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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

2019年2月13日記事から、【ベルリオーズとオペラとは】をお届けします

2021.05.24 22:00

ショパンは、パリの社交界で有名になり忙しい毎日を送っていた。アパルトマンでは美しマホガニーの家具に囲まれ、そこへ作曲家の仲間が集まり、ショパンは上流階級の令嬢のレッスンも高い金額でしか引き受けないようになってきていたが、それ以上に社交で見栄を張る馬車や衣装などの出費が相変わらず嵩むのであった。

ショパンはご夫人方やご令嬢のご機嫌取りに疲れていた。そういう時のショパンは元気そうに振舞ってはいたが本当は魂がどこかへ行ってしまったかのようだった。

1834年春、作曲家のベルリオーズ(1833年に知り合う)から、モンマルトルの自宅に来るようにショパンは誘われた。モンマルトル村のサン・デニス通り十番地にベルリオーズは結婚したばかりのヘンリエッタ・スミッソンと暮らしていた。

そこへ、ショパンにヒラー、フランツ・リスト、ド・ヴィニーも連れて来るように、ベルリ

オーズはショパンに「親愛なる私の小さなショパンへ」と書いて連絡した。

この時、ベルリオーズは31歳だった。ショパンは24歳になっていた。ショパンは当然断ることは出来なかった。

ちょうど、その頃、ポーランドの貴族のヴォジンスキ家からも誘いを受けていたショパンであったが、ベルリオーズの申し入れは断ることは不可能な立場であったショパンであった。

ショパンはベルリオーズの仰せのままに、作曲家仲間に声をかけ、1834年5月5日月曜日

モンマルトル村の田舎のベルリオーズの自宅の小さなパーティーに行き、そこで半日ベルリオーズを囲んでオペラの話をしたのであった。

集まったのは、劇作家のアルフレッド・ド・ヴィニー、詩人のアントニ・デシャン、

そして、リストとヒラー、そしてショパン。

ベルリオーズはこの時のことを、妹に「...芸術、詩、思想、音楽、演劇、人生を構成するすべてのことについて話し合いました。この素晴らしいモンマルトル村の景観とこの数日の間に楽しんできたイタリアの太陽の光の話をしました。....」

その数日後の5月15日16日に、ベルリオーズはモンマルトル村で、『ベンヴェヌート・チェルリーニ』の2幕から成るコミックオペラを決め作曲に取り掛かったのだった。

オペラはショパンの夢だったはずだ、イタリア行きの紹介状も幾つも持っていたはずのショパンであった。

ショパンはこの後から、またホームシックのうつ状態に悩まされるようになった。

ショパンのオペラの才能は何処へ使ったのであろうか。

ショパンは、パリで不自由な思いをしながらも、ベルリオーズの家へ行った後で、ヒラーの妻に自分を曲げない言葉を残している。

「私の魂の一部は故郷の人々のところへ行く、他の残りはあなたに敬意を示す....

ヒラーは相変わらず元気で、太っている!ああ、お話したいことを書く紙ももうありません。あなたの下僕のショパン」

そして、7月夏になり、ショパンはドイツのラインランドへ行っていた。

パリに帰ったショパンはヴォジンスキ家の招きに伺えなかったことの詫び状を書いた。

ヴォジンスキ家の息子フリッツの妹マリアの小さな曲が送られてきたことを、ショパンは返事が遅れたことを取り繕いお世辞の言葉と曲でお詫びをしたショパンであった。

その理由が、「手が離せない仕事が出来てしまって」と、ショパンの自分自身の作曲の仕事でないことが伺える。

ちょうど、そんな頃である、息子が金銭的にも精神的にも追い込まれているのではないかと心配していた父ニコラスからショパンに便りが届いた。

ショパンが協奏曲を3曲目がいつになっても完成しないことが腑に落ちない父ニコラスであったのだ。

ニコラスはフレデリックに「第3コンチェルトが出来たという知らせを待っているが、知らせてくれないね。お父さんは嘘を隠せない性格だから正直に言うと、第3コンチェルトの完成が何かで妨げられているのではないかと思っている。協奏曲を書くことはたいへんな緊張感を伴う仕事である。

ゆえに、もし、おまえが自分自身の芸術の創作以外で引き受けている仕事があり、夜も眠れないようなら、それはフレデリックには不向きなことだから.....」それとなく、その何かの仕事は辞めるように忠告した。

そして、とうとう、フレデリックのワルシャワ時代からの友人のヤン・マッシンスキがドイツに薬学の勉強に来ていた後、彼はドイツからパリにやって来たのであった。


ルイ・エクトル・ベルリオーズ(1803年12月11日フランス南部イゼール県ラ・コート=サンタンドレ - 1869年3月8日フランス帝国パリ)

 母はグルノーブル出身の貴族のマリー・アントワネット・ジョセフィーヌ・マルミオン(1781-1838)と1802年。母親のジョセフィーヌ・マルミオンは精神病を患い宗教活動に傾倒する。父親は開業医のルイ=ジョセフ・ベルリオーズ。

1809年6歳で町の教会の小さな神学校に入学。1811年末に神学校閉鎖。

18歳まで家庭で父親が教育し、ラテン語、文学、歴史、地理、数学、音楽(初歩程度)学んだ。1818年頃、14歳のベルリオーズは父親の持ち物だった縦笛を吹くようになる。

それを見た父親がフルートを買って与えた。15歳でギターも習い始う。

作曲は独学で学び始めたが、ラモーの『和声論』を見つけたが、理論の基礎がないベルリオーズには難解で理解できなかった。次にシャルル・シモン・カテルの『和声概論』を読み、

独学で作曲・編曲をするようになり、室内楽曲、歌曲、編曲作品を作曲するようになる。

1821年、18歳の時にパリに行き、医科大学に入学するが、1822年に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始める。1823年にパリ音楽院に入学して、音楽院の教授ジャン=フランソワ・ル・シュウールにオペラと作曲を学ぶ。

その後は、ベルリオーズは4度目にしてローマ賞を受賞。『幻想交響曲』(この曲はベルリオーズが最初の最初の妻ヘンリエッタ・スミッソンに相手にされなかった恨みで書いた曲だった。

12月5日に『幻想交響曲』がアブネックの指揮で初演されて大成功を収めて世間の脚光を浴び、マリー・モークと婚約した。ローマへ留学すると同時に留学を終えたら結婚するという約束だった。

1831年ベルリオーズがローマに到着した直後に婚約者マリー・モークの母親から手紙が届きく。マリー・モークがピアノ製作者イグナツ・プレイエルの長男カミーユ・プレイエルと結婚すると知らされる。ベルリオーズは怒り狂いマリーとその母とカミーユ・プレイエルを殺して自分も自殺しようと計画し、婦人洋服店で女装するために婦人服一式を買い、ピストルと自殺用の毒薬を買いローマからパリへ帰った。しかしイタリア(サルデーニャ王国)とフランスの国境付近で思い留まったエピソードがある。

その後に、マリー・モークとの破局とちょうどローマ大賞で名声と権力を得たベルリオーズにヘンリエッタ・スミッソンが傾いて来たため、二人は結婚に至った。

しかし、二人の結婚は長く続かなかった。1842年歌手のマリー・レチオを恋人として引き連れて、ヨーロッパを巡る演奏旅行していたベルリオーズだった。

1854年3月3日別居中の妻スミッソンがモンマルトルで亡くなり、その8か月後10月19日にマリー・レシオと正式に結婚する。息子ルイに宛てた手紙には14年来一緒に暮らしてきたマリーを見捨てられないと書いた。

62年に第2の妻マリーが亡くなり、それでも演奏旅行を続け、67年には初めの妻ハリエットとの間の子供ルイが32歳で亡くなる。68年ロシアに最後の遠征旅行の後、翌年3月8日ベルリオーズは亡くなった。トリニテ教会で葬儀、モンマルトル墓地に葬られた。