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平田篤胤の国学

2018.05.23 05:49

Facebook・清水 友邦さん投稿記事

平田篤胤(ひらたあつたね)の国学は国家神道を正当化するイデオロギーとして用いられたので国粋主義の神道家の頭目と目されていました。

近年、新たな平田篤胤(ひらたあつたね)研究により民衆に近代化への意識改革をもたらした思想家として再評価されています。

長く武家社会が続き天皇家は力をうしない庶民の崇敬の対象は将軍や領主にあり氏神やその土地の神々になっていました。

天皇家の領地である禁裏御料の石高は小大名くらいの3万石くらいしかありませんでした。

天皇家にはもはや財力がなく277年間新嘗祭が途絶えていました。

再興されたのは徳川綱吉の元禄時代、吉田家においてでした。

幕末にアメリカ合衆国のペリー艦隊、黒船が来航しました。

日本はかつて経験したことがないくらい強力にアイデンティティーが揺さぶられました。

外国文化に影響されない日本人の精神的アイデンティティとして復古神道の「かんながらのみち」が受け入れられていったのです。

古代は「祭事(まつりごと)」が「政事(まつりごと)」だったので祭祀がそのまま政治でした。

明治政府は近代国家建設の国民統合の理念として王政復古を掲げて皇室祭祀による「祭政一致」の天皇制を推し進めました。

その中心となる建物が三種の神器の一つ八咫鏡が祀られた宮中の神殿と伊勢神宮でした。

のちに靖国神社が加わりました。

白虎隊や新選組などの幕府の賊軍は靖国神社に祀られませんでした。西南戦争で官軍と戦って戦死した西郷軍も靖国神社に祀られていません。

戊辰戦争で天皇の為に戦った兵士を慰霊すための招魂社が靖国神社の前身だったからです。

現在も靖国神社に祀られていません。

明治の国家神道、祭政一致の元になったのが復古神道です。

本居宣長(1730年6月21日〜1801年11月5日)は中国などの外国を「禍津日(まがつび)」の神が支配する曲がった心の国であり日本のみが「直昆霊(なおびのみたま)」の神が支配する正しい国だとしました。

本居宣長(もとおりのりなが)の復古神道を受け継いで発展させ大成させたのが平田篤胤です。

本居宣長は禍津日神(まがつひのかみ)を悪神だと考えましたが、篤胤(ひらたあつたね)は『鬼神新論(きしんしんろん)』で「禍津日神(まがつひのかみ)は世に穢(きたな)らしい事が起きれば、激しく怒り、凄まじい凶事を起こす大神だが、常には大きな御功徳(おんくどく)を授けてくれる、またの名を瀬織津姫という祓戸神であり、世の災難や罪穢(つみけが)れを祓ってくれる、善い神である。」と述べています。

荒魂(あらみたま)が怒り、憎しみ、荒々しく反応するのは禍津日神の分霊の働きによるもので直毘神(なおびのかみ)が和魂に働くと荒ぶる心が鎮まるとします。人間の心は禍津日神(まがつひのかみ)の分霊と直毘神(なおびのかみ)の分霊を授かっていると考えました。

平田篤胤は今の菅首相と同じ秋田県生まれです。

平田篤胤は二十代で脱藩を決心して真冬の最も雪が深い1月に死を覚悟して江戸に向かいました。

秋田と山形の県境の峠で猛烈な吹雪にあって道に迷って遭難するのですが、その時に「左にいけ」という不思議な声に導かれて民家にたどり着き助かります。篤胤は強烈に神の加護を確信するようになりました。

江戸の貧しい生活に耐えながら古今東西のあらゆる本を読み解き、それを記憶し苦学して学者として大成しました。

篤胤が使用した机が残っていますが左肘が当たる場所に穴が開いてあり、そこに柔らかい肘当てを乗せて執筆していたそうです。

そのくらい不眠不休で書きつづけ、執筆に行き詰まると神々に祈り、疲れたら机の前で袴のまま寝て、起きると、また書きつづけたという凄まじいものだったという門人の話が伝わっています。

篤胤の研究は古伝、文学、民族学、易学、天文、暦数、地理、医学、解剖学、蘭学、兵学、キリスト教、仏教、道教、儒教と広範囲に渡っています。しかも、英語、ドイツ語、ロシア語、オランダ語にも通じていました。

平田篤胤は1812年に相思相愛の中だった愛妻織瀬を医術も祈りも効果なく31歳の若さで失っています。

家族の死をきっかけに霊界研究に没頭して寡暮らしの中1813年代表作「霊能真柱」を執筆しました。

篤胤は持ち前の博覧強記を発揮して、天御中主神と高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神が宇宙の開闢と天地創造した日本の神話伝説の正しさを世界中の資料からかき集めた図と文章で示しました。

人間が生きている間は天照大神(天皇)に従い、死んだ後、大国主が支配する幽冥界へ行きこの世の子孫たちを見守る存在 になると考えました。

幽冥界はこの国土の外の別のどこかにあるわけではなく、この国土の内のどこにでもあるけれども次元が異なるので目に見ることができないのです。

日本が世界の中心で大本であるという平田篤胤の考えは「竹内文献」に受け継がれて二・二六事件を起こした皇道派の軍人に影響を与えています。

1816年平田篤胤は今の千葉と茨城を旅して鹿島・香取神宮を参拝しました。その途中小浜の神社で夢に見た「天の岩笛」を発見しました。

篤胤はいたく感動して、平田学塾を「息吹屋」と改めました。

先日黒川さんの案内で平田篤胤が天の岩笛(あまのいわぶえ)を発見した銚子の神社を参拝しました。

海津見神社(妙見神社)があった場所をたまたま通りかかった人に聞いたところ2キロ先の海に消えた集落にあった話をしてくれました。話しかけたその人は奇遇にも平田篤胤の門人宮負定雄の子孫でした。宮負定雄は多数の著述があり下総国香取郡松沢村の名主でした。宮負家には仙界秘図や神品、奇石、秘伝書類など多数の資料が保管されていると伝えられています。

埋もれていた「天之石笛」を発見以後、息吹屋への神職、武士・豪農・商人の入門者が増えていきました。

幕末には四千人になり、その弟子たちによる平田国学のネットワークが幕府を崩壊させる上で絶大な役割を果したのです。

島崎藤村の長編小説「夜明け前」は平田国学の門人だった藤村の父親青山半蔵の幕末の物語です。

影響が大きくなり幕府に睨まれた平田篤胤は執筆を禁じられて秋田に追放となり、その2年後に失意のうちに秋田で死去しました。平田篤胤のお墓は秋田市にあります。

古代の律令政のもとでは祭祀を司る神祗官は政治を司る大政官の上位におかれ、国勢の中枢を担っていました。

明治政府は、神武復古をかかげ、天皇中心の国家体制を敷きました。政治を司る神祇官を含む太政官制度が廃止され、天皇の宗教的権威と公家の関係で成り立っていた朝廷は消滅しました。

しかし、途絶えていた鎮魂の祭祀を、水面下で継続してきた神祇官を外して、天皇家の鎮魂の祭儀はできませんでした。

罷免された白川家と吉田家は、改めて神祇官に任ぜられました。

吉田家と白川家は平田篤胤の古学教授を受けていました。

平田国学は大名の残酷な刑罰や過酷な年貢の取り立てをする将軍と大名、藩主と家臣、家臣と奉公人といった封建的主従関係よりも、古代にみられた天皇による祭(まつり)と政(まつりごと)による百姓が安心して暮らせるゆるやかな政治体制を考えていました。

平田派は権力者の上に天皇をいただいて権力者の横暴をふせぎ神の子孫である民衆によるゆるやかな王政復古(大祓詞の神々が合議して安国として平けくしろしめせ)を考えていましたが平田派と対立する津和野派国学者は神武創業という過去の物語に囚われる必要が無い、祭政一致国家を目指したのです。

新しい政府の要職に就いたのは維新の原動力となった薩摩・長州・土佐・肥前の出身者でした。

明治政府が作り上げたのは官僚が強力な国家権力を持つ中央集権国家でした。

長州の隣の津和野藩は国学が盛んで明治維新の政界に顔が利いていました。

明治4年に津和野派国学者と対立する平田派が粛清される事件が起きて平田派は神祇官から排除されてしまいました。

津和野派が神祇官の主流を占め、伝統的な神祇宗家である吉田・白川両家の影響がある全国の神社の神職(神官)の世襲が禁止されました。

幕末に隆盛を誇った平田派でしたが津和野派に敗れると明治政府の中枢から排除され衰退しました。

海津見神社(妙見神社)があった場所をたまたま通りかかった人に聞いたところ2キロ先の海に消えた集落にあった話をしてくれました。話しかけたその人は奇遇にも平田篤胤の門人宮負定雄の子孫でした。宮負定雄は多数の著述があり下総国香取郡松沢村の名主でした。宮負家には仙界秘図や神品、奇石、秘伝書類など多数の資料が保管されていると伝えられています。

現在海津見神社(永井の妙見様)は2キロ先の海の中

「天の石笛(あまのいわぶえ)」伝説

昔々、神様と人間がまだ近くに住んでいた頃の話だ。

飯岡の浜の漁師たちは毎朝舟に乗り、沖に出ては魚を獲ってくらしていた。

ところがこのところのシケで、漁師の遭難が相次いでいた。

 村の若い漁師源助はひと月前にシケでおとうを亡くしていた。ある日、永井岡の高台にある海津見神社(永井の妙見様)へ出向いていった。

「こんなことが続いたらおっかあも村人も飢え死にしてしまうだよ。嵐が来る前にどうか知らせてくんねえだろうか。」

その社には竜神様の娘である美しい姫様が住まわれていた。漁師を哀れに思われた心優しい姫様は「源助さん、今度父神が嵐を起こす時には私が石笛を吹いてお知らせいたしましょう。」と、手に持った石笛を吹いてみせた。

「ヒューヒュー」という不思議な音色に心を奪われた源助は、村に戻りその話を伝えた。

 翌朝源助が海を見ると海は鏡のように凪いで絶好の出漁日和に思えた。ところが源助が舟を出そうとした矢先「ヒュー」と石笛の鳴る音が聞こえ源助は仲間の漁師にそれを知らせた。その直後に海は荒れたが漁に出た者は無く、みな無事だった。

 そんな事があった後、竜神様は、姫様をワニザメの姿に変えて海へ連れ戻してしまった。

シケの後の玉の浦の浜辺で、源助は姫様の吹いていた石笛が流れ着いているのを見つけた。源助は海津見神社へその石笛を祀った。

 不思議な事にシケの前にはその石笛に風が吹き込み「ヒューヒュー」という不思議な音を響かせた。村人達は石笛が鳴ると漁に出るのを止め、荒れた海で命を落とす者も無くなったそうだ。

小浜の八幡神社

かつて海岸に流れ着く穴が開いた「寄り石」(凝灰質砂岩の飯岡石)を神社に供える風習があったという。

平田篤胤が埋もれていた「天の磐笛」を発見した小浜の八幡神社

かつて海岸に流れ着く穴が開いた「寄り石」(凝灰質砂岩の飯岡石)を神社に供える風習があったという。


https://wakonc.org/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E7%AF%A4%E8%83%A4/ 【平田篤胤(ひらたあつたね)と一霊四魂】 より

 平田篤胤(ひらたあつたね、1776年10月6日(安永5年8月24日)-1843年11月2日(天保14年閏9月11日))は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。医者としては玄琢を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。

 復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E9%81%93 【復古神道】 より

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平田篤胤

復古神道(ふっこしんとう)は、江戸時代、国学者たちによって提唱された神道。「古神道」、「古道」、「皇学」、「本教」などともいう。

概要

復古神道の教義は多種多様だが、概ね共通しているのは、儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想である。神々の意志をそのまま体現する「惟神(かんながら)の道」が重視された。

復古神道は、江戸時代初期に生まれた垂加神道と同じく、時代を大きく動かしていったが、国学者たちによって、より学問的な立場でつきつめられていった神道といえる。賀茂真淵や本居宣長らの国学者がまず古道説を唱えて体系づけ、平田篤胤や本田親徳らが、儒教や仏教を強く排斥して日本古来の純粋な信仰を尊ぶ「復古神道」を大成し、発展させていった。復古神道は、都市部の町人のみならず全国の農村の庄屋・地主層を通じて農民にも支持され、幕末の志士たちにも大きな影響を与え、明治維新の尊王攘夷運動のイデオロギーに取り入れられることとなった。

復古神道では、多くの流派で、「言霊」、「数霊」を使って古事記や日本書紀を読み解くことも行われた。十言の神咒(とごとのかじり)、三種の祓い(みくさのはらい)など多くの行法が取り入れられたり復興されたりした。禊行も重要視される。言霊は太占や鎮魂、帰神法と並んで復古神道の四つ柱と称される。[要出典]また傍流としてではあるが折符も発達した。現在、神社などで使われている行法も、実はこの復古神道の流れから発達したものが少なくない。

現時点で宗教団体として活動している流派の中には「我々は復古神道の流派ではあるが平田派国学と何の接点もない」という趣旨を主張しているものがあるが、教義上そういう建前になっているにすぎず、歴史的には、平田派国学の影響を免れるものではない。

歴史

6世紀の仏教伝来以来、日本では神道と仏教は、併存と対立を繰り返してきたが、大化の改新以後は平和的な併存に定まった。平安時代に天台・真言の二宗が確立すると、神仏は単なる併存でなく、混ざり合う神仏習合が始まった。神道は「古道」とも称され、仏教やキリスト教のように戒律や教義を説く教典がなく、素朴な精霊信仰の形態を維持し続けている数少ない宗教のひとつであり、「神道神学」が形成されにくいものであった。このため、神仏習合は、結果的にはその教理面では仏教理論によって古来の神々を説明するような事態になっていった(→寺社縁起譚、中世神話の成立)。

江戸時代に賀茂真淵は『国意考』などで古道の存在を訴え、その薫陶を得た本居宣長は大著『古事記伝』を完成し、その巻1にある「直毘霊(なおびのみたま)」で、記紀からみいだされた「神の道」を示して、日本固有の神道の復活を目指す復古神道の成立に大いなる貢献をなした。

平田篤胤は本居宣長の書に啓発され、古代史を明らかにし、皇道の正当性を天下に示すなど、復古神道の形成に大きな役割を果たした。また、幽冥界・霊魂など、霊界に関わる研究で著名な成果をあげ、法華宗や密教、キリスト教、道教などの他宗教を参照した「平田派国学」を大成させた。この平田派国学の流れから後に、本田親徳、川面凡児その他の、「古神道系」宗教家が多く誕生してくる。

その後、明治になると、明治政府に入った平田派国学者らは、神仏分離と神道国教化を推進した。また、同じ明治の本田親徳や、本田の弟子の長沢雄楯、またその系譜に連なる出口王仁三郎らは、人間の心は根源神の分霊である「直霊」(なおひ)が「荒魂」、「和魂」、「奇魂」、「幸魂」の4つの魂を統御するという日本古来の「一霊四魂」説を体系化した。


https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2698583  【日本の神様】

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https://lifeskills.amebaownd.com/posts/categories/3258918   【言霊・カタカムナ】

https://ameblo.jp/mizublog2/entry-12535762722.html  【短いながらも超パワフル!「三種太祓(みくさのおほはらひ)」とは?】 より

■爾華Mikaさんが「三種太祓(みくさのおほはらひ、さんしゅのおおはらえ)」について書かれてました。

三種太祓は、古くからある祝詞で、

これこそが大祓(おおはらえ)の中に出てくる天津祝詞(あまつのりと)の太祝詞(ふとのりと)ともいわれることのあるほどの祝詞です。

その原文はこう。

吐普加身依身多女(トホカミヱミタメ)

寒言神尊利根陀見(カンゴンシンソンリコンダケン)

祓ひ玉ひ清め給ふ(ハラヒタマヒキヨメタマフ)

この祝詞は、今も天皇家のご神事で使われています。

今年の春に大嘗祭で天皇陛下が召し上がれる米を作る田んぼを決める占いを行った際に、使われたことで話題になりました。

三種というのが、一行目が天津神、二行目が国津神、三行目は人ということで、天地人のお祓いができるという祝詞です。

でも、現在は神社庁に所属の神職は使っておられない祝詞のようです。

というのは、江戸時代あたりに特に二行目が激しい非難を受けたからです。

二行目は、カンゴンシンソンリコンダケンといいます。勘のいい人はもうわかるでしょう。

カンゴンシンソンリコンダケンとは、坎艮震巽離坤兌乾であり、これはそのまま易経にある八卦なのです。

八卦は森羅万象を表します。そこからそれを国津神に当てはめたのでしょう。

しかし、

大和言葉で作られるべき祝詞に、漢語が入っているということで、この部分は削除すべきということになりました。

なので、普通に使われる場合は、二行目は省かれる場合も多いのです。

一行目のトホカミエミタメだけでも、トホが刀、カミが鏡、エミタメが玉を表すとされ、

三種の神器のことを指すともいわれています。

この祝詞だけでも、お祓いができますし、何より今も皇室でご神事の占いをするときに使われる言葉です。

特に占いのときには絶大な力を発揮する祝詞です。

おそらく発案者は天児屋根命さんではないでしょうか。

僕もいつも易講座で教えていましたが、二行目省いたバージョンで教えていました。

でも、易占いするのにこの二行目省くなんて、間違ってたなあと思いました。

せっかくならこの二行目も唱えた方がいいに決まっています。

この祝詞は平安時代の終わりころには記録が残っているそうです。

それから江戸時代まで600年以上はかなり熱心に唱えられていた祝詞です。

今も、白川神道系や吉田神道では唱えられているそうです。

やまとことばと漢語が並んではいますが、おおらかな時代の日本を記録している祝詞として、また、占いの前の言葉として、また、最強レベルの祝詞の一つとして、とても大切な祝詞だと思います。

覚えておいて損はありません。

ひらがなで書いておきますね。

三種太祓(みくさのおほはらひ、さんしゅのおおはらえ)

とほかみえみため ×3回

カンゴンシンソンリコンダケン

はらいたまへきよめたまふ

とほかみえみためは、遠津神(とほつかみ)、つまりご先祖様に、恵みたまえ、または笑みたまえという意味ともされています。

この祝詞さえ唱えれば、天地、それからご先祖様、三種の神器のパワーを呼び出し、さらに祓い清めもできてしまうという、短いながらもパワフルな祝詞です!!

特に占いをやる方は、絶対に覚えておいた方が良いですよ!