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「身」…「頭」で決めないまちづくりを

2021.05.24 10:03

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「身」…「頭」で決めないまちづくりを

写真:オーロヴィルの瞑想


 市町村の委員会などで「学識経験者」として名を連ねることが多い。学識を経験している者とは何だろうか。環境計画やまちづくりにかかわる立場として、今回の連載を振り返って述べてみたい。

 まちづくりや計画の現場でもっとも問題なのは、私たちヒトを「市民」とひとくくりにする点である。もちろん、「事業者」「高齢者」「障がい者」「子ども」「主婦」といった区分は一応はあるものの、その程度の分別である。ところが、例えば人以外では、希少種の保護計画や生態系の保全計画などには、その種の特性に応じた環境をいかに守るかが計画されている。では、私たちは平均化されたヒトとしての扱いで良いのだろうか。察するに、私たちヒトは適応能力が高いために、平均的なヒトを前提とした環境でも一応は我慢して暮らせるのだ。私たちが環境を計画しているのではなくて、つくられた環境に私たちが合わせらて暮らしているのだ。たとえば、子どもは公園以外の遊び場を探せなくなり、自転車好きは自転車専用道や駐輪空間の貧弱さに悲しみ、ウォーカーやランナーは堅い路面の街道や散歩道に対処すべく高い靴を履くしかない。御神輿の通行は今や大変な交通整理が必要である。クライマーにとっては、壁の突起が気になり、スケートボーダーにとって、手すりや段差は全く別の意味を持っている。私たちは、身体を使ってまちで生きているはずなのに、身体からの声は計画づくりに届くことはほとんど無い。ネットやゲームの発達のためか、インドア派が増えているという。このまま、身体からの叫びをあげないでいくと、ますますまちはのっぺりと画一的な環境になってしまうのではないか。

 私が通っている南インドのエコビレッジである「オーロヴィル」は、規則やルール無しに40年近くも継続して成長し続けている。創設者であるマザー(通称)は次のような言葉を残している。「決して組織化してはいけない。でないと、進歩が始まる前にあなたは止まってしまうだろう。」「どれほど規則が広く包括的であっても、その規則はあなたの身体が持つ可能性を制限するでしょう。」オーロヴィルに住むには、一年間以上は滞在した上で、自分自身が何をできるか、何をすべきかを見極めて自分で判断する。身体をなじませ、身体の声を聞いているとも解釈できよう。それぞれが自分のやりたいこと、オーロヴィルのためにできることを見出して、じっくりと参加している。個人の身体から取り組みが始まるため、オーロヴィルとは、集合体であって全体像はわかりにくい。だが、ひとりひとりがやりたいことを進め、議論し、身体で実験し、共有しながら進める姿に、本物の計画づくりの姿を見た。

 日本の計画の多くは、会議形式で抽象的なまちの将来像について、どこかの知識を持ち寄った議論で決められる。身体の声が入る余地は無い。つくられるのは、「緑と水にやさしいまち」「人と地球にやさしいまち」といった口当たりの良い将来像であり、市民の身体との関係はほとんど見えない。つまり、頭で決められてしまっている。

 身体から自分のまちを見直して変えてみようではないか。そのうち、学識ではなくて、「身」極めた経験者がまちづくりには必要になる。