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「嫋」…祈る・獲る・渡す・組む文化

2021.05.24 09:39

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「嫋」…祈る・獲る・渡す・組む文化

写真:新宮川原家


 「すんませんなあ。また延期ですわ。」という電話にがっかりしつつ、生きている川の姿を思い浮かべることができたのは、1999年の夏だった。

 和歌山県と三重県の県境に流れる熊野川を対象として、「リバーミュージアム構想」を検討していた。流域一帯を博物館として見なして、流域の文化、暮らし、人、来訪者が同じコンセプトでつながることを考えていた。熊野川に関する歴史文化をデータベース化すると、複数の要素が重複する貴重な二事例が浮かび上がった。

 そのひとつが、冒頭の電話に関係する「ススキ追い漁」である。古来より熊野川で行われてきたススキ追い漁は、毎年夏の終わり頃に集落総出で行う雨乞い行事の一種である。大勢の百姓達が川に出て淵に石を投げ、竿で水面を叩き、執拗に川を荒らし続けて水神の怒りを誘い、大雨を期待する信仰行事であったという。その後、実益を兼ねた神事として川漁にまで発展し、スズキを集団で獲る行事になっていった。ここに、“祈る”文化と“獲る”文化がある。「モドリ」という漁の仕掛けには、“組む”文化も見出すことができる。また、追い手として舟や筏が使われ、“渡す”文化の要素も備えている。

 ススキ追い漁は、雨と川の状況から判断して実施日が直前に決められるので、予定はあって無いに等しい。数回延期した上で中止される年も少なくない。実は私も未だに参加できていない。自然を行事に無理矢理に合わせようとはしていない。あくまでも川に寄り添った行事となっている。参加しにくいことは残念だが、ある意味納得できる。では来年に賭けてみようとも思う。

 もうひとつの事例は、熊野川河口部に50年ほど前まで存在していた「幻の川原家街」である。明治から昭和初期にかけ、木材などの流通・交易の要所だった熊野川の川原には、宿泊、飲食店、銭湯などを営む「川原の家」が二百数十件建ち並んでいた。この集落は、熊野川が氾濫して川原が大水で埋まるときには、「消えて」しまう。そして、水が引くと再び出現した。その秘密は、釘を一切使わない独特の建築構造にある。解体・組み立て・運搬が容易で、住人が即座に解体して避難できたのだ。新宮高校建設工学科らが復元を試みており、既に「新宮川原屋」などの復元モデルも完成している。

 新宮高校で、新宮川原家の組み立て・解体を見せていただいた。解体は一瞬なのかと思いきや、結構時間がかかり、40分ほどかかった。昔はダムが無かったためか、洪水とはいっても、じわじわと水かさが増してきたため、逃げる時間を確保できたのであろう。強固な堤防で川を抑え込むのではなく、川の挙動に合わせて「嫋か(しなやか)」に暮らす知恵である。木を“組む”文化と、無事を願う“祈る”文化、そして舟大工の技にも通じると推測される“渡す”文化を併せもつと言えよう。

 祈る・獲る・渡す・組むという四つの要素を、熊野川リバーミュージアムにおける基本コンセプトとした。川と身体でしなやかにつながるための道筋でもある。