爆弾2発命中。電探室および主計課壊滅

  ○ 12時45分 左舷前部に魚雷1本命中。

  ○ 13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障。

  ○ 13時44分 左舷中部に魚雷2本命中。

  ○ 13時45分 副舵を中央に固定。応急舵で操舵。

  ○ 14時00分 艦中央部に中型爆弾3発命中。

  ○ 14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中。

  ○ 14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中。機械右舷機のみで12ノット。

    傾斜左舷へ6度。

  ○ 14時17分 左舷中部に魚雷1本命中、傾斜急激に増す。

  ○ 14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。

    総員上甲板(総員退去用意)を発令。

  ○ 14時23分 大和、沈没。(左舷側へ大傾斜、転覆ののち、前後主砲の弾火薬庫の誘爆による大爆発を起こして爆沈)。死者2740名、生存者269名。

最後の複数の魚雷が大和の右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。能村副長は防御指揮所から第二艦橋へ上がると有賀艦長に総員最上甲板を進言し、森下参謀長も同意見を述べた。伊藤長官は森下参謀長と握手すると、全員の挙手に答えながら、第一艦橋下の長官休憩室に去った。森下参謀長は第二艦隊幕僚達に対し、駆逐艦に移乗したのち沖縄へ先行突入する事を命じ、自身は大和を操艦するため艦橋に残った。有賀艦長は号令機で「総員最上甲板」を告げたが、すでに大和は左舷に大傾斜して赤い艦腹があらわになっていた。このため、脱出が間に合わず艦内に閉じ込められて戦死した者が多数いた。有賀艦長は羅針儀をつかんだまま海中に没した。第一艦橋では、茂木史朗航海長と花田中尉が羅針儀に身体を固定し、森下参謀長が若手将兵を脱出させていた。昭和天皇の写真(御真影)は主砲発令所にあって第九分隊長が責任を負っていたので、同分隊長服部海軍大尉が御真影を私室に捧持して鍵をかけた。一方、艦橋測的所の伝令だった北川氏の証言によれば、腰まで海水に浸かり脱出不能となった主砲発令所で中村中尉が御真影を腹に巻いているという報告があったのちに連絡が途絶えたとされる。  

■沈没

14時20分、大和はゆっくりと横転していった。艦橋頂上の射撃指揮所配置の村田元輝大尉や小林健(修正手)は、指揮所を出ると、すぐ目の前が海面だったと証言している。右舷外側のスクリューは最後まで動いていた。左舷の高角砲も半場海水に浸かり、砲身を上下させる隙間から乗員が外に出た。艦橋周囲の手すりには乗員が鈴なりにぶら下がっていた。14時23分、上空のアメリカ軍攻撃隊指揮官達は大和の完全な転覆を確認する。「お椀をひっくりかえすように横転した」という目撃談がある。

大和は直後に大爆発を起こし、船体が3つに分断されて海底に沈んだ。

大和の沈没時刻について「軍艦大和戦闘詳報」と「第17駆逐隊戦時日誌」では14時23分、初霜の電文を元にした「第二水雷戦隊戦闘詳報」は14時17分と記録している。爆発によって吹き飛ばされた破片は海面の生存者の上に降り注ぎ、それによって命を落とした生存者も少なくなかった。

所在先任指揮官吉田正義大佐(冬月、第四一駆逐隊)は、沖縄突入より生存者の救助を命じた。軽巡矢矧から脱出後、17時20分に初霜に救助された古村啓蔵少将は一時作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は生存者を救助のうえ帰途についた。

14時50分、冬月と雪風が駆けつけ、甲板から垂らしたロープや縄梯子、短艇(内火艇)を使って大和の生存者の救助を開始した。冬月は艦橋から望遠鏡で海上を探索し、2隻の内火艇に指示を出して救助を進めた。森下参謀長、石田第二艦隊副官は冬月の内火艇に発見され救助された。

頭頂部に裂傷を負った能村副長は森下参謀長から少し離れた海上を漂っていた。副長補佐の国本中尉が「副長ここにあり」と周囲の生存者を呼び集め、負傷者を中心に輪になって救助を待つと、雪風がボート(内火艇)を下して能村副長ら負傷者の救助を始めた。元気な者は縄梯子で甲板に上り、国本中尉は雪風の負傷兵と交代して配置についた。小林修正手も彼を救助した雪風が2隻の内火艇を降ろして、重傷を負って殆ど口と鼻だけ水面に出して浮いている兵や、体力を完全に使い果たし自力では動けない兵などを救助していたのを目撃している。能村副長は漂流中に意識を失い、雪風の水兵が一所懸命気付の張り手を加えても覚醒しなかった。大佐の襟章も重油で汚れていて本人確認が難しく、気絶したまま雪風軍医長の縫合を受けて生還した。

冬月、雪風による大和の救助作業は16時半頃に切り上げられた。雪風艦上では救助切り上げ、ボートの回収を命令した駆逐艦長に対して大和の士官が「まだ生存者が残っている」と救助の継続を訴えたが、日没が近くなり潜水艦の行動が活発化する恐れがあったこと、損傷艦を救援する作業が控えていたことから、そこで打ち切られた。冬月は霞、矢矧の救助を行った後、涼月の探索のため19時2分に先行して海域を離れ、雪風は矢矧の救助後、23時頃まで磯風の救援に当たった。冬月は潜水艦の追跡を受け、同じく雪風は潜水艦から雷撃されたが、両艦とも被害はなく、4月8日午前、救助した大和の生存者と共に佐世保に入港した。

大和では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名または276名、第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名であった。

うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円ほど)。大和を含めた各艦の用意金額は不明だが、少なくとも浜風に約14万円が用意され、同艦轟沈により亡失したことが記録されている。

4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、大和の名前も詳細も明らかにされることはなかった。

大和沈没の報は親任式中の鈴木貫太郎首相ら内閣一同に伝えられ、敗戦が現実のものとして認識されたという。同様の感想は、大和の沈没を目撃した米軍搭乗員も抱いている。終戦後の1945年(昭和20年)8月31日、戦艦4隻(山城、武蔵、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された。

4月30日、昭和天皇は米内海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した。

12月9日、GHQはNHKラジオ第1放送・第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で大和の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した。アメリカ軍の認識であるため、大和は排水量4万5000トンの戦艦として紹介されている。