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大和魂 ㊳

2018.05.22 14:16

http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より 

戦艦大和 1

■戦艦大和、その誕生

第二次世界大戦当時、世界最大の戦艦を日本が建造したことをご存知でしょうか。その戦艦は「大和」(やまと)といいます (1)、(2)。アジ歴では、戦艦大和に関する当時の生の資料を見ることができます。その資料には、大和の戦いはどのように記録されているのでしょうか。

戦艦大和の構想は、第一次大戦後に遡ります。大正11年(1922年)にワシントン海軍軍縮条約、続いて大正5年(1930年)にロンドン海軍軍縮条約が締結され、日本海軍の装備はアメリカ・イギリスの6~7割までとすることが決定され、主力艦の建造が中止されました。

海軍軍縮条約の期限は昭和11年(1936年)末でした。海軍の装備を制限する条約がなくなり、各国間での軍艦の建造競争となった場合、日本は総合的な国力で他の有力な国々に劣るため不利とならざるを得ません。そこで海軍は、艦船の数で勝負するのではなく、他国に勝る性能を有する戦艦を備えることを考えました。この際に重視されたのが、主砲の大きさでした。アメリカ海軍は、太平洋と大西洋を行き来する際にパナマ運河を通過していました。しかし、この運河の門の幅は33メートルであるため、ここを通り抜けることのできる艦船も幅がこれ以下の規模のものにほぼ限られました。戦艦で言えば、主砲の大きさが41センチ未満のものという計算になります。そこで日本海軍は、これを上回る大きさの主砲を備えた戦艦をアメリカ海軍が建造する可能性は低いだろうと判断し、さらに大きな46センチの主砲を備えた大戦艦の建造を計画したのです。こうして造られたのが戦艦大和でした。

■戦艦から航空機へ

昭和16年(1941年)12月8日、空母6隻を柱とする機動部隊がハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を奇襲し、二度にわたる攻撃によって停泊中の戦艦8隻のうち4隻を撃沈、3隻を大破させました。そのわずか二日後、日本海軍航空部隊は、マレー沖でイギリス東洋艦隊の主力戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈します。

日本のこの緒戦の勝利は、皮肉にも戦いの主役が大和のような戦艦から航空機へと移ったことを証明することになります。大和は「大艦巨砲主義」、すなわちより大きな砲弾をより遠くへ飛ばす戦艦を軸に海軍を編成するという作戦思想の産物でした。しかし、各国の航空機の性能が飛躍的に向上し、さらに洋上の基地となる航空母艦が主力になります。この状況の変化により、大和が必勝を目指していた戦艦による艦隊決戦自体が行われなくなりました。

昭和16年(1941年)12月の竣工後、大和は連合艦隊に編入され、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦で初陣を迎えます。その後、マリアナ沖海戦(米軍呼称はフィリピン海海戦、昭和19年(1944年)6月19日~20日)、比島沖海戦(米軍呼称はレイテ海戦、同年10月23日~25日)はともに対空戦闘に終始したため、大和の主砲が威力を発揮することはありませんでした。しかし唯一、比島沖海戦中、サマール島沖で米護衛空母部隊と交戦した際に敵艦に対して砲撃が行われ、この時が、大和が敵艦に向けてその主砲を放った最初で最後となりました。

■戦艦大和、最後の戦い

そして昭和20年(1945年)4月5日、大和に海上特攻隊としての出撃命令が下りました (3)。目的地はアメリカ軍が上陸を始めた沖縄でした。 (4) はこの作戦の時の軍艦大和の戦闘詳報です。戦闘詳報とは、後の作戦指導を適切に行うために、一つの戦闘終了後にその戦闘の状況を詳しく上級指揮官に報告する文書のことです。同画像の右上には「軍極秘」の文字があります。

(5) のページ以下に、この時の大和の詳細な作戦行動が記されています。大和は4月6日15時20分に出撃します。出撃する艦艇は10隻、第二艦隊旗艦大和以下、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦冬月・涼月・磯風・浜風・雪風・朝霜・霞・初霜。 (5) の下の「記事」には、その配置図が記されています。

隊形を整えた艦隊に対して、伊藤整一第二艦隊司令長官は指揮下の各艦に対し「神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替懸リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦敢闘、全敵ヲ必滅シ、以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ」、との訓示を伝えました(戸髙一成『戦艦大和に捧ぐ』)。

4月7日の8時40分、大和は米軍の航空機の編隊を視認しました。12時34分に「敵艦上機一五〇」に対し射撃を開始しました。しかし、数多くの米軍機からの攻撃を受け、およそ2時間後の14時23分に「前後部砲塔誘爆沈没」しました。 (6) によれば、大和の戦果は撃墜3機、撃破20機、その被害は「沈没(戦死艦長以下2498名)」と記されています。 (7) は大和の被害状況を絵図としてまとめたもの、(8) は戦闘詳報の中に収録されている大和の行動図です。

■生還者達の残した言葉

4月7日の海戦は、日本側では「坊の岬沖海戦」と呼ばれています。10隻からなる艦隊は、大和のほか矢矧・磯風・浜風・朝霞・霞の計6隻が沈みました。帰還した4隻のうち、涼月は大破、冬月・雪風は被弾もしくは至近弾を受け、初霜はほぼ無傷でした。

生還者達は、この戦いをどのように書き記しているのでしょうか、(9) の「参考事例(戦訓)」には、次のようなことが記されています。

戦況が行き詰まった際には、焦燥感にかられ計画準備に余裕がないということがしばしばであるが、特攻兵器を別として、今後残存駆逐艦等によるこの種の特攻作戦を成功させるためには、慎重に計画を進め、準備をできるだけ綿密に行う必要があり、「思ヒ付キ」作戦は精鋭部隊をもみすみす無駄死にさせてしまう、と書かれています。

また、大和を護衛した「第二水雷戦隊」の戦闘詳報では、作戦はあくまで冷静にして打算的でなければならない、いたずらに特攻隊の美名を冠して強引なる突入戦を行うのは失うところが多く、得るところは非常に少ない、と作戦そのものに対する厳しい批判が書かれています (10)。

■大和沈没とその後

4月7日の海戦の同日、後に戦争の幕引きを行う鈴木貫太郎内閣が誕生し、親任式が行われました。その親任式のあと、鈴木首相は控え室で大和の沈没を知らされたと言われています。

『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(7)戦争最終期』によると、4月30日、昭和天皇は、米内光政海軍大臣に対し下問され、「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と問われています。これに対し海軍人事局三戸壽少将と富岡第一部長は関係資料をもとに話し合い、「作戦指導ハ適切ナリトハ称シ難カルベシ」と結論付けました(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(7)戦争最終期』)。

そして、この作戦の4ヶ月余り後、日本は終戦を迎えることになります。

 

■戦艦大和 2

 

世界最大・最強を謳われた戦艦「大和」は、日本海軍がアメリカ艦隊に対抗するための最終兵器として開発した戦艦でした。攻撃力のみならず、各所に当時の最先端の技術が盛り込まれていました。しかし、既に時代は戦艦を中心とした海戦を必要としなくなっていました。日本の期待を一心に背負って生まれた大和は、なすすべもなく悲劇の象徴となっていくことになります。

■戦艦の役目

太平洋戦争以前の戦争では、敵の軍艦をより遠くから、強力に攻撃できる軍艦が求められていました。「戦艦」は軍艦の中でも特に大型で、大きな砲を積んでいるものを指します。戦艦からサイズを下っていくと、巡洋艦(じゅんようかん。その中でもサイズ別に重巡洋艦・軽巡洋艦に分かれる)、駆逐艦(くちくかん)、となります。強力な砲を搭載した戦艦は、戦闘において敵を倒すという目的以外にも、その国の威信の象徴であり、また、技術力・工業力の高さの指標ともなっていました。

■戦艦大和の基本コンセプト

戦前の日本では、ソ連とアメリカが主な仮想敵国でした。海軍が主役となる海における戦いは、太平洋を隔てて接しているアメリカとどのように対戦するかが大きな課題でした。アメリカは資源が豊富で、かつ日本よりもはるかに高い工業生産力を持っていたため、日本海軍は、物量で勝負するのは不利だと考えました。そのため、アメリカの戦艦の大砲が届かない距離から、強力な大砲を撃つことのできる戦艦を開発し、一つひとつの艦の「質」を高めることでアメリカと対抗するというのが日本にとっては重要であると考えられました。

その点日本は、有利な点が一つありました。アメリカは東海岸を大西洋と、西海岸を太平洋と接しています。軍艦を大西洋と太平洋で共に使えるようにするには、パナマ運河か、南米大陸をはるかに下って回り込まないといけません。南米大陸を回り込む航路は、パナマ運河を通るよりもおよそ2万km余計に進まないといけず、回航に多くの時間と労力、燃料がかかります。2万kmというのは東京・大阪間を直線距離で約20往復分であり、当時の戦艦の全速力に近い50km/hで走り続けても、約17日間かかります。そのため、基本的にアメリカの軍艦はパナマ運河を通れるように、パナマ運河の最も狭い部分である、幅33.5m以下になるように抑えられていました。

戦艦は大きな砲を積めば積むほど重くなり、その重さを支え、バランスを取るには必然的に艦の幅も大きくする必要があります。また、砲の威力が大きくなると、発射時の反動も大きくなり、発射時に艦をなるべく安定させるためにも幅を大きくすることは必要でした。そこで、日本海軍は、戦艦にそれまでよりもさらに大型の大砲を何門も積むことを考えました。それを進めていけば、いずれ艦の幅は33.5m以上にならざるを得ず、必ずアメリカよりも強力な戦艦になると考えました。大和には46センチ砲という、それまで主力とされていた40センチ砲と比べて6センチも口径が大きい大砲を9門(3連装×3基)搭載しています。この大砲は1基(3門セット)が全体で普通の駆逐艦以上の重さがあるという、巨大なものでした。その結果、大和の幅は一番太いところで38.9mとなっており、まさに「パナマ運河を通れない」軍艦であるばかりか、世界最大・最強の戦艦となりました。

この他にも大和には様々な特徴が盛り込まれた戦艦であり、当時の日本の技術力の結晶であると言えるでしょう。以下に大まかに大和の特徴を解説します。

■特徴

■世界最大の46センチ砲

大和の主砲(その艦で一番大きな大砲)の直径は46センチありました。この大砲は、最大の射程が出るように発射されると、砲弾は高さ1万1900メートル(富士山=標高3776mの3倍以上)まで上がり、90秒後に4万1千メートル(41㎞)の地点に落下しました。この距離はアメリカ戦艦で最大の射程を持つ40センチ砲と比べても、5000m(5㎞)遠くまで飛び、破壊力は1.6倍ありました。

大和の主砲の射程は、東京駅から発射したとすると、西は八王子のあたりまで、北は川越や春日部を通り超え、東は千葉市や市原市を含み、南は横浜を通り超え、横須賀の手前まで到達します。この距離を90秒で飛びました。

大阪駅から発射したとすると、北東方向には京都駅の手前、西へは神戸をはるかに通り越して明石の手前、南は泉佐野を通り越す範囲に届きます。

■工夫を加えた砲弾

さらに大和の46センチ砲は、砲弾にも工夫が凝らされていました。「九一式徹甲弾」(きゅういちしきてっこうだん、下写真左)は、砲弾の先に帽子状のキャップがついています。通常の砲弾は海面に着弾すると、飛び跳ねるか、まっすぐに沈んでしまうのに対して、九一式徹甲弾はこのキャップが外れ(下写真右の状態)、水面下をある程度の距離直進し、命中後艦の内部で爆発するように仕掛けてあります。そのため、敵の艦船の手前に着弾した場合でも、九一式徹甲弾だと命中し敵艦にダメージを与えられる確率が高まります。

もう一つが「三式弾」(さんしきだん、下写真中央)で、これは事前に設定していた地点に到達すると弾が破裂し、中から小さな弾が扇状に発射されるようになっています。主に上空から襲ってくる航空機に対して使用されました。小型の航空機に対しては大きな砲弾を当てる必要はなく(またそれは極めて難しい)、撃墜するには中から出る小さな弾で十分です。この三式弾が対航空機用の砲弾としてアメリカ軍にも恐れられました。

しかし、46センチ砲は威力が大きい分発射時の爆風がものすごく、艦上に人がいると吹き飛ばされ、命の危険すらあるほどでした。発射には慎重を期す必要のある、ある意味で危険な大砲でもありました。

■徹底した防御

戦艦が実際の戦闘を行う相手は、戦艦などの軍艦か、陸上の砲台が主に想定されていました(航空機による攻撃は、太平洋戦争が始まるまであまり重視されてきませんでした)。つまりこちらだけが一方的に撃つというよりは、大砲や魚雷の打ち合いになる可能性が高く、敵の砲弾や魚雷がある程度命中しても、艦を守ることができ、安定性に支障が出にくくすることが求められます。

大和は防御を強化するため、厚い装甲板で覆われていました。自らの46センチ砲を2万~3万5千メートルの距離から撃たれた場合でも、10発まで耐えられるように設計されています。中でも、砲塔、弾薬庫・火薬庫、機関部などの特に重要な部分は集中的に分厚い装甲板で覆われ、最も厚い部分で65センチ(砲塔)もの装甲板が使われていました。

また、艦内はいくつもの細かい区画に仕切られ、一部分が浸水しても全体に進水が及ばないように設計されていました。片方の側(片舷)が浸水したら、反対側にも同じ量の海水を注入し、バランスを一定に保つようになっています。このような工夫により、打撃に強く、浸水の場合もバランスを崩しにくい工夫が凝らされていました。

■サイズと速度のバランスを追究

船は一般的に、同じ重さであれば幅は狭くした方が水の抵抗が少なくなり、速度が出ます。しかし、幅を狭くするということは、浮力を得るために長さを長くする必要があるということにもなります。大和の場合は、重量級のため、幅を狭くし長さを長くすると艦の面積が大きくなり過ぎてしまい、敵の攻撃を受けやすくなります。そこで、太めの幅の設計が採用されました。上から見ると多少ずんぐりむっくりな様子が分かります。

大和の水面下の艦首(かんしゅ=艦の先頭)部分ですが、丸く出っ張っていることがわかります。これは「バルバス・バウ(球状艦首)」と呼ばれる設計で、船が進むときに生まれる水の抵抗を少なくする構造です。大和以前からありましたが、当時としてはこのように大きなバルバス・バウは世界でも珍しいものでした。設計の段階で大きな模型を50種類以上作り、バルバス・バウの最適な大きさを検討した結果、海面に接する部分から3m突き出すのが良いということが分かりました。

このバルバス・バウのおかげで、水の抵抗が少なくなり、より小型化することに成功したほか、燃費が向上しました。

■大和とイギリス・アメリカ戦艦 スペック比較

それでは、大和と、太平洋戦争中のイギリス・アメリカの代表的な戦艦とのスペックを比較してみます。数値は様々な条件で多少変わってくるため、あくまで参考としてください。

「プリンス・オブ・ウェールズ」…イギリス。新鋭艦として期待されたが、開戦初頭の「マレー沖海戦」で日本海軍航空部隊の攻撃で爆弾と魚雷数発を受け、「巡洋戦艦レパルス」と共に沈没。

「アイオワ」…アメリカ。太平洋戦争中盤に就役した戦艦で、この中では最も新しい。高速と長大な航続距離が特徴。

艦の重さを示す排水量を見ると分かるように、大和は他の2艦よりもずば抜けて大きく、アイオワの約1.3倍、プリンス・オブ・ウェールズの約1.7倍あります。しかし、全長はプリンス・オブ・ウェールズよりも40m長いものの、アイオワよりも7m短く、幅はアイオワよりも6m、プリンス・オブ・ウェールズよりも7m太くなっており、この排水量の艦としては、長さが短く、幅が太いのが特徴と言えます。

最高速度はアイオワが最も速く、これは主に機関の出力に起因しているものと思われます。以下の表にはありませんが、各艦の出力を並べると、大和15万4千馬力、プリンス・オブ・ウェールズ12万5千馬力、アイオワ21万5千馬力となっており、アイオワが最も強力な機関を備えていました。

最後に武装ですが、上述したように主砲は大和が最も大きく、副砲(その艦で2番目に大きな砲)も大和は最も大きなものを積んでいます。この表では大和の武装は最終時のものになっていますが、元々副砲はこの倍あり、代わりに高角砲や機銃はこれよりもかなり少なくなっていました。戦況が進むにつれ、航空機からの攻撃に対して防御できるようにすることが、敵の艦船を砲撃するよりも重要であるということがはっきりしてきたため、小回りの利きにくい大きな砲を下ろし、上空を飛ぶ航空機への攻撃に有効な小規模の火器を大量に積むようにしたのです。

■期待・栄光・悲劇―すべてを背負った「浮沈艦」大和

大和は日中戦争がはじまった年の1937(昭和12)年11月に建造が始まり、完成したのは太平洋戦争が開戦した直後の1941(昭和16)年12月16日でした。この間、連合艦隊の山本五十六司令長官は空母と航空機を主体にした攻撃法の開発を推し進め、41年12月8日の真珠湾奇襲攻撃、12月10日のマレー沖海戦で、これからは航空機が戦闘の主体であることを世界に向けて強烈に印象付けました。奇しくも、大和を生んだ日本海軍の手で、巨大戦艦大和の出る幕はないということを暗示されていたのかもしれません。

■大和ホテル

大和の開発はアメリカ・イギリスに対する秘密兵器として厳密に秘密にされ、国民にもその存在は隠されてきました。また、海軍部内でも艦隊決戦(日本・アメリカ双方の艦隊が撃ち合い、勝敗を決すること)の最終兵器として温存され、前半の数少ない戦艦が活躍する場面でも大和が投入されることはありませんでした。

大和は瀬戸内海や西太平洋トラック諸島の連合艦隊停泊地に長い間とどまったままでした。大和には当時の軍艦としては珍しく空調が整えられ、食事も他艦と比べると贅沢であったりと、他の軍艦よりもかなり良い居住環境でした。そのような大和が3000名の乗組員と共にずっと戦闘に出ないため、前線の部隊からは「大和ホテル」と皮肉を込められて呼ばれていました。

■活躍の場のなかった大和

日本軍空母4隻が撃沈されたミッドウェー海戦では、大和は空母部隊のはるか500㎞後方におり、戦闘とは無縁の場にいました。機動部隊が壊滅したマリアナ沖海戦に出撃したものの、砲戦はありませんでした。

大和がその自慢の主砲を初めて敵艦に向かって撃ったのは、敗戦の色が濃くなった1944(昭和19)年10月25日の「レイテ沖海戦(サマール沖海戦)」です。この時、大和を中心とする日本艦隊(栗田艦隊)は、アメリカ軍の護衛空母部隊(商船を改造した小型空母で構成され、機動部隊や輸送部隊に対して補助的な役割を果たす)に対して砲戦を挑み、護衛空母1隻、駆逐艦2隻を撃沈しました。

■自殺的な「水上特攻」により鹿児島沖で撃沈

レイテ沖海戦で目的を果たせぬまま連合艦隊の残存艦は日本本土に戻りました。その後も戦況は悪化の一途をたどり、1945(昭和20)年3月末、ついに沖縄諸島へ連合国軍が上陸を始めました。レイテ沖海戦で空母はほぼ壊滅し、残った航空機の多くは九州や台湾などの基地からの特攻攻撃につぎ込まれる状況で、上空の防衛は期待できませんでした。また、期待していた南方からの燃料も、アメリカ軍の潜水艦や航空機の攻撃によりわずかしか届かなくなり、軍艦を動かす重油(じゅうゆ)もままならない状態に陥りました。もはや、世界最大の戦艦「大和」を効果的に運用する余地はもうどこにもないことは明らかでした。

軍部は、国民全員で天皇陛下を中心とした国を守るため、使えるものは何でも特攻攻撃に投入する「一億総特攻」の方針を強めていました。瀬戸内海の砲台と化した大和にもその順番が回ってきました。1945年4月7日、大和は沖縄本島に向け「水上特攻」として突撃をしている最中、魚雷約10本、8発の爆弾を受け、海に沈んでいきました。

日本が明治維新を経て、西洋に負けない海洋国家として国づくりを目指して77年。「大日本帝国」繁栄の希望の結晶として生まれた戦艦大和は、今も沖縄の北、水深350mの海底に眠っています。