大和魂 ㊴
http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より
生還兵
■1 上官がくれた命 戦艦「大和」生還兵の証言
■憧れの海軍に
旧日本海軍が建造した世界最大の戦艦「大和」。太平洋戦争末期の昭和20(1945)年4月7日、沖縄海上特攻の途中、米艦載機の猛攻撃を受け、鹿児島県坊ノ岬沖で沈没した。乗組員3332人のうち、生還者は276人。
敵機との距離を測る測的手だった八杉康夫さん(87)=広島県福山市=は、沈没寸前の大和から海中に飛び込んだ。溺れかけたとき、上官に「頑張って生きろ」と丸太を渡され、生き残ることができた。
■
昭和2(1927)年秋、広島県福山市の豆腐屋で生まれました。小学校でピアノに出会い、中学校に入った時にアコーディオンを買ってもらいました。当時はとても高価な楽器でしたから、夢中になって練習しました。学校の勉強はできる方でした。
太平洋戦争が始まったのは中学生のときです。陸軍は荒っぽいが、海軍はさっそうとしていて格好が良く、ひかれました。海軍が志願兵を募集していることを知ったときは、迷うことなく飛びつきました。
昭和18(43)年に大竹海兵団に入りました。「軍人である前に立派な人間になれ」という団長の言葉を聞き、海軍に入って良かったと思いました。その後、横須賀の砲術学校に配属になりました。そこでは、敵の艦隊や飛行機に大砲を撃つために距離を割り出す「測的」をひたすら勉強しました。成績優秀者だけが選ばれる補修員にも選ばれました。
ある日、分隊士に呼ばれました。昭和20年1月3日のことです。通常なら、上官とは1メートル離れて立たなければいけないのですが、分隊士は「いいから前へ来い。耳を貸せ」と言います。反射的に殴られるのかと身構えると、「いいか、お前の行き先は大和じゃ。良かったな」と耳打ちされました。
「あの船は絶対に沈まない。大和が沈むときは日本が沈むときだ」。憧れの大和乗艦を命じられ、涙が出るほどにうれしかったです。その時は17歳の上等水兵でした。
■大抜てきの測的手
大和は全長263メートル、46センチの3連装砲塔3基を搭載した史上最強の戦艦です。とても大きくて、初めて見たときは島かと思いました。
任務は、主砲を撃つため、艦橋の最上部にある測距儀(そっきょぎ)で敵艦隊や敵機との距離を測り、砲手に指示を送ること。測的手とも言います。
当時の測距儀では5万メートル先まで測れ、主砲の最大射程距離は4万メートルでした。大和の測距儀は長さが15メートルもあり、とても大きかったですね。
そこに、5人で配置に就く。艦橋の一番上で、海面から30メートルの高さにあります。重要な任務に17歳で大抜てきされたこともあり、一目置かれる存在になりました。
昭和20年3月29日、大和は沖縄戦に向け呉を出港します。4月6日には三田尻沖(現・山口県防府市)を出て、みんなで皇居の方に向かって敬礼し、国歌を斉唱しました。さらに「海行かば」を歌い、故郷にも別れを告げるよう命じられました。
「こういう歌い方、別れ方をさせるのか」と思いましたね。
3月26日には特攻を意味する「天一号作戦」が発動されていましたが、この別れで、特攻であることを改めて実感しました。世界一の戦艦で特攻したら日本は終わりだと思っていましたから、特攻はあり得ないと信じていました。
【戦艦「大和」】 昭和16(1941)年12月に呉海軍工廠(こうしょう)で竣工(しゅんこう)。全長263メートル、最大幅38.9メートル、最大速力は27.46ノット。世界最大の46センチ3連装砲塔を3基搭載。同型艦の「武蔵」に引き継ぐまで連合艦隊旗艦を務めた。
■襲い掛かる魚雷
4月7日は朝から曇っていました。飛行機が雲に隠れると測的が難しいので、「嫌だな」と思ったのですが、お昼におにぎりを食べながら、「来るなら来い。1機残らず撃ち落としてやる」と自分を奮い立たせました。
昼食中に見張りが敵機を発見。すぐに測距儀に飛びつき、レンズをのぞくと無数の飛行機が迫ってきました。あまりに多かったため、真っ黒な塊に見えました。
距離を測ろうとしたとき、敵機は高度を上げて厚い雲に隠れました。そうなると測れません。打つ手がないのです。「何のための訓練だったのか」と、とても悔しかったです。
午後0時半ごろ、米軍機は真上から突っ込むように攻撃を始めました。主砲は距離があるときに撃つのが目的ですが、距離が測れなかったため、結局、最後まで放たれることはありませんでした。最初に使ったのは史上最大の主砲でも副砲でもなく、機銃だったのです。
米軍は大和の左舷を狙って魚雷を撃ち込んできました。攻撃は第一波、第二波、第三波、第四波とどんどん続き、その度に艦が大きく揺れます。砲術学校では15度傾いたら船は限界と習っていましたが、巨艦は15度、25度と傾いていきます。
大和には注水システムがあったので、片方から水が入るともう片方にも水を入れ平衡を保つようになっていました。そのため、いったんは平衡になり、「やっぱり沈まないのだ」とうれしくも思いましたが、攻撃を受け続け、結局、どんどん傾いていきました。
艦橋から後部を見ると、白煙が上がっていました。甲板は死傷者であふれ、衛生兵が吹き飛んだ腕や足を海に放り投げていました。
■沈没、そして重油の海へ
50度ほど傾いたときだったと思います。海軍では持ち場を離れることは許されていないのですが、ついに「逃げろ」を意味する「総員、最上甲板へ」という命令が出ました。
海に飛び込むしかないと思ったときです。目の前にいた少尉が戦闘服を脱ぎ、ベルトを外しました。戦闘帽を日本刀に巻き、腹に刺したのです。少尉は一気に腹をかっさばき、大量の血が噴き出した。当時は割腹の方法も習っていましたが、その通りに実行しました。
「やめてください」と言いたいが、凍りついて声が出ません。世話になった少尉の割腹は、17歳の自分には信じられない光景でした。震え上がったまま、静かに敬礼しました。気付くと艦は90度まで傾いていて、波が目の前まで来ていました。
艦橋から海に飛び込みましたが、今度は沈む大和がつくる大きな渦に巻き込まれました。水圧で胸が締め付けられ、息ができません。午後2時23分、大和は沈没し、爆発。その衝撃で海面に浮き上がったのですが、鉄片で右足を負傷しました。爆発後、しばらく気を失っていたと思います。
泳ぎは得意だったのですが、傷を負ったこともあり、重油があふれる海で溺れだしました。「助けてくれ」と思わず叫んでしまい、すぐにしまったと後悔しました。
すると、そばにいた高射長が近づいてきました。怒られるのかと思ったのですが、高射長は「落ち着け。もう大丈夫だ」と優しく声を掛けてくれました。そして「お前は若い。頑張って生きろ」と、つかまっていた丸太を渡してくれたのです。礼を告げた後、しばらくの間、泣いていました。
■死を選んだ高射長
海で4時間ほど漂流しました。その間、大和の鋼鉄の破片に当たって死ぬ人や、渦に巻き込まれる人、冷たい海に体力を奪われ力尽きる人が大勢いました。
生き残った者で簡単ないかだをつくり、それにつかまっていました。海はものすごく冷たく、そのうちに睡魔に襲われました。
「死んでもいいから眠りたい」と思うほどの睡魔です。自分より年下の水兵は睡魔に負けて眠ってしまいました。そばにいた上官が「眠ったら死ぬぞ」とその水兵を殴りました。彼は「申し訳ありません」と目を覚ましましたが、またすぐ眠ってしまいます。
そのうちに、別の上官が「もう眠らせてやれ」と言いました。彼は海の中へ沈んでいきました。かわいそうでしたが、どうすることもできません。そして、次は自分の番だと思いました。
夕方に駆逐艦「雪風」「冬月」が来ました。生き残った者たちは一斉に救助のロープに群がりました。人が殺到している場所を避け、艦の後部に回ったところ、そこに丸太をくれた高射長がいたのです。
「高射長」と声を掛けると、高射長はあごで「行け」と合図をしました。そして、駆逐艦に背を向け、大和が沈んだ方へ泳いでいきました。海の中へと消えていく姿に「高射長」と何度も叫びました。
あんなに大きな声を出したことは、生涯でありません。力の限りの声を振り絞り、何度も叫びました。
自分に「生きろ」と言った人が、自分の目の前で死を選ぶ。その姿を見届けたときの気持ちは言葉では言い表せませんが、空の攻撃から大和を守る最高責任者だった高射長は、大和と運命を共にすることを選んだのだと思います。そして、自分に命をくれたのだと思っています。
■被爆直後の広島で
その後、呉に戻りましたが、重油も動ける戦艦もありませんでした。間もなくして陸戦隊に入りましたが、本土決戦を控え、銃さえ十分になかったのです。このとき「日本はもう駄目だ」と痛感しました。5月に水兵長に昇格し、呉鎮守府の第23陸戦隊に配属になりました。
夏になりました。8月6日、広島に爆弾が投下されたときは呉にいました。朝8時ごろ、B29が1機だけ飛んでいきました。その数分後、パァーと光りました。直後に猛烈な風が吹き、防空壕に飛び込みました。
翌7日、広島駅の復旧作業のため、広島に向かいました。駅の周辺には男女の区別がつかない真っ黒な死体がごろごろとありました。死体置き場になっていたのです。
8日は部下2人を連れて、市内に偵察に入りました。現在の原爆ドーム付近や爆心地にも行きました。京橋川の土手にはたくさんの死体が横たわっていました。
その様子をスケッチにして、帰ろうとしたときです。子どもに両足をつかまれたのです。小学4~5年生くらいの少年でした。か細い声で「兵隊さん、水をください」と言いました。当時、重傷者には水を与えてはいけないと教えられていたため、「戻ってくるから待っておれよ」と言い聞かせ、その場を離れました。
その後、少年のところには戻りませんでした。あの子はきっと自分が水を持って戻ってくるのを待ちながら死んだはずです。なぜ、水をあげなかったのか。水を飲ませて死なせてあげればよかった。70年たった今でも、悔やんでいます。
■「頑張って生きました」
戦後はアコーディオン奏者になり、NHKで始まったのど自慢大会での伴奏を任されました。その後、調律師になりました。被爆の影響から輸血が必要な時期もありました。大和のことが忘れられず、1980年代に入った頃、海中に眠る大和探しにも携わりました。
日本は平和ぼけなどとも言われていますが、殺人事件なども絶えない中、戦争を知らない若い人たちに平和について考えてほしいと思うようになりました。たった数十年前に、日本で何が起こっていたのか、そのことについて考えてもらいたいです。
不沈戦艦の沈没は、晴天の霹靂(へきれき)でした。大和と死ぬのは名誉だと信じていましたが、自分は生き残りました。
生き残ったことに対する罪悪感にさいなまれながら、生きたくても生きられなかった仲間のため、生涯をかけて大和のことを世に残そうと語り部になりました。これまでに全国で600回以上の講演を行いました。
今年の秋、88歳になります。死ぬのは怖くありません。大和が沈んだとき、死んでもおかしくなかったのですから。死んだら仲間に会えると思っています。みんなに胸を張って会いたいです。そして「頑張って生きました」と高射長に伝えたいです。
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・志願兵にも試験があり、国語、歴史、数学、身体能力、鉄棒にぶら下がったり、走ったり、片手でロープに20秒以上ぶら下がるというのもあり、その試験結果から通常は甲乙丙に分けられるが、めったにない「甲上」の判をもらう。
・海軍では「罰直」といって、「精神注入棒」などと書かれたバットを少し細くしたような木の棒で尻をしたたかに殴る制裁があった。
・海軍の「総員起こし」は15分前から始まり、次が「総員起こし5分前」そして「起床ラッパ」で起きなければならない。目が覚めたからといって先に起きたら駄目とのこと。
・大和には3連装が3つの計9門の口径46cm長さ21mの主砲があるが、並んだ3門を一斉に撃つと、弾同士の空気圧で、弾道がずれてしまうため、0.3秒ほどずらして撃つ
・戦闘配置は艦橋のてっぺんで、海面からは30m以上、甲板からも24m以上。
・大和の艦内は防水区画などで細かく区切られていて迷路のため、最初の1週間は「新乗艦者」という腕章を腕に巻く。「艦内旅行」という試験があるが、筆者は1時間半で帰ってこれたが、半日経っても戻ってこない新乗艦者が2名いて、艦内スピーカーから「何某が行方不明、総員手分けして捜索せよ」という号令があってようやく見つかった。
・大和の測距儀は日本光学(現ニコン)が命をかけて作ったもので、直径60cm、長さ15mもあり、その中にはレンズが多数組み込まれていて5万mまで測定でき、4千から5万まで目盛がある。飛行機は5万mに近づく前に見つけられる。最初は「現在、測距不能」となるが5万m以内に寄ってくると「測的開始、測距始めえ」となる。
・大和の食事は素晴らしかった。なぜか肉じゃがが多かった。金曜はカレーライスで人気があった。鯖の煮付けも美味しかった。
・大和の風呂には上等兵は自由に入れた。2つの浴槽があり、1つは海水、1つは真水の湯だった。「洗面器3杯」の真水制限があった。
・大和乗艦は秘密で、自分から電話をかけてはいけない。軍の盗聴もあった。
・上陸の際は、「衛生サック」というコンドームを渡される。性病の蔓延を防ぐため。ネイビーブルーの袋に桜と錨の模様で「突撃一番」と書かれていた。
・昭和20年4月2日か3日ごろ「艦内の可燃物、すべて、陸揚げせよ」との命令があり、イス、机から燃えるものはすべて「団平船」という船に積み込む。従って、博物館などで大和の司令長官のイスなどが残っている。
・4月5日は最後の酒盛りの「酒保開け」がある。夕飯は午後5時に終わり、宴は午後9時まで続く。ワイン、チーズ、饅頭が出てくる。日本酒は広島のもので「賀茂鶴」「千福」「酔心」だった。
・4月5日には3月末に兵学校を卒業したばかりの候補生44名と経理学校の主計候補生2名が足手まといとなるため、横付けされた駆逐艦「花月」に降ろされる。
・4月6日には最後の郵便物、肉親への遺書作成があり正午が締め切りだった。郵便運搬船が運ぶ。
・沖縄特攻について「大和は片道燃料だった」と言われるが、たしかに命令書は片道とあったが、立ち会った機関科の兵曹の話では、燃料を徳山で入れて4300tあったようで、16~17ノットで大体沖縄を充分に一往復できる燃料があったとのこと。
・運命の4月7日は全天が雲に覆われ、雲高千m、雲量10だった。朝7時ごろゼロ戦約20機が艦橋の周囲を回り、バンクで挨拶し、パイロットは手を振ってくれる。その1時間後には敵のグラマン数機が現れ、大和と同じ方向に飛ぶ。9時45分ごろゼロ戦が戻ってくる。その10分後に敵偵察機のマーチン大艇が現れる。
・10時ごろ「戦闘配食、急げ」と声がかかる。主計兵が大量のごま塩の握り飯を作る。大和には相撲部があり、相撲部員用は大きい握り飯だった。
・曇りのため敵機は雲の上から現れるため主砲はまったく使えず、最初に使われた大和の武器は25mmの機銃だった。最後に使うはずだった武器がいきなりの接近戦でダダダッと火を噴いた。すぐに護耳器をつける。耳栓のようなものだが、人の声は聞こえるすぐれもの。
・およそ200機と言われる敵機の第1波は4月7日の12時40分ごろだったが、襲われて5分もしないうちに後部艦橋へ爆弾2発が落ちる。250kg爆弾と言われたが、筆者はその破壊力から500kg爆弾と推測する。そこにあった副砲は油圧装置が故障して動かなくなり、後部13号電探室にいた電測兵は肉片ひとつ残らずに吹っ飛び、通信も駄目になり、僚艦の駆逐艦「初霜」が大和の通信艦となる。
・大和に魚雷が命中すると測距儀が激しく揺れ動く。爆弾と違って艦全体が盛り上がる感じになる。
・第1波が去ったあとに、上から甲板を見ると地獄で、応急員がホースで甲板の血を流していた。負傷者や死体を衛生兵が走り回って運んでいたが、ちぎれた腕や足はぼんぼん海へ投げ捨てていた。
・第1波が去ったあと、10分ぐらいで第2波がきた。午後1時半ごろで約150機。雷撃機が多く、大和は左舷に3本の魚雷を受けてしまう。
・第2波が去ったあと小便に行きたくなる。第3波の空襲が始まり、魚雷があたる振動が起きるが震度5ぐらいの感じで、9発当たったように感じる。実際は左舷に9発、右舷に1発。ついに大和は左へ25度も傾くが、「傾斜復元を急げ」という声がすると大和は反対側に海水を入れて元に戻る。
・午後1時50分ごろ「軍医官は総員戦死した。負傷者を救護所へは運ぶな。その場で処置せよ」という放送がある。
・そこへ第4波の空襲があり、その時には傾斜角は40度にもなり、喫水線もどんどん下がり、もう戻らなかった。
・沈没の最中、筆者は恩人の日本刀による割腹の場面を見てしまう。
・大和が傾いていくときの鋼鉄のきしむ音はウォーン、ウォーンという音に近い。ギーッというような感じではない。まるで遠くでエコーが響くようなファンタジックともいえる音で不気味な音だった。
・ほどなく大和は90度まで傾き、筆者は必死で海へ飛び込む。海面上38mの高さだった艦橋の頂上が海水面から1mくらいになっていた。しかしすぐに巨大な渦に巻き込まれ、他の兵隊が左肩にばーんとぶつかって、何十メートルの深さまで沈んだかわからない。水圧のせいで胸に焼け火箸をつっこまれて引っ掻き回されるような痛さだった。「もう終わりだ」と観念したとき、深い群青色の海に突然ぶわーっとオレンジ色の強い閃光が走り、その後意識を失う。
・大和大爆発の原因は、主砲弾の爆発かと言われていたが、沈没から40年後に坊ノ岬沖東シナ海の海底に大和が発見されたとき、主砲弾はそのまま海底にごろごろあったことから、砲弾を撃ち出すための膨大な量の火薬類に引火したのが真相の模様。
・海中深くから爆発のために偶然にも海面に押し上げられた筆者は、ぽっかりと浮き上がり、同時に意識が戻る。そこは重油に覆われた海だった。空一面にはアルミ箔をちぎったようなものが、きらきらと輝いていたが、それはアルミ箔ではなく大和の鋼鉄の破片で、泳いでいた多くの兵が目の前でその鉄片に当たり声もなく沈んで行った。鉄片で頭を割かれて一瞬で顔が真っ二つになったり、両足を切断されたり手首を落とされおぼれていく人もいた。筆者も右足に当たり、立ち泳ぎで泳いでいるのにどうしても体が斜めになってしまう。当たったあたりを触るが感覚がなかった。周囲には火薬庫の断熱材に使われていたコルクの破片がいっぱい浮いていた。
・まだ4月はじめなので、寒さで体が震えだしてきて、そして震えも止まり、今度は激しい睡魔が襲ってきた。1期後輩の少年が丸太を枕のようにして顔を海水面すれすれにして眠っていたが、上官が気付いて顔をびんたで張り飛ばして起こし、そのたびに少年はぱっと目を開けて「申し訳ありません」と答えるがすぐに眠ってしまう。少年は丸太に頬を擦り付けるようにして静かに海中に消えていった。
・上半身を10度前に倒してズボンの中へ小便すると、温くなり生き返った気がした。
・ちょうどその時、駆逐艦の「雪風」と「冬月」が救助に来る。待ちきれずに服を着たままクロールで2人泳ぎ出すが、消耗が激しすぎるため、2人とも半分もいかないうちに海面から消えてしまう。
・駆逐艦からは縄梯子やロープが下ろされるが、地獄の争いとなり、引きずり落とされて二度と浮かばない人もいた。筆者は恐怖感を覚え一人で「雪風」の後部の方へ泳ぎだす。そのとき浮き輪つきのロープが投げられ、必死に体を通すと、運悪く1機の敵飛行機が現れ、「雪風」は70km/hの全速力で逃げ出し、飛び魚のようにジャンプしてしまう。「今度こそ、もう駄目だ」と思うが敵機は去り、艦が止まってくれて最後に助けられる。救助された兵は安心して死んでしまうことがあるので、殴って気合を入れられる。「貴様あー、良かったなあ、よかったなあー」と、ぼろぼろ涙を流しながら筆者を殴り続けてくれる。
・タオルで顔を拭いてくれ、毛布をもらい、「赤玉ポートワイン」をもらうがそれは罠で、ゲーゲー吐いてしまうが重油やコルクがいっぱい出てくる。残ったワインで口をゆすぐ。吐き終わったあと、新しいふんどしをもらい、消化できるよう柔らかい握り飯をもらう。助けてくれた命の恩人の名前を聞くが、安堵感からか記憶を吹き飛ばしてしまう。戦後も調べるが恩人は未だに分からない。
・「雪風」は帰路に航行不能となった「礒風」に魚雷を命中させて沈める。「冬月」は「霞」を同じように沈める。米軍に捕獲されて機密が漏れるのを防ぐため。
・敵の潜水艦の魚雷が、「雪風」の帰り際に発射されるが、旋回して魚雷をかわす。
・4月8日午前10時前ごろ、佐世保へ帰る。
■2 大和沈没から生還した男 引き揚げ話に「そっとしておいて」
戦艦「大和」の元乗組員、疇地哲(あぜち・さとし)氏。沈没後、漂流する海の中で「米軍に負けてなるものかと思った」と語る91歳の生き証人は、不沈艦の最期を体験して何を思ったのか。
昭和19年(1944年)3月に第96期普通科砲術練習生を首席で卒業した私は、第一志望の不沈艦「大和」に乗り組むことができた。
水兵長となっていた私の配置は、右舷第11機銃群の従動照準器射手。21番・23番機銃の照準を行うこの従動照準器には、指揮官・器長・伝令と射手の私の4人がつく。艦首方向を0度とし、時計回りに160~180度(右舷最後部)が受け持ち範囲だった。
敵機の速度や進入角度を入力すると、機銃の発射角度が自動的に計算される。少しでも時間があれば、新田器長が砲術学校高等科でとっていたノートを見て勉強した。12基ある従動照準器の射手のうち、高等科卒業の下士官でないのは私だけだった。居住区ではベッドで寝られて、トイレも洋式で水洗。すべてが特別だったと分かったのは、実は戦後である。
マリアナ沖海戦(昭和19年6月)では、「大和」に損害はなかった。最新鋭の空母「大鳳」が沈んで、小型空母もやられたと聞いたが、負けたとは思わなかった。
レイテ沖海戦(同年10月)では、シブヤン海で同型艦「武蔵」が撃沈される。「大和」も前部に直撃弾を受けたが、揺れさえしなかったので戦闘中は気付かなかった。敵は高度2000mくらいを水平飛行しているが、機銃の射程は1500mくらいなので届かない。だから、敵機が急降下爆撃する時には、突っ込んで来る先で当たるようにタイミングを見計らって撃った。
激しい戦闘でレイテ湾突入直前に反転(※注)したことは分からず、ブルネイに戻ってきてから知った。〈※注/当初作戦では「大和」など第一遊撃部隊が敵上陸部隊を殲滅するためレイテ湾に突入する予定だったが、レイテ湾目前で反転し、「謎の反転」と呼ばれた。〉
そして最後となる沖縄特攻(昭和20年4月)では、出撃前に一番砲塔の上から能村副長が「4月8日黎明に中城湾に突撃して浮き砲台になる」と訓示した。一番砲塔横の黒板に、「総員 死ニ方用意」と書かれていたのを覚えている。いったん軍隊に入れば、お国のために命を捧げるのが当然の務めであり、親孝行でもあると当時は思っていた。
4月6日出撃の際には、日本の見納めだとは思っても、自分が死ぬとはなぜか考えなかった。4月7日は朝から曇っており、午前11時頃に戦闘配置となる。そのあと電探(レーダー)から「左舷に大編隊」、しばらく経ってから「機種はグラマンF6F(艦上戦闘機)」と知らせてきた。やがて敵機が見えてきて、右舷30度のあたりで大きな白い綿雲に入ったり出たりしながら、向かって右方向へ進んでいる。その頃から天気が悪くなった。
ついに敵機が雲から出て右舷160度(艦尾)から急降下してきたので、対空射撃が開始される。距離は2500mくらいで、右舷からは急降下爆撃が来た。こちらが撃った機銃弾が命中したかどうか分からず、敵機が爆弾を落とすたび、続く二番機か三番機を狙った。撃墜された敵機が、右舷後部の海面に突っ込んでいくのを一度だけ見た。(敵は大和の左舷に攻撃を集中させたが)左舷から集中的に来た雷撃機は、こちらからは見えなかった。
沈没したのは午後2時23分だが、その30分以上前からすでに対空兵器は全部使用不能であった。魚雷や爆弾の命中で、もう電路がいかれて傾斜している。「総員退去」命令の前に、最上甲板の半分が沈んで浸水していた。機銃が撃てなくなったので配置を離れ、左舷側に傾いて海面上にむき出しになった“赤腹”まで歩いて行って靴を脱いだ。この期に及んで、初めて「大和」は助からないと思ったものである。
後部から海に飛び込んで、500~600mほど離れたところで、大爆発が起こる。3番砲塔の弾庫が誘爆したように見えたが、火柱が収まった時に「大和」の姿はなかった。防舷物(当時は竹製)が流れてきたので、5~6人でつかまった。
服は着たままで、「大和」から流れてきた重油で真っ黒。でも最後まで死ぬとは思わず、「米軍に負けてなるものか、必ず生きて帰るんだ」と自分に強く言い聞かせる。どこを見ても水平線なので、もう味方のフネは全滅だと思っていた。
3時間くらい経った日没前、「雪風」が近くに来てくれた。ジャコップ(縄梯子)を垂直によじ登って救助されると、露天甲板で衛生兵が目の消毒だけやってくれた。
4月15日に呉へ帰ると、「『大和』のことはしゃべるな」と厳命される。しかし下宿に戻ると「あんたは本物の疇地さんか?『大和』が沈んで全員戦死って聞いた」と言われた。
砲術学校を首席卒業して学校長から拝領した時計は、今も2時23分を指している。70年以上たっても忘れられず、4月7日その時刻に南西の方角へ向かって手を合わせている。海底の「大和」が発見されて引き揚げようという話になった時は、東海地区大和会もみんな反対だった。戦友がたくさん死んだ身としては「大和」を枕に安らかに休んでほしい、そっとしておいてほしいという思いである。
■3 命が削られる音がした…」沖縄水上特攻・生還者たちの証言
時代遅れの巨大戦艦「大和」とともに
■「何とか生きて帰ろう」と思ったが…
「燃料は半分。飛行機の護衛はない」
今から73年前の1945年4月、駆逐艦「雪風」の寺内正道艦長は、西崎信夫さん(91)たち乗員にそう話した。「特攻だ」と。
「母親から『是が非でも生きて帰ってきなさい。それでこそ立派な兵隊ですよ』と言われていました。だから、『何とか生きて帰ろう』と思っていました」
実際、西崎さんは1944年、かつて世界最強を謳われた、連合艦隊の機動部隊が壊滅したマリアナ沖海戦、その連合艦隊自体が事実上壊滅したフィリピン沖海戦、さらには護衛していた巨大空母「信濃」が米潜水艦に撃沈された海戦からも生きて帰った。しかし「特攻」と聞いた時は「『いよいよこれはダメだ』と」。
第二次世界大戦末期、劣勢の大日本帝国陸海軍が進めた特別攻撃隊=「特攻」について、筆者は昨年3回、現代ビジネスに寄稿した。いずれも戦闘機や爆撃機などが爆弾もろとも敵艦に突っ込む「航空特攻」について取り上げたものだ。
しかし、特攻にはそれ以外にも水上の軍艦による特攻(水上特攻)や小型潜水艦などによる特攻(水中特攻)があった。
ドラマや小説、ノンフィクションでも繰り返し描かれてきた航空特攻ほどは知られていないだろう。だが、これらの特攻では航空特攻に匹敵するほど多くの兵士たちが死んでいった。
「水上特攻」の代表は、戦艦「大和」など10隻による沖縄水上特攻がそれである。筆者はこれまで、「大和」を中心にこの特攻から生還した人たち30人近くに取材をしてきた。本稿では、この「特攻・大和艦隊」のことを振り返ってみたい。
■「世界最強」のはずが…
1941(昭和16)年12月に始まった米英などとの戦争で、大日本帝国は当初、勝利を重ねた。だが連合国軍が体制を整え本格的な反攻を始めると、劣勢に転じた。決定的だったのは1944年。ことに7月、サイパンやグアムなどマリアナ諸島を米軍に占領されたことだ。米軍がここを拠点に、大型爆撃機B29による日本本土爆撃が可能になった。
そのことを、日本の為政者たちは知っていた。だが、戦争をやめなかった。そのため被害は拡大した。戦争による日本人死者310万人のうち、実に9割が1944年以降と推算されている。
同年10月には、フィリピン戦線で航空特攻が始まった。「大和」など連合艦隊の主力が、フィリピン・レイテ島に上陸した米軍を撃退すべく、航空機の援護がないままに出撃した乾坤一擲の戦いであった。
「大和」は開戦間もない1941年12月16日に竣工した。全長263メートル、全幅38・9メートル。基準排水量6万5000トン。「世界最大」の戦艦であった。また戦艦の存在価値は主砲で決まる。「大和」の主砲は四六センチ砲九門で、最大射程距離は四二キロ。同時代の、他のどの国の戦艦より主砲が大きく、射程距離は長かった。
「大和」は「アウト・レンジ」戦法、つまり敵艦の砲弾が届かないところから、その巨砲で一方的に攻撃することができるはずだった。「世界最強」と謳われた所以である。
これは、敵味方の戦艦が主砲を打ち合って雌雄を決する(たとえば1905年、日露戦争の日本海海戦)という戦術思想に基づくものである。また、航空機は戦艦を沈められない、という前提もあった。ところが航空機の発達により、海戦の主力は戦艦から航空機とそれを積む航空母艦(空母)を中心とした機動部隊に移っていった。
「大和」は、誕生した時点で時代遅れの巨大兵器だった。帝国海軍が期待したような、アウト・レンジで敵艦隊を撃滅することはなかった。そもそも、「大和」にはそういう戦闘場面すらなかった。
「大和」が期待された戦果を挙げられなかったのは、海軍が使い道を対水上艦隊にこだわり続けたせいでもある。たとえば早くから機動部隊の護衛として、あるいは上陸した米軍を艦砲射撃で叩くことに使用されていれば、それなりの戦果を挙げただろう。
■水上部隊だけ何もしないわけには
ともあれ戦局の大きな節目となった1944年は、帝国海軍にとっても最悪の年になった。まず7月、前述のマリアナ諸島を守るべく出撃したマリアナ沖海戦で米海軍に惨敗。かつて世界最強だった機動部隊が壊滅した。さらに10月には、前述のレイテ島を巡る海戦で連合艦隊そのものが事実上壊滅した。「大和」とともに「浮沈艦」と言われた姉妹艦の「武蔵」も撃沈された。
為政者たちがずるずると勝ち目のない戦いを続けるうち、敵は日本本土に近づいてきた。そして1945年4月1日、米軍が沖縄に上陸した。この米軍を撃退するために出撃したのが「大和」特攻艦隊である。「大和」以下、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「磯風」「濱風」「朝霜」「霞」「冬月」「涼月」「雪風」「初霜」からなる「第二艦隊」の10隻であった。
航空機の援護を持たない艦隊は、敵の機動部隊には勝てない。勝てないどころか惨敗を喫する。そのことは、ほんの半年前、フィリピン近海で学んでいたはずだ。
さらに沖縄近海を遊弋する米海軍の戦力は、機動部隊以外でも「大和」艦隊を桁外れに上回っていた。たった10隻でそこに殴り込んでも、勝算はほとんどない。そもそも沖縄にたどり着くことすら極めて難しい。無謀そのものの「作戦」だった。
このため海軍内部では反対論が強かった。第二艦隊でも伊藤整一司令長官以下、なかなか賛成しなかった。
こうした、失敗の可能性が極めて高い特攻が発令されるには、いくつかの背景がある。まず、底が見えてきた燃料事情だ。開戦直後に侵攻した、東南アジアの石油産出地域は占領を続けていた。しかしそれを運ぶ補給路を連合国軍に押さえられているため、運ぶことができない。備蓄の燃料が少なくなる中、膨大な燃料を消費する巨艦は「厄介もの」扱いされつつあった。
さらに連合艦隊参謀長だった草鹿龍之介の証言によれば「一部の者は激化する敵空襲に曝して何等なすところなく潰え去るその末期を憂慮し、かつまた全軍特攻として敢闘している際、水上部隊のみが拱手傍観はその意を得ぬというような考えから、これが早期使用に焦慮していた」(『聯合艦隊』)という雰囲気があった。
つまり、このままでは敵の空襲でなにもしないままやられてしまう。あるいは航空特攻を初めとして「全軍特攻」を標榜する中、水上部隊だけがなにもしないというわけにはいかない、といった危機感だ。
■昭和天皇への「忖度」
さらに、昭和天皇の影響もあった。
2014年9月、宮内庁が公開した『昭和天皇実録』(『実録』)には以下の記述がある(1945年3月26日の項)。
「御文庫において軍令部総長及川古志郎に謁を賜う。なおこの日午前十一時二分、聯合艦隊司令長官は天一号作戦の発動を令する」と記されている。「天一号作戦」とは、沖縄方面での航空特攻を主体とするもの。及川が作戦の詳細を説明したとみられる。
さらに4日後の30日、天皇は及川に会い「天一号作戦に関する御言葉への連合艦隊司令長官よりの奉答を受け」(『実録』)た。
及川が答えを言うからには、昭和天皇から何か質問されたはずだ。『実録』はその内容を記していない。しかし、その会話をうかがうヒントがある。宇垣纏(まとめ)海軍中将の日記『戦藻録』だ。1945年4月7日、つまり「大和」が撃沈されたその日に以下の記述がある。
「抑々(そもそも)茲(ここ)に至れる主因は軍令部総長奏上の際航空部隊丈の総攻撃なるやの御下問に対し、海軍の全兵力を使用致すと奉答せるに在りと伝ふ」
宇垣によれば、沖縄の作戦に関し及川から説明を受けた天皇は「航空部隊だけか」という趣旨の「御下問」をした。「水上部隊はどうするのだ。『大和』は出撃しないのか」と催促したわけではない。しかし、及川は大元帥=昭和天皇の意志を忖度した。それが第二艦隊の特攻につながったとみられる。
とはいえ、昭和天皇の言葉だけで特攻が決まったわけではない。前述のように、もともと海軍の一部には、「大和」を特攻させたい勢力があった。昭和天皇の一言は、そうした勢力を後押ししたのだ。
しかし、第二艦隊は特攻に納得しなかった。連合艦隊からは説得のため、草鹿龍之介参謀長(中将)を山口県・徳山沖に停泊する「大和」に向かわせた。納得しない伊藤らに対し、草鹿は言った。
「要するに、一億総特攻のさきがけになってもらいたい」
一億=国民すべてが本当に特攻したら、国家も民族も消滅する。それでは戦争を続ける意味がない。「一億総特攻」は比喩でしかない。草鹿の言葉はおよそ論理的ではないが、論理を超えた説得力があったようだ。「とにかく特攻したほしい」。そういう連合艦隊の本音に対し、伊藤は「そうか、それなら分かった」と応じた。
■自分の命が削られていく音
1945年4月6日、午後3時45分。豊田連合艦隊司令長官は第二艦隊に電文を発した。
「(前略)帝国部隊ハ陸軍ト協力 空海陸ノ全力ヲ挙ゲテ沖縄島周辺ノ敵艦船ニ対スル攻撃ヲ決行セントスル。
皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ一挙ニアリ 茲ニ殊ニ海上特攻隊ヲ編成 壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタル(後略)」
この「特攻」を「命令」していることを確認しておきたい。というのは戦後、特攻を指揮した将官などが「特攻は兵士たちの意志だった」といった旨の発言をし、今日に至るまでそう信じられているむきがあるからだ。
自らの意志で特攻に飛び立った兵士は、確かに多かった。しかし、そうではない兵士もたくさんいた。
筆者はこれまで、実際に特攻で出撃した兵士30人に取材してきた。この中に、特攻するかしないか選択を任された者は1人もいなかった。特攻「大和」艦隊の人々がそうであるように、初めから特攻と決まった「作戦」に送り出された者がいたのだ。
根拠もなく「意志だった」と言い張る将官は、そうでないと自分の責任が追及されることを恐れてのことか、そうでなければ自分に催眠術をかけて罪の意識から逃れようとしたのだろう。
艦隊による「特攻」を知った「雪風」の西崎さんは、居住区で瞑想していた。
「父の形見の腕時計をしていたんです。ふだんは聞こえない、『カチカチ』という音、秒針の音が聞こえました。自分の命が削られていく気がしました」
1942年に海軍特別年少兵一期生として入団した西崎さんはこのとき19歳。「酒も女も知らないで死ぬのか」と戦友に話すと「俺は国のためではなく、家族のために戦う」と言った。「おれも家族、それに友だちのために戦おう」と応じた。
同4月6日、前述の10隻からなる第二艦隊が沖縄を目指して山口県・徳山沖を出撃した。開戦前、米英とならぶ世界屈指の軍事力を誇った帝国海軍が、最後に送り出した艦隊となった。沖縄の陸軍は米軍に押されつつあったが、翌日反転攻勢に出る計画であり、特攻「大和」艦隊はこれに呼応する狙いもあった。
連合艦隊の方針では、航空機による援護はしないことになっていた。だが翌7日、かつて「大和」に乗っており、この時は鹿児島県鹿屋を基地とする第五航空艦隊司令長官だった宇垣は、自身の判断で特攻「大和」艦隊の直衛機を出した。しかしわずか10機。時間は午前6時から10時までだけだった。
そのわずかな護衛機がいなくなるのを見計らったように、米軍機の空襲は正午ごろから始まった。
■水上特攻の成果は…
「世界最強」と謳われた戦艦「大和」は実質2時間程度の戦闘で撃沈された。乗員3332人のうち、伊藤司令長官ら3056人が戦死した。生還者は276人。一割にも満たなかった。軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦「磯風」、さらに「濱風」「朝霜」「霞」も沈んだ。艦隊全体では4044人が死んだ(前掲『戦艦大和 生還者たちの証言から』)。たった。
この水上特攻で米軍が直接的に被ったのは戦闘機3、爆撃機4、雷撃機3の計10機の損失と戦死が12人。これが「大和」以下六隻と、4044人の命と引き替えた、直接的な戦果である。鉄板に卵を投げつけたような戦いだった。沖縄を取り巻く米軍を蹴散らすどころか、敵艦の陰すらみることはなかった。
無残な失敗の責任は、もちろん4044人にはかけらもない。この「作戦」を進めた海軍上層部にこそある。そしてその責任を負うべき者たちは、決して第一線には行かなかった。さらに陸軍が予定していた4月7日の反転攻勢は延期された(12日に実施し失敗した)。
宇垣は、この戦いについて海軍上層部を激しく批判した。
「全軍の士気を高揚せんとして反りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐の念を抱かしむる外何等得る処無き無謀の挙と云はずして何ぞや」(前掲『戦藻録』)
士気を高めるためだったが、悲惨な結果となった。「復讐してやる」という気持ちを抱かせただけで、何も得るところがない無謀なことだった。そういう意味だ。
■さらなる苦難
さて沈没する「大和」などから離れ助かった兵士たちには、さらなる苦難があった。
「大和」大爆発の後、あたり一面は重油の海となった。生き延びるためには、その海を漂いながら駆逐艦に救助されなければならない。疲れ切り、あるいは負傷した兵士たちには酷に過ぎた。駆逐艦側も、敵の制空権内に長く留まるのは極めて危険だった。
西崎さんの乗った「雪風」は舷側からロープを下ろして兵士たちを収容した。人間一人をひっぱりあげるのは相当な苦労だ。しかも、西崎さんは戦闘中、機銃弾が左足を貫通する傷を負っていた。それでも「火事場の馬鹿力」を振り絞った。
助けられる方は「疲れているし、重油ですべるからなかなか上がってこられない」。1本のロープに2人がぶらさがった。とても引き上げられない。「そういう時は、棒で一人の腕を叩きました」。叩かれた兵士は海に落ちた。その後どうなったのかは分からない。「そういう業(ごう)があるんですよ……」。西崎さんは70余年前のその光景を今も脳裏に刻んでいる。
特攻「大和」艦隊のように、船もろとも沈んだ遺体はほとんどの場合、回収されない。第二次世界大戦ではおよそ30万人もの日本人がこうした「海没遺骨」となった。無謀な作戦を遂行した者たちが、陸地で寿命を全うし、人によっては国会議員などになり再び国策遂行に関わったことを考え合わせると、戦後日本のありようが立体的に見えてくるだろう。
さて昭和天皇は敗戦後、この「大和」特攻について語っている。沖縄戦を振り返る中で、「とつておきの大和をこの際出動させた、之(これ)も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した」とし、「作戦不一致、全く馬鹿馬鹿(ばかばか)しい戦闘であつた」と断じた(『昭和天皇独白録』)。