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「汲」…水とのかかわりに想いはせて

2021.05.24 09:53

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「汲」…水とのかかわりに想いはせて

写真:上町台地水めぐり


 水道が普及する前は、私たちは水を運んでいた。井戸から水を汲み運ぶことは日課であった。子どもの頃、田舎の実家にあった井戸さらいが私の担当であった。暑い夏の日に、井戸水を何回も何回も汲み上げてさらい、井戸の中に入って井戸壁をゴシゴシと洗うのである。井戸には主(ぬし)としてウナギが必ずいると言われ、底を探したりもした。湿った壁とひんやりとした中の感覚は今でも覚えている。

 ところで、「水屋」という水を運ぶ商売があったことはご存知だろうか。大阪は「水の都」「八百八橋」と言われるように、水を活用して潤っていたイメージがあるが、飲料水には恵まれていなかった。大阪の井戸水は、塩分を含む‘かなけ’であり、飲み水には適さなかったのである。市内唯一の微高地である上町台地では、高台のくぼみより水が涌き出し、「天王寺七名水」と呼ばれるような清浄な水を提供していた。洪水時には川水が濁るため、これらの名水の価格が高騰したことが史実にも示されている。

 そこに水屋が登場した。最初は、川水や名水を汲みに行く労力の対価をもらっていたが、やがて淀川の水を舟(「水舟」)で大量輸送することによって、ひとつの産業にまで発達した。水が欲しい家は「水入用」の木札を玄関に出して知らせ、水屋は、市内各所の橋下につないだ大きな水槽に淀川の水を積み込み、そこから桶で各戸に配ったのである。つまり、大阪の人びとにとって水道とは水屋であり、水源地から各家庭まで‘人力’がつないでいたとも言えよう。

 安定して良質な水を提供する上町台地は、水屋にとっても近くて貴重な水源であった。江戸期の名所案内に記された名水に関しての記述を分析したところ、「清冽さ」がもっとも評価されていたことがわかった。また、寺社域にあるためか「霊水」とも表され、量がある点からは飲料水として、そして甘味である点では茶道といった遊楽との関係でも捉えられていたことがわかる。

 このような、かつての上町台地の湧水群が持っていた人びととのかかわりあいを再現し、水の大切さを再認識するために、九つの水ポイントを順々に歩く環境再発見ウオーキング「上町台地水めぐり」を企画実施した(1991年春)。そこでは、『あなたは水屋です』と称して、参加者に竹筒を配布し、水が残っているポイントでは水を少し汲み、それを竹筒に入れて運び、水が涸れてしまったポイントに戻すという「水分(みくまり)の儀」と名付けた仕掛けを演出した。当日は、大阪市民を中心に抽選で選ばれた230人が参加した。「枯れた井戸に与えた水、この水との共存の大切さを体験した」「水の都と呼ばれるが、川は汚れ、水道水は臭うなど水について考えるべき」といった感想もあり、水を汲んで運ぶという身体所作を体現してもらうことで、あらためて台地と水脈との関係、さらには水の歴史と未来に想いを馳せてもらった。

 夏を迎えて、「打ち水作戦」が各地で開かれている。ただ単に余った水を地面に打つだけでなく、水を汲み運ぶという歴史にも思いを馳せて欲しい。その水はどこから来たものですか?