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Okinawa 沖縄 #2 Day 107 (22-23/05/21) 旧真和志村 (5) Shikina Hamlet 識名集落

2021.05.25 14:59

旧真和志村 識名集落 (しきな)


識名集落には22日と23日の二日にわたって訪れた。


旧真和志村 識名集落 (しきな)

識名集落は上間集落と隣接して、識名台地の一番高い場所にある。ちょうど識名集落の地下には識名トンネルが通っている。

もともとの集落は上間集落と同じく、シイマ御嶽遺跡周辺にあったシイマ村に構えていたと考えられている。シイマ御嶽遺の発掘物からは10世紀には既に朝鮮や中国と貿易していた。その後、住民は更に高台の識名に移住したものと、上間に移住したものに分かれたとされる。古文書ではこの識名はかつては具志堅 (グシチン) とか上間具志堅 (イーマグシチン) と呼ばれている。その後、具志堅が音韻転訛し識名と呼ばれる様になった。グスク時代、三山時代は上間按司とも安謝名按司とも呼ばれていた上間の安謝名子の支配下であった。

琉球王統時代の識名は現在よりも広い領域で、現在の真地 (マージ) と繁多川を含んでいた。真地には中国からの施設を接待する識名園があり、繁多川には首里城の出城と考えられている石田グスクがある。

明治12年の人口は1,514名で真和志間切の中では最も多かった。昭和10年では人口は326人に減っているが、これは真地と繁多川を分離したことが主要な要因だ。沖縄戦直前の昭和19年は480人、沖縄戦直後の昭和20年には237人だった。それ以降は識名は農耕地としては肥沃な土地であったことから人口は増えていく。前年度比10%以上の増加が1970年代前半まで続くが、それ以降は小康状態から微減となっている。

年代ごとに民家が増えていっているのがよくわかる。域内の東側に民家が見られないのは、その場所は識名霊園で那覇市の都市開発のための墓地の代替地としてこの識名に広大な霊園が造られている。

識名と上間が隣接しており、なぜ同じ場所に二つの集落があったのかに疑問が沸く。地理的には一つのまとまった集落であってもよかったのだが、グスク時代、三山時代からシキナ村から移住してきて以来、別々の運営になっている。その理由については書かれたものは見当たらなかったのだが、その住民の構成の資料があった。明治36年の士族と平民の人口のデータで、これを見ると識名は士族中心の集落で、上間は平民 (農民) 中心の集落であったことがわかる。沖縄では明治の廃藩置県後も士族階級は残っていた。これは明治政府が士族の反乱を避けるために、それまでの士族の特権を認めていたことによる。当時は士族と平民の交流はほとんどなかった。その階級制度は公式に士族が廃止された後も実質的に戦前まで続いていたという。おそらく、シキナ村から移住した際には別々のグループが隣接する場所に集落を造り、それが続いたのだろう。集落を歩くとこの隣接した集落が物理的にも分かれていたことが見受けられる。上間集落と識名集落の間を行き来できる道は集落の西と東の外側を周る二つしかなく、集落の真ん中からは行き来ができない。一つ真ん中に道はあったが、鎖で閉鎖されており、自動車での行き来はできない。これを見ると、この二つの集落の歴史的関係が推し量れるかもしれない。


琉球国由来記に記載されている拝所 (太字は訪問した拝所)



識名集落訪問ログ



東之大井 (アガリヌウフカー)

上間集落から識名集落への東の坂道の下に東之大井 (アガリヌウフカー) がある。ちょうどこの二つの集落の境界線の場所で、住所は識名になる。識名にある主要な4つの井泉の中で一番大きいのがこの井戸だったそうだ。東之井 (アガリヌカー) とも呼ばれている。大きい井戸と小さい井戸が隣り合わせにある。


識名巫 (ヌル) 殿内 (トウンチ)

東之大井 (アガリヌウフカー) の北側、識名集落では南の端にある場所に、識名ノロの屋敷跡がある。今は民家になっておりその庭の一画に神屋がある。昔はこの屋敷をヌル殿内と称していた。


識名巫火神 (シキナヌルヒヌカン、平安山御嶽)

識名巫 (ノロ) の敷地の南外れに在り、通称平安山御嶽と云われている。戦前は山中に在ったが、今は宅地造成されて、その一角に祀られている。御願の際には一番始めに拝まれる拝所。


下茂嶽 (シモヌタキ)

識名巫 (ヌル) 殿内 (トウンチ) の西隣のブロックには下茂家門中屋敷跡がある。現在も民家になっている。昔、屋敷の東側の樹木地で神骨 (祖霊神) が出土し、下茂嶽 (シモヌタキ、神名: ゲライ御イべ) として屋敷内に祀っている。下茂門中の御願の時は今でも一番先に拝んでいるそうだ。

人が住んでいるの敷地内へは入れないので、御嶽自体の写真は撮れなかったが、資料にその写真が掲載されていた。


屋比久之嶽 (ヤクヒヌタキ)、屋比久之殿 (ヤクヒヌトゥン)

識名集落の中に尚巴志の孫の屋比久子を祖とする屋比久門中の元屋がある。尚思紹の三男の平田大比屋は南山城攻略のとき討死し、跡継きがなかったので、尚巴志の長男佐数王子が跡継ぎして平田子となった。その三男が屋比久子であるという。屋比久子は尚徳王の従兄弟でその重臣でもあった。識名には現在もその子孫が住んでおり、その敷地内に屋比久之嶽 (ヤクヒヌタキ、神名: トモヨセ大神御イべ) がある。上間誌では屋比久之殿が載っている。尚徳王が喜界島の遠征から帰還した後に、喜界島の女人を二人を召寄せて、姉は尚徳王、妹は屋比久子の側室としたという伝承が残っている。

私有地なので中には入れず、屋比久之嶽と屋比久之殿は外から見ると少しだけ垣間見える。

識名誌と上間誌に載っていた屋比久之嶽の写真。二つの写真は異なっている。識名誌は屋比久之嶽 (写真左)、上間誌は屋比久之殿 (写真右) となっている。


東之御嶽 (アガリヌウタキ、高安之嶽)

屋比久之嶽 (ヤクヒヌタキ) の近くに広場がある。この場所で村の行事が行われるそうで、前には酸素ボンベン鐘が吊るされ、奥には観覧席が設けられている。観覧席の奥に拝所があった。琉球国由来記の高安之嶽と考えられている。王府時代から首里天加那志の加護と雨乞いの祈願を義務付けられ、御願が行われていた。沖縄戦当時は出征兵士の武運長久を祈ったという。西の御嶽と共に年中祭祈の祈願の拝所となっている。


殿小 (トゥングヮー)

東之御嶽 (アガリヌウタキ) の東、集落の端に殿小 (トゥングヮー) と呼ばれている拝所がある。この拝所についての情報は見つからなかった。


上門後之嶽 (ウィージョークシヌタキ、上地古堅之嶽)

集落の北側は部落内で一番高い場所になり、その北側は崖で、その下は識名霊園になっている。この集落の一番高い場所に上門後之嶽 (ウィージョークシヌタキ) がある。琉球国由来記の上地古堅之嶽 (神名: カネノ御イべ) とされ、ニライカナイへの願かけ、恩謝辞、航海安全の祈願処だった。

すぐ隣にコンクリート造りの古い水タンクがある。その奥に新しい水タンクのある貯水池がある。コンクリート造りの古い水タンクは昔のものだろう。


西之御嶽 (イリヌウタキ、川門之嶽)

部落の真中辺りには、西之御嶽 (イリヌウタキ 神名:シマネトミノ御イべ) がある。戦前は小高い処にあった。御嶽の隣の広場には高倉があって子供達の遊び場だったそうだ。年中祭祈の御願所だ。


識名村屋跡

集落の西側にかつての村屋があり「むらやー」と呼ばれ公民館になっている。


識名公民館ホール

識名村屋跡の西側をはしる真珠道沿いに公民館ホールが建てられている。


尚徳王陵墓跡 (カネマン御墓)

識名公民館ホールのすぐ南側のマンションの前に、カネマン御墓 (一名七門御墓) があり、別の説では武士墓とか真栄平墓とも呼ばれている。また、一説には尚徳王の墓だと伝わり、上間集落で祭祀している。カネマン按司 (四代) は尚徳王の叔父であり養育係だったので、クーデターで王座を奪われ、公に墓を建てることはできず、安謝名家の墓に尚徳王を葬った可能性はあるだろう。カネマン御墓内には正面に無名の石厨子があり、共の他多くの厨子などがある。これは安謝名門中の先祖で、察度王と子であった初代カネマン按司から尚真王の側室の父であった六代カネマン按司までの代々の墓という。

第一尚氏最後の王の尚徳王は1441年、尚泰久王の第三王子として生まれ、第二婦人の子でありながら嫡子を退け王位に即位。これは第二王子の世子である中和が謀反人の護佐丸の娘の子であった事によると言われている。1460年から1469年まで在位したが、金丸 (後の尚円王) のクーデターにより王座を奪われた。個人的な想像では、尚徳王は優秀な青年だったと思う。ただその若さゆえに、人を信用できず、専制的な行動が多く、古参の家臣が離れて行ったのだろう。あまりにも自分を過信し過ぎたのでは無いだろうか。在位中はかなりの成果をあげているにも関わらず、それは家臣に評価されなかった。金丸はクーデターを起こした時は55才、当時としてはもう引退の年齢だ。クーデターを成功させるにはかなりの根回しが必要であっただろうから、主要な按司連中も尚徳からは心が離れていたのだろう。尚徳の養育役であった安謝名 (アジャナ、尚巴志の息子で尚徳王の叔父にあたる) が、金丸のクーデターで、尚徳王の一族が殺戮された際に、首里城の京の内にあるクンダ (脹) グスクと呼ばれている場所から遺骨を持ち去り、安謝名の領地であった識名上間地区に尚徳王の墓を建てたと言われている。(余談: 殺されて投げ捨てられた王妃の脹骨 (ふくらはぎ) が崖に引っ掛かったことからクンダ (脹) グスクと呼ばれている)だた、尚徳王の最期には諸説あり、クーデター時には首里城にはいなかったというのが通説だ。

第一尚氏王統は1406年から1469年まで三世代で僅か60年しか続かなかった。尚巴志以降は各王とも在位が短命でお家騒動が多かった。第二尚氏の尚真王の様に、王統を長く続けられる方策がなされていなかったのが理由だろうが、当時はそんな余裕は無かったのだろう。この時の尚徳王は久高島で愛人のノロ と密会していたときに、このクーデターを知り、入水自殺したとか、(尚徳王の身代わりに家臣の仲程筑登之 [なかほどちくどぅん] であったとの説もあり、北に逃走したとかいわれている。別の説では、クーデターではなく尚徳王が急死した後に、尚徳王の世子の王への即位式で、安里大親 (護佐丸の弟と伝わる) がそれに異を唱え、即位式が中止され、金丸 (後の尚円王) が民衆に押されて即位したともある。これは沖縄の子供たちが教えられている説だが、尚徳王が急死は金丸 (後の尚円王) の毒殺説もある。別の話では、尚徳王の死後は第二王子の中和が継ぎ、中和王は約1年間、尚徳王の名で朝鮮に遣使し、明へも朝貢使節を送ったいたといわれている。この中和王は歴史上、第一尚氏の第八代王としては認められていない。このクーデターにはあまりにも食い違う多くの説がある。現在、通説となっているのは第二尚氏時代に編纂されたものなので、都合よく改竄されているだろうから、定説は事実でない可能性が非常に高い。

元々の墓には七つの門があったそうだ。これが七門御墓と呼ばれる所以だろう。沖縄戦や道路拡張工事で墓が焼失していたが、安謝名門中を中心として1969年にこの墓の跡地に尚徳王御陵蹟の碑を建てたのがこの場所だ。今でもここを訪れて御願 (ウガン) をしている人は多い。墓の側に小さな拝所があり、殉死した仲程筑登之を祀っているとも尚徳王のウナジャラ (王妃、側室) の袖墓ともいわれている。


馬場跡

尚徳王陵墓跡から真珠道を上間集落方面に向かった所はかつては馬場があったそうだ。現在はその面影は残っていない。


大井 (ウフガ-、赤井)

真珠道沿いに識名の古い時代から飲料水として使われていた四つの井泉の一つの大井 (ウフガ-、赤井) がある。ウフガーは産井 (ウブガー) からの訛りと考えられている。部落の入口に位置するので、村ガーと呼ばれていた。元旦の朝早く若水を汲み一年中の祈願に備えるのもこの井戸の水だった。首里城で行われていた国王の御水撫でのお水取り行事で使われる水を汲んだ九井泉の一つでもある。戦争前までは学校帰りの学生や野良仕事から帰る人達水を飲んでいたが、昭和20年の沖縄戦で破壊され、戦後昭和22年頃に復旧され使用していた。簡易水道ができてからは、洗濯用と水浴び用として使われていた。

お水取り行事は琉球王朝時代の元旦の儀式で、その際に首里城周辺にある九井泉から水を汲んでいた。識名にあるこの大川 (ウフガ-) と毛堀泉 (ケプンヂャーヒージャー、ケフリ樋川)がそれにあたる。元旦の朝、首里城に献上する水をその年の吉方の方位にある二つの井泉から水を汲んで、首里城に献上され、若水」として国王の御水撫 (ウビーナディー) につかわれ、長命と幸せが祈願された。12月20日に国頭村辺戸の琉球開闢の聖地、アスムイ (安須森) まで使者をおくり、アスムイの麓「辺戸大川」 (ウッカー・神名:アフリガー) の水を汲み、王朝の新年の若水として献上、次に首里城周辺にある九つの井泉のうち2カ所から水を汲んだという。それらは首里城からの方角によって示されており、子の方角の「浦添のカガミ川」をはじめ、丑・寅、卯、巳、の方角の井泉が記されて記されており、午の方角には「識名のアク川 (赤井、ウフガー)」、未の「識名ケフリ川」、申の「識名石シャ川 (イシジャガー)」と記載されている。このお水取りは五月「稲穂祭」、六月「稲大祭」、「年浴」、そして八月「柴指」にも行われていた。これらの井泉は首里城を起点として各地を結ぶ宿道沿線に所在していたと考えられている。この首里のお水取りは戦後絶えてしまったのだが、1998年 (平成10年) に約120年の時を経て「首里王府お水取り行事」として復元されて、毎年行われている。昨年はコロナ感染予防のため、規模は縮小され、12月27日に実施されている。


ウフガマ

大井 (ウフガ-) の前の真珠道を渡った所にある日蓮正宗光明寺脇の階段を識名集落方面に上った所に上間集落で見た自然洞窟のシチャ―ラガマの反対側の入り口がある。民家の間に半身になって進まねばならないほど狭い道があり、そこが洞窟への入り口への通路だった。識名集落ではウフガマト呼ばれている。今でも多くの人がお参りに来ているのだろう入り口には供え物が置かれている。


西之井 (イリヌガ-、ヒージャーガー)

大井 (ウフガ-) の近く南寄りにも四つの井泉の一つの西之井 (イリヌガ-) がある樋川井 (ヒージャーガー) ともよばれ、水はウフガーよりもおいしいかったそうだ。飲料水、洗濯、水浴びなどに多く使われていた。普段はひとけもない処で、若い娘たちが人の目を盗んでこっそり水浴びする場所でもあったという。


古墓

西之井 (イリヌガ-) のそばに古墓があった。綺麗に昔の形が残っていたので写真を撮った。


かつての識名集落内にある文化財はここまでだが、かつての集落の外れであった所にも幾つかあるので、次はそちらの方を巡る。



真嘉戸井 (ムルンジャガ-)

識名集落から丘を西北に降りていったところにタカラヤマーと呼ばれる場所がある。昔は小さな居城の跡みたいな高い石垣が積まれていたそうだ。当時の屋敷の裏側にムルンジャーと呼ばれる井戸がある。ここには三回訪れて資料にあった写真を頼りに井戸跡を探した。

ここも見たのだが井戸跡とは思わなかった。アルミ製のドア板が捨てられているぐらいにしか思っておらず、また別の日に探すもそれらしきものはなかった。三日目に来た時に、ブロックの上に湯呑が置いてあることに気が付きよくよく見てみると、アルミ製のドア板は井戸を覆うために置かれていることが分かった。ここが真嘉戸井 (ムルンジャガ-) だ。文化財としては見栄えが悪い。沖縄の文化財を巡り始めたころはそのように思っていた。沖縄には本土のように見栄えの良い文化財は少ない。ただ集落巡りをしていくにつれ、沖縄の文化は集落単位の文化で、日々の営みで重要なものが住民の間に維持されている。それが拝所や井戸で、沖縄の祖先崇拝、自然崇拝が集落単位でいまだに守られている。集落の人にとっては形より、その存在の方が大切なもので、形にはとらわれない。これが沖縄の文化だとわかってきた。沖縄研究者の中には、沖縄には本土で失われてしまった古い信仰の形が残っており、古代日本を探るために重要としている。


毛堀泉 (ケプンヂャーヒージャー、ケフリ樋川)

大井 (ウフガ-、赤井) から真珠道を北側に進んだところに毛堀泉 (ケプンヂャーヒージャー、ケフリ樋川) がある。ここも識名の4つの井戸のうちの一つで大きな井戸であった。この井戸は先に訪れた大川と同様に、首里城で行われていた国王の御水撫でのお水取り行事で使われる水を汲んだ九井泉の一つでもある。婦人たちの洗濯や、子供たちの水遊びにも使われていた。現在では、建設用水として活用されており、そのための施設が建てられている。


識名霊園

識名集落の北側の斜面下に那覇市が監理する識名霊園がある。これは那覇市が1956年 (昭和31年) に公共事業などによる墓地の移転代替地として、識名、繁多川、真地の地域内に34.64ヘクタールを霊園に指定することを計画決定したが、墳墓建造の増加や、市街地拡大などによる立てこみ、地価高騰などの理由により、計画の8分の1で事業執行が止まっており、これ以上は進まないだろう。霊園内には那覇市民共同墓が造られている。(写真下)


南洋群島沖縄県人戦没者並開拓殉難者慰霊碑

那覇市民共同墓の向かい側には南洋群島沖縄県人戦没者並開拓殉難者慰霊碑がある。太平洋戦争で、旧南洋群島に赴いていた12,826名の犠牲者の御霊と、開拓途上犠牲になった者の霊を慰めるために、昭和38年 (1963年) に建立されている。第一次世界大戦後、日本の委託統治下にあったサイパンに多くの沖縄県民がサトウキビ栽培や製糖業などに従事するため渡航している。昭和16年 (1941年) に太平洋戦争が勃発し、サイパン、テニアン、マリアナ諸島は日本軍の重要な基地となり、日本兵が駐留していた。昭和19年 (1944年) 7月には当地の日本人移民も巻き込み、サイパン守備隊が玉砕した。1ヶ月の戦いの中で民間人の戦死者は10,000人にも達している。6月23日の慰霊の日には、この場所で慰霊祭が行われている。また、遺族で組織してた南洋群島帰還者会は毎年、墓参団を結成して現地に慰霊の為に渡航していたが、現在は遺族の高齢化により終了している。

慰霊碑の奥には古墓があった。


唐大主の墓

識名霊園の中に国場集落住民で沖縄瓦の始祖といわれた唐大主こと渡嘉敷三良の墓をたまたま見つけた。那覇市泉崎の緑ヶ丘公園には渡嘉敷三良の古墓があったのだが、ここにここに移設されているのだろうか?


程順則の墓

霊園内にもう一つ、琉球歴史上の偉人とされる程順則の墓もあった。程順則は久米村 (クニンダ) 出身で、久米村総役、三司官座敷、名護間切総地頭職を務めた。1718年に琉球最初の公立学校となる明倫堂を建設。日本人の道徳の基本となった「六諭衍義」を福州から持ち帰り、琉球に広め、さらに薩摩を経由して徳川幕府に献上し、将軍吉宗は幕藩体制を支える道徳律としてこれを和訳させ日本国中に広めて、程順則の名は日本国中に知られることとなった。

久米村 (クニンダ) にあった頌徳碑


ノシヤ原 (慶長役の古戦場跡)

豊臣秀吉は朝鮮に出兵をした文禄 (1593年)・慶長の役 (1597年) の際に琉球国にも出兵を要求したが、国内疲弊を理由で出兵に替わり、兵糧米の供出となり、それも薩摩が肩代わりをしていた。これにより、琉球国は薩摩に大きな借りを造ることになった。 1602年、仙台藩領内に琉球船が漂着し、徳川家康の命令により、1603年に琉球に送還された。これに対して、琉球王から家康への謝恩使の派遣が要求されたが、中山王府はこれに応じなかった。1608年に、島津家久が、尚寧王に家康への朝聘を促す為、使者を派遣したが、三司官の謝名親方は使者を辱めたとされている。これを口実に薩摩は琉球征伐の御朱印を手に入れ琉球侵攻となった。

島津軍の琉球侵攻戦争1609年 (慶長14年) に侵攻する島津軍に勇敢に抗戦した三司官の一人浦添親方の子、真大和 (真山戸、朝盛)、百千代 (朝刻)、真カル (朝伸) の三兄弟が戦死したと云われている敷名原がこの識名小学校付近という。喜安日記 (尚寧王の近臣喜安が記した慶長之役の琉球側記録) には、鋪那原と記されている。三兄弟は残っていた郎党や雑兵を集め薩摩軍に抵抗を試みるが歯が立たず、一時、繁多川の野座毛 (ヌージャンヌモー) に退いた。首里城に降伏の旗が翻るの見て、最後の決戦に出る。奮戦の甲斐なく、三兄弟は討ち死となった。

江戸時代にはこの薩摩の琉球征伐の軍記物が流行し、100以上の琉球征伐軍記ものが確認されている。貸本屋が写本の際に、色々な脚色を加えた為に、様々なバージョンが出回っていたそうだ。当時、琉球を始め東アジアに対して、庶民の関心が高かったことを現わしている。ただ、琉球の様子を正確に伝えているわけではなく、天保7年・文久4年刊絵本豊臣琉球軍記の挿絵は琉球人は中国風に描かれている。


大石毛 (ウフシモ―、大石公園)

繁多川地区との境界付近に大石毛 (ウフシモ―) と呼ばれる丘があり、現在は大石公園となっている。丘の下には川が流れており、その沿岸には石田遺跡や識名貝塚が点在しており、かつては人が住んでいたと考えられる。大石毛 (ウフシモ―) の丘にはその住民たちの御嶽があったのではという説もある。

公園内には何かの遺跡のようなものがあった。コンクリート造りだ。墓となのか? 旧日本軍の施設の一部だろうか?



公園の一番高い所に拝所があった。その他、古墓のようなものもあったが、この大石公園についての情報はほとんどなく、詳細は判らなかった。


参考文献