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大和魂 ㊷

2018.05.22 14:29

http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より

11 戦争の残照 旧日本兵の証言

大海原に鳴り響く汽笛は、どこか悲しげだった。

2006年4月7日、九州の南方海洋。元海軍2等兵曹、山林正直(86)=島原市中堀町=は、白波を立てて進むチャーター船の甲板にいた。旧海軍の沖縄特攻作戦で散った将兵たちの海上慰霊祭だった。戦争末期の1945年のこの日、沖縄へ出撃した世界最大級の戦艦「大和」を含む10隻が米空母部隊の猛攻撃を受け、大和など6隻があえない最期を遂げた。艦隊全体で約4千人が戦死したともいわれている。山林は巡洋艦「矢矧(やはぎ)」の生き残りだ。撃沈から約6時間後、奇跡的に救助された。

遺族や戦友を乗せたチャーター船は、各艦の沈没場所へ、沈没時刻に合わせて航路をたどった。「あん時は、大変だったなあ」-。「矢矧」が沈んだ場所で海に花束を投げ、艦と運命をともにした仲間たちに語り掛けた。甲板に吹き込む海風が肌寒かった。

撃沈されたのは1度ではない。44年11月9日にも、乗艦していた護衛艦「長寿山丸」が沖縄県の那覇を出航後に魚雷攻撃を受け、約11時間、漂流した。「二度の生還」を果たした山林は「海軍特別年少兵」出身だ。正式には「海軍特別練習兵」だが、部内では「特年兵」と呼んだ。海軍が中堅幹部の養成を目的に創設した兵だ。採用資格は「14歳以上、16歳未満の者」と規定された。海軍特年会編「海軍特別年少兵」によると、教育中に終戦を迎えた4期生を含めて全国に約1万8千人。山林は実戦配属された2期生だった。

スパルタ教育

南高神代町(今の雲仙市国見町神代)で、貧しい小作農の家に生まれた。世の中には「非常時」の言葉が氾濫し、山林も小旗を振って出征兵士を見送る軍国時代の少年だった。

学業は優秀だった。神代国民学校は学年2番で卒業。進学した同校高等科で、特年兵の受験を勧められた。試験には将来の海軍士官を夢見て、各校から応募が殺到した。「あこがれの海軍に入って、軍艦に乗りたかった。地元の試験会場だった旧制島原中(今の島原高)には島原半島内から何百人と来ていた」。神代の高等科から、難関を突破したのは山林1人。母ケシは一人息子が軍人になるのを反対したが、時代にはあらがえなかった。

43年7月1日、水兵科特年兵として、今の陸上自衛隊相浦駐屯地に置かれていた佐世保第二海兵団に入団。2等水兵となった。九州、四国各地から集まった同期800人が各教班に分けられ、それぞれに担当下士官の教班長が付いた。特年兵は文武両道の秀才ぞろい。入団後、ある教班で、教班長が「学校を5位以内で卒業してきた者は手を挙げろ」と聞いたところ、全員が手を挙げた、とのエピソードがある。

海兵団では海軍伝統のスパルタ教育が待っていた。就寝はハンモック。早朝、スピーカーから鳴り響く起床ラッパと、当直下士官の号令で1日が始まる。ハンモックの両端はフックに引っ掛けており、これを外して大急ぎでたたんで袋に入れ、高い位置にある格納庫にしまうのが最初の日課であり、訓練だった。少しでもまごつくと班全員が罰直(制裁)を受けた。ビンタは序の口。「精神棒」で思いっきり尻をたたかれる。青あざが絶えなかった。学科に加え、午後からは小銃の装塡(そうてん)教練、実弾射撃、水泳訓練、短艇訓練、武技-。「なんだ、そのざまは。それでも帝国軍人か」。教班長の怒声が飛ばない日はなかった。

「夜、寝静まると、兵舎に並んだハンモックから忍び泣く声がよく聞こえた。『おっ母、おっ母』って」。しごきに耐えかね、脱走する特年兵もいた。

1個の消耗品

海兵団での基礎教育を終えると、兵種に応じた術科学校への入校を命じられ、専門教育を受けた。山林は横須賀海軍砲術学校で、目標物までの距離を測り出す測的班練習生になった。戦局は日に日に悪化していた。中堅幹部養成という当初の方針は転換され、特年兵たちは最低限の教育を受けると、戦況不利な前線へと、急ぎ投入されていった。1個の消耗品だった。

軍籍に入って以来、希望調査には「第一志望 巡洋艦」と書き続けた。「機動力に優れ、任務も多い巡洋艦は花形だった」。44年11月、「矢矧」乗り組みを命じられた時は天にも昇る思いだった。「長寿山丸」撃沈からわずか6日後。

「長寿山丸では乗員約100人のうち、助かったのは自分も含めて9人。そんな目に遭ったばかりだったのに、『やったあ』なんて…」と遠くを見詰める。

沖縄特攻艦隊

45年4月1日、米軍がついに沖縄上陸。これを受け、陸海軍共同の沖縄作戦が発動する。沖縄を決戦場と考えた海軍は最後の総力を傾けた沖縄特攻艦隊を編成した。戦艦「大和」、巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「冬月」「涼月」「朝霜」「初霜」「霞」「磯風」「浜風」「雪風」の10隻。援護機は付かないことも伝えられた。「飛行機も操縦士も(神風)特攻で残っていなかった。海上作戦を実行する上で援護機が付かないというのは、もはや作戦ではない。勝ち目がないことは分かっていた」。出撃を翌日に控えた5日夕、爪と髪の毛を封筒に入れ、遺品として託した。古里が目に浮かんだ。「1隻でも、1機でも」。覚悟を決めた。

6日午後3時20分、山口県の三田尻沖を出撃。翌7日は朝から曇り空で視界不良だった。「対空戦闘には苦労するな…」。伝令員として艦橋にいた山林の耳に、幕僚のつぶやきが聞こえた。懸念は的中する。

雲の切れ間から米軍機の大編隊が現れた。「敵は100機以上」。甲板の見張り員が叫ぶ。「矢矧」は速度を上げながら全砲門を開いて応戦。だが、曇天と砲門の煙幕で視界はさらに狭くなり、主砲、高角砲とも機能しない。「魚雷近い」。左舷見張り員が緊迫の声を上げた。3本ぐらいの航跡を描いた魚雷のうち1本が、スクリュー付近に命中。水煙とともに火柱が上がり、山林は衝撃で吹き飛んだ。 

■12 戦艦大和の遺言

旧日本海軍が技術の粋を集めて建造した史上最大、最強といわれる戦艦「大和」。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年4月、沖縄への海上特攻に出撃する途中で、米軍機の一方的な攻撃を受けて東シナ海に沈んだ。乗組員3332人のうち、中部地方出身者が2割の約700人を占めていた。兵士たちはどのような思いで戦い、死んでいったのか。生存者や遺族の証言から、大和最期の航跡をたどる。

艦首に掲げた菊の紋章が、海面に漬かり始めた。十数本の魚雷を浴びた大和の姉妹艦「武蔵」が、263メートルの巨体を前のめりにし、速力を失っていく。黒煙を上げる甲板では機銃が爆風で曲がり、銃身が裂けている。積み重なる死体の山に、米軍の急降下爆撃機SB2Cヘルダイバーが、容赦なく爆弾を落としていく。

1944(昭和19)年10月、フィリピンに上陸した米軍の進攻を阻むレイテ沖海戦。日本海軍は大和、武蔵、長門など残された軍艦の総力を投入した。大和が率いる第1部隊14隻のうち、集中攻撃を受けて漂う武蔵に米軍機が群がる。

武蔵の後部主砲にいた浜松市北区の上等兵曹縣(あがた)賢次(89)にとっては初めての戦闘体験だった。甲板に出て、ちぎれた手首を拾った。火炎で焼けただれ、指で触れると皮がべろっとめくれた。たたきつけられたカエルのように、人間が壁に張りついている。歯ががちがちと鳴り、手足が震えるのを止められない。

ミッドウェーやマリアナ沖海戦で敗北を重ね、航空部隊は壊滅状態。米艦船に向けて神風特攻隊が初めて出撃したが、自国艦隊を守る戦闘機は来ない。

武蔵の前方にいた大和は、「操艦の名手」と言われた愛知県常滑市出身の艦長(少将)、森下信衛(のぶえい)の指揮で何とか魚雷の直撃をかわしている。

艦橋の最上部にある吹きさらしの防空指揮所に怒号が飛び交う。「飛行機や大砲、機銃の音が入り交じり、爆弾の破片が飛んでくる。これで死ぬのかと思った」。森下の後ろで見張りを務めた愛知県設楽町の水兵長原田久史(90)は言う。

「ぐうぇ」といううめき声で原田は振り返った。隣の水兵が右肩にもたれ掛かってくる。「どうしたっ」。爆弾の破片であごから首を貫かれ、血があふれている。抱きかかえた原田の白い戦闘服が赤く染まる。気がつけば自分の手足からも鮮血が流れていた。

後方で機銃のスコープをのぞく水兵長畦地哲(さとし)(85)=名古屋市守山区=が、機影を確認した。急降下するヘルダイバーの腹が開き、爆弾が迫ってくるのが見える。「あー、今度こそ死ぬ」

機銃にとりつく兵士が腰から上を吹き飛ばされた。仲間たちが弔いのために、飛び散った肉片をヘルメットにかき集めている。

愛知県新城市出身の一等水兵戸田文男(84)は、頭のまゆ毛から上が吹き飛んだ戦友の遺体を見た。25、6歳だった。「故郷に帰って先生をやりたい」といつも言っていた。額のない頭に軍帽をかぶせてやると、涙が止まらなかった。

戦闘がやんだ。後の記録で20発の魚雷、17発の爆弾を浴びた武蔵は、艦隊と離れていく。甲板にいた水兵に向かい、大和の戸田らは帽子を振って別れを告げた。

大和と並ぶ「不沈艦」のはずだった武蔵が沈む。「連合艦隊はもうおしまいだ」。森下の隣で武蔵を見送った原田の脳裏を「敗戦」の文字がよぎった。

日が沈み、シブヤン海を3時間以上漂った武蔵は、艦首を海に突き立てた。乗員がぱらぱらと雨のように海に落ちる。煙突が海面に隠れたとたん、大爆発を起こした。(敬称略)

【戦艦大和】 広島県呉市の呉海軍工廠(こうしょう)で1937(昭和12)年着工し、太平洋戦争開戦直後の41年12月16日に完成。全長263メートル、最大幅38・9メートルで、名古屋駅のJRセントラルタワーズ(245メートル)より大きい。基準排水量は6万4000トン、9門の内径46センチ主砲も世界最大で、射程は42キロを誇った。日本の軍艦保有を列強より少なく定めたワシントン、ロンドンの軍縮条約延長に応じず、「量の不足を質で補う」として建造された当時の最新鋭艦。同型艦に「武蔵」「信濃」(建造途中で空母に変更)がある。45年4月に九州南西沖で沈没。生還者は276人のみだった。

レイテ沖海戦で日本は残存艦隊83隻を動員したが大敗。連合艦隊は事実上消滅した。

■過酷な「豪華ホテル」

震える指が躊躇(ちゅうちょ)しながら、触れた。手垢(あか)と油が染み込んだ樫(かし)の丸太に「軍人精神注入棒」の文字が読み取れる。「これで何発もやられたんだ」

16歳で戦艦大和に乗った愛知県新城市出身の元一等水兵、戸田文男(84)は今月5日、記者に請われて旧海軍通信学校跡を訪れ、戦後初めてその棒を見た。「本当は見たくなかった」。目尻のしわを涙が伝い、怯(おび)える水兵の記憶がよみがえる。

消灯後、薄明かりの兵員室に戸田はいた。大和が広島・呉港に停泊していた1944(昭和19)年3月。分隊の一人が上陸休暇から戻る時刻に遅れた。連帯責任だと、水兵25人が呼び出され、1列に並べられた。

「貴様らはたるんでいる」。古参兵曹が精神注入棒で尻を打ちつける。悲鳴を上げれば、数が増える。打ち所を誤ると脊椎を損なう。戸田は尻を突き出し、歯を食いしばった。「尻がイチジクのように腫れ上がり、どす黒い血が白いふんどしにべっとりとついた」

夜ごと、鈍い音が響いた。返事が悪い、ポケットに手を入れた、ごみの出し方が違う…。上官は戸田らに「おまえらは消耗品。物なら捨てられるけど、もっと使い勝手が悪い」と言った。

冷暖房に3段ベッド、エレベーター。士官にはクリーニングや理髪店もあり、食事は洋食フルコースも。「大和ホテル」と称された巨艦の華やかな生活は、階級の低い水兵には過酷なものだった。

一日は、甲板掃除で始まる。西太平洋トラック島の停泊地では、半分に割ったヤシの実がたわし代わり。焼けつく日差しの下、ヒノキの甲板が陽光をまぶしく反射するまでこする。

戸田の分隊では7、8人の若い水兵が、下士官50人の世話をした。3度の食事を炊事場から運び、衣類を洗う。下士官が眠った後は、脱ぎ捨てられた靴を磨いて並べる。便所掃除をして寝られるのは午後11時すぎ。「命はいらない。雑務のない戦闘が続いてほしい」と心底願った。

戸田が表情を緩めたのは、乗艦中に1回だけあったラムネ製造当番の思い出話。艦内でつくるラムネの配給は上官優先で末端まで届かない。当番だけは自由に飲めるから、前夜から「わくわくして眠れなかった」。作業の合間に10本以上も飲み、腹がパンパンになった。その夜は寝小便をした。でも「次はいつ飲めるか分からない」。その甘い匂いもありがたく嗅いだ。

南方では「スコール浴び方」の号令も待ちわびた。真水は貴重で水兵たちの入浴はせいぜい3日に1度。水を汚さぬよう両手を上げて湯船につかる。天然シャワーなら遠慮はいらない。スコールが降ると、素っ裸で甲板を跳びはね、せっけんを体に塗りたくった。

連合艦隊が起死回生をかけたレイテ沖海戦で敗れ、大和は呉港に戻る。スコールはもう来ない。精神注入棒の制裁もなくなり、うさ晴らしや息抜きの余地はなくなっていく。

明けて45(昭和20)年。呉の街から戻った愛知県一宮市の二等兵曹、野村義治(91)が甲板へのはしごを駆け上がる。入り口横にある連絡用の黒板に一行の命令があった。「総員死に方用意」。後がない出撃の日が近づいていた。(文中敬称略)

【大和の乗員】 他艦での経験者に加え、志願と徴兵による新兵が配属された。新兵は広島の呉、大竹海兵団で基礎教育を受けた後、一部が大和に乗った。呉を母港とした大和は、本州西部の出身者が中心。横須賀を拠点とした武蔵には、主に東日本出身者が乗った。年齢は20代が大半を占め、未成年も100人近くいた。沈没時の乗員3332人のうち中部地方出身の戦死者(判明分)は、愛知が303人、三重179人、岐阜166人、長野31人、静岡22人、石川9人、福井4人、滋賀1人、富山1人。

■戻れない航路 突撃

死を覚悟 故郷に別れ

大和は、戻ることのない航路についていた。瀬戸内海を出る間際、乗員が甲板に集められた。一九四五(昭和二十)年四月六日の夕刻。「故郷に向かい、いままで育ててもらった両親にお礼をせよ」。ささやかな別れの時間が与えられた。

前日、沖縄への出撃命令が下った。米軍は一日に沖縄本島に上陸し、本土決戦の脅威が迫る。「一億総特攻の先駆けに」との期待を背負い、駆逐艦など九隻を率いて山口県徳山湾外を出航した。

東海へ、九州へ、黙礼する水兵の頭がぶつかる。「やっぱり、もう帰れんのか」。三重県名張市の水兵長、北川茂(87)は、はっきりと悟った。東に頭を下げ、まぶたを閉じる。 最後

の帰郷は、休暇をもらった前年の暮れだった。二十歳の北川に、母はすき焼きを用意してくれた。軍の機密で何も話せない。母は何も聞かなかった。苦労して手に入れた地元名産の牛肉を「どんどん食べや」と勧めてくれた。

十八歳で海軍に志願すると、「長男なのに何で行くねん」と泣いて反対した。その母から広島・呉の下宿に千人針が届いていた。出撃が近いことは分かっていたのだろう。母と妹が千人の女性から集めた縫い玉一つ一つ。手で触れると、無事を祈る思いが響いた。名前の刺しゅうが「キタガハ」なのは明治女らしい。「田舎のことは心配せず、国のために働きなさい」と書かれた紙片に、母の覚悟が添えられていた。

「呉に会いに来てほしい」。三重県紀北町の二等兵曹、水谷宏也=当時(24)=は出撃前、事前に打ち合わせてあった暗号を使い、父に手紙を出した。父は「よう行かん」と尻込みし、四歳下の妹田鶴(たづ)(86)と母が呉の下宿を訪ねた。

宏也は「極秘やけど、もう日本に軍艦はほとんど残ってないんや」と打ち明けた。帰路につく列車のデッキで、田鶴は兄と別れた。見送りのホームで兄は言葉もなく、ぼろぼろ涙をこぼしていた。

遅れて、遺書が届く。「父と母を頼む。国の礎となり、家族を守るために私は死ぬ」。数カ月後、宏也は戦死を告げる紙切れ一枚で帰ることになる。船底の弾庫にいた兄。「最期は大和と一緒にこっぱみじんやったんやろうか」。田鶴は今も胸が締めつけられる。

愛知県一宮市の上等水兵、柴垣宗吉(87)は出撃前の一月に砲術学校入学が決まり、大和を降りることになった。当時二十九歳の兄政三(まさぞう)が、一週間前に乗ってきたばかりだった。

「これ持って行け」。宗吉が発(た)つ朝、政三は身の回り品を包む木綿の風呂敷をくれた。兵籍番号が入っている。「大事に使うわ」。それが最後の会話になった。「兄がわしの身代わりになってくれた」と、宗吉は思い続ける。

小艇で大和を離れると、見送りの列に兄がいた。ほかの乗員が立ち去った後も、ずっと弟を見つめていた。

「配置につけ!」。次の号令がかかり、北川は故郷の記憶から呼び戻された。高さ二十メートルの階段を全力で駆け上がる。並んで走る仲間たちも、皆泣きはらしていた。その夜に大和は、敵潜水艦が待ち受ける海域へと入っていった。 (文中敬称略)

【沖縄特攻の経緯】 連合艦隊は1945(昭和20)年3月26日、米軍を沖縄で迎撃する「天一号作戦」を発動。陸軍守備隊、航空特攻と連動し、大和と巡洋艦1隻、駆逐艦8隻による沖縄突入を検討した。4月5日、豊田副武(そえむ)司令長官は、大和を擁する第二艦隊に「海上特攻隊ハ(中略)Y日黎明(れいめい)時沖縄西方海面ニ突入 敵水上艦艇並ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ Y日ヲ八日トス」と命令。護衛機がなく、無謀として第二艦隊司令長官の伊藤整一中将は抵抗したが、連合艦隊の草鹿龍之介参謀長の説得で受け入れた。伊藤中将は「われわれは死に場所を与えられた」と部下を静めた。片道分の重油しか与えられなかったとされるが、実際は残っていた重油を集め、往復可能な量があったとの説が有力。

■敵機の大群、集中砲火 

低い雲が、春の海に垂れ込めていた。霧雨が甲板をぬらす。

水平線の上に小さな機影が現れた。十数機ごとに上昇し、厚い雲間に消えていく。

「目標、大編隊。接近してくる」。正午すぎ、岐阜県多治見市の水兵長小林健=当時(21)=のいる主砲射撃指揮所に、レーダー室からの大声が響いた。早めに昼食をとっていた兵たちは、最後のにぎり飯とたくあんをのどに詰め込み、持ち場へ散る。

1945(昭和20)年4月7日、鹿児島・坊ノ岬沖。9隻の味方艦と沖縄へ出撃した大和の前に、米軍の航空部隊が現れた。

緊迫した艦内の様子を、小林が手記に書き残している。

「目標は5機、10機、いや50機以上」「敵は100機以上。突っ込んでくる!」「撃ち方、始め」

出撃前に艦長に就任した大佐、有賀幸作=長野県辰野町出身=が叫ぶと、大和の機銃、副砲、高角砲が一斉に火を噴いた。

「敵は雷爆混合。敵は雷爆混合」。魚雷を積む雷撃機と急降下爆撃機が同時に襲ってくると、兵士が叫ぶ。

米軍は367機が作戦に参加していた。大和を守る日本の飛行機は1機もない。米爆撃機が四方から突っ込み、その下から雷撃機が魚雷を放つ。

波間を跳ねるように、魚雷が迫る。厚さ40センチを超す鉄の装甲をえぐる鈍い音がとどろく。反対側の高角砲にいた三重県熊野市の一等兵曹坪井平二(88)には、衝撃が腹まで響いた。魚雷を受けた左側へ、艦が傾く。

坪井がのぞく窓に、敵機が飛び込んでくる。わし鼻をした操縦士の赤ら顔がはっきりと見える。甲板から火が上がった。焼けた機銃の周囲に、兵士の首がいくつも転がる。「あっ」「うっ」と苦痛でゆがめた口のまま、宙を見つめている。

「撃て、撃て、撃ちまくれ」。爆音の中、休みなく弾を撃ち続けることが、恐怖を抑える唯一の術(すべ)だった。

艦尾の機銃にいた三重県いなべ市の水兵長渡辺正信(89)の後ろに、首と胴体が別々に飛んできた。裂けた腹から腸が垂れ下がっている。「腸ってこんなに長いんか」

弾の補充に来た炊飯係の兵が耳打ちした。「大和はこれで最期かもしれんで、夕食の赤飯を準備中です」

大和が誇る世界最大の主砲を、撃てない。雲の下から飛び出す敵機に、長距離砲は役に立たない。撃てば砲煙で敵を見失う。

「艦長、主砲を撃ちます。撃たせてください」。耐えかねた主砲の砲術長が叫んだ。

「撃つな、撃ってはならん」。有賀艦長が即座にはね返す。

「今主砲を使わないで、何のための大和ぞ。乗組員にとってこれ以上の悔しさはない」と小林は記す。

10本の魚雷を浴び、うち8本が艦の左側に集中した。大和がぶるぶると震える。左への傾きが増してきた。

あまりの傾斜で、立っていられない。坪井は高角砲のハンドルにしがみついた。砲塔の窓から、海水が流れ込む。「もうだめだ」。海水をかぶったほおを、涙が伝う。

「傾斜復元の見込みなしっ」。報告が司令部に伝わった。「総員、最上甲板。総員、最上甲板」。声をからして退避を促す伝令兵の声が聞こえてきた。

■大爆発、船体真っ二つ 

傾いた甲板を、ちぎれた手足や機銃弾の箱、空の薬きょうが転がり落ちる。迫りくる海から逃れようと、はい上がる乗組員たち。倒れた兵は甲板に爪を立てるが、ずるずると滑り落ちていく。

米軍機から魚雷と爆弾の集中攻撃を受けた大和は、左に30度以上も傾いていた。黒こげになった機銃が、頭上に落ちてくる。絶叫が、海に響いた。

左側艦尾の機銃にいた三重県いなべ市の水兵長渡辺正信(89)の眼前に、海面が近づいていた。「退避、退避」と伝令兵が叫ぶ。死を覚悟し、涙が出る。隣の若い兵は恐怖のあまり失禁し、ズボンをぬらしている。

ひざ下まで海水がきた。靴を脱ぐ。体が海へ吸い寄せられる。脳裏に、母の顔が浮かんだ。かすりの着物ともんぺ姿。「おかあさーん」。首まで水に漬かり、体が浮いた。

司令部のある艦橋の方位測定室にいた三重県桑名市の上等水兵山口甚之助(83)は、同期生の「岸本」と一緒に外へ出た。主砲がすでに水に漬かっている。傾いた壁に足をかけると、革靴が滑った。左手で艦橋の窓枠をつかむ。滑り落ちた岸本が、山口の右手にぶら下がった。

左手1本で2人の体重を支える。渦が近づく。頭が真っ白になった。「がんばろうなー」。渦にのまれ、つないだ手が離れた。

「戦闘中止。直ちに退去せよ」。敵との距離を測る測距儀にいた三重県名張市の水兵長北川茂(87)は、甲板の下にある中部指揮所の仲間に電話で伝えた。ヘッドホンから、沈んだ声が聞こえた。「水が入ってドアが開かない。出られない」

ヘッドホンからパン、パンと銃声が聞こえた。自殺したのだろう。艦底のボイラー室や弾薬庫にいた多くの兵が、同じように閉じ込められていた。

「北川、最後のたばこ吸わんか」。同僚が出撃前にもらった恩賜のたばこを取り出した。2人で火をつけた後、海に落ちた。

艦はさらに左に傾く。滝のように海水が甲板に降り注ぐ。大和はついに横倒しになり、艦の赤い下腹があらわになった。

♪海行(ゆ)かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍

船べりにつかまった数百人が「海行かば」を歌いだした。包帯を頭に巻き、軍服を引きちぎられた男たち。国のために死ぬのは本望という歌詞を、声を限りに叫んでいる。

100人ほどが一列に並んで両手を挙げた。「ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい」。声が途切れたとたん、大和がごう音を立てて裏返しになった。兵も一緒に海に落ちる。直後に、艦の中央で大爆発が起きた。

1945(昭和20)年4月7日午後2時23分。戦艦大和は中央で真っ二つに割れ、九州南西沖の海底350メートルに沈んだ。

一緒に戦っていた駆逐艦「磯風」の二等兵曹、戸谷永吉(85)=岐阜県下呂市=は、2、300メートルの黒煙が噴き上がるのを見た。

戸谷は大和が好きではなかった。いつも後方にいて、戦わない。自分たちが敵から大和を守っていた。でも、この日は違った。戸谷は大和に向かい、無意識に敬礼していた。(敬称略)

【大和の海底調査】 1980年代から潜水調査が行われ、沈没地点の確認や、ラッパ、どんぶりなどの遺留品が引き揚げられた。85年には、「男たちの大和」で知られる作家の故・辺見じゅんさんと弟の角川春樹氏らが「海の墓標委員会」を組織し、艦首にある菊の紋章の海底撮影に成功した。2008年に広島県呉市の地元経済界が船体の引き揚げ計画を立てたが、「大和は海の墓標」「見せ物にするのは許せない」という反対や、費用の問題があり、事実上、計画が止まっている。

■漂流、縄ばしごに殺到 

沈みゆく大和の巨大な渦が、兵士たちを道連れにする。三重県名張市の水兵長、北川茂(87)は、手足が張り付いたようで動けなかった。水圧で、耳や鼻が鉄の火箸を突っ込まれたように痛む。その瞬間、海がオレンジ色に染まった。

ボン、ボンと二度爆音がして、尻を強く押し上げられる。気がつくと海面に顔を出していた。

大和から流出した重油が、海面を厚さ10センチも覆っている。漂う木材や畳、軍服の間に、人の手足や内臓が浮かぶ。重油で真っ黒の顔がポコポコと水面に浮かび上がってきた。目と歯の白さが際だつ。目玉が動き、生きている仲間だと分かる。

穏やかに見えた海も、落ちてみれば小山のようなうねりが襲う。北川は流れてきた丸太にしがみついた。

溺れそうな兵士が近寄ってくる。後頭部が裂け、ピンク色の断面がのぞく。北川は丸太の片側を差し出したが、体に覆いかぶさってきた。思わず逃げる。妻か妹か、女性の名を数人呼び、沈んでいった。

自力で立ち泳ぎしていた石川県加賀市の二等兵曹、川潟光勇(みつゆう)(90)の足に誰かがしがみついた。海中に引きずり込まれる。川潟はからみつく腕を蹴り離した。「悪いと思ったが、しゃあない。わしも沈んでしまう」

聞き慣れたエンジン音が近づいてくる。チャチャチャと海面を打つ軽い音。米軍機が溺れる兵士に機銃掃射を浴びせる。浮かんでいた頭が次々消える。三重県いなべ市の水兵長、渡辺正信(89)は、海面すれすれを飛ぶ搭乗員の顔を見た。「笑いながら撃っていた。あの顔は一生忘れん」

2時間近く漂流した。重油で目がかすみ、眠気が襲う。顔を互いにひっぱたき、軍歌を大声で歌う。4月の海はまだ冷たい。体の芯まで凍えてきた。「寒かったら小便せえ」。遠くで叫ぶ声に、三重県桑名市の上等水兵、山口甚之助(83)は従ってみた。「腹や胸の辺りがぬくーっとして気持ち良かった」

沈没を免れた駆逐艦の「雪風」「冬月」が救助に現れた。「ワレ発見セリ」。艦上からの手旗信号が、生への希望を届けてくれた。

救助のロープが下ろされる。甲板までの高さは5メートルほど。山口はしがみつくが、重油で滑って登れない。

川潟の前に縄ばしごが下りてきた。両腕の力を振り絞って、重い体を引き上げた。途中で下を見ると、3、4人が続いている。

重みで縄ばしごの一方の綱が切れた。綱1本になった縄ばしごは左右に大きく振れる。皆が必死にしがみつく。「わしのはしごや。大勢つかまるな」。川潟がそう思ったとたん、もう一方の綱もぷつりと切れ、再び海に投げ出された。「まるで芥川竜之介の『蜘蛛(くも)の糸』やった」

「将校はいないか」。上から声がする。「こんな時にも階級か」。名古屋市守山区の水兵長、畦地哲(さとし)(85)は腹が立った。「誰も助けるつもりはない。自分のことで精いっぱいだった」。われ先にと、甲板を目指した。

日没が迫る。敵機襲来を恐れ、救助が打ち切られた。本土へ帰る航跡が消えた後も、いくつもの人影が波間を漂っていた。(文中敬称略)

【生還後の大和乗員】 救助された乗員276人は、長崎・佐世保港に戻り、幹部将校以外は近くの小島などで軟禁生活を強いられた。4カ月後、海上特攻を指揮した第二艦隊司令長官の伊藤整一中将の戦死が公表されたが、大和の沈没は終戦まで伏せられた。乗員の隔離は秘密漏えいを防ぐ意図があったとされる。その後、広島・呉で次の部署に配属された。陸戦隊となり、原爆が落とされた広島で救援作業に当たった乗組員もいた。1944(昭和19)年10月のレイテ沖海戦で沈没した姉妹艦の武蔵は乗員2399人中、1376人が救助された。しかし、フィリピンの市街戦に回されたり、輸送船が沈没したりして大半が戦死した。

■兵の無念、背負い続け 

男は、何事もなかったように玄関口に立っていた。ただ出かけた時とは違い、軍服も短刀も真新しい。死んだと思っていた娘2人が「お父さん、足があるね」と驚いた。

1945(昭和20)年4月に大和が沈み、1カ月ほどすぎたころ。元艦長の少将、森下信衛(のぶえい)が神奈川県逗子市の自宅に戻った。沖縄特攻では、第2艦隊参謀長として大和に乗った。水中で気を失い、従兵に助けられていた。家族には「また転勤になったよ」とだけ言ったが、妻ふさ子は服装で「大和が沈んだな」と分かっていた。

愛知県常滑市の生まれ。多くの政財界要人を輩出した知多の名門私塾「鈴渓(れいけい)義塾」に通い、名古屋市の明倫中(現明和高)から海軍兵学校へ。軍艦を渡り歩き、48歳で大和艦長になる。

「操艦の名手」と名声を高めたのは、44年10月のレイテ沖海戦。米軍の猛爆下、くわえたばこで屋根のない防空指揮所に立った。全長263メートルの巨艦は舵(かじ)を切って、動きだすまで1分以上かかる。上空からの爆弾、海からの魚雷。先を読みながら指示を出し、直撃をかわす。森下の後ろで見張りを務めた愛知県設楽町の水兵長原田久史(90)は「神様以上。この人についていけば大和は沈まない」と心酔していた。

撃沈した米空母で助けを求める兵士に、大和の機銃が照準を合わせた。「やめんか」。森下の怒声が響く。「船が沈めばよい。人は殺すな」と諭した。

大和が沈む前は「自分一人で大和を沖縄に持って行く」と叫び、船に残ろうとした部下を先に逃がした。

戦後は故郷に近い愛知県武豊町に住んだ。もう誰も英雄視はしない。民間会社の面接試験を受けたが、不採用に。農業もうまくいかない。「父の飲み代がかさみ、貯金がなかった」と長女幹子(82)。母は晴れ着を米に換えて家計を支えた。

地元産のエビを使ったえびせんべいを焼いて売ったが、もうからない。「兵隊がいればなあ。兵隊は一言えば十理解してくれる」。次女茂子(80)は「兵隊は私だけだったからね」と哀れんだ。

「大和で死ねばよかった。一生の不覚だ」。森下は会う人ごとにこぼしている。

大和沈没から9年後の4月7日。広島・呉で初めての乗組員慰霊祭が開かれた。脳梗塞で倒れ、左半身がまひした森下は、妻の肩を借りて駆けつけた。あいさつで、部下への思いに触れる。「死んでこいというような無謀な命令にも、何ら不平をもらさず従っていった…」。遺族を前に号泣していた。

「飛花に触れ 遺族の前に声は出でず」

思いを俳句に託した。舞い落ちる桜の花びらに若き兵士らの命が重なる。自分は生きて帰り、遺族に何を語れるというのか。

名古屋市緑区の生田徳子(66)は、生後間もないころ、大和で父を亡くした。けがをして船底で動けない状態だったという。「水が迫ってくる時、どんな気持ちだったのか」。「私にとって大和は英雄や美談じゃない。3000人を墓場に連れて行った鉛の物体です」

兵士の無念や遺族の悲痛を背負い、森下は寝たきりになるまで、慰霊祭に足を運び続けた。(文中敬称略)=終わり(この連載は、社会部の鈴木孝昌、栗田晃、浅井俊典が担当しました)

【大和の歴代艦長】 大和の艦長は5人いた。初代艦長の高柳儀八大佐が1941年11月に就任し、第2代は松田千秋大佐、第3代は大野竹二大佐が引き継いだ。森下は第4代艦長として、44年1月から10カ月間務めた。沖縄特攻時の艦長となった第5代の有賀(あるが)幸作大佐(戦死後中将)は44年11月に就任。長野県辰野町出身で、森下とは海軍兵学校の同期生。沈没時には、防空指揮所の羅針盤に体を縛り付け、大和と運命をともにしたと伝えられる。

■癒えぬ傷、今も 生存者、遺族ら証言

太平洋戦争末期、3332人の兵士を乗せて沖縄への特攻作戦に出撃した世界最大の戦艦「大和」。本紙社会面で連載した「戦艦大和の遺言-中部の乗組員たちの記憶」は、乗員の2割を占めた中部地方出身者の証言から、残酷な戦争の実相と兵士らの最期に迫った。生存者や遺族、専門家の話をもとに、「戦艦大和とは何だったのか」を考えてみたい。

■3000人乗せ特攻 ばかな戦い

三番高角砲水兵長(岐阜県七宗町) 亀山利一さん(89)

沖縄への特攻出撃前に柱島(山口県岩国市)の沖合で停泊していた時、「故郷に荷物を送りたい者は送れ」と指示があった。帰ることのない戦いに行くんだと悟った。日本にはもう軍艦や戦闘機を動かす重油は残っていなかったから。特攻とは大和を沈めに行くことだと思った。

命令が出た翌日の朝、家族にお別れをしようと、自分の配置だった三番高角砲の前で故郷の方角を向いた。手を合わせ、家族の名を呼んだ。「お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん、キサ子、かね子、宏、秀子、なお、鉄夫、幸三。おれはきょう、靖国神社に行くで、銃後は守ってくろ」と祈った。

千人針を初めて巻いたのもその時。氏神さまのお守りと一緒に母が持たせてくれた。家族や故郷に守られている気がした。

大和が沈んだ後、呉で残務処理をした。沈没したことを知らない乗組員の家族からの手紙を整理する担当だった。多くの手紙に、「家の前で靴音がしたので、あなたが戻ってきたと思ったのに違っていた」「帰ってきた夢を見た」ということが書かれていた。それを読んで、「みんなの魂が帰って行ったんだな」と感じた。

時がたつにつれ、怒りが込み上げてきた。戦争をしなければいけない状態に追い込まれていたのは分かるが、何のための戦争だったのか。3000人の兵士を乗せて大和が特攻しなければならない理由は何だったのか。いま考えると、あんなばかな戦いはないと思う。

■引き金 引き続けた

機銃分隊水兵長(名古屋市守山区) 畦地哲さん(85)

大和での記憶は、ずっと体に染みついてる。水が貴重だったから、いまだに思い切り蛇口をひねれず、すぐ止めてしまう。青空の白い雲を見上げると、そこから米軍機が出てきそうな気がする。

海軍に志願したのは士官の制服に憧れていたから。師範学校にも行きたかったが「軍隊の方が給料がいい」と聞いて、16歳で故郷の三重県紀北町を離れた。砲術学校を卒業し、大和の乗組員募集に応じた。希望がかない、うれしかった。

沖縄への特攻が告げられても、大和は絶対沈まないと信じていた。戦闘が始まると、あっという間に、空にウジが湧いたように、敵機がひしめいた。米軍の急降下爆撃機はとても優秀だった。角度4、50度ぐらいで降りてくる。感覚としては、垂直に突っ込んでくるようだった。

機銃の射程は本来、1500メートルくらいだが、敵機を引きつける余裕はなく、機銃の引き金を引きっぱなし。一応照準を合わせていても、命中したかなんて分からなかった。でも「これで終わりだな」とは思わなかった。怖いというより、われわれは命令通り動くロボットと同じだから。

沈没した時は「アメリカに負けてたまるか。絶対生きて帰る」と思っていた。日没になり、漂流していた乗員の救助が打ち切られた。まだ、待っている戦友もいたんだろうな、と思った。自分だってたまたま駆逐艦が近くを通らなかったら、海の藻くずとなっていた。自分だけ、助かったのは申し訳ないという気持ちはある。

■命の代わりに失明 

五番高角砲一等兵曹(三重県熊野市) 坪井平二さん(88) 

地元の日進国民学校で教員を1年やった後、大和に乗艦した。

沖縄特攻では、けがをした仲間が「ギャーッ」と叫んでのたうち回っても介抱する余裕はなく、歯が痛くなるほど食いしばって弾を撃ち続けた。魚雷と爆弾のえじきになって、もうだめだと思った時は、砲を握る手のひらにべっとりと脂汗がにじんだ。

沈没時に大和が爆発し、水中で頭に衝撃を受けた。そのためか、左目の視力をほとんど失った。命の代わりに目を沈めたのだと思う。

■空襲続き たえず治療

軍医中尉(名古屋市名東区) 祖父江逸郎さん(90)

レイテ沖海戦は空襲が続き、治療も休む間がなかった。やっかいなのは貫通銃創。爆弾の破片が腹から胸へ、胸から腹へと抜ける。

破片が内臓を破ると、短時間で死亡する確率が高い。開腹手術の余裕はない。止血し、傷口が膿(う)まないよう消毒剤を塗って、包帯を巻いてやることぐらいしかできなかった。

感染症も怖い。フィリピン停泊中に赤痢患者が2、3人出た。拡大を防ぐため、トイレに人を立たせて便を調べたこともあった。

■水不足 風呂も入れず

主砲発令所二等兵曹(愛知県一宮市) 野村義治さん(91)

砲術学校を出るとき、第1希望に大和と書いた。みんな大和にあこがれていた。ほかの船がハンモックで寝るのに3段ベッド。冷房も効いていた。レイテ沖海戦の後に大和を下りたので、自分は運が良かったと思う。

ただ水には困った。夜食が終わると、バルブが閉まるので、蛇口の下に飲み水用のコップを置いて、ぽつりぽつりと落ちてくるのを受けたりしてね。南方では風呂に入った覚えもない。僕は皮膚が弱かったから、かゆくて仕方なかった。

■いいようもない死臭

第二通信室上等水兵(岐阜県下呂市) 丹羽英一郎さん(88)

レイテ沖海戦のとき、負傷兵の応急処置室が私のいる通信室の前にあった。手がちぎれてうめくような人や血なまぐさいにおいがずっとしていた。中にいたのは、死にかけた人ばかりだった。

一番つらかったのは、攻撃で浸水したポンプ室に取り残されて死んだ兵士2人の水葬に立ち会ったこと。遺体が運ばれるのを艦内の通路で見送ったが、それだけで臭いが鼻につき、ご飯が食べられなくなった。死臭は何ともいいようのない臭いだった。

■海中で水を飲み楽に

防空指揮所二等兵曹(石川県加賀市) 川潟光勇さん(90)

急降下爆撃機が雲の中から突然現れ、爆弾を落とした後、機銃掃射していく。機銃の弾はどこに跳ね返るか分からん。同じ見張りの兵が倒れたのを見ると、弾が突き抜けたようで、左目の眼球から血が流れていた。

大和が横倒しとなり、高さ30メートル以上の防空指揮所も沈んだ。「海中では息を全部吐き、海水を少し飲むと楽になる」と先輩から聞いていた。海水を飲むと本当に楽になった。その後、爆発で体を押し上げられ、助かった。

■死体踏み越え歩く

戦艦武蔵二番副砲一等水兵(愛知県東海市) 依田功さん(85)

大和の姉妹艦「武蔵」に乗り、レイテ沖海戦を戦った。艦の通路には死体が浮かび、その上を踏み越えて歩いた。神経がまひし、かわいそうだと思う感情もわかなかった。

武蔵が沈んだ後、ドラム缶に捕まって海を漂ったが、後ろから誰かに肩をつかまれた。私も沈んでしまい、仕方なく、右足で蹴ってその兵をどかした。人が人でなくなる精神状態だった。大和を含め、戦争の犠牲者になるのは兵や弱い市民たちばかりだった。

■生き残り言い出せず

三番主砲二等兵曹(愛知県新城市) 故滝本保男さんの妻・富さん(85)

今年1月に亡くなった夫とは、本人が南方にいるときに結納した。私は地元で帰りを待っとった。終戦から1カ月後、沈没から生還した夫が帰郷して結婚式ができた。

戦後、仲間の墓参りに行き、遺族に「おまえはいいな。うちのだけ沈んで、どうやって逃げたんだ」と言われたらしい。帰ってきて「俺も大和と一緒にいかないかんかったかな」とこぼした。70歳をすぎるころまで、自分から大和の生き残りとは言わなくなった。

■父が作詞 艦歌が遺品

一番主砲分隊長(大尉)(岐阜県高山市) 故坂井保郎さんの長男・暁さん(78)

父は主砲の分隊長で、大和の艦砲射撃は「あれが戦争でなかったら、花火よりきれいだ」と話していた。沖縄特攻に出撃する前に帰宅し、「勝てる見込みはない。日本はどうなるか分からない」と母に言っていた。大和は横倒しになり、主砲は裏返った状態で沈んだ。中にいた父は脱出することもかなわなかったと思う。

父は艦歌の公募で「戦艦大和の歌」の歌詞を書いた。戦後にレコード化され、今でも大切にしている。