大江山衆
https://sibanokuni.exblog.jp/12286949/ 【サンカってなに?】より
昨日まゆみさんの誘導にのせられて?ついついコメントを入れたが、よせばいいのについ踏み込んで書いてしまった。しかも、サンカの名を使ってしまったため、「サンカってなに?」という羽目になった。
私の歴史研究の中でサンカは主要なテーマのひとつで、何回も取り上げている。しかし、必ずしも一本道ではなく、何回もあっちこっちへぶれて、結局答えは未だに道途中なのである。というより、答えは出ないだろうと思う。
いうまでもないけど、サンカに正式な定義はない。研究する人によってさまざまなとらえ方がある。
いま、私がサンカという場合はもっぱら大江山衆を指す。しかし、同様の研究に詳しい落合莞爾氏はサンカの親分をアヤタチといい、彼等は古代イスラエル部族で敦賀の籠神社から日本へ侵入したニギハヤヒと考えている。その配下には穴太衆という石工部族がいて全国へ散り、職人集団として築城や灌漑工事をする傍ら情報をアヤタチ本部へ伝えていたと述べている。もちろん石工以外にも色々な職人集団がいた事は間違いないであろう。これが間違っているのではなく、これもひとつのサンカだと考えてもいい。
自らがサンカだったという月海黄樹氏の著書も得がたい情報をもたらしてくれたが、私は出口王仁三郎を研究し、さらに、堀川辰吉郎などの研究を通じ、従来の歴史家が決して言及しなかった大江山霊媒衆にたどり着いたのである。
もちろん、栗原茂氏なくして絶対に判らないことばかりだが、それでもなぞなぞのような彼の著作はそう簡単なものではなく、解読作業はその都度ブログに書いてきたから詳しくは過去ログを読んでいただきたい。
落合氏が指摘したように、三角寛や八切止夫氏らのサンカはどちらかといえば本当の浮浪民で、たしかにそのような戸籍を持たず、各地でセブリを張り官憲から逃げ回っていた民はいたようであるが、それはあくまでサンカの本質をたぶらかすための煙幕で、実態はやはり秘密諜報組織としてのサンカが私の言うサンカなのである。
ヤタカラスなどもサンカのひとつであり、伊賀や甲賀の忍者も分類としてはサンカに属するといえるだろう。
いま私が問題にしているサンカ、つまり大江山霊媒衆というのは源氏の配下と考えている。そして根源的には近江に渡来した仁徳王朝とその配下である。日本が成立したのち、桓武天皇の頃に日本の国体が確立したと考えるが、仁徳王朝がその中で藤原の北家として皇室への婚姻家系の一角を占めるにいたる経過は未だに解明できていない。ただ、私の考えでは、日本に渡来した鮮卑族が動乱の中談合した結果、婚姻家系として四家に集約したように理解している。もちろん、藤原不比等は合成家系であり、架空であろう。
したがって、大江山衆はあくまで皇族の中の北家のために働くのであり、他の三家にもまたそれぞれに配下を持っていたと考える必要がある。それは未だに表に出ていないが、見えないからといって、その存在を否定する必要もないのである。
栗原茂氏はもっぱらこの大江山衆に詳しいので私はこの派閥に詳しくなったのだが、当然、対立する薩摩ワン・ワールドにもそのような裏組織がいるはずである。
このいくつかの支配組織が天皇の支持の元、政権を担当してきたのだ。明治維新では長州と薩摩が中心となり、大江山衆はおそらく冷や飯を食わされたのだと思う。明治の廃仏稀釈の時、全国にいる修験道が禁止されたが、この修験道こそ大江山衆の隠れ蓑である。このおかげで大江山衆は打撃を受けたはずである。
その代わり、ヤタガラス(これもサンカ)、即ち、伊勢神道が主力に躍り出た。
長州は表向き毛利なのだが、実質は尼子氏の末裔、鉢屋というサンカが主導したのではないか。それは大正末期、山県の失脚で権力を失い、昭和は薩摩コスモポリタンが主導権を握る。ちょっとややこしいね。
https://sibanokuni.exblog.jp/12293547/ 【サンカの話の2】より
昨日に引き続き、サンカに関連した話をしましょう。
明治維新の謎の中で私がなかなか理解できなかったのが、廃仏毀釈とほぼ同時に行われた修験道の禁止なのである。文献によれば、あまりも神仏が習合したため、もはや分離が出来なくなり禁止することにしたとある。これで納得する人がいるのだろうか。何かを隠してると思いませんか?
ずいぶん長い間この疑問に対する答えを求めていた。結果、私の憶測ではあるが、答えらしきものが浮かび上がってきた。それは明治新政府は大江山衆を恐れるあまり、その行動を封じようとしたのではないかということである。
明治維新は西欧諸国のアジア進出で、あの大帝国、清国がアヘンでボロボロに崩れてゆくのを目撃した大江山衆の報告を受けた皇室が、徳川幕府に任せておいては国が危ういと考えた結果起きたものである。それは光格天皇から始まり、指令は水戸家に下った。
(注)従来の史学では江戸時代には皇室に権威はなく、貧乏で、その日の米にも事欠くと言われているが、私の説はそのあたりのごまかしをいわゆる大衆洗脳とするものである。つまり、家康もサンカであり、皇室の指名がなければ天下統一は出来なかったという前提だ。史学のとおり皇室に権威がないとするならmayo説はトンデモ論になるだろう。少なくとも佐々木源氏の出身、三井家が皇室のスポンサーだったはずである。
ここから幕府の内部で醜い争いが始まったのだ。英国の支援を受け薩摩は篤姫を徳川家へ送り込み幕府の滅亡を画策する。皇室はそれに対し和宮を降嫁させて対抗し公武合体を狙う、お互い主導権を争ったのだ。
公家の岩倉具視、三条実美などは大江山衆を操り長州を引き寄せるが薩摩の陰謀が勝り、神道を国家の宗教にするというえさで伊勢神宮を反徳川陣営に引き入れたのではないか。(ここは憶測)
言うまでもなく神社は寺院に支配されひどく抑圧されていたため、維新前後にすでに廃仏毀釈は爆発していたのである。徳川時代の寺社の横暴は神社側にそのエネルギーを溜めさせる働きをしたのである。
細かい事はさておき、天皇を江戸に人質に取られた京都の公家、そして寺院、さらには修験道はそれ以来地下に潜り活動を始めたのである。
(注)注が多くてごめんね・・・・今回は孝明天皇の暗殺、大室天皇のすり替えは述べないことにしよう。
そのひとつが大本教だったと考える。大江山衆はひそかに軍部にも浸透し、西南の役に対する不満を利用し玄洋社や黒龍会などを組織する。そして徐々に勢力を伸ばしていったのだ。
ここで今ひとつ言っておかなければならないのは、清国王朝と清和源氏は同根だと考えられている事である。したがって、日本軍の中に清は潰し、日本が取って代わると言う考えと、清国が潰れるのは避けれないものの清王朝は救うべきだという考えとがあった。
清和源氏の末裔と考える大江山衆としては清朝のもともとの出身地である満州に王朝を築くことで天皇家の兄弟国を作り、併合した朝鮮とともにアジアの西欧に対する橋頭堡にしようと考えたのである。
詳しい話は今回のテーマとは違うのでこのぐらいにしましょう。
つまり、大江山衆に見られるように、自分の出自を秘し、普通の職業に従事しながらも本部からの指令を待つ、いわゆる民衆の中に潜む草がサンカの本質なのだと私は考える。
したがって、ここでは大江山衆を主に取り上げたが、他の派閥のサンカも今でも全国で草となって活動を続けて入ると考えるべきである。ある日、あなたも父親から系図を見せられ、秘密を引き継ぐ羽目になるかもしれない。これは家系に伝わる掟であるから逆らってはいけませんぞ。
私の家系もかなり怪しげなのだが、幸い父親が早死にしたため、何も知らないで死んでいけそうである。
よかったよかった。