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大和魂 ㊶

2018.05.22 14:26

http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より

6 戦艦大和の最期

昭和二十年四月六日、戦艦大和は沖縄に向けて出撃し、翌日、鹿児島・坊ノ岬沖で海の底へ沈んだ。艦橋から奇跡的に生還した十七歳の兵隊は、四ヶ月後、広島で再び壮絶な経験をする。

「お前の行先は戦艦大和じゃ。よかったのぉ。あの船が沈む時は日本が沈む時じゃ」

上官に赴任先を告げられ、嬉しさのあまり泣きました。広島県福山市に生まれた私は十五歳で海軍に志願入隊。昭和二十年一月に戦艦「大和」へ乗りこんだときは、まだ十七歳でした。持ち場は海面から三十四メートルにもなる艦橋の一番上です。長さ十五メートルという世界一の測距儀を使って、敵との距離や角度を計算する測距員の一人でした。

赴任から三ヶ月後、大和は沖縄への「海上特攻」に出撃しました。

四月六日の夕方、別府湾沖を航行中に「当直を残して手空き総員前甲板」と命令がありました。整列している私たちを前に、有賀幸作艦長が連合艦隊司令部からの命令書を読みあげ、続いて能村次郎副長から訓示がありました。その後、左舷の皇居方向に向かって最敬礼して「天皇陛下万歳」を三唱。その後に君が代と「海ゆかば」を歌いました。最後に、

「各自、故郷の方向へお別れしろ」

と言われたので、隊列を崩してそれぞれの故郷へ向かい、ある者は合掌し、ある者は黙礼をしていました。あちこちから「さようならー」という声が聞こえます。能村副長の「遠慮はいらんぞ、大いに泣け」という言葉に涙を流している人もいました。私自身は上官のはからいで、最後の上陸日に母と会うことができたため、涙は出ませんでした。

■上官の自決を目の前で

運命の四月七日は一面の曇り空でした。十一時過ぎに「目標捕捉、敵の大編隊接近す」という見張り員の叫び声を聞き、測距儀を覗いて驚きました。レンズの中が真っ黒になるほどの大編隊が迫ってくるのが見えるのです。主砲の射程四万メートルに敵が入るのを興奮しながら待っていましたが、敵機は雲の上に消えていきました。こうなるとお手上げで、測距儀で見えなければ大砲は撃てません。

敵の爆撃機や戦闘機は雲を抜けて、ほぼ真上から襲ってきました。近すぎて主砲も副砲も使えません。機銃で応戦しましたが、後部艦橋に爆弾二発が命中して副砲が破壊されました。低空で襲ってきた雷撃機の放った魚雷が一発、左舷前部に命中しました。

この第一波が去った後に上から甲板をみると地獄のようでした。あちこちに穴が空き、首がないもの、腹から内臓が飛び出しているもの、手足が吹き飛んで人間の形をしていない肉片が散乱していました。甲板の血を応急員がホースで洗い流している横を、衛生兵が走り回って負傷者や死体を運んでいましたが、ちぎれた手や足はポンポンと海へ投げ込まれていました。

そうした光景を見て動転しているところに第二波、第三波が来ました。魚雷が命中するたびに震度五ぐらいの強い揺れがあり、次第に艦は左へ傾いていきました。後日、魚雷は左舷に九発、右舷に一発当たったと聞きました。艦を水平に復元するためには、艦内右舷側の部屋をいくつも閉鎖して海水を注水しますが、傾きが大きくなったので、ついには兵隊が残っている部屋にまで海水が注がれたそうです。こうした犠牲を払っても大和の傾きは戻らず、十四時過ぎには壁に手足をついて体を支えるのがやっとの状態になりました。総員退去の命令が出たらしく、気が付くと周囲には誰もいません。が、筒状の測距儀の向こうに、直属の上司である保本政一少尉がいるのに気が付きました。

声をかけようとした瞬間、保本少尉は戦闘服を肌着ごと引き裂き、戦闘帽を刃に巻いて握った日本刀を左の脇腹に突き立てたのです。すごい勢いで血が吹き出し、保本少尉は一瞬、目を見開いた後に崩れ落ちました。血で染まった肌着は、従兵だった私が前の晩にアイロンをかけて届けたものです。そのとき「お前には世話になったなあ」と言葉をかけてくれました。その優しい上官が目の前で切腹したのです。私は声も出せずに、その場で硬直してしまいました。

その間も大和は傾きつづけ、ついには横倒しになってしまいました。海面から三十メートル以上の高さにあった測距室の二、三メートル下まで海面が迫っています。我に返った私は海に飛び込んで泳ぎ始めましたが、二メートルも進まないうちに、沈む大和が作りだした巨大な渦に巻き込まれてしまいました。二十メートルほど沈んだでしょうか。海中でオレンジ色の閃光が走りました。大和が爆発したのです。その直後に私は意識を失い、気が付くと海に浮かんでいました。爆発の圧力で海面へ押し出されたようです。あたり一面には重油が浮き、波間に数百人の生存者が漂っています。

上空に敵機はいませんでしたが、赤やオレンジ色にキラキラと光ったり、鉛色になったりする物体が、満天を覆っているのが見えました。爆発で吹き上げられた大和の破片です。爆発の熱で真っ赤になっていたんですね。それが次々と降ってくるのです。五メートルほど前に浮いていた兵隊の頭が突然、二つに割れて膨れ上がり、声もなく海中に消えていきました。手足を切断された人もいました。

私の右足にも厚み一センチ、一辺の長さが二十センチほどの三角形の鉄片が刺さりました。水泳には自信がありましたが、右足がマヒしてしまい、溺れてしまいました。

「助けてくれぇ」

重油とコルクの浮いている海水を飲みながら、とっさに声が出ました。すると近くにいた士官が、抱えていた丸太を私の方へ押し流してくれました。川崎勝己高射長でした。高射長とは対空砲火の責任者です。

「落ち着け。もう大丈夫だぞ。お前は若いのだから頑張って生きろ」

高射長はそう励ますと、波に揺られて離れていきました。最後に高射長を見たのは、四時間後に駆逐艦「雪風」が救助に来たときです。みんなが怒号をあげながら、下ろされた縄梯子を奪い合っている中、高射長は大和が沈んだ方向へ一人、泳いでいきました。

「コーシャチョー、コーシャチョー」

と私が声を限りに叫んでも、振り返ることはありませんでした。

■原爆投下の翌日、広島へ

呉に戻った私は陸戦隊へ配属されました。本土決戦に備えて、呉市の山奥で新兵を鍛えることになったのです。

昭和二十年八月六日の朝、小隊長の訓示を聞いていると、上空を一機のB-29が飛んでいきました。それから三分ほど経ったとき突然、周囲が青白く光り、直後に猛烈な風が吹きました。広島市からは二十三キロも離れているのですが。午後には特殊爆弾が落ちたという情報が届いていました。

翌日、広島駅の復旧作業を命じられ、百六十名を率いて広島市内へ向かいました。当時、西日本一と言われていた鉄筋三階建ての駅舎は外壁だけが残り、天井は地面まで落ちていました。その下に手や足、つぶれた頭があるのが見えました。駅の周辺にも何千、何百という死体がありました。死体置き場になった駅裏の東練兵場には異様な臭いが漂っていました。暑さのため腐敗が進んだ死体の腹がパンパンに張り、そこかしこで死体がポン、ポンと放屁しているのです。その臭いは言葉に出来ません。

翌朝、偵察を命じられた私は部下を連れて、被害状況をスケッチで記録していきました。市内南部にある御幸橋周辺の記録を終えて立ち去ろうとした瞬間に右足をつかまれました。とっさに軍刀へ手をかけながら足元をみると十歳ぐらいの少年が手を伸ばしていました。顔がドロドロに焼けただれていたので、てっきり死体だと思っていたのですが、まだ息があったのです。

「兵隊サン、ミ、ズ、水ヲ下サイ……」

少年が弱々しく呟きました。このとき私の水筒には水が入っていましたが、「重体者に水を与えると死ぬ」と言われていましたし、「負傷者の救助はするな」という命令も出ていました。私は「待っておれよ、また戻ってくるからな」と言って、その場を立ち去りました。

ごめんなさい。あのとき、私が水をあげて死なせてやればよかったのです。ごめんなさい。思い出すたびに涙が出てきます。いまでも御幸橋を通るときは必ず両手を合わせます。 

■7 元兵士たちの「最後の証言」

毎年夏、各紙に登場する「戦争もの」。「8月のジャーナリズム」などと揶揄されようと、欠かせない定番記事だ。中日新聞で昨年夏から1年間にわたった「太平洋戦争 最後の証言」も当初は8月の単発企画の予定だった。それが、今年7月までの年間企画(6部構成、計41回)へと発展したのは、地獄のような戦場から生還した元兵士たちの証言の迫力に押された結果だった。

従来の「戦争もの」では、空襲体験者の記憶や、広島・長崎の原爆、旧満州からの引き揚げの苦難などの話が中心だった。戦場での兵士たちの証言は断片的であり、局地戦に絞った企画が多かった。

今年は戦後67年。従軍当時は20代の若者だった兵士たちも、80代後半から90代の高齢者ばかりだ。社会部取材班にとって時間という大きな壁と向き合う覚悟が求められた。この連載でデスクを担当した鈴木孝昌遊軍キャップ(現・経済部長)は「(元兵士たちには)この先残された日々を数え、どこかで(自分の戦場体験を)話しておかなければ……という切羽詰まった思いがあった」と振り返る。

取材の取っかかりは東海地方出身者で結成された「陸軍歩兵第228連隊」の連隊史や名簿をもとに取材対象を割り出す作業から始めた。1942年11月、南方で攻勢に転じた連合軍を阻止するため南洋ガダルカナル島に上陸した2500人のうち、生還者はわずか300人余という悲劇の連隊だ。その生還者も年々鬼籍に入り、少なくなっている。「最後の証言」という言葉に重い現実感が伴う。

ところが、いざ取材にかかるとすごい手応えがあった。―戦友を見捨てた。人間の肉を焼いて食べた。血をすすってのどを潤した。仲間を射殺した。連合軍の圧倒的な火力を前に、敗走を続ける日本兵。華々しい戦闘で命を失うのではなく、飢餓と熱病で倒れる兵士が多かった。暗く忌まわしい記憶をたぐるように、とつとつと記者に語る元兵士たちは、微に入り細をうがち、その情景を描写した。万感迫ると、声を上げて泣いた。

インタビューに何日も通うこともあり、一人当たり十数時間に及んだ。取材班は「迫力ある証言が得られ、彼らの発した言葉を、そのまま記録しよう」と考えた。「戦場の音や臭い、熱帯の空気、感覚、それらをリアルに再現しよう」と試みた。それが昨年8月10日付朝刊から「餓島からの帰還~名古屋・歩兵二二八連隊最後の証言」(5回)として結実した。

その最終回に、次のような戦友の射殺場面が描かれている。

―「歩けない者は自決せよ」。撤退を前に、小隊長が同年兵の荒巻勉=当時24歳、岐阜県恵那市=に命令した。栄養失調で動けず、塹壕に残っていた。「こ、殺さんでくれ」。小隊長が向けた銃口に手を合わせ、命を乞う。はって逃げようとした瞬間、銃弾が後頭部を撃ち抜いた。

連載第2弾の「戦艦大和の遺言~中部の乗組員たちの記憶」には、海に落ちた兵たちを救助する場面がある。沈没を免れた駆逐艦から下ろされた救助の縄ばしごに皆が必死にしがみつく。その重みで綱の一方が切れた。「わしのはしごや。大勢つかまるな」。元兵士がそう思ったとたん、もう一方の綱もぷつりと切れ、再び海に投げ出された。「まるで芥川竜之介の『蜘蛛の糸』やった」。

第5弾の「捨て石の島~陸軍石部隊と島人(しまんちゅ)の沖縄戦」では、寄せ集めの兵士100人ほどを従えた名古屋市昭和区の伍長、神谷五郎(90)が米軍の戦車にダイナマイトごと体当たりする兵の指名をする場面がある。

―暗い洞窟の中で、近くに見える兵から「次はおまえだ」と指名していく。拒む者はいない。(中略)同期の上等兵に突撃を命じた時だった。

「俺を使うのか。覚えておけよ」と、同じ名古屋出身の戦友はにらみつけた。神谷は一瞬たじろいだが、黙って見送るしかなかった。(中略)神谷は、死を命じた兵隊たちへの慚愧(ざんき)の思いを、戦後ずっと抱き続けることになる。

第6弾の「果てなき白骨街道~インパール作戦敗走の記録」では、高熱に倒れた「加藤」という戦友を撤退途中に置き去りにした証言が掲載された。後日、愛知県愛西市の大河内寿満子さん(68)が「私の父ではないか」と名乗り出た。証言したのは名古屋市中川区の秋田豊久さん(90)。取材班の仲介で大河内さんと親族が秋田さんの自宅を訪ねた時の様子が、連載終了後に掲載された。

同僚を見捨てた記憶にうつむく秋田さんに、寿満子さんは「やっと父の最期が分かりました。ありがとう」と声をかけた。秋田さんは復員後、戦病死した戦友宅を訪ね、遺族に最期の様子を報告してきた。「ただ、加藤のことだけは無理だった。置き去りにしたなんて、とても言えんから」。秋田さんの長く苦しい沈黙が終わった瞬間だった。

「これが10年前だったら(取材は)違っていたと思う。悲惨な記憶は墓場まで持って行こう、と誰もが思っていたし、家族にも話していなかった。記者が何度も通ううちに、重い口を開いてくれた」と鈴木は語る。6人の記者が取材した元兵士や遺族は合計300人近くに上った。

戦闘で腸が飛び出した、傷口にうじがわき、それを食べた―など「映像が浮かぶように」リアルに表現した。「朝食前にこんな文章を読めるか」という非難の声もあった。「表現をマイルドにしたら、実名で証言してくれた元兵士に失礼だと思う。だから、言葉はそのまま生かした」と鈴木は言う。  

■8 「大和」元乗組員 「間違いなく世界一の艦だった」

深井俊之助氏は、大正3年生まれの104歳。部屋の中を杖もつかずに歩き、座る姿勢は背筋がピンと伸び、驚くべき記憶力で理路整然と語る。

深井氏は戦前、海軍の通信技術者だった父親の影響から海軍兵学校に入り、終戦まで戦艦乗組員として活動した。そして、いくつかの艦を乗り継ぎ、昭和19年3月、少佐として世界最大と謳われた戦艦「大和」の副砲長を命じられた。

深井氏がその当時を振り返る。

「『大和』は遠くから見るものであって、自分が乗るものとは思ってもいなかった。いざ乗船してみると、その大きさに驚くばかり。なかは迷路のようで、艦の後方に行くとどこにいるのかわからなくなるので、そんなときは階段を上って甲板に出て、艦橋を見上げて確認しました。

艦内は冷暖房完備。艦橋はビルのような高さでしたが、士官や伝令などはエレベータを利用できた。副砲長は艦の序列では上から5番目です。『大和』の乗員約3300名のうち250名が私の部下でした。

進路の指示をした時は足が震えるほどの緊張を感じました。漁船をよけようと思って『取舵15度』と指示しても、艦が大きいから全然曲がらない。いざ曲がり出して舵を戻しても、今度は元に戻せない。どうしようかと思いましたよ。

『大和』は間違いなく世界一の艦だったと思います。今後、これ以上の艦は建造し得ないと思っていたし、当時のすべての米艦船より優れていた。

主砲の46cm砲はいうまでもなく世界一ですが、私が指揮した15.5cm副砲も優れていた。砲弾の初速は毎秒920mと世界最高クラスで、命中精度も極めて高かった。

待遇でも『大和』は優遇されていました。士官の夕食は洋食のフルコースで、ステーキも出た。アイスクリームを食べられるのは『大和』だけで、他の船からも“大和ホテル”だと言ってアイスクリームを食べに来る乗組員がいたほどです」(深井氏、以下「」内同)

深井氏は「アイスを食べよう」と言い出し、頬張りながらの取材となった。話はいよいよ「大和」の戦いに及んだ。

「昭和19年10月25日の朝、フィリピンのレイテ島に向かう途上で米空母部隊を発見し、戦闘になったとき、駆逐艦が突進してきて煙幕を張り始めた。こういう補助艦艇をつぶして、目標が見えるようにするのが私の仕事でした。

一隻目を撃ったんだけど、やっぱり、緊張してるんだね、当たらない。そこで、『600m下げろ』と。距離9000mで撃っているのを8400mにしろといって撃ったが、当たらない。すると、この600mの間に敵艦があることは分かる。これは法則通りで、今度は『300m上げろ』と徐々に詰めて、4発目で当たった。次の駆逐艦も3発目で当たった。

一発当たるたびに、艦内ではわーっと歓声が上がった。あれは痛快だったね。男冥利に尽きます。

『大和』の砲弾は空母『ガンビア・ベイ』にも当たりました。これは商船を改装した護衛空母で、装甲が薄かったので、『大和』の高速な砲弾は船体に当たっても爆発せず、貫通してしまったほどです。そのまま『ガンビア・ベイ』の横を通過しましたが、敵兵は撃ちませんでした。彼らは救助に一生懸命で、こっちもそんな手負いの船を撃ったってしょうがないと思って見逃しました」 

■9 「戦艦大和ノ最期」の真実

戦艦大和の沈没の様子を克明に記したとして新聞記事に引用されることの多い戦記文学『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)の中で、救助艇の船べりをつかんだ大和の乗組員らの手首を軍刀で斬(き)ったと書かれた当時の指揮官が産経新聞の取材に応じ、「事実無根だ」と証言した。手首斬りの記述は朝日新聞一面コラム「天声人語」でも紹介され、軍隊の残虐性を示す事実として“独り歩き”しているが、指揮官は「海軍全体の名誉のためにも誤解を解きたい」と訴えている。

『戦艦大和ノ最期』は昭和二十年四月、沖縄に向けて出撃する大和に海軍少尉として乗り組み奇跡的に生還した吉田満氏(昭和五十四年九月十七日、五十六歳で死去)が作戦の一部始終を実体験に基づいて書き残した戦記文学。

この中で、大和沈没後に駆逐艦「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として、救助艇が満杯となり、なおも多くの漂流者(兵士)が船べりをつかんだため、指揮官らが「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」と記述していた。

これに対し、初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めた松井一彦さん(80)は「初霜は現場付近にいたが、巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり、大和の救助はしていない」とした上で、「別の救助艇の話であっても、軍刀で手首を斬るなど考えられない」と反論。

その理由として

(1)海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない     .

(2)救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない      .

(3)救助時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった

-と指摘した。

松井さんは昭和四十二年、『戦艦大和ノ最期』が再出版されると知って吉田氏に手紙を送り、「あまりにも事実を歪曲(わいきょく)するもの」と削除を要請した。吉田氏からは「次の出版の機会に削除するかどうか、充分判断し決断したい」との返書が届いたが、手首斬りの記述は変更されなかった。

松井さんはこれまで、「海軍士官なので言い訳めいたことはしたくなかった」とし、旧軍関係者以外に当時の様子を語ったり、吉田氏との手紙のやり取りを公表することはなかった。

しかし、朝日新聞が四月七日付の天声人語で、同著の手首斬りの記述を史実のように取り上げたため、「戦後六十年を機に事実関係をはっきりさせたい」として産経新聞の取材を受けた。

戦前戦中の旧日本軍の行為をめぐっては、残虐性を強調するような信憑(しんぴょう)性のない話が史実として独り歩きするケースも少なくない。沖縄戦の際には旧日本軍の命令により離島で集団自決が行われたと長く信じられ、教科書に掲載されることもあったが、最近の調査で「軍命令はなかった」との説が有力になっている。

松井さんは「戦後、旧軍の行為が非人道的に誇張されるケースが多く、手首斬りの話はその典型的な例だ。しかし私が知る限り、当時の軍人にもヒューマニティーがあった」と話している。

松井さんは、大和沈没後、より危険な特殊潜航艇への乗船を志願し、同艇長で終戦を迎えた。戦後は東大に入学し直し、司法試験に合格、弁護士として活躍してきた。

今回の証言について「戦中戦後の出来事を否定するあまり、当時の人間性まで歪められて伝えられることが多い。本当にそうなのか、考え直すきっかけになれば」と話している。

松井さん「爆沈・・・今もまぶたに」

バーンという大音響、舞い上がる火柱、空中に吹き飛ぶ将兵ら・・・。駆逐艦初霜の通信士、松井一彦さん(80)か゛目の当たりにした戦艦大和の最期は、壮絶なものだった。一瞬にして三千人の命が道連れになった光景は、「今もまぶたに焼きついて離れない」という。松井さんは昭和十九年九月、海軍中尉で初霜に乗り組み、二十年四月六日、大和とともに沖縄突入作戦に出撃した。しかし、七日午後零時四十一分、米軍機が攻撃をしかけ、二時間にわたる死闘が展開された。

戦闘中、初霜は大和の右斜め後方千五百メートルの位置で護衛に努め、甲板上の松井さんは、戦闘の一部始終を悲痛な思いで見つめていた。雲の切れ間から米軍機がパッ、パッと現れ、「雲の中に敵機が充満しているようだった」と振り返る。

大和の周囲にいた駆逐艦などが魚雷や直撃弾で相次いで沈没するなか、大和は十本前後の魚雷と四発の直撃弾を受けても航行を続け、「不沈戦艦の名に恥じない威容だった」。しかし、午後二時ごろから、左にの傾斜が激しくなった。

最期が近づいていることは誰の目にも明らかだった。敵機も攻撃の手を緩め、上空で様子をうかがっている状況。そんななか、雷撃機がすうっと下りてきてとどめの魚雷を放った。

左舷に水柱が上がった。大和はほとんど横倒しになり、赤い船腹の上に無数の将兵がはい上がるのが見えた。その時、大爆発が起こり、将兵らが吹き飛んだ。爆風は松井さんにも届き、顔面に強烈な熱気を感じた。

松井さんは連合艦隊司令部に「大和、更ニ雷撃ヲ受ケ、一四二三左ニ四五度傾斜シテ誘爆、瞬時ニシテ沈没ス」と電報を打った。乗員3,332人中、救い出されたのはわずか276人だった。 

■10 父 吉田満の遺言

21歳の海軍少尉として戦艦大和の撃沈から生還し、若くして戦争文学の名作『戦艦大和ノ最期」の著者となった父吉田満は、昭和54年の9月17日に56歳で亡くなった。父の葬儀は、彼が理事を務めていた東洋英和女学院で行われた。多彩な参列者の列は、六本木駅にまで達した。父はよきクリスチャンであり、よき銀行マンであり、よき家庭人であり、人脈家として交際家として、短い人生を駆け抜けた。家族に対するときはよき家庭人に徹して、それ以外の側面はほとんどみせなかった。父は大いなる書き手であったが、語り手というよりは聞き手に廻ることが多く、短いセンテンスに込められた一瞬の機微を好んだ。一言でいえば父は−旧日本海軍のスピリットを体現した—「スマート」な紳士であった。

よく「父から聞いた特別の戦争に関する思い出を」、と聞かれるが、戦争の思い出を父から直に聞いたことは、ほとんどない。反戦づいた高校生の私が、良心的兵役拒否について父の意見を聞いたときも「まぁ、いろいろとあるんだよ」と父は言葉を飲み込んだ。この歳になってよくわかるのは、「しいて語らずとも自分の生き方を見よ」という父の心持である。しかしスマートだけではない父の側面も確かにあった。父はめったに歌を歌わなかったが、歌わなければならないときは必ず「同期の桜」を選んだ。私も小学校4年生のときに転勤先の青森で、父の「同期の桜」を聞いたことがある。銀髪で温厚円満な風貌の父は、目をつぶり、肩を振り、万感の思いを込めて絶唱をした。宴会は、一瞬しーんと静まった。父は今は亡き戦友たちと肩を組んで歌い、人々は楽しい宴会にいきなり現れた死者の大群に、驚きあわてたのだろう。歌い終わって父は少しだけ恥かしそうにしていたが、やがて笑顔で隣の人に語りかけ、また喧騒が始まった。

この、戦友が今も生きているという幻影は、戦後父にずっとつきまとっていた感覚ではないだろうか。以下は、父が亡くなる直前に書いた『散華の世代からの問い』というタイトルの文章の一節である。

「私は今でもときおり奇妙な幻覚に捕らわれることがある。それは戦没学徒の亡霊が、戦後三十数年を経た日本の上を今、繁栄の頂点にある日本の町をさ迷い歩いている光景である。死者が今際のきわに残した執念は容易に消えないものだし、特に気性の激しい若者の宿願はどこまでもその望みを遂げようとする。彼らが身を持って守ろうとしたいじらしい子供たちは、今どのように成人したのか?彼らの言う日本の清らかさ、高さ、尊さ、美しさは、戦後の世界にどんな花をさかせたのか。それを見届けなければ、彼らは死んでも死にきれないはずである。彼らの亡霊は今何を見るか、商店の店先で、学校で、家庭で、国会で、新聞のトップ記事に今何を見出すだろうか」

戦後日本の成長にあわせて幸せな家庭と世俗の成功を手にした父は、若き死者たちの宿願を、いつも身近に感じていたのではなかったか。この文章を読む限り、父は80年代に日本が彷徨いこむバブルの迷い道を、正しく予見していた。成功や繁栄や拡大は、必ずその社会に歪を残す。明治からひた走った戦前日本の成長の歪は、太平洋戦争につながった。しかし若き戦死者たちは、その歪をこの世からあの世に持ち去り、若すぎる彼らの死を悼む痛切な気持ちが、日本を、再び真っ当な道にもどしたかに見えた。今、戦後の高度成長や繁栄のもたらした歪を持ち去る死者はいない。残ったのは、腐敗と老醜と倦怠である。「今の日本を見るのが嫌で父はあの世に行ってしまったのか・・・」新聞のトップ記事に唖然とするたびに、私が感じる慨嘆である。

父は死の一ヶ月前に吐血し、そのまま入院して亡くなった。私が大学4年、就職が決まる直前の夏である。入院してすぐに、父の死がそれほど遠くはないことを医師から知らされ、私は一ヶ月間のほとんどの時間を、父の病室で過ごした。「あの雲を見てごらん・・・」自在に変化する鮮烈な夏雲を病窓から眺めながら、私たちはとりとめのない会話を交わした。父の遺言のなかには面白い一言があった。「望、銀行には行くなよ・・・」日本銀行で35年間近くを過ごしてきた父の言葉である。が、この言葉にも説明はなかった。また私もその意味を聞きかえすほどには、世の中に通じていなかった。私はその言葉に従ったということではなかったが、自分の本能の命じるままに大手広告代理店を選び、就職した。父の遺言は謎というか、むしろ間違っていたと、私は長らく思っていた。というのもその後バブルが崩壊するまで、優秀な同朋・後輩の多くが銀行に就職し、私よりもはるかに成功しているように見えたからである。しかしバブル後の日本経済の「失われた10年」の間に、いつのまにか銀行業は、人生の帳尻としてはなかなかあわない職業となった。父は正しかったのである。

今から2年ほど前、私は父の遺言の意味をもう一度よく考え、ある結論に達した。それは「世の中には数十年で訪れる成功のリスクがある。そのリスクは誰にも予想されないが、長い眼で見れば必ずいつかは来る現実となる」ということである。成功した業界、儲かることがあたりまえになった業界はささいなリスクを避けるようになる。政治の原理が幅を利かせ、儲けることよりもいかに分配するか、が大事になる。組織から志や覚悟が次第に失われ、努力と成果のバランスが悪くなり、最後には巨大なリスクに見舞われる。大蔵省、公共事業、建設、銀行、保険、流通、みんな同じではないか。そして戦前の日本も今の日本もある意味では同じ道を歩んだのではないだろうか。

私が広告・メディア産業もそうではない、とはいい切れない。私は父の遺言をかみしめて、自発的失業という小さな自分だけのリスクをとってみようと決意した。そして44歳を目前に、20年間勤めた会社を退社し独立した。無我夢中の2年間を過ごし、かろうじてサバイバルを果たしたようだ。父の死の歳までに私に残された期間はあと10年。天下に恥じざる人生を過ごすことをもって父への鎮魂にささげたい、と願う今日この頃である。